SeparateMoon
21
次の日の早朝、決まった時間に寝起きする習慣のないジギルは、野太く明るいアンクの声で起こされた。
「起きろ、ボロ。今日も働くぞ」
ジギルの眠りは浅かったためすぐに目覚めたが、体のあちこちが筋肉痛になっていることに気づき、顔を顰める。老人のように呻き声をあげていると、アンクが呆れた表情で布団をはぎ取った。
「なんだその声は。まだ一日しか働いてないんだろ。毎日続けないと体力はつかないぞ」
「……朝からうるせえな」
「よし、元気だな。行くぞ」
何をどう見て元気だと判断したんだと思うジギルを、アンクは問答無用で外に連れ出した。
今日はゴミや廃材の処理をすることになった。
人の住んでない広い土地で焼いたり穴を掘って埋めたり、効率の悪い作業にジギルは従事した。言いたいことは山ほどあったが、何も考えず、黙々と言われたことだけを行った。
昨夜、ユリナに言われた「馴染む」とは、きっとこういうことだと思う。洛陽線の村の文明の基盤を作ったのはジギルだ。ここでも同じようなことはできるかもしれないが、それとは違う人物にならなければいけない。何もしない、何も考えない。数多の「何も為さない」人間の一人に紛れ込む。その癖をつけようと努めた。
大きなトラブルもなく数日が過ぎた。
ある日の夜、アンクの家に呼ばれたジギルはまた退屈な時間を過ごしていた。アンクとタニヤは無愛想な少年を前にしても笑いが絶えない。
「そういえば、エイシンとアリーが一緒に暮らすことになったんだって」
アンクが言うと、タニヤは嬉しそうに頬を染めた。
「よかった。エイシンから相談されてて、心配してたから」
ジギルには何の話か、なんとなく分かる。しかし名前と顔が一致しない彼の耳にはまともに入ってこなかった。
ふと、目線の先の壁にあるものに意識が向いた。
そこには、色取り取りの模様が描かれた小さなハンカチが画鋲で止められていた。
(……あれ、なんか、見たことがあるような)
そんな気がしてじっと見つめていると、それに気づいたタニヤも同じ方を見つめた。
「ああ、これ? アンク、取ってくれる?」
アンクは席を立ち、壁からハンカチを取って戻ってきた。
「綺麗でしょ? ユリナにもらったの」
ジギルはそう言われても、違和感の正体が見つからなかった。
「私が落ち込んでいたときに、唐突に手渡してくれたの。せめてもの慰めにってことなんでしょうね。女は綺麗なものが好きだから。見たこともない美しい絵柄と、彼女の思い遣りに、私は嬉しくて泣いてしまったの」
いい話なのだろうが、やはりジギルには刺さらない。それでもハンカチを眺めている彼に、アンクがまた笑った。
「この繊細な心遣い、お前には絶対分からないよな?」
「全っ然、分からん」とジギルは素直に頷いた。
「この刺繍、ユリナの故郷の伝統的な技術らしいの。きっと故郷から持ってきて、ずっと大事にしていたのね。私はそんな大事なものは受け取れないと言ったんだけど、感動して泣いてしまった私から取り上げるなんてできなかったんでしょうね」
言われてみれば、とジギルは思う。そのハンカチはただの布に絵が描いてあるわけではなく、すべて刺繍で編み込まれており厚みがあった。一つ一つの目は小さいのに、縦も横も正確に並んでおり、ズレがない。これがすべて手作業ならかなりの時間がかかるだろう。それよりも気になったのは柄だった。原色の丸や四角の組み合わせの幾何学模様で、花や動物などのそれっぽいものは見当たらない。その模様に何の意味があるのか分からないのに、おそらく計算されて描かれていると思える。
ぼんやりとそれを見つめていると、頭の中に小さな電流が走った。
(……また?)
