SHANTiROSE

INNOCENT SIN-85






 太陽が地平線に落ちても月の光が弱い暗い夜、クライセンは一人、城の屋上で佇んでいた。手の中には小さな水晶のネックレスが握られている。離れていても恋人と言葉を交わすことができる魔法の道具だった。ここ数日、不安と多忙の続く中、数少ない安堵のひと時を作る手段のはずなのに、クライセンは浮かない顔で黒い空を眺めていた。城の中心には巨大な青い宝石が、彼の瞳と同じ色の光で暗闇に浮かんでいる。優しく淡い光でも憂鬱なクライセンの悩みを癒してくれることはなかった。
 足音が近づいてきた。クライセンはそれが誰だか察しがついた。彼はクライセンの思っていた通りに姿を見せ、やっと見つけたという表情で近づいてきた。
 ロアだった。赤いマントでも白い制服でもはなく、勤務時間外用の藍の軽装で身を包んでいた。
 ロアはクライセンの隣に立ち、屋上から見える城下を見つめてしばらく黙っていた。何か用があるわけではない。クライセンには彼が何を言いたいのかが分かっていた。気まずい空気に負け、重い口を開く。
「……彼女とは、話をした」
 言いにくそうに言うクライセンに、ロアは小さく息を吐いた。
「それで、魔界に帰ることになったのですか?」
 クライセンは容赦ないロアの言葉にどっと疲れを感じる。ロアは返事をしない彼に追い打ちをかけた。
「まさか嫌だと言われて引いたわけではありませんよね。今の状況を分かっているのでしょう? このまま魔界の王女を放置していていいわけがありません」
「……分かってるよ」
「では早く行動させてください。革命が始まってからでは間に合いません。彼女のためでもあるんです。彼女は姫という身分はあっても人間と変わらぬ程度の力しか持っていません。あなたに守れるほどの余裕はなく、革命に巻き込まれて死ぬ可能性が高い。そうなったら彼女の父親である魔界の王が怒り狂い、何をするか……」
「分かってるってば」
「分かっていません」ロアはクライセンに向き合い。「レオン様はこの世界を命懸けで守ろうとされています。エミーに打ち勝ったとしても、魔界の王にまで憎悪の対象にされてしまってはすべての救いが失われてしまいます。この世界に安全な場所はありません。早く、彼女を魔界に帰るように言ってください」
「分かってる……でも、ティシラは家を飛び出して来たんだ。一度帰れば、もういつ戻って来れるか分からない」
「だからなんですか。別れが惜しいのですか?」
「違う。だから、ティシラがそう簡単に帰るとは思えないってことだよ」
「粘り強く説得するしかないでしょう。嫌われるのが怖いとでも?」
「違う……」クライセンは次第に苛立ちを見せ始めた。「できるだけ傷つかないように、納得してもらう方法はないか、考えているんだよ」
 ロアもまた、煮え切らないクライセンに苛立ちを隠せなかった。彼は優しさゆえに決断できないことが、今までもあった。そのたびに自分が逆の行動でバランスをとってきた。
 だがこのことに限ってはロアに手出しはできない。二人の関係のことだから。だからこそ、クライセンが時折彼女を思って一人で悩んでいる姿が忌々しくて仕方がなかったのだった。
「離別しなさい」
 ロアはいつか言わなければいけなかったことを口にした。
「他に方法はありません。あなたもそう思っています」
 クライセンは不快な表情を、あからさまに浮かべて彼を一瞥した。
「レオン様のためです。あなた一人の恋愛感情ごときでレオン様を、この世界を危険に晒すなんて、あなたにはできないはずです。あなたはそれほどに程度の低い愚かな人間ではない。でなければマーベラスのトップとして務めていられるわけがないのですから」
 クライセンは怒鳴りたい衝動をぐっと飲み込んだ。
 ロアの薄情で残酷な言葉は、二人の愛情を侮辱しているも同然で、許し難い。
