SeparateMoon



20






 疲れているはずなのに、なぜか寝付けなかったジギルは、そっと部屋を出て森に入り込んだ。
 なんとなく歩いているとあの切り株のある場所に辿り着いた。以前はもっと時間がかかったような気がしたが、体調が優れなかったことやあちこち迷い歩いて遠回りをしたのだろうと思う。
 満月に近い月に薄雲がかかっている。髪を揺らす程度の風が雲を流していく。暗い空は月の光と混ざって藍色に染まっていた。
 切り株に腰を下ろして遠くを眺めていると、背後から人の気配が近付いてきた。
「またここにいたんだ」
 ユリナだった。振り向きもしないジギルの隣に腰掛ける。切り株は大きいが、距離が近い。ジギルは素早く体を捩り、触れない程度に離れた。
「……来るんじゃないかと思った」
「見回りしてるからね。森の中に悪者がいたら大変だもん」無邪気なユリナは急にあっと声を上げた。「もしかして、私に会いたくてここに来てたの?」
「そんなわけないだろ」
「じゃあカロンに見つかればよかった? あいつに見つかったらぶん殴られて引き摺って連れ戻されるよ?」
「なんでだよ。異常者か、お前の兄貴は!」
 相変わらず調子が狂う。ジギルはペースに飲まれ、とうとう彼女と目を合わせた。
 ジギルの口を突いて出た言葉に、ユリナは首を傾げる。
「兄貴?」
「え? いや……そうなんだろ?」
「違うよ」
「え?」
「あいつまたいい加減なこと言ってるんだ」ユリナは眉尻を下げて。「カロンは弟だよ」
「はあ?」どうでもいい情報にジギルは肩を落とす。「なんでそんな嘘を……」
「さあ。バカだからじゃない? でも大事なことは嘘つかないから大丈夫。それに私を守ってくれてるのも本当。ちょっと過剰じゃないって思うときはあるけどね」
 ユリナはそう言うが、よく分からないところで怒鳴りつけられたり暴言を吐かれる方は堪ったものではない。今後も警戒心は必要だと思う。
 アンクの言うとおりだ。ユリナとカロンは互いの奇行を受け容れ合える、慣れ親しんだ家族だ。今となっては二人が恋人には到底見えない。
「もしかして、私とカロンが恋人だと思ってた?」
「最初はな」
「安心した?」
「そうだな。カロンがただのバカだと分かって多少は気が楽になったよ」
「そうじゃないよ。私たちが姉弟だって分かったら、男の人はみんな喜ぶんだよ。で、次に聞かれるのは『恋人はいますか?』なの。そればっかり。ボロも知りたい?」
「別に知りたくねえし」ユリナから顔を反らし。「そういうこと自分で言うか」
「だってもう飽きるくらい聞かれたんだもん。みんな寂しいんだね」
「まあ、どうせいないって答えてるんだろ。じゃなきゃあんなにハエが集るわけがない」
「……やな言い方するね。また何か悩んでるんじゃないかって心配したのに。全然元気そうだ」
 ジギルは言い過ぎたと汗を流した。つい悪態をついてしまう、悪い癖だ。直せるものなら直したいと思う。
「……今のは取り消す。悪かった」
 本音で言っているのかどうか自分でも分からないが、とりあえず口に出してみる。そうしているうちに、きっと言葉を選べるようになると信じることにした。
 これは言うつもりはないが、もしかしたらここにユリナが来るんじゃないかと、僅かに期待していたことを心の中で認める。来たら話したいことがあった。そんなときに自分から声をかけられるようになれば一つ成長できる気がする。だが、今はまだ無理だった。
「……アンクの家に行ったんだ」
 気まずさを残しながら話題を変えるジギルだったが、ユリナは嬉しそうに目を細めた。
「そうなんだ。あの夫婦は優しいし楽しいから、君でも仲良くなれるよ」
「あー……」
 ジギルは深く息を吐きながら、また遠くに目線を投げた。
「……俺が、ずっと見ないようにしていたものを、目の当たりにした」
 不思議と、怒りや悲しみのような強い感情はなかった。
「知らないところで潰されていった、他人の命や人生……でも、なんでだろう、思っていたような罪悪感が、なかった」
 目の当たりにしたのは、自分の醜い心や、残酷さだった。
「気の毒だというのは本音だ。でも……革命軍にも戦う理由があったし、みんな、命を懸けてた。同胞に未来を預けて、何かが変わると信じて死んでいった。そいつらが間違っていたなんて、ただの悪党だったなんて、思いたくないんだ」
 これは正義なのか悪なのか、それとも欺瞞なのか、判断できなかった。