ジギルは瞳を揺らした。少し前にも同じような錯覚を感じた。
何だったか思い出そうとしたとき、突如、ある風景が脳裏に広がった。
ハンカチと同じ柄が描かれた、大きな壁があった。神殿のような美しい建物の一部だ。深い色彩に囲まれたその場所は、標高が高い山岳地帯の上に広がっていた。冷たい風に晒されても色褪せない深く濃い深紅の巨大な柱が立ち並び、至る所に原色の幾何学模様が描かれている。酔いそうなほど壮大で派手な空間に、ジギルは見覚えなどなかった。
悠久の時を重ねて作り上げられた美しくも毒々しいその世界に、亀裂が入った。
鳥が羽ばたくように視界が上空に昇っていく途中、模様の上に横たわる少女の姿があった。ぼやけていたが、ユリナに見えた。
「――おい ボロ!」
アンクに呼ばれ、ジギルははっと我に返った。
「どうした?」
「え? 何が?」
ジギルがとぼけた声を出すと、アンクは肩を竦める。
「何が、って、意識が飛んだみたいになってたぞ。眠いのか?」
「い、いいや。ああ、そうかも。眠いんだな。少し、夢を……」
ジギルは自分で言いいながら思い出した。
「……夢だ」
まだ最近のことだった。先ほどの幻覚のような映像は、夢で見て、忘れていたのだ。
(あの景色は……ユリナの故郷、竺史(とくし)なのか?)
だとしても、見たことも聞いたこともないのにと思う。だが、アンクの家には何度か来ている。あのハンカチもその度に見ているはずなのに、今初めて意識に引っかかった。夢で見てから、記憶のどこかに残っていたからに違いない。
(ただの夢だ……)ジギルは冷静を保とうと頭を軽く振った。(きっと逆だ。あの柄を無意識に覚えていたから、それに影響を受けた夢を見ただけだ)
しかし、夢の中にユリナがいた理由が気になる。あのハンカチの柄が彼女の故郷のものだという情報も一致している。
何よりも、夢の中のユリナは――小さくぼやけていたのに、なぜか、あれは「死体」だと直感したからだった。
ただの夢だと、ジギルは繰り返した。日々の不安が見せただけの、ただの悪い夢だ。
困惑を隠そうとするジギルに、アンクが呆れたように肩を叩いた。
「お前なあ、そうやってちょくちょく挙動不審になるのやめろよ。ただでさえ愛嬌ゼロなんだから。変質者みたいだぞ」
「は?」ジギルは目を見開く。「挙動不審? 変質者?」
「そうだよ。自覚ないのか? そんなんじゃユリナの気は引けないぞ」
「ふざけんな! まだ言ってんのか」
ジギルはつい大声を出してしまう。二人からは何度かこのことでからかわれてきた。既に望みはない前提になっているが、一応否定しておかないと冗談では済まなくなる気がしていた。
「ユリナを想うのは悪いことじゃないのよ」タニヤは優しい口調で。「でもね、まずは他の人ともっと交流することから始めたほうがいいと思うの。伝手ができればいろんな情報が入るし、もっといい出会いがあるかもしれないでしょ」
「情報も出会いもいらねえよ。めんどくせえ」
「そんなこと言わないで。ここじゃいろんな人が出会ってる。恋人だけじゃなくて、友達や、家族のように助け合う仲間とか、人との縁ってたくさんあるのよ」
「知ってる。知ってていらねえって言ってんだ」
「そうなのね……可哀想に」
「何がだよ!」
「そうだわ。このハンカチ、貸してあげようか?」
「は?」
「これを持ってたらユリナと話すきっかけになるでしょう? でもちゃんと返してね。宝物だから」
もう言い返すのも疲れてきたジギルが不機嫌そうに歯噛みしていると、アンクが口出ししてくる。
「それはやめたほうがいい。ユリナはそんな下心はすぐに見透かす。余計に嫌われるだけだ」
「そうなの?」
「ユリナに治療してもらおうとわざと怪我するバカなんて後を絶たない。どいつもこいつも小さな傷を得意げに見せてくるんだ。そしたらさ、兄貴が出てきて、このくらいの怪我してから出直してこいって、ボコボコにされてたんだよ」
大笑いするアンクだったが、それは笑っていいのかどうかとジギルは冷や汗を流した。
「ええ……でも、そのあと治療してもらえたんでしょう?」
「そんなわけないだろ。消毒液とか包帯渡されてカロンに手当てしてもらえって突き放されてたよ」
