SHANTiROSE

INNOCENT SIN-88






 カームは落ち着かないミランダを宥め、なんとか眠りにつかせた。自分も休まなければいけないところだが、どうしてもじっとしていられずに再度ジギルの部屋に戻る。怒られるのは承知で、眠っていた彼の体を揺らした。
「ジギル……ごめんね。相談したいことあるんだ」
 ジギルはすぐには起きなかった。疲れているのだから当然だ。
「本当にごめん。ねえ、ちょっとだけ話を聞いて。今じゃなきゃいけないんだ。お願いだよ」
 泣きそうな声で懇願していると、ジギルの体が動いた。
「怒鳴っても殴ってもいいから。お願いします。ちょっとだけでいいから、お願いします」
 ジギルは寝ているのか起きているのか分からない顔で上半身を起こした。カームは一歩下がり、床に両手をついて土下座した。
「ジギル。ごめんね。ちょっとだけ、話を聞いてもらっていい?」
 ジギルは僅かにカームに顔を向けた。ボサボサの前髪が目にかかり、表情は見えない。しかし相当苛立っているのはよく伝わった。
「お、起きてる? 話していい? 手短なほうがいいよね。じゃあ言うよ。あのね、僕、星が見えるんだ」
 カームは座ったままベッドにすり寄り、ジギルの顔を覗き込んだ。
「ミランダさんが言ってた見えない星が、見えるんだよ。でも、ミランダさんに言えなかった。すごく落ち込んでた。僕のほうが泣きそうなくらい悲しそうだった。でも、言えなかったんだ」
 ジギルはじわじわと目が覚め始め、カームの話が耳に入ってきた。じわじわと、眉間に皺が寄る。
「僕は卑怯者だ。ずっとこの力を役に立てたかったのに、いざそのときが来ると怖くなったんだ。だって、魔法が完成したら君たちと永遠に別れなくちゃいけないんだよ。寂しいよ。それに、もしかしたらこの世界にいたら、この力をもっと有効に使えるかもしれないだろう? そうなら、僕は残ってもいいと思ってる。ねえ、ジギルはどう思う? 君が必要としてくれるなら、僕は決断する。本当のことを言って、ミランダさんだけ元の世界に帰そうと思うんだ」
 ジギルは項垂れ、頭が重そうにゆらゆら揺れていた。何かを考えているようだった。カームは彼の返事を待った。最後の審判だ。どちらを選んでも悲しみは伴うが、救いはある。自分のため、ミランダのため、ジギルのために何ができるか、今ここで決めなればいけない。心の準備が整ったカームを、ジギルは寝ぼけ眼で睨みつけた。
「……二度と入ってくるなって、言っただろうが」
 カームはえっと短い声を上げる。
「それが返事? 今の話、聞いてなかった? お願いだよ。君の意見を聞かせてよ」
「お前がどうするかなんて俺が知るわけないだろう。自分で決めろ」
「き、決められないから相談してるんだよ。ねえ、君は僕の力を必要だと思う?」
「思わねえよ」
「えっ、思わないの?」
「俺が必要だから残れって言ったら残るのか?」
「……うん、だから、正直に答えて」
「じゃあ帰れ。これでいいか」
「何その言い方!」
「答えてるだろ。何が不満なんだよ!」
「そんなの、答えじゃないよ……ほら、こういうときって、もっと悩んで、言いにくそうに口ごもったりとか、葛藤して、気持ちと裏腹な表情を浮かべたりとか……いろいろあるじゃないか」
「はあ?」ジギルは呆れて大きなため息を吐いた。「自分で決めろ。俺が言いたいのはそれだけだ」
「そんな……」
「お前がどうしたいかだろ。人の言うとおりにして、それが嘘だったらどうする。用が済んだら見捨てられるかもしれないんだぞ。そのときに後悔するかしないかで決めればいい」
 カームは目に涙を溜めて俯いた。
「……ジギルは、もし僕が残ったら、喜んでくれる? 僕と一緒に、魔薬を人の役に立つための研究をしてくれる?」
「俺を基準にするな。とりあえず魔法はやればいいじゃないか。お前が残るにしても、あの女まで巻き込む必要ねえだろ」
「そ、そうだよね……僕もそう思ったんだよ。でも、でも……」カームは顔を上げ。「もしも、その瞬間に、ミランダさんに手を握られて、一緒に帰ろうってお願いされたら……断れるわけがないじゃないか」
 どこまでも妄想逞しい奴だと、ジギルは感心さえ覚えた。ふざけているようで、彼は真剣だ。だったら、と思う。
「もう答えは出てるじゃねえか」
「え?」
 カームはジギルの言葉と、自分の言ったことを思い出しながら考えた。
「いや……」じわりと顔を赤らめて。「いやいや、違うよ。ミランダさんとはそういう感じじゃないよ。それに、実際、僕の手を握ってくれるって決まってるわけじゃないし、むしろ握ってくれるとは思えないし」
 ジギルは最後まで聞く気はなく、横になって背を向けた。
「待って。もしも握ってくれて、一緒に帰ったとして、そのあと友達にもなれなかったらどうしたらいいの? マルシオだってどうなるか分からないし、僕はまた一人ぼっちになるかもしれないんだよ」
「知らねえよ」
「やっぱり残ればよかったって思うかもしれないよ。あっ、そのときはまたゲートを開いて戻って来られるかな。ねえ、どう思う?」
「自分で決めろ」
 それだけ言うと、ジギルはもう返事をしなかった。
 彼が疲れていることは知っている。これ以上迷惑かけるわけにはいかないと、カームはひどく落ち込んだ顔で部屋を出ていった。



