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 神々の世界、天上。
 その中心にある宮廷は、一つの国に匹敵するほど巨大なものだった。すべてが金箔に包まれており、常に輝かしい光を纏っている。
 その内部は、建物よりも高貴な心の持ち主である神族が行き交っている。いつもはしとやかな雰囲気で包まれている場所なのだが、ここ最近は不穏な空気が漂っていた。

 宮廷の高い位置にある客間に一人、鬼子母神の眷属である樹燐が椅子に腰掛け、大きな窓の縁に肘をついていた。誰もが羨むような権力と美貌に恵まれている彼女は、その姿に似合わないため息を漏らしている。
 窓の外には睡蓮の池が広がっている。宮廷以上の面積を誇るそれは、水平線が霧で隠れて端を確認した者はいないと言われている。そしてその底もまた、どこへ繋がっているのかは、神でさえも認知していなかった。
 樹燐は虚ろな瞳で遠くを見つめていた。いつまで経ってもため息が途切れることはないと、自分で思う。
 樹燐は、叶うことのない恋に悩んでいたのだ。
 相手は妖怪の魂を持つ人間。住む世界が違いすぎる。他のことはなんとでもなると考えるのだが、それだけは超えられない壁なのである。
 相手は、他ならぬ才戯だった。こんなにいつまでも一人を思ったことは、今までなかった。きっと本物の恋なのだと、樹燐は信じて疑わない。だからこそ、辛いと思っていた。
 たまに会いにいくことは可能である。しかし、今の樹燐にできることはそこまでだった。少なくとも、才戯が寿命を全うして別の生き物に転生しないことには、共に同じ道を歩んでいくことなどできない。本当は神が地上に降りる行為もそう頻繁に許されることではなかった。仮にできたとしても、互いの寿命が違いすぎる。
 例えば十年という月日。樹燐にとっては僅かな時間であり、たいした変化を感じるものではない。しかし人間は違う。十年も経てば肉体も脳も確実に衰えてしまう。
 人間の寿命は長くて八十年、老衰を迎えるまでもなく、死ぬ理由には困らない。才戯が年を取り、体が衰えて皺だらけの老人になっても、樹燐は今のまま、心も体も若く瑞々しいままなのである。この状態で共に時を過ごしたとしても、樹燐だけが一人取り残されてしまう悲しい結末しか残っていない。
 才戯が人間として生活する間、彼の傍にいて見張ることは可能である。それを本人が望むか望まないかは別にして、そんなことをしても意味がないことを分かっていた。神と人、そして妖怪が共に暮らせるのなら別々の世界は存在しないのだから。
 誰も年を取れば体だけではなく、心や考え方も変わっていく。その変化の速度、方向のすべてが違う。きっと互いの存在そのものの価値のズレを起こし、いつしか修復できなくなり、自然と離れていくものなのだろう。
 完全に心が壊れていく自分の姿を、その虚しい未来を想像しては一人で涙を流すことを、何度も繰り返してきた。分かっているのだ。どうしようもないということを。
 ならば、思い切って腹を据えて待てばいいのではと思う。そうだ、そうしようと、樹燐は何度も考えた。しばらくの間、彼のことを忘れて別のことに集中していれば、そのうち才戯は寿命を迎えてこちらの世界へやってくる。今の段階で樹燐と同じ神族に転生するとは決まっていないのだが、そこはなんとしてでも操作してやろうと企むことができる。それがいい、それでいい。
 しかし――一番の問題は、彼女に堪え性がないことだった。
 神々にとっては人間一人の人生など長くない時間だが、彼らはたくさんの経験を積み重ねながら、中身の濃い毎日を過ごすのである。樹燐が待っている間に、才戯は間違いなくほかの女に現を抜かすであろう。それだけでは飽き足らず、間違って妻を娶り子宝にでも恵まれて、一時とはいえ幸せな家庭を築くことにでもなってしまったら……想像するだけで、、今にも堪忍袋の尾が切れてしまいそうなほど許しがたいことだった。
 考えなければいいと言っても、無理な話だった。悩んでは八つ当たりする周囲から、幾度となく励ましの言葉をかけられたが、時間が経つとどうしてもじっとしていられなくなる。今がまた、そのときだった。
 諦めよう――何度も自分に言い聞かせ続けた。しかしそう思えば思うほど、彼が恋しくて仕方なくなる。じわりと目が潤むたび、顔を上げて涙を飲み込むことを繰り返していた。

