SeparateMoon



22






 柔らかい水の中で浮いている夢を見た。
 体のどこにも接地点がなく、全身が完全に脱力している。海を漂う魚でも、空を舞う鳥とも違う気がした。羊水に包まれている胎児に近いのかもしれない。
 体のどこにも力が入らない。もう肉体はなくなっていて、意識だけが残っているのだろうか。これは死か――そうだ、と思う。ジギルは自分が死んだことを思い出した。
 次第に何が起こったのか、記憶が蘇ってくる。
(……あのあと、どうなった? 二人は無事だったのか?)
 そうであれば死んだ甲斐があったというものだ。
「無駄死に野郎が」
 ジギルを完全否定する声が聞こえた。
 体は動かないがぼやけた視界に薄い影が見えた。
「まだ生きてるんだな」
 カロンの声だ。影は次第に形を作り、ジギルを見下ろした姿になった。
「いっそ即死していればよかったものを」カロンの目はいつも通り、鋭かった。「傷はなんとか塞がったが、まだ助かったわけじゃない。このまま目覚めない可能性も十分ある。だから今のうちに話しておく」
 しかしジギルの知る彼とは少し様子が違った。表情や口調は変わらないがいつも以上に苛立っているの伝わってくる。普段の横暴な態度は、ユリナの言うように怒っているわけではなかったのだと、初めて気づく。
「今お前は俺の魔法で真空に近い状態の中にいる。意識があるなら聞こえているはずだ。いいか、お前が余計なことをしたせいで俺もユリナも膨大な魔力を消費することになった」
(……余計なことだと思うなら、ほっとけばよかっただろ)
 ジギルの声は出ていないが、カロンはそれに返事をする。
「俺はそれでいい。だがユリナはそうはいかない。化け物より先にお前に駆け寄り、腸(はらわた)ごと抱え込んで取り乱した。身の程知らずの化け物はユリナの力で一瞬で肉塊になり、村は散乱したそれの血肉で悍ましいことになった。普通に戦えばあんな雑魚、大した力は使わない。だか暴走したユリナは魔力の制御ができなくなるんだ」
(取り乱す……? 暴走? どういうことだ)
「今までも何度かあった。治癒の魔法は難しいと言ったよな。魔力も体力も使う。時間もかかる。頭も使う。対象の状態に合わせて慎重に、だが素早く行わなければ、細い命の糸は一瞬で切れる。ユリナはその糸が切れるまで諦めない。集中して、自分の限界を忘れるほど、ムキになる」
 魔法のことはあまり理解できないジギルだが、ユリナがそうまでして自分を治療していたことを知り、心が締め付けられた。これは感情だと、冷静に考えた。体がなくても感情だけで痛みを伴う。そして肉体以外の部分は、まだこの世に繋がっているのだと感じた。
(……ユリナはどうしてる)
「お前の傷が塞がったところで俺が止めた。今は魔力の回復のために休んでいる……もうユリナの体は冷たくなり始めていた。だから無理やり眠らせたんだ。今、お前の隣にいる)
 ジギルは視界を揺らした。薄っすらと木造の天井が見えた。意識が強くなっていると感じる。視界を左に動かすと、確かに目を閉じて眠るユリナの顔が見えた。
 こんなに近くにいるのに、何の気配も温度も感じない。感触がないのは自分の体の感覚がないせいではない。
 彼女から生気を感じなかった。
(……何が起きている?)
「ユリナは特異体質だ。天使や魔族に近く、体内で魔力を精製する炉のようなものがある。だからリヴィオラが破壊されても大した影響を受けなかった。だが完全に操作できるわけではない。その炉の限界を本人も知らないんだ。魔力を放出し続けると、いつか炉が壊れ……本人も気づかないまま死ぬんだと思う」
 ジギルは違和感の正体が分かった。
 ユリナの顔は青白く、呼吸が止まっている。
 炉が物質を生成するためには熱を必要とする。体内で実際に火を焚くことはできないのだから、おそらく彼女の中で魔力を生成する原子などの物質が存在するのだろう。その力は無限ではなく、放出したエネルギーの分、強い熱を発する。そのまま熱し続ければ人間であるユリナの体が壊れてしまうのは想像するに容易い。当然、熱源を高めれば高めるほど危険は増す。炉が壊れる前に強制的にでも完全停止させなければいけない。それが今のユリナで、仮死状態となっているのだった。
「ユリナは自分の持って生まれた力ならできることがたくさんあると信じて竺史から出た。正義感じゃない。好奇心なんだろうな。だから厄介なんだ。死んでいい奴まで救おうとする。ユリナはあの閉鎖的な村にいたおかげで力を使わずに済んでいた。村の人間は説得したが、長い話し合いの結果、力を使い果たして死ぬのならば、それは天命だと皆が納得した」
 そんなバカなことがあるかと、ジギルは叫びたかった。
(……家族なんだろ。赤の他人を救うために死を容認するなんて、なんで納得できるんだよ)
「俺は違う。だから、ついてきたんだ」
 ジギルは、カロンが自分にきつく当たる理由が分かった。森で自分を見つけたときも、ユリナは危険を冒して治療したのだろう。今回はもっと酷い。きっと彼は、まだ命の糸が僅かに繋がっていた自分を心底から疎んだだろう。
(知らなかったんだ……俺は、どうすればいい?)
