05




 あれから才戯は好奇心いっぱいの少年らしく、那智に鎖真や武神について尋ねてきていた。ほとんど教えたことのある話ばかりだったが、那智はそんな彼を珍しく思いながらも、やっと勉強する気になってくれたことが嬉しかった。
 しかし残念ながら、次の日には才戯の好奇心は途切れ、三日後にはいつもの日常に戻っていった。教えたことを覚えているかさりげなく訊くと、前よりは理解していた。これは小さな進歩だと、那智は前向きに受け取った。
 あの日あったことを那智が才戯の両親に報告すると、なぜ先に言わなかったのだと怒られた。怒られて当然だと思うと同時、そのときの状況を説明すれば両親も分かってくれるというのも予測していた。鎖真の性格は、才戯の両親なら知っているはず。予想どおり、面白くなさそうな表情をするだけで、それ以上は追及されなかった。
「不本意ではありますが」那智は訴えるように続けた。「鎖真様と直接お会いなさったことで、才戯様は天上界や地獄の仕組みを勉強されました。それに、幼いながらあの宝庫に入っても何の違和感も覚えていらっしゃらなかったようです。強い体をお持ちであることも証明されました」
 両親は顔を見合わせ、眉間に寄せていた皺を消した。
「鎖真様がごひいきになさるのも、才戯様から特別な能力を感じられたからではないでしょうか」
 那智の説得は自分を正当化するためだけではなく、本心でもあった。才戯のいいところを見つけて伸ばすのも自分の役目だと自負していたからだ。
「私は、そう悪くは考えておりません。才戯様はただのバ……いえ、元気すぎるお子様なのではなく、きっと、天才なのです。努力では得られない特殊な才能を秘めていらっしゃるのです。苦手なことが多い分、別のところに力が集中しているのです。どうか、寛大なお気持ちで見守ってあげてください」
 わが子を褒められて嬉しくない親はいない。次第に機嫌も直っているようだった。
 那智はほっと息を吐きつつ、これからの課題を見つけた。才戯の暴走をただ叱るだけではなく、何が彼のためになるのかを見極めていかなければいけない。この役目をくれた才戯の両親に、改めて感謝の気持ちを抱いた。


