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 早足で河川敷に戻り、置いていた荷物を回収して二人は屋敷へ戻った。出かけている間にも鬼火の掃除が進んでおり、朝よりも更に室内が片付いていた。新しい鬼火が運んできた家具は隅に寄せられている。主人の目を盗んで暗簾の鬼火と対立していた緑のそれらは、数が増えて優勢になったからか、妙に活発になっているものもいる。
 丸一日外にいたわけでもないのに、疲れてしまった才戯はすぐに居間で横になった。
 りんはあれから一言も言葉を発さず、俯いたままである。
 また自分のせいだと、自責の念に駆られているのだろう。才戯は、話をするのは一休みしてからにしようと迷ったが、近くで幽霊のように暗い顔をされているのも気が重い。
「おい」
 声をかけると、りんは体を揺らして才戯に顔を向けた。そこには「ごめんなさい」と書いてあるように見えた。膝の上には、大事そうにかんざしが乗せてある。
「なんでお前が落ち込んでるんだよ」
 りんは少し目を泳がせて、呟いた。
「……盗みなんか、していません」
 そんなことを気にしていたのかと、才戯はため息をつく。
「そんなことは分かってるから、いつまでもウジウジすんな」
「……信じていただけますか」
「分かってるつってんだろ。とにかくだ。ああいうときは大声を出せ。暴れて逃げろ。今回は俺が気づいたからよかったものの、あのまま連れていかれたらどうするつもりだったんだよ」
 まったく、と思う。自分もまだ何もしていないのに、勝手に身売りされてたまるかと、才戯は苛立ちが収まらない。
「……どうして、あそこにいらっしゃったんですか?」
「いちゃ悪いか」
「いえ、そんなことは……」
 才戯は河川敷で休んでいるつもりだったが、やはりりんを一人にするのは危険があると、ふと思いついたのだった。理由は、露天商の男が彼女を狙ったことにすべて凝縮されている。だからと言ってどこに行くにもくっつきまわるのはどうかと思う。そこに、ちょうど一つの鬼火が荷物を運び終えて戻ってきた。念の為にと、りんにも見えないように姿を消して後をつけるように命令をしていたのだった。鬼火はりんが道に迷った時点ですぐに才戯に報告してきた。早足で彼女のいる場所へ向かったところ、お約束のような展開になっていたというわけだった。
 しかし、りんはどこから見ても、外見だけは才戯の好みである。個人的な意見を抜きにしても、間違いなく美人の類に入る。樹燐のように鼻にかけられるのは腹が立つが、りんはもう少し自覚して警戒心を養うべきである。今の彼女にそうしろと言ってもできるとは思えない。ヘタなことを言えば墓穴を掘る恐れもある。屋敷に閉じ込めるわけにもいかないし――そうだ、こういうことは暗簾に相談しよう。才戯は疲労もあったために、この場はその話はしないことにした。
 しばらく放っておこうと、彼はりんに背を向けて目を閉じた。




 陽がだいぶ傾いたころに、才戯は目を覚ました。体には新調してきた毛布がかけられていた。りんがやったのだろう。
 体を起こして辺りを見回すと、彼女の姿はなかった。まさか出ていくとは思えないが、あくびをしながら物音がしたほうに移動する。
 りんは土間の炊事場で、屋敷の奥の箱の中に入っていた器を、壊れて使えないものと選り分けながら洗っていた。そういえば夜の食事にと、りんが何か材料を買っていた。料理をするつもりなのか、そもそもできるのか、疑問はあったが、やりたいなら好きにさせるつもりだった。
「あ、お目覚めですか」
 才戯の姿に気づき、少し微笑んだ。機嫌はよくなったのだろうか。才戯はいつまでも引っ張るつもりはない。りんさえ開き直ってくれればだいぶ楽になる。
「お前、料理できるのか?」
「……え、ええ。たぶん」
 たぶん? たぶん、ということは、やったことがないのではと思う。
 そういえば、りんは着物や小物の価値は見るだけで判別できていたようだが、これは過去の彼女の持っていた知識がそうさせていると考えられる。仮に彼女を樹燐に置き換えてみると、納得ができる。だが、料理となると話は別である。樹燐が料理などするとは思えなかった――嫌な予感が走る。
