千代の幽凪

-漆





 やっと見つけた、が、引きずり出した体に、首はなかった。首だけではない。腰の辺りから、斜めに切り裂かれていたのだった。
 暗簾は体の力が抜け、その場にへたり込んだ。信じることができず、何度も首を横に振っていた。金穂がもう死んでしまったことは抗えない事実なのだが、暗簾は錯乱して再び辺りを探した。金穂の首を見るまで、まだ諦め切れなかった。
 足を踏ん張って鼬の死骸を押す。下から何かが見えた。金穂の上半身だった。それも引きずり出したが、やはり首は、なかった。腕も切れ、切り傷が激しかった。鼬たちは金穂が頭首だと分かっていて、集中的に攻撃したのだろう。
 そう思った暗簾は立ち上がって周囲をうろつき、金穂の頭を探す。
 あった。
 暗簾の嫌な予感は当たった。千切られた鼬の鎌が一本、地面に突き立ててあった。その先に、金穂の頭が、まるで飾りのように刺してあったのだった。
 鎌鼬の勝利を意味するものだった。面は、やはりどこにもなかった。
 その光景で暗簾は完全に絶望した。もう二度と、金穂には会えない。
 暗簾はそれに寄り、鎌を倒して金穂の首を両手で持ち上げた。金穂の顔は血で汚れているものの、大きな傷はなく、美しいままだった。表情は安らかなように見えたが、彼女がどんな苦痛と思いを抱いて死んでいったのか、誰も知る由はない。
 暗簾は首を持って、金穂の体の傍に戻った。散り散りになった遺体を一箇所に集め、それを見つめた。
 ――これが、金穂が望んだ最後なのだろうか。
 晃牙は鎌鼬と何度も戦ってきたのだから、こうなることは予測できたはず。避ける手段はあったのに、なぜ、と、暗簾は答えを求めるでもなく、考えていた。
 見つめているうちに、あるものが視界に入った。血塗れで分かりにくかったが、金穂の胸元から一枚の手紙が覗いていた。あの遺書だった。暗簾はそれが何か知らずに手に取る。
 破れないようにそっと開くと、文字があった。なんとか読める。暗簾はただ、文字を目で追った。
『――覚えていてください。晃牙という妖狐の一族が存在したこと。最期まで、勇敢に戦ったこと』
 そこには晃牙がどれだけ栄え、高貴な一族だったのかを語られていた。確かに誇れる歴史を持っていたが、絶滅した今、すべてが虚しかった。もう読んでも意味はない、こんな手紙は捨ててしまったほうがいいと、暗簾が考えていたとき、上下していた目がぴたりと止まった。
『――どうか、この手紙を手にした人がいるならば、箕雨一族の若頭、雷心殿へ届けて欲しい。
 雷心殿、幼い頃に拝見したそのお姿を、今も忘れてはおりませぬ。女を捨て、戦場に身を投じながらも、貴方様と縁を結べると、一時の夢に悠久の慶びを馳せた私を、どうぞお許しください』
 暗簾はそこで、読むのを止めた。視界が滲み、読めなかったのだった。
 血に浸り、今にも破れそうな紙に雫が落ちた。涙だった。
「……なんだよ」
 人を想って涙を流したのは、これが生まれて初めてのことだった。
「お前は、その薄情な男のことが……好きだったんじゃないか」
 結局自分は蚊帳の外だったことを知った暗簾は惨めな思いで一杯になった。
「……だから、俺を置いて行ってしまったんだな。お前は、やっぱり、俺を子供だと思って……」
 こみ上げる嗚咽で、暗簾は言葉を濁す。う、う、と声を押し殺し、大粒の涙を流し続けた。
「ちくしょう……ちくしょう……」
 暗簾は手紙を握り締め、冷たくなった金穂の頭の前で泣き続けた。

 しばらくその時間は続いていたが、徐々に少年の瞳から涙だけではなく、感情も消えていった。泣き疲れた、わけではない。虚ろに見えた瞳の奥には、深い光が宿っていた。
 暗簾の長い黒髪が、風もないのに、揺れた。


