千代の幽凪

-参





 暗簾は小さく「えっ」と声を漏らしていたのだが、金穂の耳には届いていなかった。
「統一すると言っても無条件ではない。私が箕雨の若頭、雷心(らいしん)殿と縁組みをして併合するのだ」
 金穂は目を細めて微笑んでいたが、どこか哀しそうな色も灯していた。
「箕雨の元へ行けば、すべてがいい方へ向かう。元には戻れなくても、晃牙は保護され、私は頭の座を降りて女として生きることができる。晃牙の現頭首と箕雨の跡取りとの婚礼は、きっと誰からも祝福されるだろう」
 暗簾は呆然としてしまっていたが、我に返る。
「で、でも、それって、晃牙が助かるために、お前が身売りするようなものじゃ……」
 金穂は驚いて目を見開き、すぐに笑って暗簾の頭を撫でた。
「お前は子供のくせに妙な言葉を知っているんだな」肩を竦めて。「そう言われることもあるかもしれぬが、そうじゃない。私は人の上に立つような器ではない。立派な一家に嫁ぎ、家族を守ることこそが私の役目であり、望んだ夢でもある。縁組みの話を聞いたとき、初めて自分が女に生まれたことの理由を知ったのだから」
 金穂は暗簾の胸を打つほどの優しい表情を浮かべていた。これが彼女の本当の顔なのだろう。戦いが終われば、金穂はずっと笑っていられる――。
「――でも、『生きてたら』だろ?」
 金穂は夢から覚めたかのように、はっと息を吸った。
「死ぬかもしれないんだろ? このままだと、殺されるんだろ?」
「……暗簾?」金穂は困惑し。「どうした。どうしてそんなことを言うんだ」
「そいつが本当にお前のことを好きなら、今すぐにでも駆けつけて守ってやるのが男だろ。なんでお前が来るのを待ってるんだよ。好きじゃないからだ。そいつは、お前の名前とか、そういうのが欲しいだけなんだろ」
 金穂は唇を噛み、瞳を潤ませた。
「……違う。そんなことを言わないでくれ。助けを求めなかったのは私たちなのだ。雷心殿は高潔なお方だ。頼めばすぐにでも駆けつけてくださるだろう。だが、私たちの矜持を守るために、じっと待っていらっしゃるのだ」
 今まで反応の薄かった暗簾が、苛立ちを隠せずに眉を寄せて睨み付けている。
「嘘だ、そんなの」
「嘘じゃない。お前には分からぬかもしれないが、それが私たちのやり方だ。晃牙の血が誇り高くあり続けるためには、自分たちの力で窮地を乗り越えねばならないのだ」
「血とか誇りとか、それが何だってんだ。死んだら意味ないじゃないか」
 金穂の顔は蒼白していた。暗簾の言うとおりだからだった。
 どう言えば暗簾を納得させることができるのか、金穂には分からない。急に怖くなった。
 頭の中に、晃牙の最後の一人まで、イタチの巨大な鎌で切り裂かれてしまう情景が浮かんだ。完全に晃牙の血は絶え、家宝である狐面もすべてをイタチに食われ、横たわった遺体は形を失っていく。そこには何もなかった。何一つ残っていなかった。
 なぜ? どうして?
 これほどまでに強い思いも、何代にも渡り受け継がれてきた歴史のすべても、時間と共に消え去ってしまう。
 父が亡くなる前までは、数千人もの群れを為す大きな一家だったというのに、自分の目で見てきたはずなのに、まるで夢でも見ていたのではないかと思うほど虚しかった。
 金穂は汗を流し、首を横に振った。
「……もうやめて」必死で涙を堪え。「考えたくない。皆、こんなにも直向きに生きているのに、意味がないなんて、そんなことがあっていいわけがない」
 金穂が頭を抱えて項垂れたとき、木の葉を踏む重い足音がした。二人が同時に顔を向けると、そこには御桐が立っていた。
「如何なさいました、金穂様」
 金穂は慌てて目元を拭い、「なんでもない」と背を伸ばした。
「……昔の話をして、少々感傷的になっただけだ」
 そう言って場を取り繕う金穂の隣で、暗簾は反抗的な目をじっと御桐に向けていた。金穂はそれに気づいたが、何もできなかった。御桐は無表情な面で、暗簾を睨み返している。金穂の鼓動が早まった。どうして暗簾がこんなにも感情的になってしまったのか分からないが、今この二人が仲違いをする理由はないはず。
 金穂が勇気を出して話を逸らそうとしたとき、すっと御桐から目線を下げた。
「もうすぐ出発します」
「そ、そうか。分かった」
 金穂の返事が言い終わらないうちに、御桐は背を向けて去って行った。それを見送り、金穂は深い息を吐いた。
「暗簾、一体どうした……」
 宥めようと彼の頭に手を伸ばし、優しく撫でる。暗簾はまだ機嫌が悪いようで、口を尖らせていた。
「……私のせいだな」もう一つ、息を吐き。「お前に話し、聞いて欲しいと言ったが、やはり、すべてを知るのは恐ろしい。私たちは常に前を見ていなければいけない。後退など考えられないし、考えてはいけないことなのだ」
「なんだよ、それ」暗簾はぼやくように。「考えないから死ぬのか。じゃあ考えれば死なずに済むんじゃないのか」
「死ぬつもりなど、ない……」
「死ぬに決まってんだろ」
「…………!」金穂は手を引き、拳を握った。「後退して助かるなら、とっくにやってる……いや、違う。後退するなら、もっと早くすべきだったのだ。そうでなければ、犠牲になった者たちはどうなる。犬死させるなんて、最悪の裏切り行為だ」
 もう手遅れ、ということだった。
「だけど、金穂は、お前たちは、まだ……」
 生きてる、そう暗簾が言おうとしたとき、再度御桐の声が届いた。
「金穂様。そろそろ……」
 金穂は我に返り、御桐に顔を向ける。御桐はまたこちらをじっと見つめていた。その目線が、暗簾に向く。暗簾もまた、御桐を睨み付けていた。
 金穂は異様な雰囲気に居たたまれず、急いで面を着けて腰を上げた。
「行くぞ……」
 暗簾は御桐から目を外し、素直に言うことを聞いた。
「嫌な思いをさせてしまったようだな。森を抜けるにはまだ時間がかかるが、もう少し辛抱してくれ」
 金穂の気遣いに暗簾は返事をしなかった。そうしている間に、一同が列を為して先に進み始めた。二人は同じように後方から着いて行く。


