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 それから赤坐は錆介としんみりと語り合い、丑二ツ(午前二時半)を刻む頃に解放された。
 赤坐は明日にでもこの地から立ち去ること、錆介は自分たちを追わないことを互いに約束し、別々の寝床へ戻っていった。
 赤坐が汰貴の元へ戻っても、すっかり深い眠りに入っていた汰貴は目を覚まさなかった。枕を抱いた形で眠っている彼をもしやと思って覗き込むと、やはり、泣いた後があった。赤坐が殺されやしないか、もう戻ってこないんじゃないかなどと不安になって、だが信じるしかないと自分に言い聞かせながら、一人で耐えていた様子が想像できる。
 少し離れただけで、これだ。どうして見捨てることができるだろう。
 酔いと精神的な疲れで、赤坐はすぐに弟の隣で眠った。そして早朝、汰貴に酒臭いと文句を言われながらその地を発った。

  


 錆介と茉とのかかわりはそれっきりだった。赤坐さえ忘れかけていたことを、「他人」の才戯が覚えているわけがない。
 なのに突然現れた茉は、長い間引き離されていたかのような感激ぶりで彼の前に現れたのだった。
「ずっと探していたのよ」
 やっと思いが叶うと信じて疑わない茉は、頬を染めて上機嫌だった。
「この前の縁日」ふふ、と笑い。「凄腕の盗賊が出たって聞いて、もしかしてと思ったの」
 そんなこともあったなと、才戯は虚ろな目線を遠くに投げていた。
「あなたのこと、調べたのよ。まだ独り身なのでしょう? それに……」
 勿体ぶるように、少し間を置き。
「あなたが大事だって言ってた弟、もういないらしいわね」
 ――そんなことで得意げになっている茉に、才戯は呆れるしかなかった。確かに弟はいないが、赤坐という男もいなくなっているのだ。今ここにいるのが、同じ姿をしたまったく別の人物だということまで調べて出直してこいと、才戯は無理難題を心の中で押し付ける。
 見向きも返事もせず、ぼんやりしている才戯の態度に少々苛立ちながら、茉は彼に擦り寄ってくる。
「ねえ、もう私を拒絶する理由はないはずよ」
 ある。元々ある最大の問題は何一つ改善されていない。それどころか、年齢を重ねて余計に悪化しているではないか。だからと言って、直すべき箇所を教えて直させようとも思わない。才戯は鬱陶しそうにため息をついた。
「父様だって、たまにあなたのことを思い出しては感心なさっていたのよ。私たちが夫婦になれば、きっと喜んでくださるわ。だから」
「うるさい」
 やっと言葉を発した彼からは、無情なそれしか出てこなかった。茉にはまったく予想外の言葉であり、何が起きたのかすぐには分からないかのような顔で息を飲む。
 赤坐が考える錆介への最低限の義理が賢明なものだったということは、才戯にも分かる。しかしそこまでを自分が引き継ぐ必要はない。赤坐のように守るものもなければ、錆介への情もない。例え恨みを買って襲われたとしても、返り討ちにすればいいだけのこと。才戯は茉に遠慮するつもりはなかった。
「人違いだ。消えろ」
 茉は眉を寄せ、才戯を睨み付ける。
「……何言ってるの」僅かに声が震えている。「どうせなら、もっとマシな言い訳しなさいよ」
「残念ながら赤坐は死んだ。他を当たれ」
「な、何よ、その嘘。じゃあ、あなたは一体誰なのよ」
「お前とは赤の他人だ。これ以上話すことはない。さっさと出て行け」
 茉はぐっと膝の上で拳を握った。あれから四年、彼女もいろいろなものを見て経験してきた。もうあの頃のようにすぐに泣き出すような子供ではなかった。
「……私は」手紙に綴るように、語り出す。「ずっとあなたのことを思っていたのよ。諦めようと思ったこともあった。でも、どうしても忘れられなくて、ずっとずっと探していたの。それで……やっと見つけたのよ」
 素直な気持ちであることは分かる。しかし、強く思えば相手に通じるかといえば、そうでもない。だからどうしたと、才戯の心はまったく動かない。
