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「那智?」
 血相を変えて走ってくる見慣れた那智の姿を見て、才戯もケンカのことを忘れてしまった。
 那智は倒れ込むようにして才戯のとなりに正座をし、二人の武神に頭を下げた。
「も、申し訳ありません。才戯様が、何かご無礼を……」
 理由も聞かずに才戯を悪いと決めつける那智に、才戯はむっとする。
「なんだよお前、いつからいたんだよ」
「今来たばかりです。才戯様を探していたんです」
「なんで探すんだよ」
「心配だからに決まってるでしょう!」
 つい怒鳴ってしまった那智はしまったと口を閉じ、俯いた。才戯も気まずそうに口を尖らせる。
 二人の妙な雰囲気に構わず、暁津はにこりと微笑む。
「君たち、兄弟? 似てないけど」
「えっ、いえ……」
 那智が慌てて「恐れ多い」と否定しようと顔を上げる。それより先に、才戯が答えた。
「うん、まあ、そんなもん」
「え……」
 那智はその呟きに、目を見開いた。
「血は繋がってないけどな」
 才戯に他意はなく、素直に答えただけなのだと思う。
 しかし、想像もしたことがなかった言葉に、那智の胸が熱くなっていた。嬉しくて、涙がこみ上げてくる。
 彼は、自分のことを兄弟だと思っていてくれていた。才戯はあれこれ命令することもなかった。多少乱暴にしてもケンカしても、許しあえると思っていたからで、距離を置かず、対等に扱ってくれていた証拠だったのだ。
 今すぐにでも仲直りしたい。今までどおりでいたい。しかし武神の二人がいる前でそんな子供っぽいことはできない。今は我慢し、那智は下を向いたまま黙り込んだ。
 そんな二人の関係を察した暁津は、本心からの安堵を得ていた。その理由は、彼本人も分からなかった。無意識に「よかった」と呟く。
 珠烙でさえ気付かないほど、暁津の中に一瞬だけ生まれた感情は小さなものだった。


 警備兵に見つかって、四人はそれぞれの場所に戻った。
 那智は珠烙と暁津、そして警備兵に謝り倒し、才戯を連れて塔を出て行った。
 そんな二人を見送り、珠烙と暁津も踵を返す。
「そういえば」廊下を歩きながら、珠烙が改めて暁津を睨み付けた。「あのガキが狙ってるのは蒼雫の娘だぞ」
「え?」
 暁津は一瞬躓きそうになる。
「蒼雫の娘って、あの幽閉されてる子? 樹燐だっけ?」
「そう」
「そんなはずはない。どうやって彼女のいる場所を知ったと言うんだ」
「本当かどうかは定かじゃない。もしかしたら他の娘と勘違いしてるかもしれないしな」
 暁津のかけた術は名前だけ知っていても使えない。行ったことのある場所で、会ったことのある人にしか効かないものだった。
「それなら好きにすればいいと思うが……もし本当だったら、とんでもないことになるんじゃないか?」
 暁津は珠烙が何を言いたいのかを理解し、息を飲んだ。
 蒼雫は樹燐を鬼子母神の後継者に育てようとしている。そして才戯と樹燐の母親は仲が悪い。もし才戯が樹燐に手出しし、蒼雫の夢を壊してしまったら――鬼子母神と夜叉の抗争にまで発展する恐れも、まったくないとは言えなかったのだ。
 暁津はさすがに眉を寄せて唸っていた。
「でもさ、二人が愛し合って結ばれてくれれば、両親も認めてくれるんじゃないかな」
「あいつらまだガキじゃねえか。そこまで真剣に考えるもんか」
「そうか。まだ子供だもんな。会っても仲良くお話するだけだろう。問題ないよ」
「会うだけで大問題だろ。親に隠れて男と逢引きしてたってだけで女の価値は落ちる。鬼子母神継承どころか嫁にすら行けなくなるかもしれないんだぜ」
「そ……そのときは彼が責任を取ってくれるよ。それに、まだ才戯が会いたい子が樹燐だって分からないじゃないか」
「――ああ。そうだな」
 同意を求める暁津に対し、珠烙の返事は冷たかった。
 暁津は少々焦ったが、考えても、今から自分のしたことを取り消そうとは思わなかった。
「まあ、僕は術を与えただけで、それをどう使うかは彼次第だから」
 暁津は開き直り、ははと笑いを零した。珠烙は隣で深く瞬きし、もう一度「そうだな」とだけ答えた。
 その表情を見ていた暁津はすっかりいつもの調子に戻り、珠烙に体を寄せてきた。
「やっぱり君は凄くきれいだ。言っておくけど、僕は諦めたわけじゃないからね」
 まだ言うか、と、珠烙は口を歪め、奥歯を噛んだ。
「僕は女性が好きだよ。でも女戒を破るわけにはいかない。だからこそ、君を求めているんだ。いくら君が僕をつけ回して弱みを握っても、僕の気持ちは変わらないからね」
 珠烙は足を早めて彼から距離を置こうとするが、暁津は笑顔で追い着いてくる。そんな彼に、珠烙は軽蔑の思いを込めて、ゆっくりと宣戦布告を口にした。
「……お前だけは、絶対に、不幸のどん底に落としてやるからな。覚えとけよ」
 珠烙の能力も計り知れないが、暁津もそう簡単に負けを認める性分ではない。今までもこうやって衝突を繰り返してきた。暁津は「受けて立つ」と、優しい瞳の裏で静かに闘争心を燃やした。


