いつの間にか汗ばむ夏は過ぎていた。
 古びた祠には緩やかな風が流れ込み、誰かが下げた風鈴が透明な音色を奏でている。
 この何もない建物を寝床にしている一人の青年がいる。彼は人間の体でありながら、妖怪の魂を持つ異形の者だった。
 今は昔の名である才戯を名乗っているが、人間だった頃の赤坐というそれも完全になくしてしまえるものではなかった。
 赤坐は元々、弟を一人連れただけの根無し草だった。今はその弟も別の生活を送っており、完全な孤独の身となっている。昔の才戯も似たようなものであり、今の立場は家族や親族を持つ者よりも気楽だった。
 寂しいという気持ちはない。むしろ一人で適当に過ごしていられるほうが性に合っているのだ。
 しかし、人間には縁がある。それがいいものか悪いものかは様々だが、なまじ腕の立つ赤坐は、特殊な場所ではその名を知られていたのだった。各地を転々としていれば、いずれその噂も消えるものだと思っていたのだが、何かしら情を抱いている者の記憶からは簡単に消えることは、なかなかない。
 才戯はそのことを、今この場で思い知ることになっていた。
 朗らかな祠の中には、微妙な空気が漂っていた。気まずそうな才戯の前に、一人の少女が座って彼を見つめている。
 少女は年の頃十八。名をまつと言い、派手目な着物で身をまとい、大きな花のかんざしで髪を結い上げている。濃い目の紅をさした生意気そうな顔つきと、幼さの残る雰囲気から彼女の世間知らずさが垣間見える。
 茉は一見、町娘のように見えるが、実はとある盗賊頭の一人娘だった。
 何の前触れもなく訪れた彼女が、才戯は誰だか分からなかった。当然である。彼には、才戯と赤坐の二人分の記憶があるのだが、人間に興味のない才戯は赤坐の頃の記憶など思い出す必要がほとんどなかったのだから。
 しかし、茉の話を聞いているうちに、そんなこともあったようなと、ゆっくりと才戯の中で記憶が甦ってきた。
 確か、四年ほど前だったはず。


  



 汰貴と放浪しながら、赤坐はとある町へたどり着いた。夜になり、眠る場所を探していた二人は、潰れて時間が経っているであろう食堂を見つけた。人家からも離れていたため、ここなら都合がいいと戸を壊して中に侵入し、そこで休むことにした。
 その建物の所有権利者はいなかったのだが、見かけない二人組みの存在に気づいた盗人が、周辺を仕切っている盗賊頭に知らせたのだった。それが、茉の父親だった。
 二人は呼び出しを食らった。汰貴はまだ十一であり、腕が立つわけでもなんでもないただの少年である。先に寝ていろと伝えて、赤坐だけが一人で彼に会いにいった。
 話はそう難しいことではなかった。汰貴はともかく、赤坐には町人らしからぬ異様な落ち着きがあり、盗賊は彼を同業者と見抜いた。だから、自分たちの目の届く場所で活動をするのならばきちんと挨拶をしろ、ということだった。
 別に本格的に盗みを働くつもりのなかった赤坐は、臆することなく「旅をしていて、たまたま通りかかっただけ。目障りならすぐに出ていくから関わらないで欲しい」と伝えた。
 頭・錆介しょうすけは厳つい大男で、いかにも凶暴そうな風貌をしていた。彼を取り巻き、赤坐に凄みを利かせる手下たちも修羅場を潜り抜けてきたような強面ばかりだった。
 しかし赤坐はまったく怯えを見せなかった。その気になれば逃げ切れるという自信があったのだ。それに、と思う。こういう輩は最低限の礼儀さえ払えば無闇に襲ってこないことを知っている。赤坐が幼い頃に拾われたそれらは、組織とは呼びにくいほど理性がなく、救いようのない鬼畜の集まりだった。それと比べれば、こういうのは言葉が通じる分扱いやすい。
 錆介は、まだ若いのに肝の据わった赤坐に好感を持った。しばらく様子を探った後、かまをかけるように呟く。
「五年くらい前か」ボサボサのヒゲを撫でながら。「凪丸なぎまるという盗賊頭が、一人のガキに殺されたらしい」
 その忌まわしい名を耳にし、赤坐は初めて表情を変えた。まさに、赤坐が虐げられてきた盗賊の名だったのだから。同時に警戒を強める。誰からも嫌われていたクソ野郎とはいえ、それなりに名の通った盗賊だったのだ。それが僅か十三のガキに殺されたとなれば、同業者は興味を持つだろう。