「久しぶりにあなたを見て、やっぱり好きだって思った。やっぱり、私にはこの人しかいないって……だから、ねえ、私、あなた以外の人なんか考えられないの。今からでいい。私のこと、一人の女性としてちゃんと見て欲しい」
 誰がそんな面倒臭いことを――才戯に人を想う感情があれば、とっくの昔に身を固めている。仮に気持ちが多少揺れたとしても、その場限りの気の迷いでしかない。今までそうだった。
 才戯はちらりと茉に目線を向ける。茉はそれだけで何かを期待したように身を乗り出したが、すぐに逸らして大きなため息をつく彼の態度に再び打ちのめされる。
「な、なによ、それ……」
 茉は、きっと赤坐も同じ気持ちなのだと信じていた。もう数年経ってしまったのだ。もしかしたら記憶も薄れてしまっているかもしれないが、それでも、自分の強い気持ちを伝えれば通じるものだと思ってここへ来た。なのに、彼の冷たさは、本当に人違いをしているのではと錯覚しそうなほどである。
 茉は悔しさを噛み締め、これ以上は耐えられずに才戯の肩に掴みかかった。
「こっちを、私を見てよ!」
「……な」
 突如大きな声を耳の近くで出され、才戯は反応せずにはいられなかった。
「あのときは、確かに私はまだ幼かったけど、今はもう違うの。あなたに相応しい女になろうと努力してきたのよ。もしかしたら、二度と会えないかもしれないって思ったこともあったけど、でも、諦め切れなかったの。それで、こうして会えたのよ。あなたの存在を知ったとき、私がどれだけ嬉しかったか。私の気持ちが分からないの?」
 気持ちは分からないでもないのだが、それに応えるかどうかは人の勝手である。才戯は茉の気迫に押されつつ、やはり考えは変わらなかった。
 まだ足りないのかと、茉は温度差を受け入れずに膝立ちし、覆いかぶさる勢いで彼に迫り続ける。
「ねえ、私、綺麗になったでしょう? 口説かれたことだってたくさんあるわ。でも、全部断ってきたの。素敵な人もいたけど、どうしてもあなたが忘れられなくて、あなた以上に好きになれる人がいなくて……心と共に、体も守り続けてきたの」
 茉の浮かべる怪しい笑みに、才戯は目尻を揺らす。彼女に無条件で疼くほどの色気はないのだが、ご丁寧に膳立てして押し付けられてしまったら、突き返せる自信はなかった。才戯は体を引いて距離を空ける。ヘタに手を出せば、更なる嫌がらせが始まるだけなのだから。
「……あなたの女になりたいの。あなたなら父様も認めてくれる。一緒になって、愛し合って、子を育み、幸せな家族になりたい」
 たじろぐ才戯を追い、茉は思いに浸りながら押し倒す勢いで擦り寄ってくる。
 ――まずい、このままだと理性が切れる。そう思い、才戯は力を振り絞って茉を押し返す。
「いい加減にしろ!」
「!」
 茉は才戯に強く押さ返され、床に腰を打って小さく悲鳴を上げる。体を起こしながら、信じられないという表情で青ざめた。
「……どうして?」とうとう、目が潤み出す。「私の何がいけないのよ。なんの不満があるというの?」
「不満もクソもねえよ。いきなり押しかけて勝手に一人で酔っ払いみたいなマネしやがって。気でも触れてんのか」
「そ、そんな……」
「話を聞くだけなら暇つぶしにもなるが、そう押し迫られたらこっちだって黙っていられねえんだよ。無駄に疲れさせやがって。鬱陶しい」
 才戯の無情な言葉に、茉は涙を零す。
 こうして、必要以上に相手を傷つけるのは才戯の悪い癖だった。これは、単なる煽りに過ぎないのだ。優しさを持ち合わせていない彼は、昔からいらぬ敵を作り続けてきた。だが、それもまた才戯の個性の一つとも言える。彼は何も恐れない。恐れたことがない。戦う以外に生き甲斐を感じない才戯は敵を増やすことに抵抗を感じなかったのだ。
 ただ、もう昔とは違うということを自覚していない。それが問題を引き起こすなど、今はまだ考えることができなかった。
 茉は涙を拭って座り直した。
「……どうして」息を詰まらせ、首を横に振り。「いいえ。そうよね。私が今まで他の人を受け入れなかったように、あなたも私を受け入れられない。そういうことだってあるのよね」
 やっと分かったかと、才戯はふんと顔を逸らす。