タニヤも驚いたあと、アンクに釣られて笑い出した。
「そうね。ハンカチ作戦はやめておきましょう。揉め事が起きて失くされても困るし。ね?」
同意を求めるようにタニヤから微笑まれ、ジギルは素早く反応する。
「ね、ってなんだよ。俺は最初から何も言ってねえだろ」
一頻り笑ったあと、アンクは呼吸を整えた。
「それにしても、ユリナはどういう人が好みなんだろうな。色男がキザな台詞で口説いても、筋肉自慢が腕っぷしを見せてもまったく響かないみたいだし。もう心に決めてる人がいるのかなあ」
「そうなら正直に言いそうだけどね。私が少し聞いたとき、よく分からないって言ってたわ」
「分からないって?」
「誰かを特別に好きになる感情ってことだと思う」
「そうなんだ……意外だな」
「変人なんだろ」
ジギルが言い捨てると、二人が同時に目線を向けた。
「お前が言うなよ」
「なんでだよ。俺も変人だとしても言う権利はあるだろ」
「ない! お前は命を救ってもらったんだぞ。黙って感謝しろ」
「それとこれは別だろうが」
明るい夫婦の雰囲気の中、ジギルは不穏な夢のことはいったん忘れることができた。夢なんてただの記憶の整理だとどこかで聞いた。意味などないと、ジギルは考えないことにした。
「変人と言えば、ユリナはともかく、兄貴は相当だよな」アンクは少し声を落としながら。「見た目はいいし能力も高いのに、あの取っつきにくさで女性受けが悪いんだよな」
「ちょっと怖いけど、いい人よ」
「そうなんだけど……」
悪く言いたくないかのように、アンクは口籠ってしまう。人のことはボロクソに言うくせにと、ジギルはふんと鼻を鳴らす。
「あれは兄貴じゃないぞ」
「え?」
「弟だ。あいつはしょうもない嘘吐きだよ」
「そうなのか? どうしてそんな嘘を?」
「知らねえよ。そういう癖なんだと」
「へえ……それ、ユリナに聞いたのか?」
「…………」
ジギルはしまった、と口を閉ざした。大した話じゃないつもりだったが、どうも失敗したようだ。
「なんで答えないんだよ」アンクはジギルに詰め寄った。「それを聞くためにユリナに話しかけたのか?」
「違う。話のついでに聞いただけだ」
「なんの話だよ」アンクは更に追い打ちをかける。「二人が姉弟だってお前が知ったのはこないだだよな。それから今日まで、お前は俺とほとんど一緒に行動してたよな。いつ話したんだよ」
「夜……外に出たときに、偶然会ったんだよ」
「へえ、そうか。じゃあなんで今まで黙ってた?」
「……いちいち報告する義務なんかないだろ」
「そうだな。ない。でも俺には、隠していたように見える」
あからさまに目を反らすジギルを、アンクは睨むように見つめた。タニヤも興味はあったが、気まずい空気が苦手でアンクを止めた。
「もういいじゃない。話す機会がなかったのよ。ねえ? ボロ」
アンクは拗ねたような表情で緊張を解き、ため息を漏らした。
「いいんだけどさ……お前、なんか怪しいんだよな。先に言っとくけど、疑ってるわけでも怒ってるわけでもない。お前の過去を探るつもりもない。でも、ここであったことは何でも、気楽に話して欲しいんだ。いいことは一緒に喜んで、悪いことなら励まし合う。どんな小さなことだって、気持ちを共有すれば思い出になるんだ。それが友達だろ?」
友達、という言葉がジギルに圧し掛かった。二人と仲良くなっておこうと決めたのは自分だ。それなのに、どうしても壁を作ってしまう。しかしユリナと密談を交わしていることは話せない。それは自分が「ジギル」であることを明かすのと同義だからだ。
どれだけ怪しまれようと、愛想を尽かされようと、言えない。二人と「友達」でいるために。
「アンク、ボロが困ってるわ」タニヤが優しく微笑んだ。「誰にでも秘密はあるでしょ。話したくなったときに、聞かせてもらえばいいじゃない」
だけど、どこか寂しそうだった。
ジギルの態度に納得はいかないアンクだったが、孤立しやすい彼の話し相手でありたいと思う気持ちは変わらない。
「また明日な」
玄関まで出てジギルを笑顔で見送った。タニヤも杖をついて隣で手を振っている。黙って背を向けるジギルに追い打ちをかけた。