 一人で思いつめる樹燐に、足音が近付いてきた。その者は背後に立ち、ふんと鼻を鳴らす。
「樹燐」声は女性のものだった。「またそんなアホ面して、男のことを考えてるの?」
 気の強い樹燐に、正面から毒を吐ける者は少ない。彼女はその数少ない者の一人、樹燐の宿敵である弁財天の眷属である玲紗れいしゃだった。
 玲紗は昔から樹燐を目の敵にしており、二人が仲良くした記憶を持つものは天上界のどこにもいないと言われているほど険悪な関係だった。玲紗は女神でありながら、男にも引けを取らない武術を極めた武神将である。常に鎧と武器を装備しており、彼女も周囲から怖がられやすい存在だった。
 その勇ましさもさながら、玲紗には樹燐と並ぶ美貌があった。身につける鎧は体の曲線を美しく演出する形であり、髪型も化粧も常に抜かりはない。
 そんな見栄っ張りな二人のやり取りは、天上では有名なものであり、害さえなければ一つの名物として面白がられていた。
 どちらも女としての美しさを競っているにも関わらず、その負けず嫌いな性格が男衆を敬遠させてしまっているのだ。本人たちに自覚があるのかどうかは分からないが、これだけの器量があれば、ほんの少し大人しくするだけでいくらでも男が寄ってきそうなものである。なのに、二人はいつまでも互いを罵り、足を引っ張り合いながら、未だ伴侶を見つけることができずにいる。
 だが樹燐は、宿敵である玲紗に声をかけられても、ため息を漏らすだけで反応を示さなかった。
 最近は、いつもそう。玲紗はさすがに調子が狂い、面白くなさそうに舌を打つ。
「まったく、バカじゃないの?」玲紗は慰めようという気はない。「いくら誰にも相手されないからって、まさか妖怪なんかに一目惚れだなんて。恥を知りなさいよ」
 やはり、返事はない。たまには元気なときもあるのだが、そうではない半分の時間はこうして悲壮感を漂わせている。玲紗は樹燐が落ち込んでいるという心配よりも、無視されることが気に入らなかった。だから黙っていられない。
「あんたね、いい加減にしなさいよ。よりにもよってこんな時に……」
 玲紗が大きな声を出していると、彼女の背後からもう一つの足音が近付いてきた。
「樹燐、ここにいたのか」
 鎧姿の鎖真だった。樹燐を探して来たのだが、彼女にちょっかいをかけている玲紗を見て笑顔になる。
「玲紗、お前もいたのか。久しぶりだな、俺の嫁」
「はあ?」
 玲紗は眉間に皺を寄せ、唇を歪めて嫌悪を露わにする。
「まだそんなこと言ってるの?」
 鎖真は玲紗の隣に立ち、軽く彼女の肩を叩いた。
「帝に認められた仲じゃねえか。照れるなよ」
 玲紗は歯をむき出して鎖真の腕を払いのける。
「冗談じゃないわよ。例えどれだけ落魄れたとしても、悪いけどね、あんたみたいな野蛮な乱暴者だけは願い下げなのよ」
「そうそう、やっぱりか弱くて笑顔も泣き顔も可愛いらしくないと女じゃないよな。そこだけは気が合うよんだよな。やっぱり結婚するか?」
「死んでもお断りよ。変態の腰巾着のくせに。どうしてもって言うなら、あんたが死んで」
 鎖真は玲紗に何を言われてもヘラヘラしている。これもいつものやり取りだった。同じ武神同士として力は認め合っているのだが、異性として見る目だけは持ち合わせていない二人だった。
 仲がいいといえばいいこの二人は、以前に帝に見合いをしてみてはと薦められたことがあったのだ。あり得ないと同時に思い、周囲からも笑い話にされてしまったという経緯があった。どちらも遠慮のない気楽な関係なのだが、それぞれによくない噂のある二人は、仲間意識以上の魅力を感じたことはなかった。
 鎖真と玲紗がふざけていると、それを阻止するかのように、樹燐が背を向けたまま大きなため息を出す。いかにも、出て行ってくれといわんばかりだった。
 二人はそれに気づき、肩を落とす。どうやら、重症のようだ。
 玲紗さえも気まずくなって、話題を変える。
「……ところで、あの目つきの悪いヘビ男は、今日はいないの?」
「あ、ああ」鎖真も少し声を落とし。「って、依毘士のことか?」
 玲紗の口の悪さも、鎖真が呆れる要素の一つだった。
「他に誰がいるのよ」
「目つきが悪いのは分かるが、天竜をヘビ呼ばわりはないだろう」
「どうでもいいでしょ。で、あんたは呼ばれてきたの? ただの観光?」
「どうして俺が天上に観光に来るんだよ。呼ばれたに決まってるだろう」
「じゃあ依毘士もいるのね……でも、なんであんたたちまで呼ばれるのよ」
 玲紗の口調が、次第にまじめなものになっていく。鎖真も少々声を落とし。
「念の為だって。万が一、収拾のつかないことになった場合……」
「……そんなに深刻なの?」
「お前のほうが詳しいだろ。俺は今来たばっかりなんだから」
「状況は知ってるけど、あんたたちが出てくるなんて聞いてないもの」