 今日くらいは出来合いのものを買っておくべきだったかもしれない。
(……まあ、でも、いいか)
 もしかしたら得意かもしれないし、ヘタでもないよりはマシだと腹を括る。
「じゃあ、なんか作れ」
「あ、はい」
 頼りにされたようで、りんは嬉しくなった。どうやらこれで今日のことは忘れてくれそうだ。
「ああ、部屋は、どうする?」
「部屋ですか?」
 部屋数は多い。一人ずつ持っても余るほどなのだ。だから一人用の、つまり寝間をどうするか聞いていたのだった。
「私はどこでも構いませんので」
 意味は通じていたようだが、どこでもいいが一番困る。本当にどこでもいいなら同じ部屋で寝かせるぞと、才戯が冗談半分で言いかけたとき、りんは続けた。
「どこか、空いているところを貸してください」
 やっぱりね――才戯はもういちいち愚痴るのをやめようと思う。りんには何も期待しない。我慢できなくなったら押し倒せばいい。文句は言わせないし、言われる筋合いもない。いつか必ず、この生殺し状態から抜け出してやる。
 心の中でブツブツと呟きながら、才戯は背を丸めて居間に戻っていった。




 また転寝をしていると、鬼火たちと一緒にりんが食事を持って居間にやってきた。そんなに長く寝ていたつもりはなかったのだが、いつの間にか外は赤く染まっていた。
「才戯様、夕餉ができました」りんは笑顔で、皿を並べながら。「鬼火さんたちが手伝ってくださったので、おいしくできあがりました」
 りんはすっかり機嫌がよくなっているようだ。むしろ、今までにないほど明るい。
「少し早いでしょうか」
「いや……いいんじゃないか」
「よかった。今準備しますね」
 りんはすぐに腰を上げて炊事場に戻っていった。
 ――意外と、まともだ。料理のことではない。料理もだが、彼女は思っていたよりも普通の女性なんだなと、改めてそんなことを思った。物珍しいことはない。りんは人間なのだ。おかしいと言われても無理がないのは才戯のほうなのである。
 慣れさえすれば、それほど才戯が頭を悩ませる必要はなくなるかもしれない。少し行き先が見えてきたところで、途端に腹が減ってきた。
 りんと鬼火たちが一通り食事を並べ終えたところで、りんは笑顔で才戯の向かいに座り、鬼火たちはさっさと室を出ていって姿を消してしまった。
「冷めないうちに、どうぞ」
 りんに勧められ、才戯は遠慮なく料理を口に運んだ。その様子をりんはじっと見ていた。どうやら感想を求めているらしい。
「……これさ」
 才戯が冷めた表情で呟く。だが彼は、りんの想定していた言葉は発さなかった。
「鬼火が作ったんだろ」
「!」
 りんは体が固まり、誰が見ても分かるほど青ざめていった。
「味で分かる。まあ、別に何でもいいけどさ」
 才戯は言いながら、素知らぬ顔で箸を進めた。しかし、りんは固まったまま、目に涙を溜めていく。
「……ご、ご、ごめんなさい」
「は?」
 今度はなんだと、才戯は首を傾げた。
「け、決して、騙すつもりでは……! あ、あの、あの、才戯様においしいって言ってもらってから、すぐに、本当のことを言おうと思ってて……」りんは涙を堪えて、声が上擦っている。「わ、私、自分で、何とか作ろうとしたんですけど、鬼火さんのほうが、とても器用でお上手だったので……その……」
 何をそんなに必死で言い訳しているのか、それさえ才戯には理解できなかった。
「ごめんなさい……! これから、一生懸命努力して、料理も掃除もできるようになりますから……どうか、私を嘘つきの盗人だなんて思わないでください」
 りんは座ったまま一歩下がって、土下座した。才戯は、彼女のその姿に呆れていた。
(……ああ。まだ昼間のことを気にしてるんだな)
 まったく、どう言えば分かってくれるのだろうと、いつまでも才戯の疲れは取れない。
「……そういうの、どうでもいいから」
「ごめんなさい。本当に、嘘をついて騙すつもりなんかなかったんです」
「ああ、分かった分かった。いいから座って、お前もさっさと食べろ」
