12





 才戯は大人しく眠ろうと一度部屋に引っ込んだのだが、疲労以上のモヤモヤに取り付かれてとても眠れず、再度居間に戻っていた。
 新しい行灯に火を灯し、たまに横切る鬼火を捕まえては壁に投げつけるなどの八つ当たりを繰り返している。
 そんな彼の様子を覗き見していた者がいた。我慢できずに笑い声を漏らした彼は、他ならぬ暗簾だった。
 決して暇ではないのだが、二人のことがどうしても気になってしまう暗簾は、一升瓶を手土産に姿を見せた。
 この時間にりんと一緒の床に入っていないどころか、子供のようにいじけている才戯の態度で、暗簾は現在の状況をすぐに悟る。もちろん、幸せそうにしているのなら声をかけずに去るつもりだったのだが、その心遣いは不要だった。音を控えめにして屋敷に上がりこみ、隅にあった箱の中から湯飲みを取り出し、酒の蓋を切って濡れ縁に胡坐をかいた。
 才戯はもう、今更暗簾にどう思われようと構わないと開き直っている。不貞腐れた顔で遠慮なく酒を口に運んだ。
「やっぱり、一筋縄じゃないかないようだな」
「……うるせえよ」
 才戯は意地を張ったが、暗簾に誘導されてりんの話をさせられた。才戯はただの愚痴として聞かせるつもりはなく、今日一日で自分が疑問に感じた彼女の言動を中心に話した。
「……そうだなあ」暗簾は茶化すことなく、考える。「あの女に記憶がないことは考慮してやんないといけないんじゃないのか。不安に決まってるだろう。いつまでもそうしていられたら苛立つのも分かるが、まだ一日しか経ってないんだ。それで自分で考えて行動しろってのは、酷だと思うぜ」
 そんなものか、と、才戯は口答えをしなかった。
「でもさ、少なくとも、りんがお前に気があるのは確かなんだし、そんなにイライラしないで、様子見ていけばいいじゃないか」
「……気がある?」才戯は怪訝な目を向ける。「どうしてそう思う?」
「当然のことだろ。じゃないとお前みたいな野犬と同じ屋根の下で生活なんて、まともな女ならしねえよ」
「野犬って……お前」
「ただ」才戯の不満そうな声を遮って。「今はそういう感情より、不安や恐怖が上回ってるんだろ。じゃないと、かんざし一本折れただけでそこまで落ち込まないよ」
 そうだ、それも誰かに聞きたかったことだった。と言っても、才戯が相談できる相手は彼しかいないのだが。才戯はどうせ分かってないんだろうということを、暗簾は先読みしており、彼が尋ねてくるまでもなく話を続けた。
「好きな男から、初めてもらった髪飾り、ってことだろ。女はそういうのにいちいち思い入れるんだよ。一緒にいればりんもそのうち消化するだろうから、お前もそう気にすることはない」
 そんなものなのかと思うと同時、才戯は妙に悟っている暗簾に疑問を抱いた。
「なんでお前がそんなこと知ってるんだよ」
「ああ、俺は周りに女が多いからな」暗簾は笑いながら。「下女たちの雑談は惚れた晴れたと浮いた話ばかり。誰がどこに通ってるだの、あそこの息子が狙い目だの、暇さえあればそんな話でいつまでも盛り上がってる。女に取っちゃ恋愛は人生の大半を占める重要な行事なんだよ」
 暗簾は最初、なんとも下世話な生き物だと呆れていたが、関わってみると平民の生活がよく見え、ためになる話題だということに気づいた。
 それは、ある些細なことから始まった。とある陶芸職人の若い弟子は真面目で誠実で、将来有望だと誰からも好かれていた。しかし、あるとき下女たちの間に「あれは女好きできっと何かをやらかす」と悪い噂が立った。男には人柄のいい許嫁もいて何もかもがうまくいっていようにしか見えなかった。きっと女たちの嫉妬と羨望による嫌がらせだと思っていたのだが、違った。男はある夜、師匠の金を盗んで名もない遊女と駆け落ちしてしまったのだ。