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 それから十数日が過ぎた。
 穏やかな日中、才戯と那智は宮殿の庭の木陰で読書をしていた。大木の根元に腰かけ、黙々と本を読んでいる那智の傍で、才戯は草むらに寝転がり、本を広げたままうたた寝をしている。普段は声をかけて起こすのだが、今日の優しい気候では眠くなるのも無理はないと思う。悪童の才戯も、じっとしていればあどけないただの少年だ。少しくらいいいか、と、那智は気付いてないふりをして読書を続けた。
 半刻ほど過ぎ、那智がそろそろ才戯を起こそうかと考えた頃、宮殿のほうから女性の声が聞こえた。顔を上げると、那智と同じくらいの年の若い娘が数人、こちらを見ていた。
「あれは……」
 見たことがある。女性の姿かたちより、傍にいる赤目の大きな狐の姿で那智は彼女が誰かを認識した。
 荼枳尼天の眷属の椅言だ。
 彼女は才戯と同じく、釈迦と同じ日に生まれた女性だった。才戯より五年早く生まれたため、同い年ではない。今もまだ大人ではないが、才戯より背も高く、落ち着いた雰囲気がある。
 椅言は二人の姿を見て、四人の取り巻きの女性と一緒に近寄ってきた。
 那智は「挨拶をしなければ」と思い、本を片付けて才戯を揺り起した。
 椅言は薄く微笑みながら、二人の前で立ち止まる。
「こんにちは」
 優しい声だったが、隣にいる稲荷の狐の鋭い目に、那智は少々怯えた。
「……こんにちは」
 だが椅言は那智より、目を擦りながら体を起こす才戯をじっと見つめている。椅言は彼の立派な角を、突き刺すような目で確認していた。
「どうも」椅言は再び笑顔になり。「あなたが、夜叉族の才戯君ね」
「は、はい」那智が慌てて返事をする。「あなたは、椅言様ですね」
「ええ。自己紹介が遅れてごめんなさい。私は荼枳尼天一族の椅言。顔を合わせるのは初めてね。私たち、ご縁があるのだから、これから仲良くしていただけるかしら」
「え、ええ。もちろん。こちらこそ……」
 やっと目が覚め始めた才戯は、その場に胡坐をかいたまま、椅言と狐、その取り巻きをじろじろと眺めていた。
「誰だ、お前」
 才戯の失礼な一言に椅言は笑顔を消し、背後の取り巻きがざわついた。
 不穏な空気に、那智が急いで取り繕う。
「才戯様、この方は、荼枳尼天の眷属の椅言様です」
「ふうん」才戯は悪気なく、狐を指さした。「そいつかっこいいな。どこで捕まえた? お前が飼い慣らしたのか?」
「才戯様……!」
 那智は「ああもう」と口には出さず、才戯の肩を掴んで腰を上げた。
「このお稲荷様は荼枳尼天一族の守護神です。無礼なことを言わないでください。とにかく、まずはちゃんと立って挨拶してください」
 才戯は仕方なさそうに立ち上がり、椅言に向き合った。椅言が気にしてないように目を細めて微笑みかけるが、才戯の目線はすぐに狐に釘づけになる。
 那智は才戯を肘で小突き、頭を下げた。
「も、申し訳ありません。才戯様は好奇心が旺盛でして……」
「いいの。男の子は元気すぎるくらいでちょうどいいでしょう。才戯君のこと、いろいろと、噂は聞いています。会えて嬉しいわ」
「そうですか……」
 才戯の噂といえば、ろくなものではないことは分かる。直接害がないのなら好意的に受け入れてくれているかもしれないが、こうして「本物」を目の前にしたあとでは、それが本心かどうか疑わしい。
「才戯君は将来有望ね。もっとあなたのこと、知りたいわ――私たち、同じ、特別な日に生まれたのだもの。きっとうまくいくと思うの」
 那智は顔を引きつらせた。椅言は何を考えているのだろう。まさかまだ幼い才戯を男として見て、将来性に賭けて狙っているのでは……?
 だとしたら、この場でこれ以上深い話をするわけにはいかない。椅言がどういう女性であろうと、両親の意見なしに親しくなられては困る。
 風が少々冷たくなってきた。体が冷えるからと言って立ち去ろう。そう思って那智が才戯を見ると、意外にも、彼は椅言を直視していた。
「……同じ日に生まれた?」
 才戯は椅言の言葉に反応を示していた。
 あの日、鎖真と二人だけで交わした会話を思い出す。自分と同じ日に生まれた女がいるという話を。
「お前が……?」
 椅言は、才戯がやっと自分に興味を示したことに気を良くした。
「ええ。釈迦と同じ日に生まれたのよ。私も、あなたも、特別な日にね」
 才戯は目線を落とし、考えた。
(なんだ、閉じ込められているんじゃなかったのか?)
 鎖真はそのうち出てくるだろうとも言っていた。もう自由になったのだろうか。
 でも、と思う。確か「羅刹の女」と鎖真は言っていた。女の名前も会話の中で出てきた気がするが、それは忘れてしまった。確認しておけばよかったと後悔しつつ、一つの答えが出た。
「ああ、そうか……もう一人いたのか」
 椅言も那智も、才戯の妙な態度に首を傾げる。那智が心配そうな顔で声をかけた。
「そ、そうですよ。才戯様のほかにも、お釈迦様と同じ日に生まれた人がいたんですよ」
 椅言に興味を持たれるわけにはいかない。那智は強引にでも才戯を連れ去る決意をする。
「椅言様、お二人がご挨拶なされたことは、ご両親に伝えておきます。今日はもう冷えてきましたし、また後日……ゆっくりお話しいたしましょう」
 椅言の表情は柔らかいのだが、その目は、狐のように鋭く冷たい。心の中を見透かされているようで、那智は寒気を感じた。
「では、門限がありますので……失礼いたします」
 那智は何度も頭を下げ、才戯を連れて速足で立ち去った。
 二人の背中を見送る椅言に、取り巻きの一人が近寄った。
「椅言様、何なんですか、あの無礼者は」
 他の取り巻きもそうだそうだと息を荒くする。
「まさか椅言様、いくら特別な日に生まれた子とはいえ、あんなクソガキと本当に親しくなさるおつもりなのですか?」
 椅言は口の端を上げ、ふんと鼻で笑う。
「まさか。あんな頭の悪い男。利用価値はあると思っただけ。私の狙いは才戯と……樹燐、両方よ」
 取り巻きたちは彼女が「いつもの椅言」であることに安心し、微笑み合った。
「私の威厳は消え去った。あの二人のせいで」
 椅言は二人がまだ子供だから様子を見ているだけだった。樹燐に関しては、一度挨拶をと蒼雫に掛け合ったが、門前払いだったため何の情報も得ていない。
 椅言は特に、蒼雫が長い時間と手間をかけて、樹燐を特別な女神に育てていることが気にかかり、悔しくて悔しくて仕方がないのだった。
「私に恥をかかせて、抜け駆けしようなんて許さない……いつか必ず、潰してやるわ」
 椅言はそう言い捨て、長い裾を翻して宮殿の奥に消えていった。


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 自宅へ帰る道すがら、那智は恐る恐る才戯に尋ねた。
「才戯様、椅言様のこと、どう思われました?」
「どうって?」
「えっと、その、きれいだな、とか、仲良くなりたいな、とか……」
「ああ、美人だったな」
 えっ、と那智は短い声を上げる。両親の知らぬところで変な色気を出されたら堪らない。子供とはいえ才戯も男。女に興味がないわけがない。それどころか、自覚はないようだが、普段から彼は近くに女性がいるとどさくさに体をよく触っている。子供だから許されているものの、いつか笑って済まされなくなったとき、才戯が「女の敵」になるのではと悩みは尽きなかった。
 那智は青ざめた、が、才戯の次の言葉に正気を取り戻した。
「でも別に、仲良くなりたいとは思ってないぞ」
「……そ、そうなんですか?」
「狐はかっこいいけど、狐目の女はおっかなかっただろ」
 那智はつい「はい」と返事しそうになったが、なんとか耐えた。
「それに――」
 才戯は最初、「自分と同じ日に生まれた女児」は同じ年齢だと思っていたため、明らかに年上の椅言を見て、少しの衝撃を受けたことを覚えていた。
「――あいつ、ババアだし」
 再び、那智の顔が真っ青になった。
「女の狐ってなんて言うんだっけ。そうだ。女狐(めぎつね)だったか。あいつは女狐だな」
「才戯様!」
 那智は声を上擦らせ、周囲に誰もないことを確認して才戯に詰め寄った。
「ダメです。その言葉は、二度と口にしてはなりません……!」
 才戯は汗を流した。そういえば、鎖真にも同じようなことを言われた。
「そんな失言ごときで才戯様が不幸を約束されてしまうなんて、あってはならないことです。お願いですから、それだけは……」
「わ、分かったよ」
 涙目になる那智に、才戯は素直に頷いた。



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