SHANTiROSE

INNOCENT SIN-89






 この世界に魔力が満ち溢れます。
 生物が命を育み、眠り、還る場所である大地は奪われます。
 動物や植物が長い時間をかけて築き上げた進化の工程は価値を失い、守り受け継がれてきた遺伝子も財産も、より良くあろうと洗練されてきた文明も知恵も破壊され、すべてが原始に戻ります。
 しかし命ある限り、愛だけは残ります。
 すべての人類に共通する感情という巨大な樹の根は、一つの種から生まれました。
 その種こそが愛であり、人としての体を成すために必要な要素です。
 愛を守るため、それがたった一つの小さな種だとしても、私は全身全霊で戦います。
 たった一つの小さな種さえあれば、またいつか芽吹き、枝葉を広げ、この世界に大輪の愛の花を咲かせることができるでしょう――。



 青く輝く宝石、リヴィオラを背にレオンは直立し、この言葉を国民に送った。
 金糸の混ざった白い正装は太陽の光を受けて、風が戦ぐたびに小さな魔法使いを美しく引き立てた。
 レオンは繊細な模様の描かれた立派な銀の剣を自分の前に立て、両手を柄に乗せている。朝までに完成させると言ったヴェルトは言葉のとおり、レオンの髪を練り込んだ聖なる剣を鍛え上げた。抜くと奇声のような細く鋭い音がし、魔力を帯びた刃は瑞々しい輝きを纏っている。
 剣は流星導(りゅうせいとう)と名付けられた。
 世界最高位の魔法使いに相応しい。たった数時間でこれほどの剣を作り上げたヴェルトには謝辞が伝えられたが、本人は魔力を使い果たし、回復のためその場にはいなかった。
 レオンの足元には一万の魔法使いが列を成し、厳かに主の声を聞いていた。
 ここに集まった者と、ノートンディルの各地に常駐するマーベラスの魔法使いたちはには間もなく革命が始まるであろうということ、エミーの言う「原始の石を大地に還す」ことの意味を知らされていた。
 だが力のない国民へは、ただ戦いに備えて準備をするようにとしか伝えられていない。ランドールの魔法使いたちがエミーの総攻撃と抗戦し、いつか戦いが終わるまでに生き延びられれば何とかなると、誰もが自分を励ました。
 決して嘘ではなかった。しかし、生き残れる可能性がどれほど低いのかを知る者はほとんどいなかった。
 レオンの言葉は恐ろしく不安を煽るものだったが、抽象的で美しく、希望を感じさせるものだった。世界の終末と言われても具体的に実感できる者はおらず、レオンがいれば大丈夫だと信じて疑わなかった。
 言葉はレオンが考えたものだった。最初に聞かされたロアとラムウェンドは妙な違和感を拭いきれずにいたが、最終的にこれ以上はないと判断した。レオンとしては経験豊かで物事を客観的に見ることができる二人にほとんどを修正してもらうつもりだった。しかし二人はこれでいいと言った。



