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 その日、天上界では盛大な祭りが行われていた。
 一年の一度の灌仏会(かんぶつえ)――釈迦の誕生日である。
 花という花に埋め尽くされた宮殿の広間には、花で装飾された大きな白い像が行列をなし、参道をゆっくりと歩いている。像の中でも一番大きなそれの背中には白い台座が設置されており、中には優しく微笑んだ釈迦が厳かに座していた。彼は周囲の豪華な雰囲気とは裏腹に、白い布だけを身に纏った質素な姿だったが、そこにいるだけで神々しい光を放っている。
 上空には羽衣を纏い宙を舞う若い天女たちが花を撒いている。立ち並ぶ高い柱の上には女神が琴や琵琶を興じ、祝いの歌を奏でていた。
 広間と参道には入りきれないほどの神仏たちが寄り集まり、花々を手に心からの祝福を送っていた。この日は別名「はなまつり」と言われており、名のとおり、見渡す限り花・花・花で埋め尽くされている。
 白い像の行列の後ろには、着飾った子供たちが着いてきていた。誰もが無邪気に手を繋ぎ、歌い踊っている。
 そんな子供たちの頭上を、緩い風を起こして通過していく者がいた。少女は大きな狐の背に立ち、長い黒髪を靡かせて空を切っていった。狐は釣り上がった目の周囲を赤い化粧で囲い、足元には薄い雲がまとわりついていた。彼女が通ると、皆足を止めて注目した。
 彼女の名は椅言(いこと)、荼枳尼天(だきにてん)の眷属であり、年のころ五つになる少女だった。
 椅言は五年前のこの日に命を授かった、特別な少女だったのだ。
 彼女は幼いながらも美しく、黒い瞳や細い指先にはすでに大人のような艶やかさがあった。釈迦と同じ日に生まれた椅言は家族を始め一族から大事にされ、将来は荼枳尼天を継承する器の持ち主と信じられていた。一流の教育を受けている少女本人も自信を持っており、周囲からの羨望の眼差しを当然のように受け入れている。
 人より多く持つ者は恨まれる。それは世の常であり、恵まれて生まれた少女も例外ではなかった。椅言をよく思わない者も存在したのだ。
 椅言は周囲からの嫌がらせに対し、ただの嫉妬だと自分に言い聞かせて、気にしていなかった。こういった彼女の目立つ行動には必ず疎ましい視線が投げられる。
 今まではそれも流していられた――しかし、今日は違った。
 眉間に皺を寄せて椅言を睨む二人の官女が、囁き合った。
 その囁きは澄んだ風とともに、椅言の耳に届いた。
「……なんて生意気なお姫様なのかしら」
「まったく、あのふてぶてしい態度。ほんと将来有望ね」
「まあ、でも……」女は目を細め、不適に笑った。「椅言様が大きな顔をできるのも今日で終わりよ」
 女官の一人が期待を込めて「どういうこと?」と目を輝かせる。
「今日の『はなまつり』の日、今まさに、この世界に生を受けようとしている魂があるらしいのよ」
 椅言は聞こえてきた言葉の意味を理解し、すっと表情を消した。
「あ、そういえば、聞いたことがあるわ。確か、ご懐妊されていたのよね」
「そうそう。今日がご出産の予定らしいのよ。と言っても授かりものだからね、変に騒いで予定がずれたら大恥ものでしょう。だからまだ公にはされてないらしいの」
「それで、どうなったの?」
 問われた官女は背を向けて遠ざかっていく椅言の背を、冷たい目線で見送った。
「……今日の朝方、産気づかれたとのことよ」
「本当? それじゃあ、今頃……」
「ええ。そろそろ、産声が上がる頃ね」