 そのあと、珠烙と暁津は何もなかったかのように檀上に、才戯と那智は観客の中に紛れて抜き打ちの訓練を見学していった。
 帰り道、那智は機嫌がよかった。これからもよろしくお願いしますと頭を下げたかったが、その機会は逃してしまった。改めて言えば、才戯は混乱するだろうと思い、いつもどおりに接した。
 夜、那智は才戯の両親にだけ、仲直りしたことを報告した。
 才戯と那智本人よりずっと前から二人は兄弟のようだと思っていた両親は、やっと自覚してくれたことを理解し、今まで以上に那智に信頼を置いた。


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 夜の帳が下りた子(ね)の刻、樹燐は縁側の戸を少し開け、寝るだけの姿で煌々と闇を照らす大きな月を眺めていた。普段ならもう床に入っている時間なのだが、この季節の、夜の冷たい風にあたるのが好きだった。親にも実珂にもおやすみの挨拶を済ませて灯りも消しており、彼女が一人の時間を楽しんでいることは誰も知らない。
 空気は澄みきり、雲一つなく星々が瞬く明るい空に吸い込まれそうな錯覚に、樹燐は目を細めた。
 目線を落とし、庭を見つめる。山査子の木が目に入ると、咄嗟に顔を逸らしてしまった。
 違う、と胸の中で呟く。母を裏切ったわけではない。見知らぬ少年を逃がし、事実を隠したことは誰も傷つかずに済ますため。現に、何も変わったことはない。いつもと同じ日常だけがここにある。
 あとは、自分が忘れてしまえば終わる。
 そう思うのに、心のどこかに小さな傷がついたような気がしていた。放っておいても自然に治る程度の傷なのに、あることを忘れていても水の一滴が触れるだけでじんと沁み、そこを見つめてしまう。
 その小さな痛みの理由が、樹燐には分からなかった。
 隠し事をもってしまったことか。それとも、「未知なるもの」への未練なのか。
 どちらにしても、与えられたものだけで育ってきた樹燐には重いものだった。だから、折れた山査子の枝を傍に置いた。それが枯れたとき、傷が癒える、癒えたことにしようと決めるため。
 樹燐は細い風に頬を撫でられ、同時に揺れた池に映る月に目を奪われた。
 ときどき思う。空に浮かぶ月と、水面のそれのどちらが自分にとっての本物なのだろうかと。
 空に浮かぶ月があるからこそ、掬えば手に入りそうなほど近く明るい、水面で光る月がある。だけどそれは風が吹けば壊れて消える。池がなくなれば、そこに月が映っていたことも忘れ去られてしまう。
 もしも、自分が母に認めてもらえないままこの部屋だけで一生を過ごすとしたら、自分の存在はこの世になかったも同然なのではないのだろうか。
 そんなことを考えるのは今が初めてではなかった。だが、今急に怖くなった。
 生まれて初めての罪悪感が彼女の中に芽生えていたからだった。
 早く忘れなければ――樹燐は焦りを隠すように目を伏せ、腰を上げる、上げようとした。
 それと同時、山査子の木が大きく揺れた。
 樹燐は糸に引かれるようにそこに顔を向ける。
 大きく開いた目に映ったのは、不自然な白い霧が山査子の木に纏わりつくように湧き上がっている様子だった。
 霧だと思ったものは煙だった。白いそれは雲のように形を作り、色を付けていく。
 煙の中から手が伸び、傍の木に爪を立てる。ふらつく足が土を踏む。
 煙に包まれ、苦悶の表情を浮かべて現れたのは、あの少年だった。
 才戯は眉間に皺を寄せ牙を剥き出し、唸り声を漏らしていた。その上、体全体が炎のように揺らぎ、今にも消えてしまいそうである。
 何が起こっているのか理解できず、座ったまま固まっている樹燐の視界を、才戯は横切って行った。
「あっ……ちい!」
 悲鳴に似た声を絞り出し、月の映る池に飛び込む。すると、じゅっと音を立てて蒸気が上がった。
 樹燐は茫然とし、しばらく体が動かなかった。才戯は池に落ちたきり、上がってこない。樹燐は我に返って庭に降り、池を見つめる。
 そこには、再び月が形を作っているだけで何もなかった。もし溺れたとしても浮いてくるはず。池は深くなく底は目視でき、潜ってまで探す必要はなかった。
 彼は、現れて、消えたのだ。
(……なに、今の)
 考えようとしても、頭が働かない。樹燐はふらふらと部屋に戻って戸を閉めた。布団に潜り目を閉じてじっとしているうちに、あれは夢だったのかもしれないと思い、いつの間にか眠っていた。




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