SHANTiROSE

INNOCENT SIN-84






 洛陽線の村から帰ったアンバーは、まっすぐにレオンの元に向かった。
 レオンの人が変わった様子は聞いていたためそのことには触れないつもりだったが、窓際に一人で佇んでいた彼に驚かずにはいられなかった。
 レオンは長く美しい黒髪をばっさりと切っていたのだった。
 手に鋏を持っていたが傍に鏡はない。当然毛先は整っておらず、足元には艶のある黒髪の束が散乱していた。
 アンバーが呆気に取られていると、レオンは短くなった髪を指で梳きながら振り返った。
「……レオン様」アンバーはやっと口を開く。「一体、何をなさっていらっしゃるのでしょう」
「何って、見てのとおりですよ」肩に落ちた髪を払い。「散髪です」
「なぜ、急に……」
「邪魔だったので」
「それだけですか?」
「はい」
「何もご自分でそのようなことなさらずとも」
「それより、報告をお願いします」
 レオンは鋏をテーブルに置いてソファに腰かけ、右手を差し出してアンバーに向かいに座るよう促した。アンバーは慌てて頭を下げる。
「いえ、このままで結構です」
「座ってください」
 抑揚のない声で言われ、アンバーは戸惑いながら腰を下ろした。
「私がお願いしたのは水晶を渡してほしいということでしたが」
「はい。ハーロウの代わりに私が役目を遂行いたしました」
「件の二人は受け取ってくれたのでしょうか」
「本人たちには会っていません。ジギルに渡しました」
「ジギルに? 彼と会ったのですか?」
「はい。ジギル自身は水晶には興味を持っていなかったので、とくに探ることもなく二人に渡すと思います。彼は嘘はつきません。その点はご安心ください」
「そうですか。まあ、水晶をどうするかは二人の判断に委ねました。彼らの手に渡ったあとのことは……」
 どうでもいい、をうまく表現する言葉を知らないレオンは誤魔化すように目線を下げ、涼しくなった首元に手を当てていた。
 水晶の意図について知っているアンバーは、それ以上は聞かなかった。
「私がハーロウの代わりに洛陽線に向かったのは理由がありました。一つは、これ以上勝手な行動を取りたくないという彼女に頼まれたから。もう一つは、私が洛陽線のことを他の誰より知っていたから。それにも関わらず、すべての元凶となる前兆を見抜けなかった自分の手落ちを今も悔いているからです」
 レオンは髪を触るのをやめ、アンバーを見つめた。彼は殺気立った表情を浮かべている。自分を責めても、後悔しても仕方がないと気持ちを切り替えていたつもりだった。しかし怒りのぶつけどころはどこになく、機会があるならとじっと耐えていたのだった。
 あなたのせいではない――と、レオンは口をついて出そうだった。が、もう自分に彼を制御する権利はないと考え直し、感情を飲み込んだ。
「それで、ジギルと何か話をされたのでしょうか」
「先に申し上げておきます。ジギルには何もしていません。何も……ハーロウから聞いた、エミーが彼を潰すと宣言したことも」
「……ジギルがそのことを知っているという可能性は?」
「ないと思います。私は彼にこう問いました――」



「――神はいると思うか?」
 アンバーからの唐突な質問に、ジギルは「はあ?」と呆れたような声を上げた。
「いたとしても、確かめようがないだろ」
「私たちにとってはレオン様が神に等しい存在だ。君の神は目に見えないものなのか」
「だから、見たことも触ったこともないんだから。いるかどうか分からねえだろうが」
「見えも触りもできなくても神がいるとしたら、彼は君に何をしてくれる?」
 アンバーの質問の意図が分からず、ジギルは大きなため息をついた。
 アンバーはジギルが答えると確信を持っていた。今の彼は今まで見たことがないほど無防備だったからだ。一度は見えない壁を作って強い警戒心を見せた。だが、まるで気が変わったかのように脱力したジギルは、不思議と落ち着きのある大人の雰囲気を纏っていた。おそらく、これが村人たちが見ている彼なのだろうと、アンバーは思った。だからジギルは話をしてくれると信じられたのだった。
「この世に神なんかいねえよ」
 そうジギルは言い捨てた。
「神さまって、あれだろ? 悪を罰し善を救うってやつ。だったらどうして俺がこうやって好き勝手やっていられるんだよ」
「どういう意味だ?」
「俺は人間を化け物に変えて殺し合いさせてる悪人だぞ。いや、何だか知らねえけど、本当は俺が世界を救う運命を持ってるとかで、だからこんな能力があるんだって言ってる奴がいたけど、そうだとして、俺はその運命の力ってものを悪用してるんだ。なのに、誰も俺を裁かない」
「もし神がいるなら、君を裁いているはず、ということか」
「違うか? 裁くどころか、周りは俺を頼って信頼して、慕って……あり得ねえだろ」
「あり得ないとは?」
「白々しいな」ジギルは口の端を上げて。「俺みたいな奴が自由で幸せで、楽しい人生なんか送っていいはずがねえんだよ。お前だってそう思ってんだろ」
「……君は、幸せなのか」
「俺の望みは好きなことに没頭することだ。底なしの好奇心を自由に満たしたい。それだけできれば十分幸せだよ。そのうえ、俺の周りには俺を信頼する者が集まり、敬意を払う。こんなに恵まれた環境が他にあるか」
「君は本来、人に疎まれ、迫害されて自由を奪われるべき人間……そう思っているのか」
「俺が思わなくても、普通の人間はそう思う。それが普通の感覚だろ」
「普通、とは?」
「人間の意識は木の枝だ。深層心理で一つに繋がっている。だからどんな環境で育っても、最終的な善悪の条件が一致する――それが、人間のいう『神』なんだよ」
「それが、君の信じる神なのか」
「神はいねえって言ってるんだよ!」