 女性たちの観察眼や、所謂「女の勘」というものは侮れないものである。あまり聞き耳を立てると怪しまれてしまうため、暗簾はできる範囲で女性の井戸端会議を、さりげなく傍聴することを楽しんでいた。
「ババアや人妻にいたっては、俺のこと子供だと思って平気で卑猥な話でからかってくる。男なんかよりもよっぽど下品だぜ、あいつら。恥じらいも色気の欠片もなくて、とても女には見えないけどな」
 噂話は仕事にも役に立った。作り話ややっかみも多かったが、同業者やそれに関わる人物の色恋話は、今後の付き合いや交渉術を左右する一つの材料にも為り得たのだ。
 才戯は「ふーん」と呟きながら、それはそれで大変そうだと思った。いい感じに酔いが回り、眠気を感じながらごろりと横になる。
 そんな彼の傍を暗簾の鬼火が横切った。才戯のそれらにいじめられ気味だった鬼火は、先ほどから甘えるように主人の周りをうろついている。
「ああ、それと」才戯は素直に、暗簾を頼り始めていた。「あいつの無防備さ、どうにかならないもんかね。いい大人なんだから、俺が常に着いて回るわけにはいかないし」
「そうか? 別に、ベタベタしてりゃいいんじゃないのか」
 暗簾はまるで他人事のように――いや、実際他人事である。またそういういい加減なことをと、才戯は口をへの字に曲げる。
「俺は真面目だぜ? どうせお前は暇なんだし、りんだって一人でいたら心細いだけだろ」
「……だからって、そんなの、みっともねえよ」
「何が? 傍から見りゃただの中睦まじい恋人か夫婦にしか映らない。赤の他人に何を思われようがどうでもいいじゃないか」
 才戯は息を飲んだ。
「人の目を気にするなんて、お前らしくないな。変に意識しすぎてるのはお前のほうじゃないのか?」
 自覚は決してなかったが、言われてみればそうなのかもしれない。急に、恥ずかしくなってくる。
「俺は、お前たちはお似合いだと思うぜ。そもそも女なんて見た目さえよけりゃ中身の多少の欠陥なんか慣れればなんとでもなる。外に出さないで家の中でやることだけやらせとけば、何の恥もかかないで済むんだし。りんなら理想の嫁になるんじゃないのか?」
 暗簾のこういう薄情な考え方は変わっておらず、才戯と同じだった。
「そりゃあ、お前が目も当てられない阿多福オタフク女なんか追ってたら、さすがに気が触れたんじゃないかって心配になるけど、あれだけの器量ならお前じゃなくたって手放したくなくなるもんだ。何も恥ずかしいことなんかないだろ」
 暗簾の言うことは理解できるが、りんに対しては他の問題があるということを、改めて思い出す。
 まだ正体が分かっていないのだ。りんがまったく面識のない、ごく普通の人間だったなら、一日も待てずに手を出していただろう。
 そうではないのだ。もしかすると雲の上の神仏である可能性は、まだまだ残っている。才戯が眉を寄せてしまっていると、暗簾はその表情から感情を読み取った。
「お前が……いや、お前の先祖が、天上人にどんな恨みがあるのか知らないけど」
 才戯はふっと瞼を揺らした。
「もうお前に鬼の血は流れていない」
 どうしてそれを――才戯は動揺を隠したが、泳ぐ目線がすべてを物語ってしまっている。
「そして、あの女も、どんな事情でここに落ちてきたのか分からないが、少なくとも、神仏じゃないただの人間だ。お前を縛っているのは、お前たちを邪魔しているのは、お前の頭の中に取り付いているだけの『思い込み』だろ?」
 暗簾は確信していた。ずっと昔から、本人以上に才戯の心理を見透かしていたのだ。
