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 暁津は二人に駆け寄り、優しい口調で珠烙に語りかけた。
「どこに行ったかと思ったら、こんなところで子供を虐めていたのか」
「なんで虐めてるって決めつけてんだよ」
「君がこんな生意気そうな子供を虐めないわけがないじゃないか」
 暁津は軽く笑うが、才戯は二人の間に漂う妙な空気に緊張していた。
「ああ、怖がらなくていい。僕は毘沙門天の眷属の暁津。この珠烙の恋人だ」
「えっ?」
 才戯は耳を疑う。珠烙はものすごく嫌そうな顔で暁津を一瞥した。
「正確には、恋人になる予定。ずっと口説いてるんだけど、なかなかうんと言ってくれなくてね」
「え? え?」才戯は珠烙を指さし。「いや、こいつ、男だぞ。騙されてないか?」
 騙されているのだと思いたかったが、違った。暁津は表情を変えない。
「そうだよ。だからいいんじゃないか」
 才戯はもう何も言えなくなった。
 暁津のおかしな思考は今に始まったことではなく、珠烙はもう呆れ果て、反論する気もない。
「僕はね、依毘士様みたいな無欲で清廉潔白な美しい武神を目指しているんだ」
 暁津は悪意のない、菩薩のような明るい顔で語り出した。
「そのためには体も心も清くなければいけない。だけど僕は依毘士様と違って凡才だからね、欲がないわけじゃないんだ。肉と酒は我慢できる。でも、性欲だけはどう頑張ってもなかったことにはできないだろう? どうすればこの醜い自分を戒めることができるのか悩んでいたころ、彼に出会ったんだ」
 暁津は馴れ馴れしく珠烙の肩を抱くが、珠烙は素早く振り払った。
「珠烙は首から上は女になれる。だけど、体は男なんだ。分かる? 彼を抱いても穢れることも、罪になることもない。珠烙は最高だ。顔だけじゃなく、声まで女だなんて、こんな都合のいい体は他にない。つまり、珠烙は僕を穢すことなく愛を与えてくれる、理想の相手だったんだよ」
 才戯は口をぽかんと開けたまま、理解に苦しんでいた。そんな彼を見て珠烙はふんと鼻を鳴らす。
「ほら、お前の薄汚い理屈に、ガキすら呆れてるぞ」
「うん。この子にはちょっと難しかったみたいだね」
 こういう反応に慣れている暁津は、気にしてない様子で話を続けた。
「ところで何をしていたんだ?」
「ああ、こいつが灯華仙の女に夜這いたいと悩んでるそうだ」
「灯華仙に? それは凄い勇気だな。あそこは僕だって遠慮したい花園だというのに」
「夜這いってなんだよ」
 と才戯が口を挟むが、無視される。
「それはぜひ応援したい……だが理由が欲しいな。この子の名は?」
「才戯」
「夜叉の子か。だったら僕と縁がありそうだし、珠烙とは同じ八部衆の仲間じゃないか。いつか僕たちと共に命を懸けて戦う戦友になるのかもしれない。よし、力を貸してやろう」
 まったくついていけてない才戯に、暁津は床に片膝をついて向き合った。
「後ろを向いて」
 才戯は言われるとおりにした。すると暁津は彼の背中に片手を当て、目を閉じて呪文を唱え始めた。
「才戯、いいか、集中して……気を抜いたら、君の体に火がつき、炎上する」
「えっ!」才戯は寝耳に水のごとく、目を見開いた。「ちょっと待て! どういうことだ」
 しかし暁津は呪文を止めない。背中で、彼の掌が熱くなっていくのを感じる。才戯は命の危険を察知し、慌てて目を閉じて暁津の声に耳を傾けた。
 才戯の背中に熱がこもる。だんだん、火傷するかと思うほど熱くなってきた。才戯は何をされているか分からないが、歯を食いしばって我慢した。
「邪念を捨てて、会いたい人の名を思い浮かべるんだ」暁津の囁き声は、体の中を通って伝わってきているようだった。「この熱で、その名を君の心臓に刻み込め」
 気が遠くなりそうになったとき、ふっと熱が止まった。暁津が両手で背を叩くと、才戯は体の中に溜まっていた熱い息を、火を噴くように吐きだした。
「よし、よく耐えた。なかなか根性があるね」
「何したんだよ……」
「君の体に見えない術をかけた。一日の半刻だけ、好きなところに移動できる秘術だ」
 才戯は半信半疑で、自分の背中や両手をきょろきょろと見ていた。
「いったん魂をその場所に移動させて、それを肉体化する術だ。だからどこへでも短時間で移動できる。ただし、一度でも行ったこともある場所のみ。道は分からなくてもいい。行きたい場所、会いたい人を頭の中で鮮明に描くことが大事だ。集中力がなければ途中で引き戻されて失敗するからね」
 暁津は相手の都合に合わせることなく、淡々と説明した。
「術を使っているあいだは刻んだ名の相手以外と会ってはいけないよ。見られたら術は解け、二度と使えなくなる。それと、君はまだ子供だから制限をかけておいた。術を使うのは三日に一度。半刻過ぎたら嫌でも元の場所に戻る。分かった?」
 才戯は質問する余裕もなく、頷いた。
 珠烙が深い息を吐く。
「いいのか? えらく気前がいいが、バレたらどうするんだよ」
