SHANTiROSE

INNOCENT SIN-97






 まだできたばかりの真っ白な空間で少女は泣き続けていた。
 そこは壁と床しかなく、どんなに大きな声を上げても白い光に吸い込まれて消えていく。
 だけど彼女の涙は悲しみのそれではなかった。
 ティシラはやっと孤独から解放されていたのだ。
 もしかしたら二度と会えないかもしれないとまで思った。今まで一度も自分の気持ちを疑うことなく、愚直に前だけを見てきたティシラでさえ心が折れるほどの絶望を強いられた。何もできず、じっとしているだけで大切なものが離れていくような気がして、このまま時間が止まってしまえばいいと、抱いたことのなかった「諦め」の感情を持ち始めていた。
 他の何もいらない。この世でたった一人だけに傍にいて欲しい。ティシラの願いはそれだけだった。そのたった一つが、果てしない純白に塗り潰されようとしていた。
 その孤独な凪を荒らすように、クライセンは帰ってきた。
 ティシラの心の中には再び強い感情が流れ込み、鮮やかな色彩が取り戻された。
 クライセンは嗚咽で喋れない状態のティシラの頭を包み込むように抱きしめ、やっと帰ってこられたことをゆっくりと感じ取った。
 別世界で出会ったティシラも本物ではあったが、やはり彼女は「自分の帰る場所」ではなかった。ここにいる、ずっと自分を待ってくれていた少女こそが生まれてきた意味を教えてくれる唯一の存在だと確信した。

