千代の幽凪

-弐





 子供を連れた狐面の一行は、予定より時間がかかりながらも、無事に森の中へ身を隠すことができた。
 森は暗く、鬱蒼としている。灯りが必要だが、周囲に燃え移ったり、敵に見つかりでもしたら大事である。それぞれに温度の低い小さな狐火を起こし、いつでも消せるように傍らに置いていた。
 金穂はいつものように皆を集め、一人ひとりの顔を見ていった。面を被っているとはいえ、もう見慣れている。不思議なことに、似たような体系の者でも誰が誰かを間違えることはない。そして、その下にある表情も透けているかのように感じ取ることができるのだった。
「もうすぐ箕雨の元へ辿り着く」金穂は厳かに語った。「ここまで来れたのも、皆のおかげだ。感謝している。辛く苦しいだろうが、もう少しだけ耐えて欲しい。晃牙の名と、この面と、そして、無念のうちに果てた多数の仲間の魂に恥じぬよう、最後まで戦ってくれ」
 一同は彼女の言葉を胸に刻みながら、忠誠を誓うように一礼した。
 金穂は分かっていた。この屈強な男たちの忠義心は、自分にではなく、「晃牙」という名と血の元に集っていることを――今更虚しいと考えることもなくなった。こうして自分が晃牙の頭に座し、皆の前に立つだけで「儀式」は成り立つ。逆に、儀式を行うのは自分でなければ意味がないということも、心得ていた、心得るしかないのだった。


 一同は解散し、疲れを癒すためそれぞれに木の根や苔生した岩に腰を下ろす。
 金穂は倒れた大木に腰掛け、面を外して体を伸ばしていた。その隣に暗簾が座り、面をじろじろと見つめていた。
「珍しいか」
 金穂に聞かれ、暗簾は面に目線を落としたまま、指先で触れてみた。
「……わ、なんだこれ」
 金穂には暗簾の驚きの意味が分かっていた。面はしっとりと吸い付くような、奇妙な素材でできており、初めて触った者のほとんどが同じような反応を見せるからだ。
「我々の先祖の皮でできている。強い妖気が篭っていて、これが私たちの武器でもあるんだ」
「武器?」
「何代にも渡り受け継がれてきたものゆえ、そこに宿る妖気や怨念は凄まじいものだ」
 金穂は暗簾が凝視している面を持ち上げ、見つめた。
「……イタチどもが欲しがっているのがこれだ。もうたくさんの面を奪われた。その度に我々は力を失い、敵は逆に妖力を増していく……」
 金穂は思いつめたような表情になっていった。暗簾はその重さに気づいていながら、言ってはいけないことを口にする。
「それってさ、どうやっても勝てないんじゃないのか」
 金穂は瞳を揺らした。認めたくないし、認めてはいけないことだった。しかし、認めなくても、それが現実なのである。声が小さかったため、他の者には聞こえていなかったのが幸いだった。
 金穂は周囲を見回した。仲間は皆疲れており、各々に体を休めている。今、少しなら自由な話ができるかもしれないと、更に声を潜めた。
「箕雨一族の元へ行くと、言ったよな」
 暗簾は忘れていたのだが、すぐに思い出し、頷いた。
「箕雨は我々晃牙と肩を並べるほどの大きな妖狐一家。だが、今、晃牙はこのとおり……滅びかけている」
 そう言い切った金穂は、僅かに声を震わせた。今ままで、決して口に出さなかった。誰が見てもはっきりしていることなのに、父の跡を継いで、形だけでも頭になったからには、仲間に絶望させるようなことを言ってはいけないからだった。
 本当は、何度も負けを認めて逃げ出したかった。今も逃げているのと変わらないのだが、誇りも面も捨て、僅かな仲間と、どこかでやり直したほうがいいのではと、そんなことを何度も考えた。
「箕雨の元へ行くのは、助けてもらうためだ。形は統一するという名目なのだが、違う。もう、自分たちではどうすることもできないところまで来ている。そんな惨めな我々を、吸収してもらいたいだけなのだ」
 金穂は眉を寄せ、唇を噛んだ。込み上げるものをぐっと我慢しているのだ。いつもそうしてきた。
 暗簾はじっと、珍しいものを見るかのように彼女を見つめていた。金穂は恥ずかしくなり顔を逸らす。
「……情けないだろう。確かに、晃牙一族は誰もが一目置く存在だった。しかし、すべてが昔のことなのだ。過去の栄光に縋り、同族にさえ素直に助けを求めることもできずにいる。その結果、こうして苦しい思いをし、着々と滅亡の道を進んでいるのだから……」
 金穂は遠くの暗闇に目線を移し、口の端を上げた。
「すまないな……こんな話、お前にしても分かるまい。だが、一度だけでも、誰かに言ってみたかったのかもしれない。だいぶ気が楽になった」
 しかし、金穂の笑顔は哀しいものだった。
「……金穂様」
 そのとき、少し離れたところから御桐が声をかけてきた。まさか聞かれていたのではと、金穂は目を丸くして背を伸ばした。
「まずはお休みください。お話は、また後で……」
 だが御桐はそれだけ言って、一礼して立ち去った。金穂はほっと息を吐く。
「それもそうだな。暗簾、お前も歩き疲れたろう。今は休もう」
 倒木から降りようとした彼女の袖を、暗簾は小さな手で掴んだ。
「もっと聞きたい」
「……え?」金穂は意外そうに。「あんな話を? 変な奴だな」
 そう言うが、本当は嬉しかった。口うるさい御桐はもう離れた場所の大木の陰に移動しているが、長話をしていればまたやってくるだろう。仕方なく、金穂は暗簾の手を掴み、顔を寄せて囁いた。
「この森は深い。抜けるまで時間がかかる。その間に、また話そう」
「死なない?」
「――――」
「また話をするまでに、死なない?」
 金穂は目頭が熱くなったのを感じながら、微笑んだ。
「大丈夫だ。話そう。暗簾、お前にもっと聞いて欲しい。死ぬまでに、お前にしか話せないことを聞いてくれ」
 暗簾は表情のない目で金穂を見つめ返したあと、返事もせず、渋々手を離した。
 二人は時間を惜しみながらも、溜まった疲労には勝てず、木の葉の床で眠りについた。