 肉体があるなら涙が溢れていたと思う。
 何もかもが裏目に出る。関わった人が次々に不幸になる。それが嫌で変わろうとした。なのに、同じことばかり繰り返している。
「回復したらユリナの前から消えろ」カロンは迷いなく言い放つ。「お前みたいな死にたがりが近くにいたら迷惑なんだよ」
(そうだな……俺もそう思う。歩けるようになったら、今度こそ消えるよ。できれば、このまま死なせてくれ)
 カロンにはジギルの悲痛な思いが伝わった。カロンも彼が苦しんでいることは分かる。だからこそ、解せないと思う。
「なあ、ジギル」カロンは彼の名を呼んだ。「お前はなぜここに来た?」
 カロンの目が座っている。今までまともに会話をしたことがなかったが、彼もまた高等魔法使いの一人だ。非凡な能力と思考を持ち合わせている。カロンの声はジギルの心を揺さぶり続ける。
「なぜユリナの前に現れた? あの夜、確かに星に導かれたんだ。偶然だとは思えない。お前が何をすべき人間なのかは知らないが、それはユリナの命を犠牲にするほどのものなのか?」
 違う、とジギルは叫んだ、叫びたかった。
(どこの誰がそう言ったとしても……それは間違っていると断言する)
「そうか……」
 カロンはユリナの頭を撫でる。軽く動かすと、薄く開いた瞼の下の、開ききった瞳孔が見えた。彼女はされるがままの人形のように、髪だけを揺らして沈黙していた。
「これは俺が、少ない情報から感じた一つの道筋だが……」カロンはユリナを見つめたまま。「お前にとってのユリナは、レオンの代わりなんじゃないのか?」
 ジギルはあまりの衝撃に、不自由な状態の意識さえも揺らいだ。煙のように散ってしまいそうな危機感を抱き、必死で繋ぎ止めた。
「地雷を踏んだか?」カロンはふんと鼻で笑う。「まあ落ち着けよ……俺はおまえの言動を見てたよ。レオンを酷く恐れている。ここには影も形もないのに。その理由はどうでもいいが、本当は逃げてはいけなかった。だから道を外れたお前はここに来た。もしユリナが死ねば、お前はまた別の代わりを求めるんだ。違うか?」
 ジギルは否定したくてもできなかった。
 そんなことは考えもしなかったのに、運命がそう導いていると言われれば、そうなのだと思うしかなかった。
「俺は竺史の決断は受け入れていない。だが本人がやりたいと言うから尊重している。ユリナは一人の人間だ。特殊な体質だというだけで便利な道具ではない。ユリナに人間として生きる道を見つけてもらうために、俺は一緒に村を出た。その途中に、お前が現れた。きっと意味があるんだと思う。ユリナをお前の身勝手な振る舞いの犠牲にしたくないのなら……何をすべきなのか、よく考えろ」
 ジギルの意識が朦朧としてきた。うまく言葉が出てこない。視界が霞んできた。
「意識だけでも興奮すると体に影響する」カロンは片手をジギルに向けた。「もう眠れ。おそらくお前は生き返るよ。ユリナが助ける。不本意だが、俺も手伝う。償いは、言葉じゃなく行動で示せ。いいな」
 カロンの言葉を胸に刻みながら、ジギルは深い暗闇に沈んでいった。



 その日の夜は雨が降っていた。地面を叩く雨粒の音が大きい。少なくとも丸一日は降り続いていた様子を想像できる。
 次にジギルが目を覚ましたとき、天井がはっきりと見えた。
 視線だけではなく、眼球が左右に揺れている。頭も動く。体はまだ全身が重く手先くらいにしか感覚がない。目には見えないがカロンの魔法がまだ残っているのだろう。
 室内は暗いが、頭の横の小さなテーブルにランタンがおいてあり、その周辺だけがオレンジの光で照らされている。そこは自分が寝泊まりしていた部屋ではないことが分かった。少し天井が近い。どうやらベッドに寝ているようだ。ユリナとカロンが住んでいた建物と同じ空気を感じた。掃除をしていたとき、奥に続くドアがあったことを思い出す。そのときは開けずにいたが、重傷者はここで治療しているのだと思う。
 改めて、ジギルは生きていることを自覚した。