*****




 その違和感を抱いた者は他にもいた。
 レオンの言葉は号外として一枚の新聞でも配られていた。その一枚を入手した魔士がジギルの元に届けていた。数時間後に目を覚ました彼のところに、ベリルが軽食と一緒に運んできた。
 あまり長くは眠らないジギルは、すぐに起き上がって言葉に目を通した。
「どう思う?」ベリルは肩を竦め。「なんだかお高くとまってる感じでよく分からないわ。これ、何が言いたいの?」
 ジギルはそれを何度も読み返し、鼻で笑った。
「……大体の状況は把握してるんだな」
「え?」
「というか、レオン様ってのはちょっと頭がおかしいみたいだな」
「何言ってるのよ。敵とはいえ大国の王様よ。見下すのはよくないわよ」
「王じゃない。皇帝だ」
「そうなの? どう違うの?」
「で、今はそれも辞めてただの魔法使いらしい」
「え、どうして? そんなに簡単に辞められるものなの?」ベリルは矢継ぎ早に疑問を吐き出す。「でも、辞めたのにこんなふうに彼の言葉が国中に伝えられてるのはどうして? 他の人が立場を引き継ぐものじゃないの?」
 もっともな疑問だと思うが、ジギルは答えなかった。
「言っておくが、見下してるつもりはない。なんか、他人事みたいだなと思っただけだよ」
「ちょっと、質問には答えてくれないの?」
 ジギルはうんとも言わず、ベリルの質問を無視した。
「よくある人格者なら、愛とやらは人の心にあるものだと考える。でも、こいつは愛は人を成すための要素だと言ってるんだよ」
 そんな彼の態度は珍しくないため、ベリルはため息をついてそれ以上追求しなかった。
「だから?」
「愛と言えば人間はみんな感動する。それはあくまで遺伝子に組み込まれたプログラムに過ぎないことに気づかないまま。だけどこいつだけはその仕組みを知ってしまったんだ。別に愛なんてなくても人間は生きていけると」
 ベリルはうーんと唸り、何度も首を捻っている。
「ってことは、あんたも知ってるってことじゃないの? あと、私も知ったってこと?」
「言葉では分かっても頭で理解できる奴はそういねえよ。お前だって愛情はあって当然のもので、ない奴は冷酷で外道だと思うだろ?」
「うーん……そこまでは言わないけど、まあ、愛情のない人はちょっと怖いイメージね」
「どうしてそう思う?」
「だから、怖いって言ってるじゃない」
「それがプログラムなんだよ。愛は善。ない奴は悪。誰がそう言った?」
「誰って……教えられなくても実際にそうじゃないの? 誰だって優しい人のほうが好きでしょう?」
「そのほうが生きやすいからな。だから人間には愛情がプログラミングされてるんだよ。生存本能の一種だ」
「そうなの? 私バカだからそういうの分からない。もっと簡単に言って」
「つまり、レオンは愛情を持ってないってことだよ」
「もっと簡単に!」ベリルは言った直後に両手を叩いた。「あっ、つまり、あんたみたいに頭の中のネジがいくつも抜け落ちてるってこと?」
「俺より断トツだよ」ジギルは舌打ちし。「こいつは家族だろうが仲間だろうが、人の生き死に対してなんの感情も抱けない、とんでもない精神病質者だよ」
「へー、あんた以上にネジが足りないんだ。それならなんとなく分かった気がする……ああ、それは相当頭おかしいわね」
「ふざけんな。そもそも俺は普通だ」
 そう言って背を向けながら、運ばれてきたコーヒーを口にするジギルをベリルは笑い飛ばした。
「ねえ、それおいしい?」
「別に」
「おいしいでしょ? ほら、これ見て」ベリルはポケットから一枚のメモを取り出した。「私のオリジナルレシピ。ちょっと読んでよ。言葉、間違ってないかな?」
「こんなもの、どうするんだよ」
「もうすぐ人類が滅亡するかもしれないんでしょ? でも世界がなくなるわけじゃないなら、これを残しておけばいつか誰かが見つけてくれるかもしれないじゃない?」
 軽く人類滅亡だと言いながら、ちゃんと準備しようとしているベリルがどこまで本気なのか分からない。まともに相手をする気にはなれず、ジギルはメモにちらりと目線を送っただけで何も言わなかった。
「本当なら石にでも刻んだほうがいいんだろうけど、そんな時間も体力もないし。燃えてなくならないことを祈るしかないわね」
「おい、そんなことより、エミーについて何か報せはないのか?」
「ないわねえ。元気だといいけど」
 ここ数日はとくに変化もなかった。エミーが一人で行動することは今までもよくあり、まだ不信に思う者はいなかった。なんとなくもう戻ってはこないことを察しているジギルだけが胸騒ぎを感じているだけで、茨の森に巣食っている魔士も式兵もいつも通りの警備を続けている。どこに「印」があり、いつ発動するのかに注意しながら、ジギルは自分のやるべきことに集中した。



*****




 レオンが人前に立つのは久しぶりで、自分の言葉で国全体に指示を出したのは始めてだった。何かあればいつでもフォローするつもりでロアとラムウェンドが傍にいたのだが、彼は緊張すらしていない様子だった。
 もう驚かないつもりだったが、レオンは式が終わると流星導をロアに差し出した。
「私には必要ありません。どなたかに渡してください」
「……何か、不足がございますか?」
「いいえ。これほど美しく強い魔力を持った剣は見たことがないほど立派です。だからこそ、他の者に使って欲しいのです」
「どういうことでしょう」
「水を与えすぎても花は枯れます。私には既にエヴァーツの力がありますので、これ以上は力量過多で使いこなす自信がありません」
 確かに、流星導にはレオンの魔力が宿っている。いわばレオンの分身のようなものだ。彼より他の者が持ったほうがエヴァーツの力が拡大するかもしれない。
 しかし、レオンの配慮のない態度を見ているとヴェルトが気の毒に思う。だからと言ってレオンに押し返すこともできず、ロアは戸惑いながら剣を受け取った。