 そのガキというのが、自分だということに気づいたのか。証拠はないのだから勘に過ぎないのだろうが、それを知ってどうするつもりなのか。赤坐は考えた。本当のことを言うべきか、隠して嘘をつくべきか。
 赤坐は常に汰貴の安全を最優先にものを考える。この頭に嫌われて遠くへ逃げるか。いっそ気に入られて、たまに繋がりを持つか。どちらが楽だろう。できれば、どっちも願い下げだった。一つ確かな答えがあるとしたら、仲間になれという誘いだけは断固拒否することだった。
 考えた末、赤坐は目を伏せて答えた。
「存じません」
 嘘だということは見抜かれている。ここで錆介が、何年も前に死んだ凪丸の名を出したということは、赤坐という男を見て、瞬時に鋭い勘が働いたということなのだ。きっと彼の勘は外れたことがないほど、人を見抜く目を持っているのだと思う。
 赤坐の嘘は、暗に「関わりたくない。放っといてくれ」という意思表示だった。それをどう受け取るか、赤坐は答えを待った。
 錆介はしばらく無表情で赤坐を見つめた後、低い声で問う。
「なぜ、嘘をつく?」
 同業者ならば、自分ほどの大物に気に入られるいいきっかけだと思うはず。錆介はそう思って疑わなかった。だから赤坐の答えに納得がいかなかったのだ。
 赤坐は、その問いには正直に答えることができた。
「手前には家族がいます。幼い弟です。命を救ってくれた亡き父親の形見。それを守るためならば、人を欺くことを厭いません。それが理由です」
 赤坐は錆介の目を真っ直ぐに見つめ返して、はっきりと言った。これで分かってくれないなら、話の通じない相手だと判断するのみ。
 赤坐は錆介の心情を探ったが、無表情で読めない。どう出るか――緊迫した空気の中、錆介は更なる質問を投げかけてきた。
「堅気になる気は?」
 そんなことかと、赤坐はこれも冷静に答える。
「ありません。弟を守るためには自由が必要。いざというときに身動きが取れなければ手前に生きる価値はありません」
 赤坐の言う「身動きが取れない」というのは、刀が振れない、つまり、人を殺めることができないという意味も含まれていた。いずれにしても赤坐は既に罪を犯している。過去を隠して日の下で生きるのは窮屈である。
 錆介はそのすべてを読み取った。そして、笑う。
「しっかりした男だ。気に入った。いいだろう。そこまで覚悟を決めているのなら認めてやるよ」
 赤坐は彼から殺気が消えたことで警戒を緩めたが、納得のいく結果が見えるまでは安心できなかった。未だ愛想のない顔をしている赤坐に、錆介は目を細めた。
「ぜひ面倒を見てやりたいところだが、いらぬ世話のようだな。よし、分かった。今から酒に付き合え」
「え?」
「せっかくの縁だ。お前の話をもっと聞きたい。今後、お前に干渉しないと約束する。その代わり、今日は俺を楽しませてくれ」
 錆介から騙そうという気配は感じない。本当に酒に付き合って欲しいだけなのだろう。赤坐は拍子抜けしつつ、汰貴が起き出す前までならと了解した。

 手下も一緒に場所を移動し、少し歩いたところに城跡があった。どんな戦に負けたのか知らないが、城は完全に崩壊していた。不定期に転がる瓦礫は盗賊たちの腰掛の代わりにちょうどよく、錆介たちが何年も前から酒盛りの場所として利用しているらしい跡があった。
 武士の無念が篭っていてもおかしくなさそうなものだが、盗賊という無骨で無神経な男たちの前では出る幕もないのだろう。
 手下が手馴れた様子で篝火をおこし、城跡を赤く照らす。赤坐は錆介の前に腰掛けながら周囲を見回し、これはこれで風流なものだと気楽な感想を抱いた。
 しばらくすると女性が数人、手下に連れられてきた。この集団の専用女なのだろう。頭に客人だと紹介されると、女の一人が妙に色っぽい仕草で酌をしてくる。赤坐は女が嫌いでも、慣れていなくもなかった。しかし、ここで羽目を外すわけにはいかない。遠慮がちな態度で距離を置きながら、今は錆介の機嫌を取ることに集中しようと、酒も控え目にと努めた。
 茉と出会ったのは、このときだった。
 夜も更け、頭も手下もほろ酔い、赤坐が場に馴染んだ頃だった。錆介の背後から耳打ちしてくる手下がいた。錆介は一度赤坐に目を配った後、肩越しに振り返った。その目線の先にいる者を確認し、にやりと笑う。