 りんは、鼻をすすりながら顔を上げる。
「……お許しいだけますか?」
「しつこい。元々お前が嘘をつこうとしてたとも思ってなかったし。あれだけ鬼火が付き纏ってたんだ。少し考えれば分かる」
「……私を、軽蔑しないでただけますか?」
「しつこいって言ってんだろ。その話を続けられるほうがよっぽど気分が悪い」
 眉を寄せる才戯の表情にりんは怯え、慌てて箸と茶碗を持って顔に近づけた。
「は、はい……いただきます」
 彼の顔色を伺いながら、りんはおずおずと食事を始めた。
 気まずい。が、気まずくさせたのは自分だと、りんは落ち込んでいく。これがいけないのだとすぐに気づき、無理に笑顔を作った。
「お、おいしいですね」
「当たり前だ」才戯は無愛想に答える。「俺の仕込んだ鬼火だからな」
 怒ってるわけではないと、信じたかった。信じるしかないと思う。
 才戯のことはまだよく分からない。当然である。昨日出会ったばかりなのだから。それは逆も言えること。きっと彼も苦悩しているのだろう。
 きっと、「出て行け」と言われるまでは大丈夫だと、りんは気を強く持った。




 夜のとばりが下り、二人は、鬼火が全部準備した風呂に入って一息ついていた。入浴は、当然別々である。
 寝間は、才戯は南向きのいい部屋をとりんから薦め、自分は三つの部屋を挟んだ先にある北側の少し狭い場所を選んだ。それについて才戯は口出しする気もなく、彼女の言うとおりにした。互いに私物や布団を持ち込み、すぐに休める状態にして、居間に戻り寛いでいるところだった。
 外からは鈴虫の声が聞こえてくる。りんが縁側の障子を開けると、夜露に濡れた名もない花や雑草が、月の光を浴びて輝いていた。その情緒ある風景に、りんはため息を漏らす。
「いい季節ですね」
 才戯は横になったまま庭に目を移したが、特に返事はしなかった。
 りんも返事を求めていなかった様子で、居間の隅に置きっぱなしにしていた鏡台に向かって腰を下ろした。
 その上には、あの牡丹のかんざしが乗っていた。りんはそれをそっと手に取り、改まった様子で才戯に向き合った。
「あの……」
 才戯は目を向けるが、まだ返事をしない。
「これ」かんざしを見せて。「いただいても、よろしいでしょうか」
 ――またそういう面倒臭いことを、と、才戯は嫌気が差し始めていた。その上、また同じ話題になるようなら、もう無視して寝ようと目を伏せる。
「いちいち聞くな。そんなもん、俺が欲しいわけがないし、いらないなら捨てるだけのものだろ。気に入ってるんなら使えよ」
 才戯の態度も言葉も冷たいが、りんは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。こんな贅沢品、私なんかには勿体ないと分かっていますが……お代は、いつかお返しいたしますので……」
「は? 本気か?」才戯は透かさず、皮肉を浴びせる。「お前、小判二枚なんか、そう簡単に払えると思ってんのか」
 そうだったと、りんは目線を落とす。
 偉そうに言う才戯だったが、あの小判は盗んだものであり、実際どれくらいの価値があるのか、本当は分かっていなかった。それでも、りんの細かい謝辞や謝罪にはうんざりし始めていたのだった。
 りんはりんで、彼の態度に慣れようと努力しているところである。小判二枚もはたいて助けてくれた上に、必要なものも欲しいものも、惜し気もなく与えてくれるのだ。もしも本気で怒っていて、自分を嫌っているのならここまでしてくれるはずがないと信じた。だから、素直に喜ぶことにした。才戯からの贈り物を。
 払えるとも払えないとも、今はまだ断言できる状態ではない。りんはそれ以上言わず、すっと鏡台に移動する。才戯に背を向けた格好で鏡台の扉を開いて、かんざしの花を頭に当ててみる。そして色んな角度から姿を確認しながら、かんざしを口に咥え、両手で長い髪をかき上げた。
 それを束ね、慣れた手つきで後頭部にまとめていく。その中央にかんざしを捻るように差込んで固定し、仕上げに指先で形を整えた。