 はぁ――。

 わざとらしいまでの樹燐の大きなため息に、鎖真と玲紗は口を閉ざす。同時に彼女の背中に目線を移すと、そこからは怒りや苛立ちといった刺々しい空気が、目に見えそうなほど濃く発せられていた。二人は冷や汗を流し、鎖真から先に踵を返す。
「あー、そろそろ依毘士の話は終わってるだろうから、俺はあいつに聞くよ」
「え、私だって、別にここに用があるわけじゃないし……」
 逃げるように室を出ていく鎖真に、玲紗も急いで着いていく。
 室内に一人残った樹燐は、もう一つ深い息を吐いた。


 二人は人気のない長い廊下を並んで歩いた。
「なんなのよ、あの女!」
 玲紗は樹燐にまで聞こえようが聞こえまいが構わずに怒鳴った。鎖真は目線を上げて首を傾げる。
「どうしたものかねぇ……」
「もう、面白くない。ね、鎖真、樹燐の男って、そんなにいい男なの?」
「俺に聞かれてもなあ」
「知ってるんでしょ? どんな奴なの」
「知ってるけど……そうだな、まあ、確かにいい男だな」
 玲紗は切れ長の瞳を更に鋭くし。
「ふん。たかが妖怪じゃない。しかも、あんたと依毘士にやられて、今じゃ一番弱い人間になってるらしいじゃない。どうしてそんな奴にあの女が入れ込んでるのよ」
「……そう言うなよ。強いとか弱いとか、そういうことじゃないんだろ。それに、あいつ別に弱くはないけどな」
「どういうことよ」
「腕は確かに俺が上だったが、それは責められないだろう。天上にだって俺に敵う奴なんかいないんだから――あ、依毘士以外な。そこを差し引けば、あいつは武神にも劣らない力と度胸がある。それは俺が認める」
「……ふうん」その答えが気に入らないかのように、玲紗は唇を尖らせる。「でも、今はただの人間なんでしょ。どうして樹燐がいつまでも追うのか、そこが知りたいのよ」
「……そうだな。ああ、あれだ。才戯は般闍迦に似てるんだよ。若い頃の」
「え? 般闍迦様に? それを早くいいなさいよ」
 樹燐が幼い頃から般闍迦に憧れていたのは、玲紗も知っていた。彼以外の男を素直に褒めたことがないほど特別な存在だったらしく、自分が般闍迦と同じ鬼神の属性であることをよく自慢げに話していたのだった。
「でも、その男が人間になったんなら、姿も変わったんでしょ?」
「見てないけど、変わっただろうな」
「じゃあ……」
 やっぱり樹燐が執着する理由には弱いのではと思ったが、分かっていたかのように鎖真は続けた。
「般闍迦の血を、心を受け継いでいることに意味があるんだろうな。ただの一目惚れってやつかもしれないが、その辺の細かいことは本人に聞かないと分かんねえけど……ま、変な奴に惚れたってことは、間違いない。悩んで当然だろう」
 玲紗は言葉を失っていた。本当の意味で、樹燐が「才戯」に惚れているのかもしれないと思ったからだ。だとしたら、悔しい。樹燐の恋が実ったわけではないし、実る可能性も低いのに、なぜか先を越されたような気分に陥ってしまう。玲紗もまた、本気で人を好きになったことがあるのかと問われたとき、自信を持って頷くことができなかった。
 玲紗がもうその話はやめようと思ったところ、鎖真が急にあっと声を上げた。
「しまった。そういえば」笑みを消した彼は、怯えさえ浮かべる。「樹燐を置いたままにしてきたらいけないんだった……」
 玲紗は、またいつもの鎖真の抜かりだと察し、肩をすくめる。まずいと言いながら、鎖真は早足の玲紗に釣られているかのように足を止めなかった。
「でも、まともに話もできない状態だったよな」
 玲紗に助けを求めるように言うが、彼女は冷たく顔を逸らす。
「知らない。今からでも間に合うんだから、戻れば?」
「うーん……俺でも、玲紗でもダメだったわけだし」
「なんで私も入ってるのよ」
「よし」玲紗の反応を無視し、鎖真は一人で勝手に答えを出す。「依毘士に頼もう。俺でダメならあいつしかいない。そうだろ?」
「……だから、私を巻き込まないでよ」
 どうせ、怒られるのだ。鎖真は開き直って、用を済ませられなかったその足で依毘士の元へ向かった。