 森の中には晃牙の重い足音だけが響いていた。風もない、死んでいるような森だった。ここで迷い、四方に漂う絶望感に耐えられず精神が崩壊した物もいると言われている。
 暗簾と金穂に会話はなかった。気まずいと感じていたのは金穂だった。連れてこなかった方がよかっただろうかなどと考える。
 自分たちの通ったあとを、鎌鼬が追って来たこともあった。暗簾の身を案じたのは本当である。
 だが、仲間以外の者、純粋な幼い子と話をしたかったのも本当だった。
 イタチは大きな鎌を振り回して敵を切り刻むため、攻撃の際には障害物のない広い場所を好む。ゆえに、晃牙が森に入った時点で足を止めるだろうというのが御桐の考えだった。ただし、その先には確実に、地獄が待っている。
 イタチは晃牙が箕雨の元へ向かっていることに勘付いている。森を迂回して待ち伏せていることは確かだった。つまり、そこが最後の決戦の場となる。
 金穂は当然、暗簾を道連れにするつもりはない。森を抜けるまで、その短い時間だけと心に決めていた。しかしその短い時間に暗簾を傷つけることは、金穂にとって胸を締め付けられる事実だった。
 だからと言って、今更置いていくことはできない。森に迷わせる可能性があるなら、暗簾が嫌だと言っても安全な場所まで連れていくべきだと思う。
 良かろうと悪かろうと、森を抜けるまでである。そこで暗簾との時間は終わる。最後まで守ろうと、改めて金穂は決意した。
 そのとき、黙って歩いていた暗簾が、すっと手を握ってきた。もう機嫌が直ったのだろうかと見下ろすと、暗簾は厳しい目つきのまま、足を止めた。
「……どうした」
 前方を進む一同は振り返ることなく歩いている。ただでさえ距離が開いてしまっているのに、これ以上遅れるわけにはいかない。
「暗簾、どうした。どこか痛いのか」
 不調があるなら休ませてもらおう、とにかく、皆に待ってもらおうと顔を上げると、暗簾は金穂の手を掴んだまま一歩下がった。
「何を……」
「金穂、逃げよう」
 金穂は目を見開いた。
「お前が死ぬことない。一族なんかなくても生きていける」
 言い終わらないうちに暗簾は列に背を向け、金穂の手を引いて走り出した。
 金穂は、驚きと迷いで抵抗することができなかった。