「血縁があるうちは、過去に縛られるのも理解できる。だが、今はもうそれさえも断ち切れている。確かに、前世の記憶があるのは厄介だ。それは俺も同じだから分かる。でも、実際には生きることにそれほど支障はない。過去の自分の姿、栄光、矜持、そのすべて、もうどこにも存在しないんだからな。死とは、そういうものだ。お前は、障害を越えて大人になった『赤坐』という一人の盗人。それは与えられた人生であり、決してつまらないものではない。『才戯』に相応しい、新しい命だ。その生き様が来世を決める。罪を犯したとしても、裁くのは自分自身じゃない。今のお前が苦しんでいるように、自然と罰は与えられるものなんだ。ただ困惑したまま時間を過ごして、どうにかなることを待っていても、何も来やしない。だからいいとか悪いとか考えないで、やりたいように生きていけよ」
 才戯は黙って彼の言葉を聞き、その意味を考えていた。不思議と、心が軽くなったような気がしていた。感心はするが、暗簾がこんなに前向きな性格だったことに違和感を抱かずにはいられなかった。
「……お前、そんなこと考えて生きてんのか?」
 やっと返ってきた返事がそれかと、暗簾は拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
「俺は昔からこうだったぜ? ただ、環境が変わっただけ」
 人が嫌いなら、相手を観察したり、ちょっかいを出したりしない。同族殺しが大罪であることを知ったのは大人になってからであり、幼かった自分のしたことは、飽くまでも欲求を満たすための行為だとしか認識していない。今いる人間の世界と違うところは、それを教え、諌める相手がいなかったこと。そして、力を手に入れた自分に誰も逆らうことができなかったことなのだ。
 だから暗簾は責められることなく生きていた。その罰は智示に科せられ、智示として生きる暗簾は、この戒めの世界で罰を受け入れている。それだけのことだった。
 未だ納得できずにいる才戯は一人、世に逆らって孤立しかけている。少し前までは、それでいいと思っていた。しかし、本人の気づかぬところで――りんと出会った短い時間で、自分の在り方を考えようと変わり始めていた。
 暗簾にはそれが分かっていた。だからこそ同じ罪人同士、才戯に手助けすることに抵抗はなかった。
 こうして秋の夜長、静かな場所で旧友と酒を酌み交わすのは気分がいい。
「ま、でも、思ってた以上に落ち着いてるみたいで安心したよ」
 才戯の心身は落ち着いていないが、屋敷が順調に整ったのは事実だった。
 暗簾は庭に目線を移し、しばらく口を閉じる。庭の草木には夜露と薄い霧がかかっており、姿を見せない虫たちの声だけが合唱している。そこに、ふらふらと鬼火が紛れ込んでくる。その風景は、まるで生と死、両方を目に見える形に造形した箱庭のようだった。
 いいところだ。暗簾はしみじみと思い、重い口を開いた。
「……事が済んでから伝えようと思ってたけど」
 改まったように呟く暗簾の様子の変化に気づき、才戯は閉じかけていた目を開く。
「あの祠、たぶん、なくなる」
「……え」
 自然と漏れた声だった。聞いた途端に才戯は、説明できない不安を抱いた。
 暗簾は暗い話にならないようにと、目を丸くしている才戯に向き直り、歯を見せて笑う。
「よその大名がな、あの祠周辺の土地を買い取って、大きな娯楽施設を建てたいと、現在計画中なんだ」
 すべてではないが、その一部は麻倉家の保有地だった。暗簾は最初話を聞いたとき、絶対に反対したかった。だが、祠を壊されたくないという以外、理由が見つからなかったのだ。
「祠が呪われていると噂を立てて細工しようとか、いろいろ考えてみたんだが……どうやら、あの祠、他人には存在が確認できないらしい」
 妙なことを言い出す彼に戸惑い、才戯は体を起こして耳を傾ける。
「……どういう意味だ?」