◇ ◆ ◇



 晃牙を滅ぼし、生き残った鼬の集団は、平原から離れた場所にある岩の瓦礫にたむろっていた。
 鎌鼬もかなりの痛手を負った。しかし彼らは半数以上の仲間が死んだことより、晃牙一族の息の根を止めたことへの歓喜のほうが上回っていた。鎌鼬はこれらがすべてではない。あちこちに同胞が生息している。晃牙の力の源である面をすべて手に入れたことで、更なる繁栄を築くことができると確信していたのだった。
 疲れた体を休めるため、一同は岩の合間に身を潜めようとしていた、そのときだった。
 人の気配があった。
 鼬は同時に顔を上げ、気配のあるほうに目線を投げる。そこに、一人の妖が立っていた。
 その姿を確認した者のすべてが自分の目を疑った。
「それ」は、殺したはずの金穂だったからだった。
 そんなはずはないと思いながらも、鼬たちは緊張しながら岩間から這い出てくる。
「金穂」の首は落とした。面も奪った。なのに、彼女は五体満足で狐面を被ってそこに立っている。
 面に表情はなかった。幽霊が彷徨っているのかとも考えたが、違う。彼女からは凄まじい妖気が放たれている。それだけではない。殺す前よりも強い力を感じた。まるで、殺した晃牙すべての妖気を凝縮したかのように強大だった。
 鼬がゆっくりと、警戒しながら金穂に近寄ってきた。
 狐面が、笑う。
「……皆殺しだ」
 金穂はそう呟き、くるりと宙で回転して炎に包まれる。その動きは軽やかだったが、一瞬にして巨大な妖獣に変化し、地面を揺らして着地した。
 宣戦布告の嘶きが、再度、轟く。


