千代の幽凪

-壱





 魔界――人間に恐怖を与える妖怪の類が生息する空間である。
 世は天・地・魔の三つで構成されている。天は光り輝き、崇高なる神仏の住む世界。地は善悪の混同する人間の住む世界。そして魔界は、闇を好みながら秩序を守る妖の世界だった。
 そこは無法地帯であり、強者が弱者から摂取する暴力がまかり通る。しかし彼らも強さを求める故、美意識や矜持を兼ね備えており、理性の強い種族でもあった。
 孤独と自由を満喫する者、群れを成し、掟に従い血を繋ぐ者、様々な生き方がある。そのどれも、敗北、すなわち死を恨まない。
 だが、奪うことは報復を覚悟しなければいけない社会だった。


◇ ◆ ◇



 薄暗くまだらな空の下、覇気のない草原が広がっていた。そこを、五十人ほどの集団が横切っている。
 集団は全員、野伏(のぶし)の格好をしており、少々草臥れたような雰囲気を漂わせている。表情は見えない。なぜなら、皆が狐の面を被っていたからだった。
 彼らは妖狐(ようこ)の晃牙(こうが)一族だった。昔は、いくつかある妖狐の群れの中でも郡を抜く大きな一家だった。
 しかし晃牙一族は鎌鼬(かまいたち)と対立しており、数十年前に、とうとう頭の首を捕られてしまったのだった。それから晃牙の力は衰退する一方で、抵抗しながら逃げ続けてきた。つまり、今いる数十名は「生き残り」に過ぎないのだった。


 一行の足が止まる。先頭にいた御桐(みどう)という大きな男が足元に転がる何かに目を奪われたためだった。一行は列を乱し、同じようにそれに注目する。
 何もない草原の真ん中に、小さな子供が倒れていた。子供は長い黒髪に筒袖(つつそで)という質素な身なりで、一見しただけでは男か女かも判断できないほど幼い。
 御桐が腰を折り近付いてみると、子供は寝息を立てているのが分かった。
「……死体ではないようだ」
 御桐が呟くと、子供は瞼を揺らし、目を覚ました。空を仰いだあと、自分を見下ろす狐面の集団に目を移した。そして、驚きもせず、声を漏らす。
「誰?」
 呑気に上半身を起こして伸びをする子供の様子に、御桐は手助け無用と判断した。
「我らは晃牙一族の者。お前はここで何をしている」
「こうが?」
「妖狐だ」
「ああ、化け狐か……俺は暗簾。寝てただけだよ」
 暗簾と名乗った少年は、物怖じせずにニッと笑う。子供の言うことと、他の誰も暗簾の態度を気にしなかった。
「童、貴様、親は?」
 問われ、暗簾は表情を変えずにこう答えた。
「殺した」
 御桐は少しだけ、面の下で瞳を揺らす。だが、信じなかった。
 生まれてすぐに親と生き別れる者は珍しくない。子供に価値を持てずに捨てる親もいれば、災いに巻き込まれて命を落とし、子供だけが生き残ることもある。
 この暗簾もまた、わけあって一人になり、現状を飲み込めていない哀れな子なのだろうと思う。
「……どうやら、邪魔をしたようだな」御桐は腰を上げながら。「元気そうで安心した」
 暗簾は御桐を見上げながら無邪気に呟いた。
「ああ、腹減ったな」
 御桐は動きを止めて少し考えたあと、首を横に振る。
「すまぬが、我々は戦の途中。貴様に分けてやれるものは……」
 御桐が無情に断ろうとしていたところ、それを細く高い声が遮った。
「――御桐、待て」
 全員がその声に注目した。目線が集中した先には、小柄な狐面の者が立っていた。
「幼子一人に分ける食料もないとは情けない。負けを認めると同じことだ。分けてやりなさい」
 その者は他と同じ野伏の格好をし、面で顔を隠しているが、細い体と柔らかい声ですぐに分かる――若い女性であると。彼女が歩み寄ると、御桐は姿勢を正した。
「しかし……」
 それでも渋る御桐を無視し、女は暗簾の前に屈みこんだ。腰の巾着から紙の包みを取り出し、暗簾の前に差し出した。
「一族に伝わる蓬(よもぎ)の団子だ。苦味があるが、腹持ちがよく力もつく」
 暗簾は手を伸ばしながら、女を見て目を細めた。
「お前、女だろ。なんでそんな格好して男と一緒に戦なんかしてるの?」
 周囲がざわついた。温情で少ない食料を分ける者に対して、なんという無礼な言い草なのかと怒りを抱いたのだった。
 女は少し俯き、ゆっくりと面に手をかけた。面の紐を解き、その下にある顔を晒す。
 女は、成熟しているとは言い難い、幼さを残す淡い風貌だった。泥や傷で汚れているが、かなりの器量である。顔を見れば尚更、なぜこんな少女がと、誰もが思うだろう。
「私は金穂(かなほ)。晃牙一族、前頭の娘だ。父親が討たれ、私が後を継いだまで」
 冷たくも見える凛々しい表情だったが、言葉の端からは投げやりな感情も伺えた。
 子供ゆえに素直な暗簾は、それを敏感に感じ取っていた。
「他に強そうな奴、たくさんいるじゃないか」
「そうだな……しかし」
 そう続ける金穂を、今度は御桐が遮った。
「金穂様。先を急ぎましょう」
 金穂は我に返ったかのように振り返り、背後に立つ一族から発せられる不愉快な気持ちに気づく。金穂にはその気持ちは理解できる。ただでさえ追い詰められているのに、ムダな屈辱感は不毛である。金穂は仕方なさそうに立ち上がった。
「暗簾、私たちは行かねばならぬところがある。また、縁があったら会おう」
 足並みを揃える一同に、暗簾は団子を持ったままつまらなそうに声をかける。
「どこ行くんだ」
「同族である箕雨(きさめ)一族の元だ」
「何しに?」
「我々と統一するためだ」
 もういい加減にしろと御桐が暗簾を止めようとしたが、暗簾は突然「ふうん」とだけ言って、黙った。
 一同は顔を見合わせながら、もう興味を失ったのだろう、子供ならよくあることと、その場を後にした。


