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 穏やかな小春日和に、その日が訪れた。

 あれから五日、才戯とりんは相変わらず付かず離れずの関係のまま、少しずつ距離を縮めつつあった。
 才戯が雰囲気に便乗してりんに迫り、結局未遂に終わったあの夜の次の日、彼女はあまり目を合わせようとせず、軽く肩が当たっただけで静かに距離を空けるような行動を取っていた。怪しいオヤジには無抵抗で連れていかれそうになったくせに、どうして自分が警戒されなければいけないのか納得のいかない才戯だったが、言い訳しようがなかった。その日一日は互いに干渉しないで済むように屋敷の片付けを中心に過ごし、夜も早めに眠った。しかしりんも気まずいままではいけないと思ったらしく、次の朝からは明るく努め、自分から話しかけてくるようになった。
 そして件のかんざしを、普段着のときは帯に差して常に身につけている。暗簾の言ったことが本当かどうかは分からないが、気に入っていることは確かなんだろうと才戯は思った。いずれにしても化粧や髪結いの道具の一つや二つくらいは持っているべきではないかとりんに言うと、彼女は、それは自分の居場所がはっきりしてからでいいと、この場では欲を出さなかった。
 屋敷内はだいぶ落ち着いてきており、大半の部屋は片付いている。まだ奥の部屋や、外にあるほったて小屋にはいらないものが押し込まれたままでゴミ置き場になっているが、元々屋敷は二人では余るほどの広さがあるのだ。生活するに不便はない。必要になることがあれば、そのときにでも整理すればいいと才戯は考えて放置していた。
 昼餉を済ませた二人は、居間で才戯が寝転がり、りんが土間の台所で片付けをしている最中だった。
 才戯はぼんやりしながら、このままの生活は続けられないのではないのかと、そんなことを考えていた。
 収入と言えば、必要な分だけを才戯が盗みで入手してくるものばかりだった。りんはそのことを知らない。気づいているのかもしれないが、彼女は何も言わない。
 昨夜、りんが「働きたい」と呟いた。当然、身元のきちんとしない者を雇ってくれるところなどあまりない。あるとすれば夜の仕事くらいだ。りんに体を売ってまで稼いでもらうつもりはないのだが、そうは言っても、才戯の収入も真っ当なものではない。
 昔のように、男兄弟が放浪しながら食い繋いでいた状況とは違う。今のままでは、いずれ居辛くなるのではないだろうかと不安が募るときがあった。
 自分が働けばいいと思う。それが一番安全だ。だけど、人に雇われて使われるなど、想像もできない。だからと言って、独立して何かを興すことは、人間界の常識さえ理解していない彼には難しいことだった。
 いざとなれば、本当に暗簾に世話になるしかない。彼なら自分に合ったものを宛がってくれると、今なら信じることができる。大人しく「人間らしい」人生に骨を埋めるしかないのか。
 しかし――才戯は、瞼を落とした。りんがいつまでもここに居るとは限っていない。
 いつか、どこかへいなくなってしまってもおかしくないのだ。
 そうなったとき、この広い屋敷で一人で過ごす理由はなくなる。互いを理解できる相手は暗簾くらいしかいないのだが、もしりんがいなくなったら、自分はきっとどこかへ消えると、そう予感していた。

 才戯はふっと体を起こした。
 庭から、何者かの気配を感じたのだ。
 人ではない。
 そして、妖怪でもない。ということは……。
 才戯に寒気が走った。
 身震いしながら腰を上げ、庭の方向へ目線を投げた。居間の向こうは濡れ縁になっており、今は四枚の障子が外の風景を遮っている。
 そこに、高貴なる、雲の上の住人の気配がある。
 まさか、「あの女」が――? やはりりんとは別人だったのだろうか。とうとう答えが出る。才戯はそう確信したが、いざこのときが来ると、心臓が潰れそうなほど大きく脈打っていた。