◇ ◆ ◇



 箕雨一族の住処は滝のある風流な土地に門を構えていた。
 金穂率いる晃牙の生き残りが、自力でここへ向かっていることは知らされており、雷心は不安を募らせながら待ち続けていた。
 雷心は気高く凛々しい妖狐だった。金穂とは昔、晃牙が栄えていた頃に会ったことがあり、周囲にお似合いだと言われて意識していたという軽い間柄だった。
 それきり長い時間会うこともないまま、ある日、晃牙が危機に陥っている報せをもらい、同胞として心から心配した。晃牙が衰退するのは確かだが、必ず鎌鼬を撃退し、箕雨へ向かう。そのときはどうか、生き残りを保護し、金穂を妻にして併合して欲しいといわれ、快く約束を交わした。
 雷心は当然、仲間として助けに行きたかった。しかし晃牙がそれを望まなかった。もう回復の見込みは皆無だった。一族の歴史の幕を閉じる覚悟を決めた晃牙は、最後を飾るために、堂々と戦うことを選んだのだった。
 箕雨にその気持ちは分かった。だからいつでも受け入れる体勢で待ち続けた。必ず、一人でもいいからここへ来て欲しいと願い続けた。
 翠の絹の着物を纏った雷心は、朱一色の大きな館で一人、朗報を待っていた。
 導かれる結果はどんなものであれ、きっと心から喜べるものではないだろう。それでも、僅かな希望を抱き、すべてを受け入れるつもりでいた。
「――雷心様!」
 朱の間に、一人の女中が駆け込んできた。女中は息を切らし、入り口で跪く。
「……か、金穂様が」
 雷心はその名を聞き、目を見開いた。
「金穂殿が、如何した……」
 生きているのか、死んだのか。鼓動が早まるのを抑えることができず、女中の言葉を待つ。
 しかしその必要はなかった。女中が口を開こうとしたとき、彼女の背後に人影が現れた。
 狐面を被った者だった。昔の面影はなく、体中が血や泥で汚れていたが、雷心は確信した。
 金穂だ。彼女は静かに、雷心の元へ足を運んだ。
「金穂殿……」雷心は肩の力を抜き、頬を緩めた。「お待ちしておりました。よくぞ、ご無事で……」
 金穂は挨拶もせず、ゆっくりと歩を進めた。雷心の前で立ち止まり、じっと彼を見つめる。
 雷心は金穂を見つめ返し、よかったと安堵していた。だが、何かがおかしいことに気づく。面をしているとはいえ、彼女からなんの感情も感じ取ることができなかったのだ。
「……金穂殿?」
 金穂は少し俯き、やっと口を開いた。
「……雷心殿にお伝えしたいことがあって来ました」
 そっと、細い指を面に当て。
「私は、貴方様の妻になることはできません」
 雷心は金穂が何を言っているのか分からなかった。もっと話を聞きたい。御桐はどうしたのか、鼬との戦いはどうだったのか。想像もできないほど辛く苦しい道を乗り越えてきた彼女の思いはきっと深く、語りつくせないものであろう。
 だが、もう苦しまなくてもいい。ここに居れば安全だ。身を清め、傷を癒して欲しいと伝えようとしたとき、金穂は面をずらし、その下の顔を曝した。
 そこにあったのは、顔の皮を剥がれ、肉がむき出しになった見るに耐えない姿だった。雷心は蒼白し、震えながら後退る。
 おぞましい顔から出た次の言葉は、低い男の声で綴られた。
「――金穂は、俺が食った」
 金穂は笑い出した。その声は喉からではなく、金穂の腹部から響いているようだった。何が起こっているのか分からず混乱する雷心の前で、金穂は嫌な音を立てて崩れ去っていく。雷心がその様子を目で追っているうちに、肉も骨も溶け崩れ、血肉の塊となった。傍に、面が音を立てて転がる。
 女中の悲鳴が響いた。雷心は声も出せないほど驚愕し、恐怖と絶望に支配されていた。
 足元の血肉が揺れ、生き物のように盛り上がる。そこから、見たことのない黒髪の男が上半身を持ち上げた。
 現れたのは、金穂の身長を超えたるほどに成長した青年の暗簾だった。長い黒髪をかき上げながら真っ赤な舌を見せ、不敵な笑みを浮かべている。
「これが、金穂の望みだ。言ったとおり、叶えてやったぜ……鼬を皆殺しにし、面を仲間に届けた。これで、満足だろう?」
 暗簾は震える雷心を一瞥し、肩を竦めながら胸元に手を入れる。
「ああそうだ、これも――」
 そう言って真っ赤に染まった手紙を取り出し、雷心の足元に投げ捨てる。
「……じゃあな。誇り高き晃牙の遺品、せいぜい大事にしてやれよ」
 暗簾は踵を返し、絶望で膝をつく雷心を置いて立ち去った。
 背後から、金穂の面と手紙を抱いて咽び泣く雷心の声が聞こえたが、暗簾の心には何も届かなかった。


 晃牙の生き様と最後の戦の軌跡は箕雨の者によって大事に語り継がれていった。ただ、当の戦で一体何があったのかは謎に包まれることとなる。
 あの後、憂う雷心と数人の仲間で戦の跡地へ向かったのだが、そこから得られた情報はまともなものではなかった。確かにそこには晃牙と鎌鼬の亡骸が血に塗れて散乱していた。それだけではなく、離れた場所でも似たような戦闘の跡があり、そこにあった遺体は鎌鼬だけのものだった。その数はざっと三百は超えていた。
 遺体のほとんどが原型を留めておらず、肉は乾涸(ひから)び、砕けた骨だけが残っている状態だった。同胞である仲間の遺体を弔うために肉を集めようとしたところ、肉体の複数個所が見つからなかった。
 狐と鼬にそこまでする能力も、そうする必要もない。つまり、その二種の妖怪以外の何者かによる仕業だとしか考えられなかった。
 雷心は黒髪の男――暗簾の顔を思い浮かべた。彼がやったのだと察したが、なぜこんなことをしたのかまでは分からなかった。
 寄生種の妖怪であることは考えれば分かるのだが、まさかここまで力のある者が存在することなど、誰も知らなかったからだった。
 そして、彼が一体何のために金穂の遺体と遺品を自分に届けに来たのか、この疑問は雷心の心にずっと残り続けることになる。
 後に暗簾の噂を耳にすることになり、もう一度会おうと探したが、その願いは永遠に適わぬものとなった。 

<了>




  



後書


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