 晃牙一族は黙々と平原を歩き続けていた。時折、御桐は肩越しに金穂の様子を伺っている。金穂は晃牙の最後の要である。万が一彼女が討たれようものなら、もう晃牙という名に意味はなくなる。他の者も重々承知しており、戦闘が起きたときには弱く小さな彼女を守ることに徹していた。
 金穂が疲れていることは見て取れた。この先に森がある。そこで休むまで耐えて欲しいと願いながら、御桐は歩を進めていた。
 ふと金穂が顔を上げ、後ろを振り返った。
「……あ」
 御桐が声をかける間もなく、金穂は背後にいる仲間を掻き分けて視野を広げた。
 遠くから、暗簾が歩いてきている。金穂の視線に気づき、暗簾は手を振った。
 金穂は小走りで彼を迎えに行く。その背中を見送りながら、御桐は面の下で眉を寄せた。
 金穂は暗簾の前で息を弾ませた。
「どうした。何か困ったことがあるのか」
 暗簾は手に彼女にもらった包みを持ったまま、笑う。
「別に。行くとこないし、後に着いて歩いてただけ」
「そうか……」
「お前、優しいな」
「え……?」
 あまり聞き慣れなかった言葉に戸惑い、聞き直そうとしたところに、御桐の大きな声が届いた。
「金穂様。如何なさいました」
 金穂は厳しい御桐の声に耳を痛くし、少し考えたあと、暗簾に「来い」と言って仲間の元へ戻る。暗簾は返事もせずに金穂の後に着いていった。
 御桐は、どうして暗簾も一緒に連れて来ているのか不振に思いながら、金穂をじっと見つめていた。そして金穂は、そんな彼の予感どおりの発言をした。
「次の森まで、この童も連れて行こう」
「……お戯れを」
「イタチどもは我々を追っている。この子に危険が及んだらどうするのだ。安全な場所まで連れて行こう」
 御桐は言葉を失い、他の者も顔を見合わせている。そんな態度に、金穂は苛立ちを抱いた。
「森まで、私の荷物が一つ増えるだけだ。皆に迷惑はかけぬ。こんな幼子を一人連れることに、何の不満があると言うのだ」
 一同は戸惑いながらも、言い返すことはできなかった。彼女の言うことは間違っていない。
 晃牙一族の頭としての自覚を持っているとはいえ、金穂は若い娘だ。自分たちでは理解できない感情があるのかもしれないと御桐は考え、今は好きにさせることにした。
「金穂様、くれぐれも、次の休憩まででございますよ」
「分かっている」金穂は顔を背け。「それ以上はもっと危うくなる。それまでだからこそ、ムリを言っているのだ……許してくれ」
「ご心中お察しできず、申し訳ございませんでした……」
 御桐が頭を下げると、周囲もやっと納得しようだった。金穂は肩を落とし、暗簾の背中を押した。
「暗簾、行こう。ここに居ては危険だ」
 暗簾は黙って頷き、大人しく歩き出した。
 再び、静かな歩みが始まった。しかし暗簾の歩幅が小さいため、遅れては走るを繰り返しており、その度に金穂が足を止めている。そのせいで行進は遅れてしまい、金穂は自分の背負ったものが既に皆の邪魔になっていることを心苦しく感じていた。
 当の暗簾はそんな空気も素知らぬ顔で着いてきている。金穂は、彼の無垢な表情を見ては、やはり今更置いていくことはできないと強く思っていた。
 次第に、二人はなるようにして最後列になった。そのとき、金穂から小さな声で暗簾に話しかけた。
「……寂しかったのか」
 暗簾は顔を上げ、またあの薄い笑みを浮かべた。
「それはお前なんじゃないのか」
 意外だった返しに、金穂は肩を竦めた。
「なんて生意気な童だ」面の中で、瞼を落とし。「……だが、そうだな。そうかもしれぬな」
 そのことを認めると、余計に寂しさが押し寄せてきた。
「……もうすぐ、私たちの戦は終わる。暗簾、少しだけ、付き合って欲しい」
 これ以上言うと感情が止められなくなる気がして、金穂は唇を噛んだ。





  



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