 釈迦の行く先には真っ白な神殿がある。繊細な柄が掘り込まれた柱と緩い弧を描いた屋根の向うは、まるで断崖絶壁のような壁がそそり立っている。
 それに近づくにつれ、今までの明るい空気ががらりと変わる。神殿に近い参道の左右には、彼に忠誠を誓う武神将が完全武装の姿で立ち並んでいるからだ。花と舞い踊る和やかな天女たちとは一線を画したように、全員が堂々たる威風で地に足をつけている。鋭い目線は正面より少し下を向いており、釈迦が目の前を通っても、彼らは会釈すらしない。この攻撃的な眼光は彼らの闘争心を象徴するものであり、決して釈迦に向けるべきものではないからだ。
 武神将の列の上部には地獄から招待された依毘士と鎖真の姿もあった。玲紗や珠烙も、今日ばかりはいつもの個性を消し、天上界を守る「盾」の一つとして溶け込んでいる。
 彼らは心から釈迦の生誕を喜び、祝い、この幸福を守るために命を懸ける。武神たちの存在意義と持つ力を釈迦の前に並べることで、あらゆる悪鬼や醜いもののすべてを退けることを証明しているのだった。釈迦はそれらに感謝し、約束されたこの世界の安泰と繁栄を祈り続ける。
 重苦しくも気高いその道を通り、釈迦は神殿の中央にある、この日のために用意された巨大で鮮やかな蓮の台座に向かう。彼が静かに禅と印相を組むと神殿に淡い光が灯り、釈迦の背後の絶壁が照らされた。すると釈迦を中心に蓮の台座に立つ菩薩や如来が浮かび上がる。実体化した曼荼羅が、極楽浄土を包み込むような温かい光を放った。
 その錚々たる面子の中には若い閻魔大王の音耶もいる。小心者の彼だが、この祭りへの参加は地獄の王の義務に等しく、何度も経験しているうちに萎縮する様子はなくなった。無心の表情を浮かべ、武神の鎧にも劣らないほどの派手な正装も、周囲から浮くことなく様になっていた。
 誰もがその美しい光景に息を飲み、心癒された。

 釈迦の有難い祝辞のあと、要人たちの祝いの言葉がゆっくりと、順番に届けられた。
 椅言は気持ちを入れ替え、狐から降りて列に並んでいた。釈迦と同じ日に生まれた彼女は毎年彼から優しい微笑みをいただく。その瞬間だけは、素直な子供の表情を浮かべる。
 しかし、椅言の順番が回ってくる直前、そっと釈迦に従者が寄り、目を伏せて耳打ちをした。
 椅言は途端に嫌な予感を抱く。
 その予感は当たった。
 椅言の不安など知る由もなく、釈迦は満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。
 彼の口から、つい先ほど、新しい命が誕生したことを告げられた。
 わっと広間が沸いた。一度は収まった花吹雪がまた舞い散り、周囲を花びらで染めた。なんと目出度い。皆が浮足立った。

 そんな輝かしい時間の中、椅言だけが目を見開き、唇を噛んでいた。
 いや、椅言だけではない。椅言を誇りに思っていた身内もまた動揺を隠せずにいた。
 椅言の持つ「釈迦と同じ日に生まれた」という肩書きは、自分だけのものではなくなったからだ。
 面白くない……だが、この場でその感情を出すわけにはいかない。まだ幼い椅言は堪らず、列を抜けてその場を立ち去った。


 この日に生を受け、釈迦と共に祝福されたのは、鬼子母神の血族の子だった。
 性は女。彼女は「樹燐」と名付けられた。
 赤子は健康で美しく、きっと強い運を持つ誇らしい女神になると期待された。いずれ鬼子母神を継承するに相応しい女神になってもらうため、大事に大事に育てられることになる。

 目出度いことで埋め尽くされた「はなまつり」は無事に終わり、広間は祭りの後、しんと静まり返っていた。
 夜の帳が下り、空が紺色に染まった頃――もう一つの産声が上がった。
「はなまつり」の夜、彼はこの世に生を受けた。
 この日に出産予定だった命が、鬼子母神一族以外にもあったことを知る者はいたのだが、先に生まれた女児の話題に隠れ、もう一つの生誕は静かな時間に訪れることになった。
 その命を待ち望んでいたのは、夜叉(やしゃ)の一族だった。
 生まれたばかりの赤子はまず性別を確認される。産婦から男の子だと告げられると、家族は手を取り合って喜んだ。赤子の頭の左右に、確かに二つの突起があることを確認するとさらに喜びが増し、感激で涙を落とす者もいた。柔らかかったそれは赤子が泣き止み、眠りについたころには硬化し、尖った形を作り「角」になっていた。鬼神の男にとって角は力の源であり、誇りである。今はまだ親指程度だが、両親には分かっていた。彼の角は将来、太く硬く、鋭く、色も形も立派なものになると。
 夜叉の血族として天上界に生まれ、「才戯」と名付けられた彼は、釈迦と同じ日に生まれた男児として、一族の未来を背負う鬼神となるのだと信じて疑う者はいなかった。

 そうして二人の羅刹(鬼神)の子が、同じ日に生まれた。
 誰もが特別な生誕だと感じていたが、このことが偶然だったのか、運命だったのか、いつになっても正しい答えが出ることはなかった。



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