 ゆっくりと、庭へ足を運ぶ。りんはまだ土間にいる。かちゃかちゃと鳴る物音を耳にしながら、障子に手をかけた。
 開くと、いつもと同じ雑草に囲まれた庭があった。濡れ縁に出、後ろ手で障子を閉じながら、周囲を見回す。視界に、人の姿が映った。
「!」
 あまりに意外だったその光景に、才戯は足がもつれそうになった。相手も才戯の姿に気づいて、片手を上げる。
「よう、久し振りだな」
 そこに現れたのは、鎖真だった。鎧姿ではなく、例の鉈も抱えていない。それでも衣装の派手さは常識を逸脱しているものであり、腰には二本の刀が差さっていた。
「いいとこに住んでるな。出世でもしたのか?」
 鎖真は呆然とする才戯に近寄らず、愛想笑いを浮かべていた。
「やっぱり姿も別人だな。だが相変わらず、いい男だ」
 鎖真にいい思い出はない。妖怪の頃の才戯が、唯一、圧倒的な力で叩きのめされた相手なのだから。しかし、用もないのに彼が現れるわけがない。鎖真は天上界でも身分が高く、その中でも特殊な位置にいる者なのだ。帝と依毘士からの命令で「断罪」を余儀なくされ、この世から末梢しなければいけないほどの極悪人がこの場にいない限り、彼が現れる理由はない。
 昔、それに相応する行為に至ってしまったが、紆余曲折ありながらも許されたはず。そう心の中で言い訳しながら、鎖真が武装していないということは、戦うためにここに来たわけではないと才戯は悟った。
 と言う事は……心当たりは、一つ。
 警戒しながら才戯は庭へ降りた。鎖真は庭にいくつか転がっている大きな岩に腰を下ろし、本題に入った。
「……樹燐が、ここにこなかったか?」
 やはり、と思うが、鎖真の質問の意図が分からない。才戯も彼の近くにあった岩に寄りかかった。
「あの女が、どうかしたのか?」
 樹燐――そうだ。そんな名前だった。才戯は改めて、彼女の正しい名を忘れないように心に刻んだ。
「樹燐がいなくなったんだ。もしかして、ここじゃないかと思って探しに来た」
 りんのことを隠すつもりはないが、天上で何が起こっているのか、そして、樹燐を見つけたらどうするつもりなのかを聞きたかった。
「……上で、何があった?」
 問われ、鎖真は分が悪そうに目を逸らした。あまり部外者には話したくなさそうな雰囲気が見て取れる。鎖真が話さなければ、才戯も話すつもりはなかった。答えを待つ。
「天上で、大きな戦があった」
 鎖真が空を仰ぎながら呟くと、才戯は肩を揺らして動揺を見せた。同時に、血に塗れる樹燐の姿を思い出す。ゾッと、背筋が凍る。
「たまに起こるんだよ、こういうのが。まあ、もう終わったけど、近いうちに人間界にも影響が現れるだろう。いつ、どんな形でかは分からないが、お前も一応警戒しといたほうがいい」
 おそらく、避けらない大きな天災が起こるということなのだろう。今まで人間界で起こったそれらは、ほとんどが神々の争いのとばっちりだと、どこかで聞いたことがあった。
 迷惑な話だが、人間界も六道の一つの、下層の世界。人が神を信仰する限り甘受しなければいけない法則なのだろう。
「で、樹燐は、当然戦場には出てないんだが」
「……え?」
「え、って、当たり前だろ。あいつは武神じゃないんだから」鎖真は少し笑い。「確かに、武神並の力と根性はあるんだけどな」
 ならば、なぜあんな目に合わなければいけなかったのか。いや、と才戯は考えることをやめる。あれは幻なのだから。本当に樹燐が刺されたのかどうかは、まだ分かっていない。
「樹燐は避難所にいたんだよ。そこは安全な場所のはずだった。だけど、終戦の直前に、樹燐がいなくなったと報告が入った。どれだけ探しても、見つからなくて……」
 話の途中に、鎖真は突然言葉を失っていた。目を見開き、一つのところに集中したまま動かない。目線は、才戯の背後に向かっている。
 才戯は何かに気づいて、鎖真の目線の先である濡れ縁を振り返った。
 そこには、静かに障子を開けて庭を覗いているりんの姿があった。