 錆介が「呼べ」と伝えると、手下はその指示に従う。手下が消えた先から、一人の少女が近付いてきた。少女は幼く、「お嬢様」と呼びたくなるような風貌だった。他の女性とは明らかに違う雰囲気で、この場にはとても似合わない。
 少女は錆介の隣で、赤坐に微笑みかけてくる。
 赤坐は、途端に嫌な予感を抱いた。
 瞬時にして見えない壁を作り出した彼に気づき、錆介は豪快に笑い出す。
「茉、やめておけ。お前みたいなガキ、相手にしてもらえねえよ」
 茉は顔を赤くして驚いた後、すぐにいじけて頬を膨らませた。
父様とうさま、酷いわ。どうしてそんなことを言うの」
「お前には俺がもっといい男を紹介してやるから、こういう変人には興味を持つな。まあ、もっとも、お前が一人前になってからの話だがな」
「いつまでも子供扱いしないで。私だってもう子供を生める体なのよ」
 恥じらいがあるのかないのか。赤坐は、空気を読める錆介に任せてしまおうと、顔を背ける。背けた途端、錆介に名を呼ばれてすぐに向き直った。
「おい、コイツは俺の、大事な一人娘の茉だ。どう思う?」
 直接的な質問に、赤坐は戸惑う。ここで失礼なことは言ってはいけない。少女のこの感覚のズレからして、きっと父親に猫のように可愛がられているのだろうと思う。錆介自身もそれが身内贔屓なのは分かっているのだろうが、目の前で心無く娘を傷つけられてしまえば、その怒りと恨みは尋常ではないはず。
「えっと」赤坐は口籠りながら。「か、可愛らしい方だと、思います」
 それを聞いて、茉は両手を頬に当てて嬉しそうに微笑む。しかし、錆介は更に笑い出した。
「可愛らしいだってよ」茉の頭を乱暴に撫でながら。「やっぱりガキにしか見えねえんだよ、お前は」
 そんなつもりではなかった赤坐は慌てて首を横に振ったが、茉は父親の大きな手を振りほどきながら俯いてしまった。しかも、じわりと涙目になり始めている。それに気づいた赤坐の顔が青ざめた。何もしていないのに、なぜ泣かれなければいけないのか。きっと錆介はそんなことで因縁をつけてくる男ではないと信じたいが、身内への異常な愛情は他人の想像の枠を超えることがある。からかいながらも娘のことが可愛くて仕方がないというのは、赤坐には伝わっていた。だから当たり障りのない言葉で場を凌ごうとしただけなのに、他に方法が何も思いつかない。
 茉は涙を飲み込むようにして顔を上げ、突如赤坐を睨み付けた。今度はなんだと体を引くと、茉は大股で彼に歩み寄り、傍にいた女性を押しのけて隣に座り込んだ。
「父様、私、この人がいいです」
 は? という言葉を、赤坐は堪えた。錆介は笑いながらも眉尻を下げる。
「いい加減にしろよ。迷惑だろ」
「どうして迷惑だと分かるんですか」
「だから、そいつはお前に興味がないんだよ」
「そんなこと……」
 言葉を失った茉は、再び泣きそうな表情で赤坐を見つめる。赤坐は流れ出る汗を隠すことができずに、顔を引きつらせていた。
「ねえ」そんな彼に、茉は詰め寄ってくる。「私をお嫁さんにして」
 ――困った。
 赤坐は必死で体を傾けて彼女から離れようとした。
「茉、無理を言うんじゃない」
 錆介は声を落して宥めようとするが、自分がからかったせいで意地になっていることも分かっており、本気で申し訳なさそうにしている。
 やはり、この大男は娘には弱いようである。このままでは埒があかない。赤坐だけではなく、錆介も同じことを思った。
「すまねえな。まあ、これも縁かもしれねえ。小僧、どうだ、あんたさえいいなら娘の相手をしてやってはくれないか」
「えっ」
 話が違うと、赤坐は短い声を上げた。
「いきなり嫁に貰ってくれとは言わねえよ。しばらくここにいて、その小娘をあやして欲しいだけだ。もしそれで気に入ってくれれば、お前にくれてやってもいいぜ」
 錆介が冗談で言っているのは分かるが、半分は本気なのも感じ取れる。茉に至っては真に受けている様子で再び嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 まずい。これ以上話を具体的にはさせまいと、赤坐は容赦なくぶち壊す。
「お断りします」
 途端、周囲に空気が固まった。強く言い過ぎたかと赤坐は後悔したが、遠まわしに言っても時間の無駄と判断し、錆介に向かって姿勢を正した。