「だったら、俺は何なんだろう。俺は命を懸けてたのか? 同胞を信じていたのか?」ゆっくり、深く瞬きする。「自分で考えて、決めてきたと思っていた。でも違った。ただ、周りに言われたことをやって、聞かれたことに答えて、流れに身を任せていただけだった」
 最低だ、とジギルは自らを卑下した。
「俺は、普通になれるんだろうか。ここに馴染むことができるんだろうか……いくら『ボロ』を装っても、普通の人の気持ちが理解できないのかもしれない」
 はあ、とジギルは大きなため息を吐いた。
 隣からユリナの視線を感じるが、彼女の目を見ることができなかった。ユリナはそのジギルの悪い癖を見抜いていた。
「人と話をするときは目をちゃんと見ようよ」
 ジギルは痛いところを突かれ、気まずそうに、逆に顔を背けた。
「話してない。独り言だ」
「御託はいいから。こっち見ろ」
 ユリナの口調は軽い、怒ってるわけでも強制しているわけでもないことは分かる。このまま無視もできるが、なんとなく今後に悪影響を与えそうな気がして、ゆっくりと彼女に向き合った。
「嬉しいな」ユリナは悪気なく微笑む。「なんだか狂暴な野良猫と少しずつ仲良くなれてるみたい」
 なんだその例えはと、ジギルは不貞腐れた。
「私ね、その人の顔を見てると、言ってることが嘘か本当か分かるの」
「……なんだそれ。それも魔法なのか?」
「私の特技みたいなもの。心を読めるわけじゃないんだけど、人って、自分でも本心なのかどうか分からなくなるときがあるでしょ? 私にはそれも見抜けてしまうんだ」
「何の役に立つんだ、その力は」
「えー、そんなこと言う人、初めて」ユリナはジギルの冷めた反応に目を丸くした。「悩みがある人はみんな私に相談したがるのに」
「何とでも言えるだろ」
「もう、ほんとに可愛げがないね。まあでも、それも君だからしょうがないか」
「そうだな。生意気だの問題児だの、昔から散々言われてるし自覚してるよ。でもどうせ、お前は外見重視なんだろ。中身なんてどうでもいいんじゃないのか」
「ん? なにそれ」
「ユリナは面食いだって、カロンが……」
 言いかけて、ジギルは何かに気付いて言葉を飲んだ。カロンの名が出た瞬間、ユリナは眉を顰める。
「カロンの虚言を真に受けて誹謗中傷? 酷いなあ」
「あ、あいつに虚言壁があるなんて、今知ったんだから仕方ないだろ。文句はカロンに言えよ」
「ま、別にそう思われてもいいけどね。外見のいい人も性格のいい人もたくさん見てきたけど、特別に感じたことなかったし。みんな同じだよ。痛いのも苦しいのも嫌いで、幸せになりたいと思ってる。ただ、価値観が違うからどうしても争うし、死が救済になる人もいる」
「つまり、俺も普通の人間の一人ってことか」
「うーん……一つ聞きたい。君が仲間の尊厳を守りたいのは分かった。私はその仲間をたくさん殺したよ。敵だったんだよ。恨みはないの?」
「お前は傭兵みたいなもんだろ。何をどう恨めっていうんだ。俺が解放したかったのは魔法使いからの呪縛だ。エミーの目的は違ったみたいだけどな。でも、これはおそらく同じ考えだった――仲間が死んだことはいい。重要なのは、何のために死んだのかだ」
 ユリナはジギルを見つめたまま、数回瞬きする。ジギルは知らぬ間に彼女の不思議な目力に釘付けにされていた。それに気づいても、頭を掴まれているかのように動かせなかった。
 ほんの数秒、時間が止まっていた気がした。ユリナがふっと肩の力を抜くと同時に、緩い風が膠着していた空気を揺らした。
「君は、ちょっと違うかも」
「……違う?」
「やっぱり、普通じゃないのかも」
 その言葉は細く鋭く、ジギルの胸を刺した。鈍い針は肉体の毛細血管や神経を避けてくれるが、逆は何もかもを滑らかに通過し、深いところまで傷つけていく。そして、大量の出血を伴う。
「だから君は生かされたのかな」ユリナは背を伸ばし、空を仰いだ。「普通の人とはあんまり話合わないでしょ?」
「そんなことは、な……」
「はい、嘘」俯くジギルに、ユリナは透かさず彼を指さした。「見えてる世界が違うんだよ。そもそも君は普通になりたいなんて望んでないよね」
「え……?」
「私ができるのは身体の苦痛を取り除くことだけ。あとは、自分で決めてもらうしかないの」
「俺が望んでいないって、どういうことだ」
