SHANTiROSE

INNOCENT SIN-87






 いつの間にかうたた寝していたカームはミランダの叫びに似た声に飛び起きた。
「完成よ!」
 ソファで横になっていたカームは、怒られたのかと思って慌てて体を起こす。何をしていたのか思い出しながら、室内を見回した。
 床に敷き詰められたメモや資料の上で、ミランダが数枚の紙を掲げて震えていた。その隣にはジギルがぐったりと項垂れている。
「ミランダさん」カームはその場から動かずに。「今、完成って言いました?」
 ミランダは真っ赤な目をカームに向けた。
「ええ。できたわ。たぶん……合っていれば……!」
「すごいですね! これで僕たち帰れるんですね!」
「……えっ」
 ミランダが上擦った声を漏らすとカームは目を丸くした。
 そういえば、高度過ぎて使えるかどうか分からないと言っていた。言葉を失い、気まずそうに俯く彼女の様子から、問題は解決していないようだった。
 とりあえず休憩でも、とカームがお茶を濁そうとする前に、ジギルが顔を上げる。
「ほら、終わったんだから早く出ていけ」ジギルは立ち上がってベッドに転がった。「無駄な時間を費やした。俺は少し休む。もう二度とこの部屋には入ってくんなよ」
 そう言いながら背を向けて布団を被った。
 まだ確認したいことがあったミランダだったが、無理に付き合わせたのは確かだ。渋々部屋を片付け始めた。カームもソファから降りて手伝った。
「ミランダさんも疲れたでしょう?」
「ええ。でも……」
「途中でイジューが声かけてくれたんですよ。ベリルさんが食事を用意してくれたって。でも二人とも集中していたので、あとでお願いしますって言っておきました」
「そうだったの? あなたは?」
「僕はずっとここにいましたよ」
「そう……」
「当然でしょう。他人事じゃないんですから」
 ミランダは頷いて、まとめた紙の束を抱えて立ち上がった。カームも残りの束を抱え、部屋を出ていく。振り返り、背を向けたままのジギルに「ありがとう」と言い残し、退室していった。
 廊下を歩きながら、ミランダはふと足を止めた。
「ねえ、屋上へ行っていい?」
「屋上?」
「本当にこの魔法の解読が合っているかどうか、確かめたいの」
「いいですけど、休憩したほうが……」
「少しだけ。お願い」
「分かりました。でも無理はしないでくださいね」
 ミランダは再度頷き、二人は屋上へ向かった。
 狭い石作りの階段を登ると屋上へ出るドアに突き当たった。押してみるとドアは簡単に開いた。外を覗くと等間隔に松明の炎が灯っていた。それらの隣には槐のマントを羽織った魔法使いが数人立っている。
「見張りの魔法使いがいますよ」
 考えてみれば当然のことだった。もう一度ジギルにお願いして屋上の使用許可をもらう必要があるかもしれないと考えていたところ、一人の魔法使いが振り返って二人に気づいた。しまった、と思うが遅かった。魔法使いはフードを深く被ったまま踵を返した。すると他の魔法使いたちも同じように二人に注目する。
 逃げようか、正直に理由を話そうかと悩んでいると、魔法使いの一人が走り出した。二人に駆け寄りながらフードを外す。メノウだった。
「あんたたち、何してるんだよ」
 メノウの姿に安堵した二人は大人しくドアから出た。
「メノウさん、よかった」カームは胸を撫で下ろし。「すみません、魔法の解読してるのは聞いてますよね」
「ああ、聞いてるよ。でもこんな時間に何してるんだ。屋上に来るなんて聞いてないよ」
「え? 今何時ですか?」
「もうすぐ朝だよ」
 メノウと親し気に話している様子を確認し、他の魔法使いはまた元の位置に戻っていく。メノウはそれを横目で見ながら、声を落とした。
「なんでこんなところに来たんだ」
「やっぱりまずかったですか?」
「あんたたちは部外者なんだ。あんまり勝手にうろつくなよ」
「そうですよね」苦笑いし、ミランダに顔を向ける。「どうします?」
「ねえ、メノウ、昼間も見張りがいるの?」
「数は減るけど……今はエミーがいなくてとくに緊張してるんだ。いつ敵に襲われてもおかしくないからな。屋上に何の用なんだよ」
「星が見たいの」
「星?」
「少しだけ、ダメかしら」
「今か?」
「うん。調べた星が本当にそこにあるのか、確認したいの」
 メノウは他の見張りの様子を伺い、困った表情を浮かべながらも了承した。
「すぐに戻れよ」
「うん。ありがとう」
 ミランダは紙の束を足元に置いてその中の一枚を広げた。空を見上げると、地平線が僅かに白んでいる。頭上はまだ暗い。資料と空を何度も見比べ、眉間に皺を寄せていた。隣からカームが覗き込んでいる。
「どうですか?」
「あれ」とミランダが空を指さす。「あの大きな星がこれで、その隣にこれがあるはずなの」
 説明を聞きながらカームが空と天体図を交互に見ていると、メノウも一緒に同じものを見始めた。
「そんな星ないぞ」
「ないの?」
「あれはいつも出てる大きな星で、満月の夜もはっきり見えるから旅人が目印にするって言われてる。そんな星の隣にあるなら私だって知ってるよ」
「小さな星があるかもしれないじゃない」
「あったとしても隣の大きな星の光に隠れて見えないだろ」
「その星が本当にあるか知りたいの」
「あるなら本に書いてあるだろ」
「書いてないのよ」
 メノウは理解できないという顔で首を捻っていた。
 埒のあかない会話をしている二人の隣で、カームはじっと空を見つめていた。
 いくら目を凝らしてもミランダのいう位置に星はなかった。
 だけど、もしかして……と、カームはそっとメガネをずらしてみた。
(……あった)
 カームはさっとメガネを戻して汗を流した。
(ありました。結構大きくて、でもすごく遠い位置に……)
 しかしカームはその事実をミランダにすぐに伝えることができなかった。
 自分の力を使えば魔法は発動するかもしれない――つまり、元の世界に帰れるということ。同時に、この世界の「友達」とお別れしなければいけない。
 カームはずっとこの力を持て余していた。そのせいで辛い思いをたくさんしてきた。いつか役に立ちたいとずっと思っていた。なのに、なぜか怖かった。
 カームの中に罪悪感が募っていく。
 ミランダが努力して解読した魔法を無駄にさせたくはない。でも、この世界にこれから何が起こるのかを知らないまま消え去っていいのだろうかという葛藤が渦巻いていた。
(僕にできることは、アストロ・ゲートを発動させること……ここに残ったって、なんの役にも立たない)
 答えは出ているも同然のはずなのに、本当のことを言えなかった。