「大丈夫。誰かに見つかったら術は完全に消滅するようにしているから。彼の体の中に熱で呪いを描いただけの術だからね。彼を調べても何も証拠は残らないよ」
「お前のことじゃねえよ。いくらガキでもあの人食い鬼の巣窟に忍び込んで、何かあったらどうするつもりだ」
 人食い鬼という言葉に、才戯は衝撃を受けた。怖いとは聞いたが、人を食うというのは初耳である。
「おいなんだよ、人食いって」
 慌てる才戯に、やはり暁津は笑顔で対応する。
「昔の話だよ。珠烙は口が悪いから、こういう極端な言い方するんだ。気にしないで」
「人食いじゃなかったとしても、もし見つかったら、俺はどうなるんだ」
「さあ」暁津は肩を竦め、無責任な返事をする。「怖いなら行かなければいい」
 才戯はむっとした様子で暁津を睨んだ。
「怖くねえよ」
 強がる才戯を、暁津と珠烙が見つめる。暁津が珠烙に目線を移すと、珠烙は「俺は知らない」とでも言うようにそっぽを向いた。
「怖いと言っても」暁津は腰を折り、才戯の肩を叩く。「彼女たちは恋に生きる、情の深い人たちだよ。君がいい加減な気持ちで彼女たちの世界を荒らそうものなら、容赦なく八つ裂きにされるだろうね」
「俺は別に、会って話をしてみたいだけなんだ。八つ裂きだなんて……」
「だけ? それだけのことだと思うなら、僕たちに協力を求める必要はないよね。君がしようとしていることは、犠牲が必要だってことなんだよ。よく考えて」
 才戯は暁津に反抗的な目を向ける。彼が言っていることが理解できないうえ、考えることは苦手だ。頭が痛くなりそうだった。
 暁津は才戯の乏しい表情から、大体の性質を見抜いた。
「まあ、つまり君がどれだけその娘を虜にできるかどうかってことだな」
「?」
「万が一見つかっても、その娘が君に惚れていれば命懸けで庇ってくれるだろう。彼女を味方につける。それしか君が生き残る手段はないだろうね」
 暁津は「頑張れ」と付け足し、もう一度才戯の肩を叩いて腰を上げた。
 彼の話は、恋心すら理解できない才戯にはあまりに難解だった。頭の中が回っているような気分の悪さがこみ上げている。そんな才戯を余所に、珠烙は暁津に冷たい目線を送った。
「ガキ相手に何やってんだよ」
「さっきから文句が多いようだけど、そもそもこの子にちょっかいかけてたのは君だろう?」
「俺はこいつを煽ってただけだ。そこまで深入りするつもりはなかったんだがな」
「煽って相手をその気にさせておいて、あとは放置か……ほんとに君は罪作りな男だね。そんな君を組み敷きたい」
 暁津は目を潤ませ、汚いものを見ているときの感情を全身で表現する珠烙をじっと見つめた。
「僕も恋愛中だから、幼い純愛を応援したいんだよ」
 暁津はすかさず珠烙に顔を寄せる。
「僕の気持ち、まだ分かってもらえないかな? そろそろこの熱い思いを受け止めてくれないだろうか」
「…………」
 いつもなら撥ね退けている珠烙だったが、珍しく逃げずに暁津に顔を向ける。
 あれ? と意外そうに数回瞬きする暁津に、珠烙は余裕の表情で声を低くした。
「いいこと教えてやるよ」
「なに?」
 珠烙の上げた口の端から、牙が覗く。
「てめえが城下の色町に出入りしてるってな、俺の手下から報告があった」
 初めて、暁津の表情が消えた。
「何が清廉潔白だ。バレなきゃいいってもんじゃねえだろ」
 暁津が動揺していることは、彼をよく知る珠烙には手に取るように伝わっていた。
「どうした? 隠れて会わなきゃいけないような下賤な女を相手にしてんのか、それとも、身分違いの禁断の恋にでも狂ったか?」
 暁津は笑顔に戻り、目を逸らして肩を竦めた。
「やだな。人違いだよ。身に覚えがない」
「へえ。じゃあ今度は俺が直々にお前を追って、その場で声かけてやるか」
「そんなに僕のことが気になるのかい? 君に追われるなんて光栄だな」
 はぐらかそうとする暁津だったが、珠烙は責めの手を休めなかった。
「場合によっては邪魔してやってもいいんだぜ? 俺ならぶち壊すことも、泥沼の関係に持ち込むことも、好きなようにできるからな」
 人を騙すのは彼の本職だ。暁津は冷や汗を拭いながら珠烙から離れた。
「もうその話はやめよう。子供の前なんだ。不健全だよ」
 今更どの口が言うかと、珠烙は舌を出す。


 その様子を、廊下の角から覗く者がいた。
 那智が才戯を探してここまで来ていたのだった。
 目立つ場所にいるはずの才戯が、どこにもいなかった。心配になっているところ、塔の三階の窓に角の生えた人影を見つけて裏口から侵入してきたのだった。
 やはり才戯だった。だが、その傍に、身分の高いと思われる武神が二人もいるではないか。何の話をしているのか、何をしているのかは分からないが、那智はその様子に気が気ではなかった。いっときでも問題を起こさないでいられないのかと愚痴りながら、那智はケンカのことも忘れて、いつもの癖で彼に駆け寄った。
「才戯様!」
 三人は同時に那智に注目した。




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