 一刻ほど過ぎた頃。
 ほとんどの者が深く眠っているとき、見張りで起きていた御桐の元へ一人の男が近寄ってきた。
 男は御桐の隣に座りながら、目線を金穂に投げた。
「金穂様は、なぜあのような得体の知れぬ子供を……」
 きっと誰もが思っていることだろう。御桐も同じだった。
 晃牙の頭であった金穂の父親の傍にずっと仕えていた御桐は、彼女のもう一人の父親のようなものである。「先代の娘」「晃牙の現頭首」として一歩置いている他の者よりも、いくらか彼女の心情を分かっているつもりだった。
「……俺は、金穂様を気の毒だと思うている」
 男は狐火に薄く照らされている御桐に向き合った。
「金穂様は若き娘。父君の突然の不幸がなければ、今頃、良き妻となり、母となり、家を守る女になっていたのかもしれぬ。その夢を、今もどこかに抱いていらっしゃるのではないだろうか」
「……だから、見知らぬ子を、と?」
「さあ、それは分からぬ」
 父が健在の頃、金穂はよく笑っていた。性格も仕草も女らしく、どこの姫君にも劣らぬほど可憐だった。
 それが、まさか男の格好をし、泥や血に塗れて戦場で指揮を取るなど、誰が想像した未来だっただろうか。
 過去の輝かしかった時代を羨んでも仕方がないことは、誰でも分かっている。弱い者は強い者に食われる。昔は自分たちが食う方だった。逆になったからと恨むことはできない。
 ただ、金穂だけは――そう思う者は少なくなかった。
 今の晃牙に金穂は必要だった。晃牙の血を引く、たった一人の妖なのだから。戦場で敵をなぎ倒す豪腕がなくとも、男たちを賢く使う戦術を持たずとも、金穂が群れの「頭」であることには大きな意味がある。
 だが、同時に、金穂だけは生き残って欲しいという願いも捨てることもできなかった。
 彼女は汚れた今でも本来の姿を失ってはいない。群れから離れてしまえば、金穂はどこかで夢を叶えることができるだろう。
「……だが、今までの苦痛も」男が御桐と同じ思いを抱きながら、呟いた。「箕雨の元へ行き着けば、すべてが報われます。そのためなら、我々は命を惜しみはしません」
 そうだ、そのためにここまで来た。御桐は改めて、自分たちの戦の目的を確かめた――箕雨の元へ辿り着くことはできないかもしれない、という可能性を掻き消して。