 呼吸をしている。心臓が脈を打ち、体温もある。
 落胆すると同時、安堵もした。ユリナの治療は無駄にはならなかった。そして罪を償うことができる。
 部屋を見渡そうかと頭を傾ける。と、すぐ傍にユリナの顔があった。目を閉じ、こちらを向いて体を丸めて眠っている。
 普通なら驚いて飛び起きてしまうところだが、一瞬肩が跳ねただけでそれ以上は動かなかった。
 声を出そうかとしたが、この状態で目を覚まされても気まずい。まだまともに謝るどころか、ろくに会話もできないのだから。
 彼女はこないだより血色がよかった。呼吸もしている。仮死状態ではないことが分かり、とりあえずほっとした。あれからも治療を繰り返し、何度目かの休憩で眠っているのだろう。どれだけの労を重ねさせてしまったのか、考えるだけで泣きたくなる。
 ユリナは少しやつれていた。髪や顔、服のあちこちに血痕がある。目の下が擦れたように赤くなっていた。
(……取り乱したとか、暴走って、どういうことなんだろう)
 楽観的で自信家で、苦手なものなどなさそうなユリナしか知らないジギルには想像できなかった。
(まさか、ずっと泣いてたなんてことはないよな)
 だとしたら胸が痛む。そうでないことを願った。
(そういえば、あの夢……)
 夢の中で見たユリナの死体と、仮死状態にあった彼女の姿が重なる。出会ったときに治療してもらったときも、今と同じようなことがあったのなら――まったく記憶にないが、そのときに見たユリナの寝姿とハンカチの柄が脳内で混ざり、あんな風景を作ってしまったのだろうと思う。竺史が標高の高い山岳の頂上にあることも、独特な赤の神殿も、きっとただの想像に違いない。
 じっと顔を見ているのも失礼だと思い、ジギルは顔を天井に向け直した。目を閉じると、じわりと温かい感触に気づいた。少し目を開け目線を下げると、胸の辺りに自分の右手があり、その手にユリナの左手が重ねられていた。細くて軽いのに、守られているような安心感が体中に染み渡っていく。
 これは魔法じゃない。人間の力だ。「便利な道具」であるはずがない。
 彼女にあるのは正義でも義務でもなく、命を救いたい、苦痛を取り除きたいという気持ちだけ。
 ユリナが誰からも好かれ、一目置かれる理由がやっと分かった気がした。優しいだけでは弱い。強いだけでは守れない。
 タニヤの命の糸を繋いだだけではなく、絶望していた心も癒した。自分の大切な一部を分けることで、彼女に生きる理由を与えた。
 素性の分からない男が、意味の分からないことを言いながら泣きじゃくっても、呆れも笑いもせずに傍にい続けた。
 これは理屈ではないと、ジギルは思う。「寄り添う」ということ。
(……俺には程遠い。真似できることじゃないな)
 人からは与えられてばかりなのに、自分の中には思い遣りなど欠片もない。
 大きなため息をついたあと、自分が包帯塗れなことに気づく。血痕も酷い。もし動けたらすぐに傷が開いてまた血塗れになるだろう。シーツがあまり汚れていないのは、カロンが魔法で包んでいたからだと思う。
 よくできた姉弟だとジギルは感心する。カロンとの会話は貴重だった。彼もまた有能で思慮深く、ユリナとって掛け替えのない存在なのだ。平穏だった毎日に、突然こんな「問題児」が転がり込んできたら、迷惑極まりないのは間違いない。
 怪我が治ればこの温もりは二度と感じることはできなくなる。
 そう思うと、右手の指が微かに動いた。
 できることなら、ずっと覚えていたい。
 右手を捻ると、乗っていた白い手がはらりと落ちた。ジギルは悪いことをしている気がしたが、目を閉じながらユリナの手の上に自分のそれを重ねた。
 すぐに離すつもりだったが、離せなかった。
 もしバレたら殴られてもいい覚悟で、バタバタと鳴る雨音に耳を澄ませる。そのまま、今までに感じたことがないと思うほど、安らかで深い眠りに身を任せた。







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