「俺は、さり気なく危険な祠があるらしいと、番台に噂程度に話してみたんだ。そしたら、そんな祠はないと笑われてしまって……知らないだけだと思いたかったんだが、地図や見取り図を見ても、そこに祠は描かれていなかった」
 人を連れて見せてみようとも思ったが、あまりしつこくすると怪しまれる。暗簾は一人で悩んだ。そして、彼なりに出した答えは、こうだった。
「あそこに関わりのある者が必要としたときにだけ、姿を現すものなのかもしれない。武流も、俺たちもその一人で、決められた誰かがそこに行けば、祠は存在する。そうではない人が通っても、ただの荒地……ってことなのかもな。そうだとしたら、祠が消えたり現れたりする証拠を捉えることは、不可能」
 そんなことがあるわけがないと、才戯は思いたかった。
「……でも、俺が一人でいるときに、関係ない奴が訪れたときがあったんだ。そいつは当たり前のように上がりこんでいた」
 茉のことだった。しかし、才戯は言った後に、いや違う、と自分で言ったことを否定していた。その理由を、暗簾が言う。
「だから、お前がいるから祠は存在するんだよ。もしお前が不在だったら、そいつに祠は見えなかったんじゃないのか?」
「そんなこと……」
 才戯は言葉を飲む。
 改めて思い起こせば、確かにあの祠は自分たちを繋ぐ特殊な場所だった。
 武流と月子が情を交わし、智示が宿った。そして暗簾が堕ちた場所でもあり、武流と関わったことで汰貴が生まれた。
 その経緯を経て赤坐と出会い、汰貴と兄弟になった。
 そして、才戯とりんが出会ったのも、あの場所である。
 そこに目に見えない力が働いていると言われても、何の不思議もないのだ。
 ――そうだとしたら、やはり、りんの存在には特別な意味があるのかもしれないと思う。
 考えてみれば才戯は二日も不在だったのだ。なのに、彼が帰ってくるのを待っていたかのように、彼女は落ちてきた。あまりに出来すぎていて、偶然だとは思いにくい。
 その祠がなくなってしまう。何か取り返しのつかないことになるのではと、才戯だけではなく、暗簾も同じ気持ちがあった。
「……でも」暗簾は酒を一口飲み。「もしかしたら、もう必要がないからいなくなるのかもしれないって、そう思うこともできるよな」
 才戯も、空いた湯飲みに手酌し、酒を口に運んだ。
「千獄の時は終わった。智示も赤坐も救われ、俺たちはそれぞれに生きる道を見つけた。虚空もあのチビ兄弟も、みんな往くべきところへ往った。役目が終わって姿を消した武流のように、あの祠も、もう眠ろうとしているのかもしれない」
 そのきっかけを与えたのが、「りん」。
 そうだとしたら、いろんなことが納得できる、ような気がした。
「ま、一応、できるだけ阻止するように粘ってみるよ」
 注いだ酒を少し残したまま湯のみを置き、暗簾は腰を上げる。
「でもあの祠より、ここの方がよっぽど居心地いいだろ? お前がりんを嫁にした暁には、仕事も紹介してやるから、のんびりやっていけよ」
「……何言ってんだよ」
「だって、お前だけなら盗人のままでいいけど、女一人養っていくからには仕事くらいしないとかっこ悪いだろ。それにさ、ガキだってできるかもしれないんだぜ」
「は?」
 才戯はつい大きな声を出すが、りんが目を覚ましてはいけないと、慌てて口を塞いだ。
「自然の成り行き、神からの授かりものってやつだよ。子作りに及んだ以上、お前に選ぶ権利はない。いいじゃないか。家族。一端の男のあるべき姿じゃないか」
「ふん。俺は――」
 続きが出なかった才戯に、暗簾は笑顔を見せた。
「お前は、人間だ」
 そう言い残すようにして、暗簾は縁側から庭に下り、霧の中に消えていった。



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