 だが――正しくもあり、言い返すことができなかった。
「……君には、今まで何度も傷つけられてきたが」クライセンは苦笑いし。「殴ってやりたいとまで思ったのは、初めてだよ」
 それでもロアの気持ちは変わらなかった。冷たい表情のまま、続ける。
「殴って解決するなら、どうぞご自由に」
「解決しないから我慢してるんだよ……なあ、君は誰かを愛したことはないの?」
「は?」
「誰か、この世でただ一人に特別な感情を抱いて、抱きしめたいとか、ずっと一緒にいたいとか、思ったことはないのか?」
「ありますよ」
「――えっ?」
 あっさりと答えるロアに、クライセンは耳を疑ったあと、面食らった。
「あるの?」
「はい」
 ロアは何でもないことのように言うが、長く相棒として行動してきたクライセンでさえ初耳だった。今までの重い空気は吹き飛び、クライセンは目を見開いて冷静なままのロアを凝視した。
「が、表に出したことはありません」
「そ、そうなんだ……」
 ロアは目を伏せ、僅かに眉間に皺を寄せた。
「感情という見えないものを、私の内側に秘めたまま、声にも態度にも出したことはありません。だから、それは存在しないも同然なのです」
「それは……今も……?」
「自分で何度も殺しているうちに、もうどこにあるのか分からなくなりました」
「でも、その人を見れば思い出すんじゃないのか?」
「記憶を失くしたわけではないので、見れば思い出すでしょうね。だけどもうその人は、過去に私の心にしばらく宿っただけという記号に過ぎず、何も感じることはありません」
「その人とは、もう会えないのか?」
「さあ」
「誰だか、聞いていいか?」
「言葉にして誰かに言うと、それはあったことになります。私の中では、なかったことにしているので、言えません」
 つまり、言いたくないということ。クライセンはこれ以上聞けなかった。
 どうして、と問い質すこともできなかった。
 彼にも自分と同じように愛した人がいたのだ。だけど気持ちを押し殺して一人で終わらせてしまっていた。過去のこととロアは簡単に言うが、自分の中で終わったと思えるまで相当辛かったに違いない。できることなら、今からでも気持ちを伝えて欲しいと思う。ロアは見た目は冷たいが、内側には信念と情熱を燃やす男だ。誰か一人を一生愛すと決めたなら、間違いなく互いに幸せになれるはず。
 しかし彼はその幸せを放棄した。すべては、レオンのため――ということは、おそらく立場の違う、困難のある相手なのだろう。
 ロアがティシラとの恋愛に反対していた理由が分かった。ただ彼女が魔族だからというだけではなかったようだ。今こうしてクライセンを厳しく説得する理由も、たかが恋愛と見下す権利も、ロアにはある。彼自身、自分を犠牲にして重い任務を全うしているのだから。
 だけど、とクライセンは思う。
 ロアのやり方だけが正解ではない。
 感情を殺すなど、誰にでもできることはでないだから。できないなら他の方法を考えればいい。
「そうだったんだ……だったら、君の暴言は甘受するよ」
 クライセンはやっと、自然と微笑んだ。
「君の苦痛を知って、私も、苦痛を伴う覚悟が持てた。感謝する」
 ロアからも厳しい表情が消えた。再び城下に目を移す彼に、クライセンは背を向けた。
「もう考えている時間はない、だよね?」そう言うクライセンの目には、悲しみが灯っている。「もう一度話してくるよ。そう簡単にはいかないだろうけど、多少無理しても、ティシラを守るためなら、どんな痛みも耐えてみせる……君と同じように」
 これほどまでに悲しいと思ったことは、今まで一度もなかった。