 無心で感情を吐き出すように泣き続けていたティシラも、次第に落ち着きを取り戻し始めた。そのあいだ、おそらく話しかけてもまともに返事ができないだろうと思いクライセンは黙って待っていた。
 ティシラは自分がクライセンの胸に縋り付いているという現実を認識し始め、再び感情をコントロールできなくなる。
 悲鳴のような声をあげ、涙は引っ込み、飛び上がるように背筋を伸ばし、そのまま体を捻らせて床に転がった。
 突然のティシラの奇行にクライセンは目を丸くして驚き、その場に腰を下ろした。
「ど……どうしたんだ?」
 ティシラはすぐに彼と向き合えず、床に這いつくばり、平静を装おうと深呼吸した。
(なに……なにが起きているの?)ティシラは感情が追い付かず、混乱していた。(これって、私が望んでいた物語そのものじゃない。悪人に誘拐された私を、最強で最高にかっこいい恋人が助けに来てくれた……!)
 ティシラは興奮して床に拳を数回叩きつけていた。
(なにこれ……素敵じゃない! 私って、やっぱり最高のヒロインだわ。こんなに心ときめく、夢みたいな展開が現実に起こるなんて、信じられない!)
 床につっぷしたまま体を震わせているティシラの様子を伺い、思っていたより元気そうだとクライセンは安心する。しかし立ち直りが早いのは知っていたとはいえ、ここまでとはと感心せざるを得なかった。
「……これから佳境よ」ティシラはつい声を漏らしていた。「最高にロマンティックなラブシーンで、二人は……!」
 呟きながら上半身を起こしたかと思うと、ティシラは突如固まった。視界の外で首を傾げるクライセンを他所に、今度は青ざめていく。
 気持ちが暴走していたティシラはラブシーンという言葉と同時、見つめ合う二人の姿が脳裏に浮かび上がった。
 それはクライセンとティシラのそれだった。
 だが、そのティシラは自分ではない。別世界の、自分が相手のラブシーンの一幕――。
 ここにきてまた邪魔が入った。とはいえ、その時間は既に過ぎている。もう取り返しのつかないことになっているのかもしれない。
 ティシラはゆっくりと振り返った。
「……ねえ」
 ただ事ではない様子のティシラに、クライセンは緊張して汗を流した。
「……したの?」
「え……?」
「した?」
「な、何を……?」
「……キス」
「……え?」クライセンははっと息を飲む。「まさか……見てたのか?」
 ティシラは再び目に涙を浮かべた。
「やっぱり……」そう呟き、座ったまま後ずさりしていく。「私の偽物に、誘惑されて……我慢できずに……」
「ま、待ってくれ」
 クライセンは頭を抱え、まるで汚らわしいものを見る目を向けるティシラへの言い訳を考えた。
 彼女の言うとおり、「偽物」に誘惑されて戸惑ったのは確かだった。それよりも、と思う。マルシオが覗き見していたのは途中で気づいたとはいえ、あのときの無防備で困惑した自分を、ティシラにまで見られていたという事実へのショックが大きかった。
「クソ……マルシオの仕業か」
 腹が立つやら恥ずかしいやらで、頭の中がまとまらない。
 あのティシラがここまで絶望していた理由も分かった。マルシオの力で別世界で相思相愛の関係を築いていた二人を見せつけ、更にそこに迷い込んだクライセンの心を惑わしティシラから引き離そうとしていたのだ。
 ティシラも自分自身が敵となったらどう抗えばいいのか分からなかったに違いない。
 だけど――とクライセンは我に返った。
「ティシラ」落ち着きを取り戻し。「見てたのは、どこまでだ」
 結果的に、クライセンはティシラに対して後ろめたいことは何もしなかった。なのに彼女がここまで懐疑的になっているのは、全部を見たわけではないということ。
「一体、どこから、どこまでを見ていた……?」
 ティシラはまだ警戒を解かず、彼の質問の答えを考えた。
「……あなたが、あっちの世界にい着いて、お屋敷に、私がいて……」
「それから?」
「あっちの世界の出来事を話してて、カームとミランダが、立ち去って……あなたと私が二人きりになって……」
 言いながら、ティシラは目を潤ませていく。
「私が、いいえ、私じゃない私が、あなたに……」
「そこから先は?」