 りんは後れ毛をいじりながら鏡を覗き込む。ちょうど白い牡丹が左耳の後ろ辺りに顔を出しており、りんは頬を染めながらそれに負けないような笑顔を咲かせた。
 彼女の様子を、才戯はじっと見つめていた。何をしているのかが気になったのもあったが、それよりも風呂上りのうなじに目を奪われていたのだ。
 風流な虫の声、澄んだ冷たい空気と、艶めく草花。そして、薄着の美女――この雰囲気に、才戯は我を失う寸前にまで追い詰められる。
 ほとんど無意識に、才戯は体を起こしてりんにゆっくりと這い寄った。
 彼の気配に気づいて、りんは恥ずかしそうに肩を竦めた。
「に、似合いますか?」
 少々派手で、さすがに外にはつけていけないなと、鏡を見ながらりんは残念な気持ちを抱いていた。どうせなら、常用できる地味なものを選べばよかった。
 そんな彼女の思いなど知ったことではなく、才戯は背後から鏡を覗いてくる。牡丹の花はりんによく似合っており、髪を上げたことで露わになった顔の輪郭や耳、首筋が更なる色気を醸し出している。
 これに反応を示さないほうが失礼だと思う。なぜ今まで我慢していたのか、その理由を忘れ去り、才戯はりんに顔を寄せた。
「……え?」
 彼の虚ろな目が目前に迫り、りんは一瞬息を止めた。ただならぬ空気に、さすがの彼女も戸惑いを隠せない。
「あ、あの……」
 りんは顔を真っ赤にしながら、顔を引いていく。だが、相手との距離を広げないように才戯は体を傾けていった。
 りんの胸が、飛び出しそうなほど激しく脈打ち始めた。倒れそうになった体を支えるために咄嗟に両手を畳につくが、才戯は覆いかぶさるようにして迫り寄ってくる。
 ここで本気で嫌がられたら止めることができたかもしれないが、彼女は決して顔を逸らさない。驚いて怖がっているが、このまま床に倒してしまえばそれ以上逃げることはできないのだ。
 よし、いける――胸元でりんが体勢を崩した瞬間、才戯はそう確信した。

 パキン。

 りんが畳に頭を落としたと同時、予想もしていなかった乾いた音が、二人の耳に響いた。
 まるで、二人を茶化しているかのような、甲高くも鈍い音だった。
 嫌な予感に襲われ、二人は見つめ合ったまま目を丸くしていた。
 りんの額に汗が流れた。黙ったまま、才戯を避けて体を起こすと、はらりと髪が垂れる。
 りんが慌てて長い髪を探ると、真っ二つに折れたかんざしが彼女の手の中に落ちてきた。牡丹の花は無事だったが、もう髪を支える役目を果たすことができない姿になっていた。
 りんは肩を落とし、無残に壊れたかんざしをじっと見つめたまま、動かない。
 その背後で、才戯も真っ青になっていた。
(……なんだよ、このくらいで壊れるなんて、どんな安物なんだよ)
 それに、と思う。どうしてあんなもの一つ壊れただけでここまで彼女が落ち込んでしまうのか、まったく理解不能である。
「お、おい」
 声をかけるが、りんは微動だにしない。
「あー……その、ほら、また買ってやるから」
 それでも、りんは反応しない。よほど気に入っていたのか、それとも、それ以外の思い入れがあったのかは知らないが、なんにせよ、取り返しがつかないことになったのは間違いない。
「……なんか言えよ」
 りんははっと息を吸って、背を向けたまま目元をこすった。どうやらまた涙を浮かべていたようだ。
「だ、大丈夫です。もう使えませんが、これは私の宝物です。これからも、大事にいたしますので」
 暗い顔を隠すように俯いたまま才戯に向き合い、そのまま頭を下げた。
「ありがとうございました。才戯様も、今日はお疲れだと思いますので、どうぞ、私のことなどお構いなくお休みくださいませ」
 言い終わり、りんはかんざしを胸に抱いたまま、とぼとぼと自室へ足を運んだ。
 居間には脱力した才戯と、重いほどの空気だけが残り、芸術的だった庭の風景や虫の声が、途端に虚しいものに変化してしまっている。
(……なんだこれ)
 そう、才戯は心の中でぼやいて、気を失ったかのようにその場に倒れた。



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