02




 二人の羅刹の子が生まれた日から十年の月日が経った。

 天女たちの住む宮殿のさらに奥、空に高々と伸びる広大な竹林は、まるで一見を拒絶する鉄柵のようだった。艶やかな竹の表面は自然の光を帯び、緑が滲んで見える。それらは吸い込まれそうなほど穏やかで神秘的だった。
 そこを訪れた者は言う。まるで経験豊富で目の肥えた老女の優しい笑顔に見張られているようだと。慣れない者はつい息をひそめ、足音を忍ばせる。鬼の門番に睨まれるでもないのに、心の中まで見透かされてしまいそうな静寂に緊張せずにはいられないのだった。
 そこは羅刹の女たちが住む城「灯華仙(とうかせん)」へ続く道。
 竹林を抜けると、浮かび上がるように巨大な白い建造物が視界を埋める。
 城の中は女性の姿ばかりが目立ち、どこからともなく甘い香が漂っていた。「匂い」とは、一度沁み付くとその人の記憶の深いところに爪痕を残す。忘れたはずの人も、同じ匂いを嗅ぐと思い出が甦り、胸が苦しくなる。
 匂いが持つ酸いも甘いも知る女神が調合した名もなき香は、灯華仙の名物でもあった。香に心掻き乱された客人が、道を踏み外したという話はすぐに広まっていく。男性はできるだけ近づかないようにし、羅刹の女を警戒する女性も、男性に気をつけるよう強く言い聞かせていた。



「実珂(みか)」
 少女はひまわりのような笑顔で、縁側にいた従者を呼んだ。
「ほら、見て」
 実珂は少女の手にあった白い和紙を受け取った。そこには少女が筆で描いた実珂の似顔絵があった。
「まあ、これ、私ですか?」
「そうよ。うまく描けたでしょう」
「ええ。樹燐様は上達がお早いですね」
 少女、樹燐は褒められて嬉しそうに目を細めた。



 あの日生まれた樹燐は、灯華仙から一度も外へ出たことがなかった。
 灯華仙の一番奥の家屋で、従者である実珂と、姉妹のように仲良く毎日を過ごしている。彼女の両親も傍におり、毎日朝と夜には挨拶をし、食事も共にすることも多く、時間があればよく様子を見に来てくれていた。
 樹燐の母・蒼雫(あおだ)は娘に一流の女神になって欲しいと、切に願っていた。外見だけではなく、内側から輝く女性になってもらうために、娘に様々な教育を施した。学問から舞踊に唄、詩、着付け、絵画、琴や笛……そして身を護るための武術を少々。
 強要するのではなく、普段は決められた空間で自由に好きなことをさせている。多様な才能を伸ばすためとはいえ、娘の自我を閉じ込めることがないよう、傍に年齢の近い実珂を置き、思ったことは素直に、正直に口に出せる環境も用意していた。
 樹燐の側近である実珂は友人であり、世話役でもあった。常に樹燐の様子を監視し、変わったことがあれば蒼雫に報告する。もし彼女に不満や悩みができた場合は、なんでも言って欲しいと伝えていた。それが母にも言えない秘密ならば、必ず守ると誓い、樹燐の心の拠り所となる努力をした。
 母に叱られ泣いた日も、実珂は味方でいてくれた。樹燐も実珂が怒られたときは彼女を庇った。樹燐は実珂を本当の家族のように慕い、信頼し、寂しい思いをすることなく、健やかに成長していった。



 樹燐の部屋は灯華仙の奥に当たる場所にあった。樹燐が自由にできる空間は三十畳ほどの広さの部屋と、襖で仕切った先にある二十畳ほどの寝室だった。南向きの長い縁側を隔た先は造園となっており、茂った木々で鳥がさえずり、石で組まれた池には赤や白の魚が静かに尾を揺らしている。さらにその先は広大な草原が広がり、果ては竹林で囲まれている。樹燐は箱庭の外には出ていけないと言われて、それを守っている。
 縁側で穏やかな風景を眺めながら、二人は茶菓子に興じていた。
「ねえ、実珂。私はいつ外に出られるのかしら」
 樹燐は最近、そう口に出すことが増えた。
「外に出たいのですか?」
「……分からない」
 いつもそう答えるのに、樹燐は終わりのない空を眺めるたび、その先はどこへ繋がっているのか、考えてしまうのだった。