 そして回復したヴェルトに、剣を返されたことを伝えた。ヴェルトはショックを受けるというより、困った顔をしていた。
「この剣には、レオン様の良心を組み込んでいます」
「良心?」
「命を奪う魔法を使うことは決して邪悪ではありません。死はすべての生命に訪れます。だからこそ生命は止まらぬ時間の中で輝くもの。そのことを忘れないよう、本来レオン様にある純粋さや博愛精神を思い描きながら作りました。そして、殺戮ではなく守るために戦っているのだという真意を見失うことがないよう、剣を成形している組織とレオン様の意識を結んでおります」
 ロアとラムウェンドは顔を見合わせ、ヴェルトと同じように困った表情を浮かべる。
「そのことをレオン様に話したのですか?」
「いいえ。そこまでは」
「では、あなたから説明してはどうでしょうか」
 ヴェルトは目を伏せ、小さく息を吐いた。
「レオン様がこれに触れて何も感じられないわけがありません。扱い難い、というのが本心なのでしょう」
「いえ」と、ラムウェンド。「最初から武器は不要だとお考えだったのではないでしょうか。実際に触れてみて、戦力になると判断し、あえて手放されたのだと思います」
 ヴェルトはしばらく剣を見つめて静かに目を伏せ、剣を握る手に力を込めた。
「では、ロア様、流星導はあなたがお持ちください」
「私が?」
「クライセン様が不在の今、あなたの心身の助けになるはずです。どうか、お受け取りください」
 ロアは剣を両手で受け取り、手の平から感じる重みや感触に瞳を揺らした。
 厚みのある鉄の塊の中には魔力と魔法が複雑に織り込まれているのが分かる。なのに、自ら浮いているかのように軽い。間違いなく名剣である。これを数時間で作り上げたティルの魔法使いに深く敬意を表し、ロアは頭を垂れた。