*****




 同じ空の下、眠れずにいたロアの元に不吉な報せが届いた。
 一羽の鷲が城の近くで死んでいたのだった。
 嫌な予感しかしないロアは急いでその場に向かった。数人の魔法兵がそれを囲んでいる。ロアは膝をついて鷲の死体を確認していった。
 死因は失血死だった。体の二か所に魔法弾を受けた後があり、満身創痍の体で城に戻ろうと飛び続け、途中で力尽きたのだろう。
 それだけならすぐに襲われた場所や原因を探る作業に入るところだが、ロアの顔は青ざめ、今までにないほど深刻な表情を浮かべている。周囲の魔法兵が指示を待っていると、ロアは「鷲を弔い、葬ってあげてください」とだけ言って城に戻っていった。


 終末の気配に眠れずにいる者は少なくなかった。
 レオンもまた落ち着いて休むことができずに自室で空を見上げていた。そこにドアがノックされて振り返る。
「レオン様、起きていらっしゃいますか」
 ロアだった。返事をするとドアが開き、ロアは入室後に丁寧に頭を下げた。
「このような時分に失礼いたします。明かりが見えたので……」
「何かありましたか」
 ロアの緊張した面持ちを見て、レオンはただ事ではないと悟った。
「一羽の鷲が、城の近くで死んでいました」ロアは自分の知っていることを話す。「おそらく、クライセンが敵に襲われたのでしょう」
「え?」
「まだ安否は確認できておりません。いくつかの懸念があり、先に報告に参りました」
 できることなら、ロアは「彼女」のことを国の問題にしたくはなかった。しかしクライセンの身に何か起こったのならやむを得ないと話し出す。
「クライセンは深夜、自宅に向かいました。それは私が確認しています」
「自宅へ? 一人でですか?」
「はい。個人的なことです。が、ある意味、この世界の存亡に関わる問題に発展することです。なのでそうなる前に解決するよう、私が彼を行かせました」
 レオンはすぐに理解できず、首を傾げた。
「クライセンが交際している女性のことはご存知でしょうか」
「……ああ」レオンは思い出しながら。「耳には入っております。確か、魔族の少女だと。以前に彼女の父親がこの世界を滅ぼすと言って地上に現れ、それをクライセンが諫めたことがきっかけになったとか」
「はい。そのときの魔族の妻の胎内にいたのがその少女です。夫婦は魔界に帰り、無事に女児が生まれました。少女は成長し、自分を救ってくれたクライセンに会いにこの世界に来たのです」
「少女の父親は……魔界の王、でしたね」
 レオンはやっと事の大きさに気づいた。
 マーベラスの魔法使いは才能や実力だけではなく、人の質も問われる。真面目で品行方正で、地位や名誉を手に入れても驕ることなく、常に国の平安のためだけにすべてを捧げると決意した者ばかりである。性格の違いや向き不向きはあれど、人の道から外れない範囲なら個性として認められている。
 だから彼らがプライベートでどんな趣味を持とうと、どんな人付き合いをしようと厚い信頼を持って自由を許されていた。
 だが身分のある者との交流や交際となると周囲への報告が必要となる。結婚や縁組となる場合は、相手が魔法使いの配下になるか、魔法使いが相手の家系に入るのかを決めなければいけない。後者の場合は魔法軍としての権利はすべてはく奪が条件となるためだった。
 ただ恋愛している状態なら周囲もとくには口出しはしない。クライセンもその段階のことで、一度聞いたきりとくに進展したとか、問題が起きたという話もなかった。だからレオンは思い出すこともなく気に留めていなかった。
 しかしこの時期に「魔王の娘」の存在を放置していていいとは思えない。ロアが深刻な顔をしている理由が分かった。
「それで、クライセンは彼女に会って、なんの話をされたのでしょう」
「娘と離別し、魔界に帰るよう説得する……そのはずです。そのために昨晩、一人で出かけたのです」
「……その途中に、スカルディアに襲われたのですか?」
「だと思います。エミーはこのときを狙っていたのかもしれません。クライセンの大きな弱点なのですから」
「弱点?」
「恋愛だけは計算や理論では答えの出ないもの。ときに、命を預けた主君より、世界が滅ぶより重要だと錯覚させることもある危険な感情ですから」
 恋愛経験のないレオンにはよく分からなかったが、大事な人のために無茶をするという衝動的な感情は理解できる。それに似たものなのだろうと思う。
「つまり、クライセンが間違った行動をとった可能性があると仰りたいのでしょうか」
「そもそも魔族と結婚できると考える彼の浅はかさには、前から懸念を抱いておりました。実際、その叶わぬ夢を追い続けていたためにこのような事態が起きたのです」