「でも……今すぐ答えを出さなくてもいいから、少しだけでいいから、私を見てよ」
 茉は涙で塗れた顔を上げて。
「押しかけたことは、謝るわ。だから、私を見て。これから私を傍において、私のいいところも悪いところも見てちょうだいよ。それでも好きになれないなら、諦めるから。ねえ、私をここに置いて」
 多少はしおらしくなったと思うが、才戯はそれでも耳を貸そうとしなかった。
「だって、あなたは独りでいるじゃない。もう家族もいないし、打ち込んでる職も、何もないんでしょう? 私一人が生活の中に増えることに何の支障があるというの?」
 そういう問題ではないことを、なぜ茉が分からないのかが、才戯には分からない。この世界では男女が夫婦になることは決して珍しいことではなく、むしろ当然の流れでもあった。だから茉がより良い伴侶を求めるのは本能的なものなのかもしれないが、才戯は逆の生き物なのだ。彼に余計なものが入り込む隙は、一切なかった。
 未だ変化を感じられない才戯に、茉は諦めの気持ちを抱いた。だけどここで引いてしまったら二度と会えない。現実的な理由がない限り諦めることなどできず、激しい葛藤が涙を押し上げてくる。
「……赤坐、あなた、もしかして」
 茉の中に、一つの予感が走った。言いたくない、が、答えを出すためには言ってしまわなければいけないと、勇気を出す。
「好きな人がいるの?」
 ――――。
 ほんの僅か、才戯の指が揺れた。茉はそれを見逃さない。
「そうなの?」茉の声が震えた。「そうなのね。だから、私に見向きもしてくれないのね」
 才戯は自分自身を疑っていた。茉に問われ、なにをバカなことをと心の中で呟こうとした瞬間、意志に反して脳裏にある映像が浮かんだのだ。
 才戯が見てきた中で、一番の美貌、そして強烈な輝きを持つ女性の姿だった。
 才戯は何が起きたのかすぐには理解できず、額に汗が流れた。
(……なんだよ、今の)
 違う、と強く否定する。彼女のあまりの存在感が、ただ記憶に焼き付いているだけだと自分に言い聞かせる。
 その女性、樹燐は幻の中で微笑んでいた。あの、勝気で自信に満ちたそれ。まるで欲しいものを手に入れたかのような挑発的な表情は、才戯の反発心を煽ってくる。
(クソ、冗談じゃねえぞ)才戯は奥歯を噛み締め。(なんなんだよ、どいつもこいつも)
 そうだ。樹燐とて人の都合などお構いなしで押しかけ、勝手に騒いで勝手に当り散らしているだけの、そこにいる茉となんら変わりはない人種ではないか。
 確かに、外観だけは完璧で、極上の女である。それだけだ。見た目がいい女なんか、そこら辺にいくらでもいるのだ。才戯は自身に言い訳しながらも、今まで経験したことのなかった現象に困惑せずにはいられなかった。
 明らかに動揺している才戯を、茉は胸の痛みを堪えてじっと見つめていた。
「……どんな人?」
 肩を震わせる茉の呟きに、才戯は我に返る。
「教えて。辛いけど、あなたを諦めるために、どんな人が知りたい」
 違う、違う――誰があんな女の言いなりになんかなるものか。
 才戯は怒りさえ抱き始め、感情を隠すように片手で顔を覆う。
 そうだ、これは恨みだ。人の魂も、運命も何もかもを操ろうとする樹燐への嫌悪。そうだ、と繰り返す。
「その人が好きだから、今も一人でいるのね。赤坐はその人を待っているのね」
 茉の言葉は、才戯の苛立ちを扇動してくる。違う。何度言っても足りないほど、彼の中で渦巻いていた。
「あなたの心をそこまで奪えるなんて、とても素敵な人なのね……その人はどこにいるの? どうして一緒になれないの? きっと何か、深い事情が……」
 ――違う。
「……黙れ」
「!」
 搾り出したような声と同時、才戯は茉の腕を掴む。そのまま、床に押し付け、幻を打ち砕こうと強く瞼を閉じる。
 茉は抵抗せず、このまま勢いでも、腹いせでも構わないと、体の力を抜いた。
 ――冗談じゃない。
 才戯は呼吸を深くし、片手で茉の首をゆっくりと掴む。その手に自然に力が入り、茉は顔を歪めた。
 ――俺は、誰にも支配されない。