 二人は無心で森の中を走った。金穂は何度も止めようとしたのだが声が出なかった。
 周囲の風景は変わらなかった。ずっと高い木が繁り、暗いままである。
 乾いた落ち葉に足をとられ暗簾が体勢を崩した。釣られて金穂も転んでしまい、やっと二人は足を止めた。
 止まって初めて体力の限界に気づき、すぐには立ち上がれなかった。二人は呼吸を上げて、走って来た道へ顔を向けた。
「あ、暗簾」金穂は震える手で地面の葉を掴み。「どうして、こんなことを……!」
 暗簾はその場に座り込み、息を上げていた。
「こんなことをして……皆が追ってくる。お前がどんな目に合うか……」
「来ないよ」
「……え?」
「誰も追ってこない」
 暗簾は息を切らせたまま、来た方向を指差した。金穂は這うようにして振り返り、面を外して辺りを見回した。
 ない。
 森は静まり返ったままで、御桐たちの姿はおろか、気配さえも、何もなかった。
「……どうして」
 金穂は混乱し、何度も首を左右に振った。
「嘘だ……」
 それほど離れていなかったし、離れていたとしても、自分がいなくなったことに気づかないわけがない。
「……他の奴らも、同じなんだよ」
 金穂は体中の力が抜けていくようだった。
「金穂だけは生きて欲しいって思ってんだよ。お前に、逃げて欲しかったんだよ」
 ――――。
 それは、石で頭を殴られたような衝撃だった。金穂は一瞬、呼吸をするのを忘れる。
「……そんなはずはない。そんなこと、今まで誰も口にしたことはなかった」
「言えなかったんだろ。それは、お前がよく分かってるんじゃないのか」
 違う、と、金穂は否定するが、頭のどこかでは否定しきることができていなかった。
 逃げたいと思うことはあった。怖いという感情より、そのほうが一族のためではないだろうかと、真面目に考えたこともあった。だけど誰一人弱音を吐かなかった。だから逃げて死に損なうよりも、勇敢に戦って晃牙の名を残すべきだと、歩みを止めなかったのだった。
 しかし、自分一人だけが逃げるなど、金穂自身はそんなことを望んだことはなかった。
 晃牙が戦い続ける理由は、晃牙として生きるためである。そのためには、先代の血を引く自分が頭首として存在する必要があるはず。そうでなければ、「頭」がなければ、一族はただの妖怪の集まりに過ぎないのだから。
 金穂はそうだと信じていた。だから苦しくても、父のため、先祖のため、これから一緒に生きていく仲間のため、「共に死ぬ」と心に決めていた。
 なのに――背を向けた自分を誰も追ってこなかった。一緒に行こうと、誰も言わなかった。
 ずっと我慢してきた涙が、ぽろりと零れた。
「嘘だ……嘘だ」頭を振るたびに、涙が散る。「晃牙は私が必要じゃなかったのか……私は、ただの飾りだったのか……!」
 金穂は地に伏せ、声を上げて泣き出した。





  



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