「……賢くて、幼い」アンバーは懐かしむように呟いた。「以前に私がジギルに抱いていた印象でした。それは今も変わっていませんでした」
 ジギルの言うことは正しい。しかし彼は、その正しいことを受け入れるほどの器と経験がない。好奇心で得る知識と快感の調節ができずにいつか溢れ出し、大きな選択を迫られるときがくる。そのとき初めてジギルは自分の限界を知るのだと思う。
「ジギルの感覚では、彼にとっての神がエミーということになります。ジギルは言葉では強いことを言いますが、いつか自分の幸せが壊れるかもしれないという危機感を抱いているようには見えませんでした。おそらく、革命の末に世界と共に命を落とすことは致し方ないと覚悟しているのでしょう。しかし、エミーがしようとしていることは、ジギルの想像を超えていると察します」
「想像を超えていることとは?」
「今までジギルが経験したことのない不幸です。エミーはそれが何なのか、そして、本人はまだ自覚していないこと……それを知っているのだと思います」
 レオンは「そうですか」と呟いたあと、小さく息を吐いた。ジギルのことは気になるが、彼の心配をする必要はない。彼への複雑な感情を表に出さないよう、話を変えた。
「それで、革命について、何か情報は得られたのでしょうか」
 アンバーはレオンの不自然な態度に気づいたが、問い詰めることはしなかった。
「はい。ここからが本題です。我々が何よりも重視すべきは黒い茨でも魔士でもなく、あの球根のようです」
「え?」
 あの紫の球根のことだ。当然、レオンは覚えている。球根が体に根を張ろうと皮膚に侵入してきた不気味な感覚も。
「ジギルは自分の知っていることを話してくれました。エミーはどこかに姿を消しています。ジギルは、自分はもう革命の役目を終えたと解釈しており、率直に質問すると簡単に口を開きました」
 レオンは目を見開き、食い入るように前のめりになった。
「あの球根は、大地に根を張り、人間で言う『血管』の役割を果たすものだそうです」
「血管……?」
 レオンは眉間に皺を寄せ、大きな目を左右に揺らした。
 大地の血管――そのイメージは、自分でも驚くほど簡単に脳裏に描かれた。
「そうか、あれは……大地に、命を与えるための……」
「やはり、そう思われますか」
「ジギルがそう言ったのではないのですか」
「彼自身もすべてを知っているわけではありませんでした。これは憶測だと前置きして、ジギルは話しました」



 最初の頃のエミーは、自分たちが足を踏み入れた場所に跡を残すために、この球根を植えていくと言っていた。確かにそれは地中で根を張るだけで芽も出さず栄養も必要としなかった。目印になるとエミーは言ったが、地中で黙って埋まっているだけのものに何の意味があるのかと、ジギルは疑問に思った。するとエミーは笑って話し出した。「これが地中にあれば式兵も黒い茨も、いくらでも生み出すことができる。ただ、敵に仕組みを知られると逆に利用されてしまう。だから革命の始まりまで使わない」と。
 それでジギルは察した。だが腑に落ちないことがあった。なぜ今まで黙っていたのか。エミーは実験中だったと答えた。
「答えになってねえよ」
「お前にはすべてを話す必要ない。お前はやりたいことをやっているだけで双方の役に立つからな。それに、一を言えば、いいや、何も言わなくても十を理解するような奴だ。不要な情報を与えて無駄な時間を使わせたくないんだよ」
 よく言えば「信頼している」と解釈できる。逆に考えれば「深入りするな」と牽制されているとしか思えなかった。ジギルは実際に、深入りはしなかった。
 球根の実験は成功した。これからも敵に見つからないように球根を世界中に植えていく。そうエミーはジギルに協力を求めた。