 ポタリ。

 赤い雫が、落ちた。
 奇妙な感触を覚え、才戯は目を見開く。

 ポタリ、ポタリ……。
 紅く、柔らかいものは足元に染みを広げていく。
 これは、鮮血。止まることなく、次第に落ちる速度を速めていく。

 これは、なんだ。才戯は何度も瞬きをするが、その幻は頭の中から消えない。

 傷を負った「彼女」は、一人で静かな廊下を、重い足を引きずるように歩いていた。こんな体でどこに行こうとしているのか、誰にも分からない。
 地に池ができそうなほど、鮮血は流れ出していた。生ぬるいものが溢れていくほど、その体はしんと冷えていく。身に纏う煌びやかな衣服も装飾品も、すべてが鈍い赤に染まっていった。
 そこに伴うのは、確実な死。逃れられないほどに深い傷口を、いくら両手で抑えても、その細い指の間から溢れ止まらない。
 彼女が抑えているのは、左の胸。心臓の位置から、赤い滝が流れていた。胸から腹部、そしてつま先にまで染みは広がり、足元は血溜まりに浸っている。
 一歩一歩と足を進めているのに、ほとんどその場から進むことができず、彼女の後ろには引きずる裾が血痕を広げていく。

 一体、何が起きている――?
 才戯は幻に捕らわれ、茉を掴む手から力が抜けていく。

 迫り来る苦痛、恐怖、そして、孤独。そのすべてに支配されていく彼女は、微笑んでいた。
 強がりでも虚勢でもない、満たされたような笑顔。
 息が上がり、血の気が引き、大量の汗が溢れ出している。
 徐々に視界がぼやけ、逆流してくる血液で喉が詰まり呼吸さえままならず、体のどこにも力が入らなくなっていくのに、彼女はまだ足を止めなかった。
 苦しくないわけがない。周囲には誰もいないのに、なぜ彼女は笑っているのだろう。
 彼女は、樹燐は、どこへ向かおうとしているのだろう。

 彼女の苦しみが乗り移ったかのように、才戯は体をずらして茉の隣に倒れこんだ。頭を抱え、呼吸を乱している。
 茉は彼の変化に気づき、戸惑いながら声をかける。
「ど、どうしたの?」
 何が起きたのか分からないのは、茉も同じだった。才戯は顔を上げず、「出ていけ」と呟く。
「え?」
 もう一度、出ていけと言おうとしたが、もう才戯には追い出す気力さえなかった。追い出せないなら、自分が出ていけばいい。
 呆然とする茉を置いて、才戯はふらつきながら祠を後にする。
 どこへ行くのか、とくにあてもないまま。



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