「アンクたちみたいな普通の一般市民にはなりたくないし、なれない。だけど無理してでもなるしかない。それが君の本当の気持ち。で、ここからは私の意見。確かにね、ここにいる限り『ジギル』として生きていくには地位の確立が必要だし危険もある。だから君が普通になりたがってる理由も分かる。普通にはなれなくても馴染むことはできるよ。時間がかかるけどね。もしくは、他の生き方があるかもしれない。全部、君次第。どの道が楽か、大変か、成功するか失敗するか、それは分からない。だから自分で決めるの。今すぐじゃなくてもいいから」
 ユリナはまたジギルに目を向け、顔を寄せ、その距離に合わせて声を潜めた。
「君は言ったよね。自分で何も決めてこなかったって……だったら、今から決めればいい。もう誰も君に命令もしないし、拘束もしない。ここに『ジギル』を知る人はいないの。自分で考えて、決めるんだよ。そのために生きているんじゃないの?」
 ジギルは眩暈を起こしそうになり、僅かに体勢を崩した。顔を伏せて両手で頭を抱える。
 何もかもを投げ出して普通の人間になって、退屈な生活を送る。いつ死んでも構わないから。それが自分の残された時間の過ごし方だと思っていた。関わる人が次々に不幸になっていくなら、もう何もせずに静かに、毒にも薬にもならないよう、身を潜めて生きていくのが相応だと信じていた。だけどそうじゃなかった。
(ああ、そうだった)
 ジギルの足元に影が落ちた。一度は晴れた夜空に、再び雲が流れてきて月を覆ったのだ。
(本当は……レオンと、新しい世界を作りたかったんだ)
 イジューが示した魔薬への希望を、ベリルたちが望んだ自由な未来を叶えたかった。
 逃げておいて、二度と口にしてはいけない夢だった。アシュリーと共に終わるはずだった。だけどまだ生きている。だから仕方なく、「ジギル」を捨てるつもりだった。
 ユリナは、馴染めば普通の生活ができると言った。本当は捨てたくないという自分の本音を受け入れてから、それでも捨てることができれば「普通の人間」になれるということなのだろう。そして、それ以外の他にも道はある。
 考えて、決断する。それが今の自分にできること――。
 ジギルが顔を上げると、雲は散り、また月明かりが地面を照らしていた。
「……本当だったんだな、その特技」
 囁くような声だったが、雑音のない静かな夜の中ではよく通る。
「でしょ? また悩みが増えたかもしれないけど、一歩前進した、ってよく言われるんだよ」
「そうだな」
「ねえ、ボロの故郷はどこ?」
「洛陽線だ」
「そこで生まれたの?」
「いいや」
「じゃあ、その前は? どこで生まれたの?」
 ジギルはほんやりする頭で考える。その答えの前に、疑問を抱いた。
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「なんか不思議だなって思って。洛陽線でどうして君みたいな人が育つのか」
「どういう意味だ」
「なんて言うか……突然変異とか、先祖返りとか、そういうイメージ」
 ユリナの「違和感」は正しいとジギルは思う。ジギルはリヴィオラの自然治癒の力で生まれてきた「不自然」な存在だからだ。親のことなんて覚えていないし、興味もない。洛陽線に辿り着く前のことなど、この世界には何の意味もない。どこにもその「記録」は残っていないのだろう。
「鳥が運んできたか、木の根からでも生まれたのかもな」
 冗談のつもりだった。しかしユリナは笑わなかった。
「本当に、どこから来たのか分からないんだね」
 ユリナは心底から不思議そうに自分を見つめる。彼女には隠す必要もないが、話す必要もないとジギルは思う。
 黙り込むジギルの心情を察して、ユリナはそれ以上は聞かなかった。
「……また話したいことがあったらいつでも声かけてね」ユリナは腰を上げ、背伸びをする。「私はそろそろ見回りに戻らないと。ボロはどうする?」
「俺はもう少しここにいる」
「そっか。ごゆっくり、と言いたいところだけど、カロンに見つからないうちに帰ってね」
「……ああ」
 未だに、なぜ散歩してるだけで殴られなければいけないのか納得できないが、考えるだけ無駄だと思う。
 今は何もない場所で風に当たっていたかった。
 遠ざかっていくユリナの足音が、森に入ったあたりでふっと消えた。違和感を抱いたジギルが振り返ると、彼女の姿が消えていた。おそらく魔法で移動したのだろう。
 一人になりたかったはずなのに、月の光を纏った緩い風が少しだけ冷たく感じた。







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