 たかが恋愛といえばそれまでだ。世の中には叶わない恋など星の数ほどある。相手があってのことで、一人では解決できない現象だからだ。たった一つのボタンの掛け違いほどのズレで、どんな大きな力も価値を失くし、例え互いに愛し合っていても別々の道を進まなければいけないこともある。逆に、情がなくても恋人にも夫婦にもなることができる。その理不尽な器用さが、人に矛盾した行動を起こさせる。そして今、クライセンも矛盾した行動を起こそうとしていた。
 不思議と怒りや憎しみのような感情はなかった。ただただ、悲しいだけだった。
 なぜか笑みが零れた。この悲しみのあと、ずっと背負っていた苦悩から解放されるからなのかもしれない。
 きっとそうだ。クライセンは自分に言い聞かせながら、その場を後にした。
 目の奥に走る鈍痛には気づかずに。



 その頃、ティシラはウェンドーラの屋敷で騒いでいた。
 一人、ではなかった。赤黒い肌の小さな生き物が、ざっと視界に入るだけで三百匹はいる。ティシラが家出するときに魔界の城に棲みつくピクシー(小鬼)を数匹引っ掴んで連れてきていたのだった。ピクシーの繁殖力は凄まじく、今では数えきれないほど増えている。だが人前にはあまり姿を見せないため、クライセンとサンディルには十匹程度しかいないと思われていた。
 ティシラは二人のいない日、ピクシーを呼びつけて掃除や料理をさせたり、一緒に歌ったり踊ったりして寂しさを紛らわせていた。機嫌の悪いときは怒鳴ったり放り投げたりして八つ当たりする。今日はとくに激しかった。クライセンに魔界に帰ったほうがいいと言われたからだった。
「冗談じゃないわよ!」ティシラはソファの上に立ってクッションを抱きしめている。「人間を恐れて魔界に帰る? 人類滅亡なんて知ったことじゃないわ。人間の世界が滅んでも私とクライセンが結ばれればそれでいいのよ」
 メチャクチャなことを言いながらソファの上で飛び跳ねた。その衝撃で、ティシラを慰めようとめげずに傍に集まってくるピクシーは次々に壁や床に飛び散っていく。
「それが叶わないなら、こんな世界なくなってしまえばいい! クライセンが死ぬ? 私を置いて? そんなこと、絶対に許さない!」
 ティシラはクッションを壁に投げつけ、肩で激しく呼吸をする。
「クライセンが死ぬ……?」改めて呟くと、それだけで目に涙が滲んできた。「嫌よ。そんなことになったら……パパに言いつけて、人間なんか、全部、全部、殺して……」
 ティシラは首を横に振って涙を拭った。
「何なのよ……そうじゃないでしょ。クライセンが死ぬなら、私も死ぬしかないじゃない……! 彼がいなきゃ、私は生まれていなかったのよ。彼がいなきゃ、生きてる意味なんてないんだもの」
 ティシラは崩れ落ちるように座りこみ、両手で顔を覆う。嘆く彼女をピクシーが慌てて囲んで一緒に泣いていた。
「私、何もできないの……? パパに言いつければなんでも叶うけど、私は、何もできないの?」
 ティシラは顔を上げて大声で泣き叫んだ。嗚咽で呼吸が乱れる。苦しくて悲しくて、胸が潰れそうだった。
 世界の終末の訪れが近づくにつれ、クライセンと会えない日が続いた。彼から嬉しい言葉を聞くこともどんどん減っていき、とうとう別れを示唆する相談を受けた。
 何もできない。それどころか、クライセンの重荷にしかならないのかもしれない――ならば身を引く覚悟も必要だと、どこかで思い始めていたのだった。
 そのきっかけになったのは、もう一人の自分の存在を感じてからだった。
 別の世界にいるティシラは、クライセンのためなら何も恐れずに果敢に戦う強さを持っていた。あの状況で彼に余裕を感じられたのは、離れても揺らぐことがない信頼関係があるからなのだと思う。
 だけど自分は違う。クライセンに守られ、ブランケルの権威がなければ恐怖を退けることができない、弱くて小さな存在である。