*****




 眠れない夜を明かした者のうちの一人、ティシラはリビングのソファに上半身を倒し、虚ろな目でぼんやりしていた。
 片手で胸元のネックレスの水晶を握りしめて、もうだいぶ時間が経つ。
 深夜に今から会いに来ると言ったクライセンの言葉を信じ、何度も窓や玄関から外を覗いたが、彼は現れなかった。
 急用ができたのなら一言くらい報せをくれるはず。それすらできないほどの緊急な出来事が起きたのだろうか。何にせよ待つしかできない。ティシラと一緒に一晩中起きていたピクシーたちは、ただ部屋を無意味に行き来していた。
 朝日が庭の緑に反射し始めた頃、庭から鷲の羽ばたきが聞こえた。ティシラは目を見開いて飛び起き、玄関に走った。その音に驚いたピクシーたちは一目散に家具の影に隠れた。
 ドアを開けるとそこに立っていたのはサンディルだった。
「ティシラ……起きていたか」
 サンディルの顔色は悪く、目を泳がせてティシラと顔を合わせようとしなかった。優しく肩を抱いて室内に連れていき、ソファに座らせた。
「ティシラ、落ち着いて聞いてほしい」
 ティシラは無表情だった。どうしてクライセンではないのか、理由を知りたいのに、知りたくなかった。
「昨晩、クライセンはここに来たのか?」
「……え?」
「息子には会ったのか? 答えてくれ」
 ティシラは小さく首を横に振る。
「いいえ……来るはずだったけど、来なかったの」
「そうか……」サンディルは片手で顔を覆い、酷く狼狽した。「では、やはり、ここに来る途中で……」
「何?」ティシラはサンディルの顔を覗き込み。「ここに来る途中で、何? 何があったの?」
 サンディルは言葉にするのも恐ろしかったが、言わなければいけないと騒ぐ胸を抑えた。
 ここに居て欲しい。たとえクライセンが無責任な行動を起こしていたとしても、とにかく無事を確認したかった。僅かな可能性に賭けて自ら志願しティシラの元へ向かった。しかし、結果は最悪の状態へ進んでいった。
「クライセンが……遺体で発見されたよ」
 ティシラの頭が真っ白になった。
「クライセンが乗っていたはずの鷲も死んでいた。スカルディアに攻撃を受けたようなんだ」
「……どういうこと?」ティシラの声が震えていた。「クライセンが、攻撃を受けたって……そうだとしても、彼が負けるはずがないじゃない。ちょっと怪我しただけでしょう? どこかで……休んでるだけよ」