 ロアの「魔族との恋愛」への嫌悪感がレオンにも伝わってくる。彼とこんな話をしたのは初めてだったが、自分で思うより戸惑いはなかった。
「起こったことを責めても仕方ありません。それよりも早急にクライセンを捜索したほうがいいのでは」
「ご尤もです。ただ、もしかすると敵襲を受けてそのまま娘に会いに行っているかもしれません。そこで何かしらの成果を上げて戻ってくるなら良しとしましょう。しかしそうでない場合の処置について、レオン様に許可を頂きたく存じます」
「許可?」
「一つ、彼が死んでいた場合、もしくは死に等しい状態だった場合、今後の戦略を練り直す必要があります。そして、取り残された魔族の娘を魔界に帰す役の人選を行わなければなりません」
「それはあなた方にお任せします。私には軍事にも恋愛にも正しい判断を下せる知識はありませんので」
「では次に、クライセンが乱心し、娘と逃亡した場合、二人を捕えクライセンには制裁を与える必要があります。許可を頂けますでしょうか」
 レオンは一度目線を外して考え、すぐに答えを出した。
「それも私が決めることではありません」
「たかが恋愛感情のために、この国を、世界を裏切る行為を許してしまっては、我々マーベラスの統制が失われます」
「私から命令があるとしたら、自由に行動せよ、です。もしクライセンが恋人と逃亡したとしても誰も彼を責めることはできません。それが彼にとって最善の判断ならば、私はそれを良しとします。制裁が必要ならばあなた方で相応の対応を行ってください」
「それでは誰も納得しません。我々はレオン様への忠義で集った組織です。仲間の裏切りが許されるなら、これから何を大儀に戦うべきなのかと迷う者が出てきてもおかしくありません。それらを誰が導くのでしょうか」
「私しかいないのならやりましょう。しかしその手段が仲間への制裁である必要はありません」
「ではどうなさるとお考えでしょうか」
「クライセンの開けた穴の分、私が戦います。皇帝という立場を捨てた今、私にできる責任の取り方は組織を指揮することではありません。共に戦うことです。それでは不足でしょうか」
 ロアは静かに拳を握る。
 自然と心に温かいものが満ちていった。レオンが皇帝陛下を辞め城を飛び出していったときは、事態についていけずに不安だけが募った。しかし彼は逃げたのでも自棄になったのでもなかった。世界最高位の魔法使いとして自分の力と役目を自覚し、この短い時間に折れない筋を心に通したのだ。
 何も知らずに狼狽していた自分を恥じ、ロアはもう迷いを捨てる決意をした。
「畏まりました」ロアは頭を下げ。「まずはクライセンの行方を追います」
「そうしてください」
 レオンの言葉は他人事のように冷たい。それでいい。彼は一つ上の位置にいる方。一介の魔法使いである自分とは一線を画していなければいけない。そんなことを思いながらロアは背を向けた。
「……あの」
 そんな彼の背中に、レオンは言葉をかける。
「あなたが感情的になっている姿を、初めて見ました」
 ロアは目を見開き、否定する、しようとする。
「苦しいとき、悲しいときは、そうやって表に出してもいいと思いますよ」
 呪縛から解かれたレオンは、自分でも安っぽいと思いながらも、素直な気持ちを伝えた。
「まあ……私にような世間知らずで未熟な子供が言っても、なんの説得力もないでしょうけど……」
 ロアはすぐに「そんなことはない」と言いたかった。だが、今レオンと向き合ったら誰にも見せたことのなかった表情を向けてしまいそうで、振り返ることができなかった。
「あなたがそこまでクライセンの恋を否定するのは、彼に幸せになって欲しいからではないですか? そして現実に、あなたが心配ていたことが起きてしまった。だけど人の感情を他人が制御することはできません。故に、守れなかった自分に苛立っているだとしたら……それは間違いです。未来は誰にも分からないし、操作することもできません。たとえ、神であっても。だからそれぞれが下した決断に間違いはないのです。もし誰かが傷ついたとしても、だったら別の道がよかったのかどうかなんて、確かめようがないのですから」
 ――違う。レオンは決して遠い存在ではない。元々持ち合わせていた博愛精神も、決して失ってはいなかった。
 心酔している彼にこれほど優しい気遣いをされることは何よりの光栄。ロアの心は自然と穏やかになっていく。
 レオンは彼の背中に頭を下げた。
「まずはクライセンの無事を祈りましょう。どうか、最善を尽くしてください。お願いします」
「……はい。無様な姿をお見せしてしまい、失礼いたしました。レオン様のお心遣い、痛み入ります」
 ロアはやはり顔を向けることができないまま、退室していった。
 レオンは小さく息を吐き、再び窓の外の空を見上げた。