 相変わらず、樹燐はじっと睡蓮の池を眺めたままだった。
 いつまで考えても答えは出ないのだが、悩む以外にやることがない。こうして悩み続け、飽きたら開き直って人前に出てくる。しかし、しばらくしたらまた落ち込む。樹燐が落ち込むときは大抵、気分がよくなって才戯に会いに人間界へ降りた後だった。彼に会っては感情を昂ぶらせ、戻っては、どうしてこんなに好きなのに叶わないのだろうと思い詰める。
 だから、もう会うのをやめてしまえばいいのに。それさえ我慢すればいつかきっと忘れることができるはず。そう何度も考えるのだが、同じところをクルクルと回り続けて止まることができない。
 あまりにも苦しい――もう悩むのは、嫌。いっそ、死んでしまいたい。
 樹燐は神にあるまじき感情を抱き、堪えることを忘れて、一筋の涙を頬に零した。
「……おい」
 突如声をかけられ、樹燐は顔を上げて我に返る。いくらなんでも泣いているところまでは誰にも見られたくなかった。慌てて涙を拭って振り返った。
 そこには、依毘士の姿があった。彼から樹燐に近付いてくるのは稀なことだった。いや、今まで一度もなかった。それほどにこの二人は相性が悪い。
「な、なんだ」樹燐は眉を寄せて。「貴様か。まったく次から次へと。どうしてお前たちは静かにしていられないのだ」
 樹燐は人と会話をしたのが久しぶりに感じた。依毘士も彼女の気持ちや状態を人から聞いてはいるのだが、それに触れる気はまったくない。
「静かにしている場合か」
「は? 何が言いたい」
 依毘士は呆れたように目を伏せる。
「鎖真のバカが言伝ことづてもできないほど無能で頭が痛いのだ……その上、貴様まで私に無駄な労力を使わせるつもりなのか?」
 いちいち嫌味な男である。喧嘩を売ってるのはそっちではないのかと思うが、樹燐は珍しく彼の言葉の意味を素直に捉えた。そういえば、先ほど鎖真は一体何をしにきたのだろう。鎖真なら用がなくても樹燐に話しかけてくることはあるのだが、彼と依毘士が天上に姿を見せるのは、何かしら用があるときがほとんどだった。
「悩みたいならヨソでやれ」言いながら、依毘士はすぐに扉に向かった。「もう動き始めている」
「……え?」
 返事を待たずに、依毘士は振り返った。
 そのまま室を出ていく彼の背中を目で追ったまま、樹燐は頭の中の整理をする。
 そして、そうだ、と思う。今天上界で何が起きているのか、樹燐が知らないわけではなかった。だが彼女にとっては自分の悩みのほうが優先されてしまっており、大事なこともすべて頭の隅に追いやってしまっていたのだ。
 そうだ。確かにここでじっとしているわけにはいかない。自分にもやるべきことがあったと、樹燐はやっと立ち上がってその場を後にした。



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