 口ではいくらでも身勝手なことを言えるが、現実は違う。クライセンが死ぬより先にティシラのほうが命を落とす可能性のほうが高いのだから。そんなことになったらクライセンの心を傷つけ、両親を悲しませるだけで、自分のしたことを後悔し、すべて間違っていたという結果しか残らない。
 クライセンのおかげで自分が生まれ、彼と愛し合うためだけに生きると信じていた。なのにこんなにも簡単に引き裂かれそうになる現実がどうしても受け入れられない。死んでも帰らない。そう言い続けるつもりだったのに、彼のために戦うもう一人の自分を想像すると、弱い自分は身を引くことしかできないのかもしれないと、心が折れそうになっていたのだった。
 せめて会って話したかった。だけどきっと、会ったら絶対に別れられない。だったら別れも告げずに去るしかない。
 だけど、どうしてもその勇気を持つことができなかった。



 大きな鷲が夜空を駆け抜けていた。その背中には、先ほどのロアと似たようなラフな姿でいつもの赤いマントは羽織っていないクライセンが身をかがめていた。
 今は何も考えないようにした。まずは顔を見たい。気持ちの整理はそれからと、恋人の元へ急いでいる。
 クライセンはこれから、おそらく人生で一番辛いことを経験するかもしれないという恐れに意識が行っていたため、それ以外の危険を予測することができなかった。
 それは突如訪れた。
 視線の先の地上が、黒く光った。止まるにも間に合わなかった。一瞬にして上半身を上げて敵の攻撃を察知したが、すでに自分に向かって飛んでくる黒い線光弾に鷲の体制は崩れた。
 クライセンは咄嗟に背から飛び降り、羽や足に攻撃を受けた鷲を逃がした。
 飛び降りた場所は荒野だった。ちょうどシルオーラの城とウェンドーラの屋敷の真ん中ほどの位置だった。まさか自分を待ち伏せていたのかと、クライセンはいったんはティシラのことは忘れて周囲に集中する。できるだけ早く片付けて屋敷に向かわなければいけない。腹の奥に、魔力を溜めて暗闇の中を見つめた。
 地面から人影が這い出てきた。僅かな星の光に照らされたそれらは五人ほどの魔士だった。いつだったか見たことがあると思う。筋骨隆々の、野獣のような魔士――彼らはジンガロの仲間だ。
「……ジンガロの敵討ちか」
 クライセンは奥歯を噛む。レオンはエミーを呼び出すため、見せしめにジンガロをを殺した。直接の仇はレオンだが、殺されたのはエミーに一番近い精鋭の一人だ。やり返すとしたら自分やロアが狙われてもおかしくない。まったく警戒していなかった自分を悔やんだ。
「そうだよ」
 その声に、クライセンは目を見開き、全身に身震いを起こした。
 黒い影が一つ増える。
 周囲の魔士よりだいぶ小柄で細い、とんがり帽をかぶった魔女が立ちはだかったのだ。
「エミー……」
 クライセンは青ざめた。
「どうした?」エミーは不適に笑う。「魔士だけなら何とかなると思っていたのに……そんな顔してるね」
 図星だった。クライセンは目尻を揺らして動揺する。
「レオンがジンガロを殺した。だったら私がお前に手を下しても何もおかしなことはないだろう?」
 クライセンの足元にはすでに魔法陣が完成していた。
「ああ、そうだ。あんたのドッペルゲンガーはどうなった? もしかしてあんたはドッペルゲンガーのほうなのかい?」
 ここで嘘をついても仕方がない。クライセンは正直に答えた。
「私は本物だよ。彼はもう帰った」
「ああそう。なら安心した。偽物を殺しても敵討ちにならないからね」
「君が仲間の敵討ちをするような人物だとはね、予想外だよ」
 エミーは体を逸らして笑った。
「私を仲間が殺されてもなんとも思わない薄情な奴だとでも思っていたか。どこまで人を見下せば気が済むんだか」
「そんなつもりはなかったが……」
「全部あんたたちがしたことが返ってきているんだって、まだ分からないのかい?」
 エミーは笑うのをやめ、強い殺意のこもった瞳で睨みつけながらドスのきいた声で叫んだ。