 そう思いたいのは彼女だけではない。サンディルも、普段は外に出てあちこち飛び回ることなどほとんどしないが、ロアと数十人の魔法兵と共に、戦闘のあったであろう場所とその周辺を何度も徘徊した。
 手がかりもないまま際限なく捜索するわけにもいかず、ロアは時間を決めて行動した。死んでいるならせめて遺体の確認だけでもできれば彼を諦めることができるのに、と、ロアとサンディルは疲労だけを溜めていく。それでも、クライセンを見つけることができなかった。
 このままでは何も進展しない。ロアはいったん切り替え、サンディルを呼んだ。
「今からウェンドーラの屋敷に向かいます」
「え? なんのために?」
「クライセンがいるかもしれません。状況的に、可能性は低いですが」
「そ、そうだな……」
「いてもいなくても、ティシラを魔界に帰さなければいけません。時間があまりありません。私なら必ず結果を出してみせます」
 一人息子の安否が気になり落ち着いていられないサンディルだったが、はっと息を飲んでロアを強く止めた。
「いや……! それはだめだ」
 サンディルはティシラとロアが互いに、かなり、嫌いあっていることは知っている。ただでさえ平常心ではいられないであろうティシラにロアを会わせるなんて、絶対にしてはいけない。それに、クライセンが行方不明で魔界に帰れなどと言って納得するわけがないし、味方のない少女にこの冷酷なロアが手段を択ばないとなると、想像を絶する惨劇が起きてしまうかもしれない。
「私が、行く」
「あなたが? 説得できますか?」
「私しかいないだろう……辛い役目だが、ティシラは娘も同然なんだ。せめて、私だけでもお別れを言わなければ……」
 ロアは納得し、サンディルに役目を頼むことにした。
「ただ、一つだけお願いがあります――クライセンは、死んだと伝えてください」
 サンディルは心が痛んだが、ティシラが行方不明と言っただけで諦めるとは思えなかった。残酷だが、ロアが正しい。