 樹燐は文字通りの「箱入り娘」だった。
 母が彼女を灯華仙から出すことを一切禁止しているからだった。
 樹燐には蒼雫や親族一同から、絶大な期待が寄せられていた。釈迦と同じ日に生まれた特別な赤子に皆、正式に鬼子母神の座を継承するに値する女神になって欲しいと願っていた。
 そのために、蒼雫は娘を外の危険なもの、汚いものに触れさせたくなかった――少なくとも、弱く、敏感で、自分の言動に責任を取れない子供の間は。
 年に一度の、特別な祝日である灌仏会には、まだ祭りの始まる前の薄暗い早朝に、釈迦に挨拶に向かうという徹底ぶりだった。
 他人ばかりの外の世界は優しくないもののほうが多い。男性からの誘惑や暴力、女性からの虐めや嫉妬。どこに何があるか分からない外は人の心を汚す、悪意ある病原菌だらけである。そのことをよく知る蒼雫は、樹燐を「普通」の女に育てる気はなかった。どれだけ高貴な教育をしても、そこらにいる欲深い女性と変わらない。だから「穢れなき女神」の育成を目指し、箱に入れて大事に守っていたのだった。
 灯華仙には近い血族の男性も存在していた。樹燐が今までに接したことのある男性は父親くらいだった。他は親族の数人だけで、しかも顔を合わせた程度だった。
 樹燐にはまだ男性に興味を持って欲しくなかったからだった。恋愛と結婚、妻となること、母となることは鬼子母神の眷属として大事なこと。故に必要な知識を正しく教えてきているが、蒼雫には「伴侶とは、魂が導きあうもの」なのだという信念があった。
 だから娘には、欲は出さずに懸命に自分を磨くように言い続けた。自分自身が輝いていれば同等の男性と巡り合えるのだと、何度も教えた。
「恵まれた環境で賢くあれば、傷つく必要はありません」蒼雫は樹燐を包み込むような瞳で見つめた。「大人になれば嫌でも苦労を強いられます。だけど幼いうちは私たち大人があなたを守ってあげられる。今は自分にできることに、ひたむきに取り組みなさい」
 蒼雫は樹燐を安心させるために、いろんな話を聞かせた。時には祖母や父と口論になることもあった。社交性を身に着けるために、信頼できる者とだけでも付き合いを持ったほうがいいのでないかという意見は、正当だと誰もが思った。しかし蒼雫は強く反論した。
「社交性など不要。魅力的な女性になればおのずと周囲から尽くしてくるようになるものですから」
 こんな蒼雫の強烈な気高さは、彼女の母も、夫さえも呆れるほどのものだった。
「子供の無邪気さを利用し、陥れようとする者もいます。ほんの少しの失敗を笑い、大人になっても根に持たれ、恥をかかされることもあるのです。この世の醜いものと戦い退けてきた私の経験を、今こそ役立てなくてはなりません。すべては樹燐を守るためなのです!」

 樹燐は母からの愛情を疑うことなく素直に受け入れ、利口に育っていた。



 樹燐は実珂と二人だけの時間のときは気を抜ける。正座を解き、縁側の淵に足を垂らした。
「十(とお)になったとき、ここ以外の人と会わせてもらえるかもって、思ってたから」
 実珂も、「そうかもしれませんね」と答えたことがあった。嘘をついたようで申し訳なく思う。
「蒼雫様は、機を伺っていらっしゃるのでしょう。ご心配なさらないで。きっと樹燐様にとって最善の未来をご用意されていますから」
 この台詞も何度か言ってきた。樹燐もまた、うんと頷いて、この話は終わりにした。



・・・  ・・・  ・・・  ・・・




Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.