*****




 不安を抱えつつもすっかり疲れていたミランダは深く眠り、日が高くなってからやっと目を覚ました。カームは彼女より先に起きており、メノウのいるリビングでお茶を飲んでいた。浮かない顔で現れたミランダを見て、カームは引きつった笑顔で挨拶した。
「ミランダさん、おはようございます」
「……おはよう」
「よく眠れましたか?」
「ええ。疲れは取れたわ」
「それは何よりです」
 ミランダはカームの向かいの椅子に腰かけ、妙に元気なカームをつい睨んでしまった。後ろめたいことのあるカームは顔を背ける。二人の間にある気まずい空気の理由をカームから聞いていたメノウは、ミランダにお茶を出しながら笑いかけた。
「どうした? お前って寝起きは機嫌が悪いタイプなのか?」
 そう言われ、ミランダははっと我に返った。
「え? そんな顔してる?」
「してるよ。カームが怖がってるじゃないか」
「怖がる? カーム、私、怖い?」
 カームは慌てて姿勢を正して笑った。
「いいえ。怖くなんかありませんよ」
「そうよね……」
 ミランダはほっとしてお茶を飲んだ。しかしすぐに表情は虚ろになり、死体のような青白い顔で遠い目をしている。
 カームは自分のせいだと震え出した。
 言わなければいけない。メノウを横目で見ると、彼女もカームを見つめており、「早く」と目で訴えていた。
 メノウからは、ちゃんと本当のことを話したほうがいいと言われていた。それだけの能力を隠す意味が分からないし、ここで使わないでいつ使うんだと力説され、カームは決意した。今ならまだ間に合う。ミランダも怒らずに聞いてくれるはずだ。
「あ、あの……」
 カームが声をかけると、ミランダはまたはっと目を見開いた。
「大事なお話があります」
「な、何? 改まって」
「あのですね、実は……」
「実は?」
 喉まで出ている言葉を口の中で止めているカームに呆れ、メノウは彼の背中を叩いた。
「実は……僕、見えない星が見えるんです!」
 カームは吐き出すように言ったあと、やり切ったような脱力感を抱いて背を丸めた。だがもちろん、これで終わりではない。
「……え? 本当なの?」
「は、はい……」
「それはいつ分かったの?」
「昨日、屋上に行ったとき……」
「どうして言ってくれなかったのよ」
「それは……」
 またカームは口篭り、またメノウに背中を叩かれる。
「僕がまだ、どうしようか、迷っていたので……」
「どうしようかって、どういう意味よ」
「いえ、だから、ここに残るかどうか……」
「まだそんなこと言ってるの?」
「だ、だって、僕の力が活かされるかもしれないんですよ? 改心したジギルの手助けをできれば、この世界はすごくいいところになるかもしれないんです。僕はそのためにここに来たんだと……」
「バカなこと言わないで!」ミランダは両手でテーブルを叩いた。「あなたは世界最強魔法軍の最高司令官の弟子なんでしょう? 自分でそう言って、胸を張ってじゃない。あなたがここに来た理由はそうなるまでの過程があったからなのよ。もしもあなたがいつか人の役に立ちたいという夢を抱いていなかったら何も起こらなかった。ここに来た経験から何かを学ぶことであなたはもっと強くなるの。人って、そうやって成長するの!」
「で、でも……」
「できることをやらないで楽なところに逃げても堕落するだけよ!」
 涙目になるカームを見兼ねて、メノウが仲裁に入る。
「まあまあ、そんなに大きな声を出さなくてもさ……」
「メノウは黙ってて。甘やかしてはダメよ。こういう夢見がちな乙女は無理にでも軌道修正しないと、いつまでも現実を見ないんだから」
「そ、そうなんだ」
 メノウはミランダの迫力に押され、カームを庇うのをやめた。
 カームは図星を突かれ顔を紅潮させて震えている。だが、一つだけ修正しておきたかった。
「ぼ、僕は、乙女では、ありません……」
「女以上に夢見る乙女よ、あなたは!」
「すみません……」
「ところで」ミランダは更に追い詰めていく。「カーム、あなたまさか、ここにいる女の子たちに未練があるわけじゃないでしょうね」
「えっ! そんなことは……!」
「ないならないと言いなさい!」
「な、ないです……でも」ミランダに睨まれ縮み上がりながら、カームは小声で呟いた。「もしかしたら、この世界に、僕の運命の人がいるかもしれないじゃないですか」
「はあ?」
「そのくらい愛し合える人と出会えたら、すべてを捨てても、いいんじゃないかなって……」
 ミランダは立ち上がり、カームの胸倉を掴んで頬を引っ叩いた。
 メノウが慌てて二人の間に入ってくる。
「ちょっと、落ち着けよ」
「……そんな」カームは痛みとショックで震えながら。「手を握るどころか、た、叩かれた……」
 ミランダは手を出してしまったことを後悔し、項垂れた。
「……運命なんて、ない」奥歯を噛み、拳を握る。「人の感情は、言葉じゃなく行動がすべてなのよ。言葉で何を言っても、態度や表情は誤魔化せないの。あなたはそれに逆らっても、見えない運命に従いたいと思うの?」
 カームはミランダが何を言いたいのか分からず、返事ができなかった。
「自分を犠牲にして他人を幸せにすると言えば健気で立派なように聞こえるわ。自分だけが傷つくならそれでいい。だけど、他の誰かも巻き込んで悲しませているかもしれない可能性は考えないの? だとしたらそれはただの独り善がりに過ぎない。そこに幸せなんてない。運命なんかじゃない!」
 ミランダは拳をテーブルに叩きつけ、二人の顔を見ずに部屋を出て行った。
 唖然としているカームの隣で、メノウがため息をもらした。
「やっぱりめんどくさいな、あいつ」
 カームははっと背を伸ばし、首を横に振った。
「いいえ、ミランダさんの言うことは間違っていません」
「そうなのか?」
「確かに、僕が一人前の魔法使いなら、ここで残る道を選んでも師匠は納得されると思います。でも僕はまだ一人では何もできない未熟者なんです。アストロ・ゲートの魔法だって、ミランダさんの力がないと使えません。僕だけでどうするかを選ぼうだなんて……」カームは頭を抱えて目を堅く閉じた。「ああ、また調子に乗ってしまった。僕はいつもこうだ……!」
「ダメなのか?」
「ダメですよ。このまま、何も言わないで勝手にいなくなるなんて……やっぱり、サイネラ様は悲しむに決まっています」
 メノウはもう一つため息をついて、口の端を上げた。
「じゃあ、帰らないとな」
「……はい」
 カームは頷き、ミランダのあとを追った。





   

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