「返事は?」
「分かった」
この返事が口癖になりそうだと思いながら、ジギルは歩を進めた。
周りの建物からちらほら灯りが漏れている。もう就寝している人も多く、穏やかな時間が流れていた。自然と洛陽線の村を思い出していた。エミーが来るより前の雰囲気に似ている。
懐かしい。貧しくも平和で、ただ民族が浄化されるのを待つだけだったあの頃の、ゆっくりとした時間が――。
物思いに耽るジギルの頭上で、獣の咆哮が轟いた。
ジギルは脳天を殴られたように目を見開く。足元に大きな黒い影が落ち、反射的に空を仰いだ。
そこには、真っ黒で巨大な獣が宙に浮いていた。浮いているのではない。太い手足で地を蹴り、集落を飛び越えそうなほどの勢いで跳ね上がっていたのだった。
四足歩行の獣は地面を揺らし、周囲の建物を破壊しながら集落の真ん中に着地した。ジギルは獣の起こした爆風に飛ばされて地面を転がった。すぐに体を起こすと、凄まじい殺気を纏った狼の化け物が唸り声を漏らしていた。真っ赤な眼には炎が宿っているかのようで、動くたびに残像を残しては消えていく。
化け物は首を振り上げながら涎をまき散らす。一瞬で集落中が獣臭に包まれた。
寝ていた者も飛び起き、悲鳴を上げながら逃げまどっている。
ジギルは怯えるでも逃げるでもなく、来た道を戻り走り出した。
まだユリナとカロンの姿はない。もしかしたらもう近くにいるかもしれない。ただの人間が何をする時間もなく、二人が退治してくれるかもしれない。
それでもジギルは、アンクとタニヤの無事を確認するまでは走らずにはいられなかった。
タニヤは足が悪い。アンクが傍にいるとはいえ、こんなに近くに俊敏な獣がいたら彼女を連れて逃げるのは困難だ。
不安は的中した。二人は自宅前で地面に伏せていた。化け物は逃げ遅れた人間を見つけ、地面を強く踏みながら獲物に方向転換する。
アンクはタニヤを抱え上げようとしたが間に合わない。恐怖で震える手足を必死で動かして、アンクはタニヤの上に覆い被さった。
化け物は容赦なく夫婦に向かって前足を振り上げた。
何の計算もなかった。魔法も武器も使えない。その辺の野良猫にさえ負けてしまうような弱い少年にできることはなかった。
だけど――死体は二つより、一つのほうがいい。
もう明日がこないのは、自分だけでいい。
ジギルはそんなことを思いながら、化け物の大きな爪と夫婦の間に駆け込んだ。
『その行動が、どれだけ愚かで滑稽で、何の役にも立たなかったとしても? 何の算段もないのに飛び出すなんて、愚者のすることです。自分の感情どころか行動も制御できない幼子と同様ではありませんか?』
(ああ……畜生。バカにしたけりゃすればいい)
ジギルはあの、冷酷な青い目を思い出した。
(分かってるよ……分かってても、そうするしかないだろ)
鈍く濡れた、肉を切り裂く音がした。
大人の人間よりも大きく発達した筋肉と、その先に生えた硬く鋭い爪は、弧を描くだけですべてを破壊する。建物も岩も、当然、人間の体も。
ジギルが膝を付くと同時、腹の中のものも地面に落ちた。それは外に出ていいものではない。倒れこみながら、流れ落ちた臓物を両手で抱え込もうとする。力が出ない。何も聞こえない。まだ痛みはない。息ができない。ただ、手に当たる生温くて滑らかな感触が、もう自分が生きた人間の姿とはかけ離れているだろうことだけは理解できた。
(クソ……だから……人との縁なんていらねえんだよ)
なんて呆気ない最期だろう。ここまで生き残って、結局これか。だったらもっと早くに、死んでいればよかったのに。
目の前の化け物は、知能はないが苦しんでいることが分かった。あの反応は魔薬が馴染まず、制御できていないのだと思う。質の悪い薬だ。そんなものを飲まされて暴れているだけの獣に殺されるなんて、自分には相応しい死に方かもしれない。
ジギルは逆流してくる血を吐きながら、現実を受け入れた。
血だまりに頭が付くより早くジギルの意識は途切れ、世界は暗転した。
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