「し、知らない」
「知らない?」
「知らない……知りたくない!」ティシラは大声を上げた。「あんなの、見ていられるわけないじゃない! 頭がおかしくなりそうで……!」
「見てないんだな」クライセンは遮るように声を荒げた。「聞いてくれ。あれから……」
「いや! 聞きたくない!」
「聞くんだ! あれから侵入者が来て、そこで別れたんだ」
「え……?」
「本当だ。私はすぐにその場を去ったんだよ」
「……本当?」
「ああ」
「……でも、したの?」
「してない!」
「じゃあされたのね!」
「どうしてそうなる!」
「だって……!」
 クライセンは疲れたようにため息をついたあと、ティシラの目を見て答えた。
「あっちの君にも言ったけど……卑怯なことをしているようだからって、ちゃんと断った」
「……本当?」
「ああ。信じてくれ」
 そう言われると、ティシラの気持ちに迷いはなかった。
「分かった……信じる」
「よかった」クライセンは肩を落とし。「まったく、どうせ見るならそこまで見ていてくれればよかったのに」
 おそらく本当だとティシラは思う。しかし、それはそれで自分が振られたような気がして複雑な気持ちになった。
「ああ、うん、ごめんね……」ティシラは誤魔化すように作り笑いを浮かべ。「ほら、なんとなく、私の知らないところで、私が辱められているような、そんな感じがして……」
「分かるよ。だから断ったんだ。それにあっちのティシラには相思相愛の恋人がいたし。彼女も分かっててからかっただけだろう」
「そ、そうよね。でも、ほんとに怖かったの。疑ったわけじゃないの」
「分かってくれたならいいよ」
 やっと落ち着いてくれた彼女の表情を見て、クライセンは改めて現実に目を向ける。
「……佳境は、まだこれからだ」
「え?」
「ラブシーンの前に、やることがある」
「ラ……」ティシラは顔を赤らめ、慌てて目を逸らす。「なに……もしかして、私、さっき声に出してた?」
「なにか言った?」
「ううん」頭を数回横に振り。「それより、やることって?」
「マルシオだよ」
「ああ、そうだったわ。マルシオがどうしたの?」
「どうって……」相変わらず恋愛以外のことには鈍い彼女が面白く、笑いがこみ上げる。「不出来な弟子に制裁を与えないと」
「……制裁って?」
「ぶん殴る」
「それから?」
「それだけ。形だけの師弟だからね。形だけの制裁を与えて、それからあとのことは彼自身が決めればいいと思ってる」
「そっか……」ティシラは俯き。「そのあと、私たちはどうなるの?」
「さあ」
「帰れるの?」
「どうだろうね」
「教えてよ」
「分からないんだ」
「どうして?」
「マルシオ次第だから」
「私たちでは決められないの?」
「決めることはできるよ。でも、それが叶うかどうかは分からない」
 ティシラも徐々に現実に引き戻されつつあった。
 クライセンと再会し二人きりで時間を過ごしているうちに、マルシオへの怒りは忘れかけていた。だがここが終着点ではない。いつまでもこうしてはいられない。
「で――」とクライセンは微笑んだ。「君にお願いがある」
「え? なに?」
「ティシラにだから、頼めることなんだけど」
「うん。なんでもするわ。言って」
 ティシラはクライセンに頼られ、胸がときめいた。初めての共同作業、などと手を取り合って困難に立ち向かう二人を想像し浮かれていた。
「もう一度マルシオの心臓を抉り取ってほしい」
「え?」
「今のマルシオは神だ。さすがの私でも一人では対抗できないかもしれない。あれの心臓、つまり力の源を引き離せば僅かな隙ができる。一瞬でいいんだ。できる?」
「え……ええ」
「右の胸だ。今度は間違えないように」
「うん。分かった。そのくらい、簡単よ」
「だよね。頼りにしてるよ」
 優しく目を細めるクライセンに釣られてティシラもにっこり笑ってみたが、いまいち気に召さず、ボソリと独り言ちる。
「……もっとお姫様っぽいことしたかったなあ」
「なに?」
「ううん。なんでもない。任せて」
「ありがとう。それじゃ……」クライセンは立ち上がり、ティシラに片手を差し出した。「そろそろ行こうか」
 ティシラは照れながら手を取り、腰を上げた。