 全員が十分な休息を取ったあと、一同は森の中を歩き始めた。
 森の中にいる間は鎌鼬の一族が総攻撃をしかけてくる可能性は低い。森を抜けた先に待ち構えているだろう、そのときが最後の決戦となると、御桐は考えていた。
 明るい気持ちなど一切なかった。一同が進む先は天国か地獄である。いずれにしてもイタチの攻撃を避けることはできない。
 晃牙を守ることができるなら何でもする。見届けることができなくても構わないから、どんな形でもいいから、救われたい。最悪の状態の中、皆はそれだけを祈っていた。
 金穂は出発前に御桐へお願いへ行った。暗簾はどうしても大人より歩くのが遅い。こんな深い森で迷子にさせるわけにはいかない。自分が連れて歩くから、少しだけ歩みを遅くして欲しいと。
 意外にも御桐は小言もなく許可してくれた。他の者も憔悴しているせいか、嫌な顔一つしなかった。
 金穂はほっとして、列の後方で暗簾と一緒に歩いた。
「……暗簾、もし戻りたかったらいつでも言うんだぞ」
「戻る?」暗簾は金穂を見上げて。「どこへ?」
「どこへって、自分の故郷とか……」
 家族の元へ、と続けようとしたが、暗簾の親はいないと言っていたようなことを思い出し、金穂は言葉を濁した。
「故郷とか、別にないよ」暗簾は平然として。「俺、捕食寄生種なんだ。その辺で生まれて、その辺のものを食っててきとうに生きてる。お前たちみたいに難しい生き方はしてないから」
 寄生種の妖怪は水や草のある場所なら魔界のどこでも生息できる。金穂は今まで名もない妖怪のことなど考えたことはなかった。
 気楽な暗簾を見ていると、自分たちのように血や誇りを守りながら生きる者が滑稽にさえ感じる。だが、いや、と思う。滑稽だなんて言えるのは、いつまでも「勝つ」ことに執着している自分たちに限界を感じているからなのだ。
 それを嘲笑し、否定することはできない。皆が命を懸けている。それに、ここまで来るまでにもたくさんの尊い仲間が死んでいった。残った者に希望を託して。
 また思い詰めてしまった自分に気づき、金穂は慌てて顔を上げた。
「そういうのも、自由でいいな」
 正直なところ、羨ましかった。しかしそんな気持ちを仲間に悟られるわけにはいかない。
「確かに私たちの生き方は難しいかもしれぬが、大事なものを守り、受け継いでいくことは、生きた証を残せるということなのだ。そこに生まれる絆も愛情も美しいものだ。辛いこともあるが、決して悪いものではない」
「ふうん……でもさ、そういうの、強くなけりゃできないことなんじゃないのか」
 金穂は息を飲んだ。前を歩いていた者が、肩越しに振り返る。まずい。暗簾の言葉は、張り詰めていた緊張の糸を揺らしてしまったようだ。男の面から、苛立ちの表情が感じ取れた。
「そ、その通りだ」金穂は急いでその場を取り繕う。「私たちは強い。だから今まで晃牙を守ってきたのだし、これからもそうしていくのだ。今は窮地に陥っているが、必ず乗り越えてみせる。その先にこそ、晃牙の栄光があるのだからな」
 背を向けた男から鋭いものは消えていた。明らかに晃牙を「強くない」、つまり「弱体化している」という意味に取れる暗簾の一言が気に障ったのは分かるが、やはり所詮は子供の言うことだと、忘れてくれたのだろう。
 子供は自由で正直で、それが金穂には新鮮で面白いと思えるのだが、禁句が多く堅苦しい仲間とのあいだでは気を遣う。金穂は小さなため息を漏らした。