「ジギルとエミーは情報を共有していたのではないのですか?」
「互いに都合よく利用していただけ、とのことです」
「ジギルはなぜエミーを問い詰めなかったのでしょう」
「本人が言ったわけではありませんが……すべてを知ることで罪悪感を抱き、研究が進まなくなるのが怖かったのだと思います」
「なぜそう思うのですか?」
「ジギルは昔からそうでした。孤独を好んだのも、慕ってくる人々を拒絶していたのも、人と関わることで起こる矛盾や責任と向き合いたくなかったのです」
「研究に没頭したいがために、それ以外の面倒ごとから目を背けていた、ということですか?」
「はい。エミーも彼のそういう性質を知っていて利用していたのでしょう」
「それで……」
 レオンは続けて問おうとしたが、ふと口を噤んだ。アンバーは待っていたが、この話は終わってしまった。
「いえ、何でもありません。それより、あの球根は一体……?」
「城にある球根はもうほとんどを世界のあちこちに植えられていて、残りは枯れていたそうです。エミーが処分していったものと思われます」
「世界に植えられた球根は、どのくらいなのでしょう」
「球根を管理し、魔士や魔法使いを使って植えるよう指示をしていたのはエミーなので、ジギルは正確な数は把握していませんでした。予想では、五千個は越えるだろうとのことです」
「五千……一つが根を張る範囲は一体どのくらいなのでしょう」
「生き物なので個体によるそうです。エミーは世界中の大地に植えたかったのでしょうが、少なくともウェンドーラの屋敷の近くでは失敗しています。まだ満足いくほどの準備は整っていないのではないのでしょうか」
「では、なぜこの時期にジギルを切り、動き始めたのか……」
 言いながら、レオンは自分で答えを見出した。
「そうか……ドッペルゲンガーか」
「はい。エミーのところにも二人の異物が迷い込みました。彼らからアカシアの干渉の話を聞いて、それと同時、レオン様の覚醒を予感したのでしょう」
 レオンは間を置いて頭の中を整理した。
 アンバーの持ち帰った情報はかなり有力なものである。球根の性能、エミーの目的が分かった。ここからは、どうやって彼女の革命を阻止するかを具体的に考えなければいけない。
「……正直なところ」レオンは遠慮せずに口に出す。「止める手段はなさそうですね」
 アンバーはレオンの無責任な口調に衝撃を受けた。表情には出さずにいられたが、彼の言うことももっともだった。
「現実は想像を超えるものなのでしょうけど、今の経験の少ない私でさえ、ただどちらかが倒れるまで殴り合うイメージしか浮かびません」
「そのイメージは、おそらく私のものとほぼ同様のものと思います」
「私たちが全力で抗ったところで、人類の半数は失われるでしょう。もしかするとそれ以上かもしれませんが」
「それでも、やるしかありません」
「ええ。犠牲を最小限に留めよ……この命令は、人類滅亡まで続くのかもしれませんね」
 レオンは冷たい声で言うが、アンバーは内に秘めた熱を上げ、それを押し殺しながら唇を噛んだ。
「……まずは、他の魔法使いにこのことを伝えましょう」アンバーは立ち上がり。「皆の知恵を集めれば何かいい方法が見つかるかもしれません」
 数歩下がり、改めて頭を下げてレオンに敬礼をして踵を返した。
 レオンは小さく頷いて、アンバーの背中を見送った。彼がドアを開けて立ち去ろうとした寸前、レオンは「あの」と声を出して引き留めた。
 アンバーが振り返ると、レオンは目を背けて言葉を選んでいるように見えた。それほど時間を置かず、レオンは、途中で終わらせていた話を蒸し返してきた。
「ジギルが、今までに経験したのことない不幸とは……何なのでしょう」
 アンバーにはレオンの幼い部分が見えていた。
 世界最高位の魔法使いとしての役目を真剣に考えながらも、ずっとジギルのことを気にしている。おそらく色んなことを考えてしまうのだろう。彼は英雄なのか? 彼ならどうするだろう? などと。
 そこに深い意味はない。多感な年頃によくある、自分の存在価値や立場を知りたがる、好奇心に似た感情である。ずっとレオンは特別だと、周りに信じられていた。いつか必ず世界を守る責務を負う時が来る、はずだった。なのに、その役目は自分にはなく、日陰に潜む別の人物に課せられていた。言い伝えられてきたことがすべて逆だった。それがどれほどの衝撃、どれほどの屈辱なのか、想像を超えるものに違いない。
 しかしレオンは人の恨み方を知らないし、その経験もない。内側に渦巻く、初めて抱く重苦しい感情を処理し切れなくて当然だと思う。
 それでも、もう少年の悩みを解決してやれる時間は残っていない。あとはレオンの自由にしてもらうしかなかった。アンバーは彼の疑問に答えるくらいのことはできると、国の存亡には直接関わりのない些末な情報を伝えた。





   

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