 白い廊下はどこまでも続いており、二人は同じ方向を向いて歩きだした。
 ティシラは自分がどれくらい歩いて来たか分からなかったが、おそらく距離は関係ないのだと思う。この世界はマルシオ次第で大きくも小さくもなるし、その気になれば一瞬で消滅させることもできる。クライセンが戻ってきたことくらいは気づいているはず。ここはマルシオの庭どころか、手のひらの上にも等しい。あまりにもクライセンが不利だ。ティシラは改めて恐怖を感じた。マルシオを殴ると言っても、近づくのも難しそうだし、それができたところでマルシオに変化があるとは思えなかった。
「ねえ……」ティシラは不安そうな声で。「心臓を抉るのはいいけど、できるかしら。マルシオも私の力は知ってるし、それに、どんなタイミングで仕掛けたらいいの?」
「まあマルシオは心臓を抉られるくらいは平気だろうから、できないってことはないと思う」
「どうして?」
「原始の石と天使の肉体は一体化してる。物理的に抉り出したところで切り離すことはできないからね」
「じゃあ何のために?」
「それなりの衝撃はあるはず。一瞬だけ隙ができればいいんだ」
「その一瞬で殴るの?」
「そう」
「それで、マルシオは変わるの?」
「さあね」
 会話が途切れると耳が痛くなりそうなほどの静寂が落ちてくる。もしこれがデートなら他愛ない話が尽きないのかもしれないが、周囲にあまりにも何もないため言葉が出てこない。
 空がなければ天気の話もできない。草花がなければ季節の話も、建物がなければ好みの話もできず、人がいなければ笑いも怒りも何の話題も、そのきっかけさえも生まれない。
 それでも、ティシラはクライセンが隣にいるだけで幸せだった。
 あのまま一人、孤独のままでいるよりはずっといい。あれだけの絶望を経て、彼と同じところを目指している。今のこの時間、ティシラがずっと求めていたものに近づいている気がしていた。
 これから先なにが起きてどうなるのかは分からないが、今まで以上に悪くはならないだろうと信じていた。そう気楽に考えていたティシラの隣を歩くクライセンの足取りは重かった。そのことにティシラが気づくより早く、クライセンから声をかけた。
「ああ、そうだ、ティシラ」
「なに?」
「キスしようか」
「ん?」
「――今度こそ本当に死ぬかもしれないから」
「…………」
 ティシラは返事をせず歩き続けた。無反応の彼女に疑問を抱いたクライセンがまた口を開こうとしたとき、ティシラは突然軟体動物のように体の力が抜けて倒れ込んだ。
 クライセンが驚いて抱き上げると、ティシラは気絶していた。
 しかしすぐに意識を取り戻て目を開けると、目の前にあるクライセンの顔を見るなり今度は悲鳴を上げた。次に熱湯を浴びたように耳まで真っ赤にし、手をバタつかせながらクライセンを押しのけ床を這って距離を置いた。
「なに? いきなり何なの!」
 ティシラはクライセンからのあまりに唐突な誘惑に思考が追い付かなかった。
「物事には順序ってものが……」言いかけて、はっと目を見開く。「待って、今、死ぬかもしれない、って言ったわね」
 問われたクライセンが返事をする間もなく、ティシラは続けた。
「分かった。あれね。生物は命の危険を感じると子孫を残そうという本能が働くって聞いたことがある。まさかそれで? ダメ! そんな理由でどさくさに私の愛を奪おうなんて思わないで。私はいいんだけど……いいえ、よくないわ。私を口説くなら、もっと、ちゃんと、ロマンティックで、ゆっくり、丁寧に……こんな何もないつまらない場所でなんて、後々、遺恨が残る、と思うの。ね、よく考えてみて」
 一気に捲し立てられたクライセンは、あまりの彼女の慌てぶりに呆気に取られた。それから、ジワジワと笑いがこみ上げ、噴出してしまう。
 屈み込んで腹を抱えて笑う彼を、ティシラは真っ赤な顔で見つめた。
「な、なに……まさか、冗談だったの?」
「違うよ……」クライセンは笑いながら。「それなりに勇気を出して言ってみたんだけどね。ティシラ、君って、ほんとに面白いな」
 ティシラはどう考えても褒められているとは思えなかった。失礼な、と言いかけ、やめた。
「なぜかしら……なんか、懐かしい」
 クライセンがこんなふうに笑っている姿なんて見たこともないし、想像したこともなかったはずなのに、なぜか知っている気がした。
「そうだね」
 クライセンはあのときのことを覚えている。
 虚無の世界で、色気のない愛の約束を交わしたことを。
 何もない空間で二人きり、他人には見せられない姿を晒し合い、笑った。
 歩いているうちに、他の方法はないだろうかとクライセンは迷った。しかし心の底から笑うと、もう難しいことは考えられなくなった。
「確かに、君の言うとおりだ」クライセンは目に滲む涙を拭い。「こんなところで魔界の姫を口説こうなんて、私が間違っていたよ」
「そ、そう……」
「いつか、ちゃんと準備してからやり直そう。だから今のは忘れて」
「え、そんな、忘れてって言われても……」
 クライセンは再度、立ち上がってティシラに手を伸ばした。
「なんとかなるような気がしてきた」
 ティシラはクライセンが何かを隠しているようで、すぐには手を取らなかった。
「なんとかなるって、どういう意味?」
 いつになく神妙な表情のティシラを、クライセンは笑顔のまま見つめる。
「奇跡が起きるんじゃないかってこと」
 やはりはっきり答えないクライセンに納得いかないティシラだったが、強引に腕を引かれてまた赤面して立ち上がった。
「ありがとう」
 そう言ってクライセンはティシラの頭を撫で、先に歩き出した。ティシラはその背中を見つめ、不満を漏らす。
「……こういうときって、許可なく、強引にいっちゃっても、いいんじゃないの?」
「え? なにか言った?」
「なにも!」とティシラは不機嫌そうに彼のあとを追った。
「ティシラ、君って独り言が多いんだね」
「そうでもないわよ」
「多いよ」
「今だけでしょ」
「そういえば、そうかも」

 ――まるで霧が晴れていくようだった。
 真っ白だった視界に巨大な扉が現れた。この先にマルシオがいる。
 二人は足を止め、それを見上げた。
 その大きさに気を取られていると、手を触れるまでもなく、ゆっくりと扉が開いた。そこから漏れ出す白い光に、二人の姿は吸い込まれるように消えていった。





   

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