「俺は誰の仲間にもなりません。お嬢さんは、魅力的な女性かもしれません。しかし、俺は相手が誰であろうと身を固めるつもりはないのです」
 赤坐は、茉の目を一切見ずに言い切った。錆介からも笑みは消えている。
「それも、弟のためだと?」
「はい。少なくとも弟が一人前になるまでは、自分の何を犠牲にしても守り続けると亡き父に誓いました。その思いに迷いはありません。どうしても許せないなら、どうぞ、ここで首を落してください」
 そうは言いつつも、大人しく首を落されるつもりはなかった。それ以前に、さすがに娘のためとはいえ、錆介がそんなバカなことをするとは思えない。赤坐に恐怖はなかった。
 正直なところ、茉という少女が好きになれないというのが本音だった。盗賊頭の娘というだけで重苦しい。確かに器量は悪くないが、まだ幼すぎて「女」には見えない。一番の問題は、この世間知らずで我侭な性格である。それだけならまだ許せるが、この「父親を盾にすればなんでも思い通りになる」というふてぶてしい思い込み。自分では何の努力もせずに、親の威を借りて大人の男を言いなりにできる快感に味を占めているのだろう。
 ここに留まらない理由がなかったとしても、地位や名声に興味のない赤坐には、彼女から何一つ魅力を感じられない。
 もうこれ以上深入りしたくない。まだこの話を続けるのなら、今すぐここから立ち去ってやる。そう思いながら、赤坐は錆介に鋭い目を向けた。
 緊迫した空気が流れた。こう攻撃的な態度を取られては錆介も簡単には引けなくなっている。周囲の手下たちも酒の手を止めて赤坐に目線を集中させていた。隣で震えている茉は悔しそうに唇を噛んでいる。
 さすがに、赤坐に後悔の念が押し寄せていた。理由は下らないことだが、結局はいらぬ敵を増やしてしまうことになるかもしれないと思う。しかし、ここはどうしても譲れないのだ。まさか茉の子守のために居残ることなど考えられないし、強要されるなら危険を承知で戦ったほうがマシである。
 無数の痛い視線が赤坐に集まる中、緊張の糸を切ったのは錆介だった。
「……茉、諦めろ」
 赤坐と茉は同時に顔を上げた。
「父様、どうして?」
「どうしてじゃねえよ。そいつは俺の客だ。お前の玩具には重すぎる」
 玩具だの変人だの、先ほどから酷い言われようだが赤坐は別段腹は立たない。冗談なのも、茉を宥めるための皮肉だということも分かるからだ。
 茉は顔を真っ赤にして肩を震わせる。父親が欲しいものを与えてくれなかったことは初めてなのかもしれない。込み上げる涙が零れる前に、立ち上がって闇の中に走り去っていった。
 錆介はため息をつく。赤坐が気まずそうに茉が消えた先を目で追っていると、彼女を追って二人の手下が走っていく姿が見えた。
「みっともないところを見せちまったな」
 そう呟く錆介に、赤坐は「いえ」と返す。
「親分のご配慮、感謝します」
 気持ちは分かるとでも言うように、赤坐は頭を下げた。錆介は自嘲しながら声を落とす。
「本当なら、娘のためにお前を縄で縛りあげてでも言いなりにさせたいところだが、俺が娘を可愛いのと、お前の弟への過保護さは同じなんだろうなと思ってな……」
 自分は「可愛い」で、相手のそれは「過保護」とは。この差が錆介の親バカさを物語っていると赤坐は思う。しかし、なんとか収まりがついたと胸を撫で下ろした。
「誰かを守るってのは、大変だなあ」まるで独り言ちるように、錆介は空を仰いだ。「情が己を強くしてくれるというのに、大事なものを思えば思うほど、自分を捨てて恥をかかなけりゃいけないときがある。どれだけ力を持っても、人の世は常に世知辛いものだ」
 錆介は頭もよくて器の大きい、いい男だと思う。凪丸とはまるで正反対の生き物だ。もしも自分が錆介に拾われていれば――いや、そんなことは無駄な想像だ。生まれついての障害や不幸があったからこそ武流と、汰貴と出会えた。凪丸に受けた苦痛よりも、彼を経て得た幸福のほうがよほど大きいのだ。今に至るまで、何も後悔することはない。だから、赤坐は考えることをやめにした。



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