 ロアは朝日の差し込む廊下を歩きながら、着実に前に進んでいると感じていた。
 未来は操作できない。別の道がよかったのかどうかなんて確かめようがない……別の未来の存在を知り、自分は本来生まれてくるべきではなかったと、突然崖から突き落とされた少年の心は誰も止められないほど深い闇に落ちていった。その闇の中を足掻き、答えに辿り着いたのは、彼の精神力の強さゆえだ。どれだけ安全で生易しい環境で育ったとしても、やはり世界を救った英雄ザインの子息だ。おそらく、クライセンのドッペルゲンガーとの邂逅で目覚めた部分も大きいのだと思うが、それ以上に彼自身の持つ運命の力が、ない場所に道を作ったのだろう。
 この感動を、親友であるクライセンと共有したかった。いつも隣にいた彼の姿がない。改めて、どっと不安が押し寄せた。
 もしかしたら、もう二度と会えないのかもしれない――心の中で言葉にすると、身震いが起きる。
 レオンの言うとおりだ。ティシラとの恋愛も、クライセンが決めたことなら信じてあげればよかったのだ。
 彼は決して逃げたのではない。自分の知るクライセンなら、ティシラを守るため何かを犠牲にするとしても他の方法を選ぶはず。疑ったのは、ロア自身に自信がなかったからだ。
 となると、クライセンが危険な状態である可能性が高い。
 走り出したい気持ちを抑えるために目を硬く閉じると、闇の中で小さな光が瞬いた。ロアは足を止め、瞼を開けてその意味を考えた。
 これは、父から譲り受けた予見の力だと直感した。
 未来は操れないが、予測することはできる。
 一瞬見えた光は、小さな石の欠片が光ったようだった。
 クライセンは生きている。だが身動きがとれない状態にある……分かるのはそれだけだが、ロアには吉報だった。顔をあげ、歩みを早めた。




   

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