 魔界は陽が昇らず、時間の境は曖昧だった。ほとんどが命ある者の体に仕組まれた時計に、無意識に従って生きている。光や時計など、目に見えるものに頼らぬ妖怪は人間よりも感覚が鋭くできているのだった。鍛えればいくらでも研ぎ澄ますことができ、その能力は男のほうが優れている者が多いと言われている。
 この行進の指揮は御桐が取っている。しばらく歩き続けて、御桐の指示で一同は休憩に入った。人間の世界では正午過ぎにあたる時間だった。
 金穂は暗簾を連れ、彼が多少失礼なことを言っても大丈夫なようにと、さりげなく仲間から離れたところに腰を下ろしていた。
 金穂がくすんだ大木を背もたれに一息つき、暗簾に微笑みかける。
「歩きながらでは話しづらいな」
 暗簾は返事をせず、じっと金穂の狐面を見つめていた。金穂は少し首を傾げる。
「どうした?」
「それ」面を指差し。「外して欲しい」
 金穂は戸惑った。
「……面は嫌いか?」
「そうじゃないけど、顔が見たいから」
 晃牙の肉面は妖術の一種でもあり、一族の者が被れば顔に吸着する。声がくぐもることもなく、表情も変わる。慣れた者には自然に見えるのだが、そうではない者にはやはり距離を感じるのだった。
 部外者である彼を巻き込んだのは自分だ、不快な思いはさせたくないと金穂は面を外した。
「気がつかなくてすまないな。お前と二人でいるときはできるだけ外すようにする」
「……金穂って、怒らないんだな」
「怒る? なぜ?」
「大事なものなんだろ」
 金穂は目線を落とし、両手に面を持って俯いた。
「そうだ。大事なものだ。だけど、この面も、この顔も、私なのだ。だから……」
「俺はお前の顔がいい」
 金穂は瞳を揺らす。暗簾はまっすぐ自分を見つめていた。嬉しかった。そんな言葉も、暗簾が晃牙の一族ではないから言えることなのだ。暗簾が子供だから素直に受け入れられるのだが、まるで口説かれているような気がして、金穂は頬を赤く染めた。
 照れを隠すように、金穂は暗簾の頭を少々乱暴に撫でる。
「お、お前が私より背が高かったら、もっと嬉しかったかもな」
 緩む口元を抑えきれず、金穂は面を当てて隠した。
「幼い頃はいろいろ褒められたこともあったが、今は、この通り、野蛮で勇ましい姿になってしまった。こんな浮ついた気持ちなど、二度とないと思っていたのにな……」
 金穂は暗簾の頭から手を下ろし、再び面を見つめた。
 暗簾はぐしゃぐしゃにされた髪をそのままに、何やら不満そうな顔をしている。子供扱いされたのが気に入らなかったのだった。実際に暗簾は誰がどこから見ても子供なのだが、ついこないだまで二足で立つのがやっとの赤子だったことを知る者は、本人以外にいなかった。
 成長することの快感を覚えた暗簾は、これからすぐに、もっと大きくなるつもりでいた。そのことを伝えようと口を開く寸前、金穂がぽつりと言葉を漏らした。
「そうでもないな……この難を乗り超えた暁には、私は箕雨に迎え入れられ、晴れて嫁入りすることができるのだから」
 暗簾の頭の中が一瞬、真っ白になった。その理由は、まだ自分自身でも理解できなかった。





  



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