「革命も、敵討ちも、全部あんたらが先に仕掛けたことだ。いつまで自分たちは正義の使者だなんて夢見てるんだよ。ほんと胸糞悪いな、てめえらは!」
 クライセンはエミーの迫力に飲まれそうになる。
 これが彼女のカリスマ性だ。彼女にならすべてを任せてもいいと信じる人がいても不思議ではない。
「クライセン、あんたには恋人がいる。しかも、魔族のね。いつか一人でここを通ると思って待っていたんだよ」
 クライセンは腹を括り、無理に口の端を上げた。
「君をここで倒せば、革命は始まらないのかな?」
「それはどうかな? 始まりの印はジギルが握ってる。私もまだ賭けの途中なんでね」
「賭け……?」
 クライセンはエミーの謎めいた言葉に精神を揺さぶられる。平静を保てない。この場は戦うより逃げたほうが賢明だと考えた。しかしエミーはヒントを与えたつもりはなかった。
「あんたに私は倒せない。だけど、殺しはしないよ」
「なんだって?」
「あんたにはこの世界がこの先どうなるのか、見届け人になってもらう」
 クライセンはすぐには理解できなかった。
 戸惑う間もなく、足元の魔法陣が再び黒い光を放った。数多の細い光は空に向かって降る雨のように空に延び、クライセンを黒い檻に閉じ込めていく。地面から延びる光の束は止まることなく数を増やし絡み合い、細い線があっという間に塊になっていった。
 クライセンにはこれが何か分かった。アカシック・レイ――対象を水晶に閉じ込めて時間を止める魔法。それによく似ていた。しかしクライセンの知るものとは違っている。
 エミーは一度見たアカシック・レイを研究し、完全にコピーすることはできなかったがその必要はないと思っていた。アカシック・レイを発動すれば、それを使える高等魔法使いの命を一つ犠牲にする必要がある。そんな大袈裟なものより簡易型の類似魔法のほうがエミーにとっては都合がいいため、自己流の術式を作っていたのだった。
 クライセンは抵抗しようと、溜めていた魔力で黒い檻を押し返そうとした。すると周囲にいた魔士が両手を突き出し手の平から炎のような黒い閃光を放った。それらに動きを止められ、足元から絡みつく大量の針金のような光が体の自由を奪っていく。
 魔法が使えないうえに、五人もの怪物に押さえつけられている状態だった。
(まずい、このままじゃ……)
 しかもクライセンは焦りで集中ができない。今自分がここでやられてしまってはマーベラスの戦力が大きく削られる。
 何よりも、ティシラを一人にしてしまう。
 これがアカシック・レイの類似魔法なら完全に死んでしまうわけではないのだろう。だがそれは決して希望ではなかった。生きているのに何もできず、大事な人が蹂躙されていく様を見つめていることしかできないのだから。
 それがエミーの目的だった。彼女が得意とする死より残酷な報復だ。
 なんという不覚、無念。クライセンは己の未熟さを恨んだ。弱点や隙を排除するためにロアは感情を殺してまで強くなったというのに、自分はまんまとエミーに心の弱さを見透かされて利用されたのだ。クライセンはあまりにも不甲斐ない自分を責めながら必死に足掻いた。魔士の攻撃は一定の位置で止めていられるが、そうしている間にエミーの放つ魔法が完成していく。
 クライセンは夢中で、片手で胸元の小さな水晶を握った。次の瞬間、魔士から浴びせられる閃光に圧迫され、彼の手の中で砕け散った。
 絵筆で白い紙を塗りつぶしていくように僅かな隙間が埋まっていき、クライセンはとうとう瞬きも呼吸もできなくなる。
(ティシラ……!)
 逃げてくれ。
 クライセンの時が止まる寸前に願った言葉は、誰にも届かなかった。





   

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