「……嘘よ」ティシラの声が上擦る。「本当なら、死体を見せてよ。じゃないと信じないわ」
「気持ちは分かるよ、ティシラ……」
 サンディルは涙を堪えてポケットから何かを取り出した。短い黒髪の束が、紐でまとめて結んであるものだった。
「遺体は城に運ばれた。これは、君に渡すためにもらってきた遺髪だ」
 すべての嘘は、ロアから指示されたものだった。近くにいた黒髪の魔法使いに頼んでほんの少し髪を切らせてもらい、即席で小道具を用意し、あとはサンディルの話術に一任されることになった。
 ティシラは赤い目を見開いてじっと遺髪を見つめていたが、手に取ろうとはしなかった。
「形見としてもらってくれ……これを持って、家に帰りなさい」
「……は?」
「聞いているだろう。もうすぐ革命が始まると。クライセンはもういない。ただの事故なら息子をきちんと弔い、君にも葬儀に参列して欲しいが、そんな時間はないんだ。ティシラ一人でこの屋敷に居ても、革命に巻き込まれて悲しい結末しか訪れない。せめて、ティシラだけでも幸せになってほしいんだ」
「……幸せ?」ティシラはの内側から熱がこみ上げる。「クライセンがいないのに、どうやって幸せになれるのよ」
「……分かるよ。私だって辛いんだ。だけど、君は魔界に戻れば両親がいて、またいつかいい出会いがあるかもしれないだろう。すぐには無理でも、いつか……」
「ないわよ。私はクライセンがいなくちゃ生きていけないの。他の誰も、いらないの」
「分かっている……」
 サンディルはとうとう涙を零した。
 クライセンが死んだかもしれないという不安。自分と同じくらいの悲しみに囚われているティシラの気持ち、そしてそんな少女に嘘をつかなければいけない苦痛がサンディルの心を、潰れそうなほど締め付けた。
「ティシラはクライセンがいないなら死んだほうがいいと思っているかもしれない。だけど、君に何かあったら君の両親はどうなる? 愛する人を追っていった一人娘が、夢も希望も打ち砕かれて一人寂しく死んでしまったなんて知ったら、どれほど悲しまれるか……考えてみてくれないだろうか」
 ティシラは言葉を失った。
 彼の言う通りだ。両親のことを思うと、このまま一人で死ぬという選択の罪深さが手に取るように理解できる。クライセン以外の誰かと結ばれる気はないが、せめて元気で帰ってくるだけでも、両親に立ち直れないほどの傷を負わせる事態は避けられる。
 目眩が起き、気を失いそうになった。
 ティシラは何も考えられなくなる。考えると、答えが出てしまいそうだったから。
「……分かったわ」ティシラは遠くを見つめて。「そうするしか、ないのね」
 サンディルは顔を上げ、ティシラの絶望した表情に胸を打たれる。涙が溢れて止まらなかった。
「でも、お願い。もう少しここに居させて」
「ティシラ……?」
「すぐには無理なの……今までは、クライセンが帰ってくる場所だったから、一人でも平気だったけど、もう、彼は二度とここに帰ってこないのよね。それを実感してから、もうここにいる意味はないって思えてから、出て行きたいの」
 サンディルは虚ろなティシラを抱きしめ、何度も頭を撫でた。
「すまない……」
 ティシラの瞳から涙は零れなかった。その様子がさらに悲壮感を増幅し、サンディルだけが声を漏らして泣き続けている。
「私のために、泣いてくれて、ありがとう」
 ティシラはサンディルの手をそっと握った。サンディルは、クライセンだけではなく、ティシラとも二度と会えないと思うと、あまりに寂しくて辛くて倒れてしまいそうだった。
「私は大丈夫……ここで、もう少し思い出に浸らせて。寂しくなったら……帰るね」
 ティシラはサンディルの手の中にあった遺髪を受け取った。
 ゆっくりと立ち上がって深く一礼し、重い足取りで奥のドアの向こうに姿を消した。
 夢も希望もない。愛する人を失った少女の哀れな背中があまりに悲惨で、サンディルは声を殺して泣き続けた。ティシラの言う通り、彼女はクライセン以外の人をこれほど好きになることはないと思う。魂の半分を抉り取られたも同然の苦しみを、癒されることもなく長い時間強いられるのだろう。
 何かしてやれることはないかと探しても、他人には触れることのできない領域の傷である。サンディル自身もいつまで生きていられるか分からない状況の中、ただただ彼女が安全な場所で、きれいな花として永く咲いていてくれることを願った。



 ゆっくりと廊下を歩きながら、ティシラは手の中の遺髪を見つめる。
「……信じない。こんなもので、信じるものですか」
 ティシラは一度、物語に出てくる健気なヒロインのように身を引くことも真剣に考えた。きっと崇高な賢者なら、それこそが本物の愛だとでも言うのだろう。
 もし自分が争いに巻き込まれてしまったとき、父であるブランケルが再び激しい怒りを持って人間を滅ぼそうとするのは間違いない。自分がクライセンのいない世界に留まったことによってどれだけの人間が殺されるのかを想像すると、あまりにも理不尽で無意味な不幸がこの世界を包むことは安易に予想がつく。自分のことを知る者は恨みや怒りを向けるかもしれない。
 だがティシラは痛くも痒くもなかった。
「人間が死ぬ? だから何? 私は魔界の姫よ」
 誰もいない廊下で、ティシラは思いの丈を吐き出した。
「この私の願いを叶えてくれない人間なんて、生かしておく意味ないじゃない。役立たずはみんな死ねばいいのよ」
 やはり、自分には他人のために潔く身を引くという慎ましいことはできない。行動したとしても、心が追い付きそうになかった。
 いくら考えてみても、我慢をする理由が見出せないのだから。
「私が幸せになれないなんて、そんなつまらない世界……滅んでしまえばいい!」
 ティシラはそう独り言ち、遺髪を床に投げ捨てた。





   

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