 鎖真は、樹燐と同じ姿をした女性に目を奪われていた。
「……きり」
 彼女の名を呼ぼうとして腰を上げたが、瞬時にして違和感を察知し、最後まで言わずに立ち尽くしてしまっていた。
「……才戯様」りんは辺りを見回している。「どなたか、いらっしゃってるのでしょうか」
 左右に動くりんの視界に、鎖真の姿は映っていなかった。何度か目が合ったのだが、りんは鎖真を目に留めず、その先にある草花しか見ていなかった。
「話し声が聞こえたので……」
 才戯は額に汗を流しながら、りんと鎖真を交互に見つめた。
 この現象を目の辺りにして、改めてりんが、何の力も持たないただの人間であることを思い知らされていた。
 そして鎖真もまた、そこにいる女性がただの人間なのだと、自分に言い聞かせている。それでも納得がいかない様子だったが、力が抜けたように、再び岩に腰を下ろした。
「なんでもない」才戯がりんに向かって声を張る。「中にいろ」
 言われて、りんは大人しく障子を閉じた。
 彼女をいつまでも目で追っている鎖真の心が落ち着くのを、才戯は待った。それに要した時間は数秒だった。鎖真は、一つ大きな息を吐いて、片手で顔を覆った。
「そっか」手の中で、口の端を上げ。「やっぱり、樹燐は……死んだんだな」
 ――――。
 才戯の胸に、切り裂かれたような痛みが走った。
「今の女は?」
「……りん」
「人間だな」
「ああ」
 二人が目を合わせないまま短い言葉を交わした後、またしばしの沈黙があった。
「……俺が見たわけじゃないんだが、樹燐は」鎖真は振るえる指先で、自分の胸を指した。「ここを刺されたらしい」
 才戯は全身が石になったかのように、固まった。
「凄い出血で……血塗れになってたんだと。そんな体でどこに行ったのか、今でも誰もが心配している。あんな性格でもな、結構好いてた奴は多かったんだよ。そうでない者も、存在感や影響力が大きいからな、安否を気にしてる」
 当然地獄にも探しに行った。しかし樹燐が行方不明になったこと、そして地獄にさえ彼女の魂の行方が知らされていないと、音耶も混乱していた。
「血痕を追ったが、ある場所で忽然と途絶えていたんだ。おそらく……そこが樹燐の事切れた瞬間の場所だったんだろうな」
 才戯にはその光景が想像できていた。ずっと消えてなくならなかったあの幻は、やはり実際にあった映像だったのだ。
「こんな事は今までになかった。帝も原因不明だと頭を抱えていた。死んだら死んだで、地獄に魂は送られるはずだし、なによりも、遺体が消えてしまうなんて、普通ではあり得ない」
 だから、樹燐が死んだなんて認めたくなくて、誰もが探し続けているのだった。しかし鎖真は「りん」を見て、樹燐は死んだのだと、今までの疑心がウソのように消え去り、不思議なほど納得してしまっていた。
 体がなくなってしまった謎も、今なら分かる。なくなったのではない。樹燐の体はそこにある。人間として、「りん」として、存在していたのだ。
 樹燐が死んでしまった事実を受け入れた途端、鎖真は憔悴しきった表情を浮かべていた。よほど探し回り、よほど心配していたのだろう。もうその必要がなくなったことで、力が抜けてしまっていたのだった。
 才戯もまた、似たような気持ちに包まれていた。
 りんが樹燐とは別人で、樹燐がいつものように元気に会いにくるもよし。樹燐が二度と現れず、なんだかんだでりんの面倒を見ていくのも、そう悪くないと思っていた。
 もしかしてとどこかで予感はしていたのだが、樹燐とりんが同一人物であり、この現象が樹燐の死によって起きたことだという事実は、思っていた以上に重かった。
 しかしこれが現実なら、受け止めるしかない。もう少し詳しく事情を聞きたいと才戯が顔を上げると、鎖真は乾いた笑いを零した。
「あいつな、本当は武神将に属せるほどの能力があるんだぜ」
 意外……でもなかった。何度か才戯は彼女から暴力を受けている。所詮女の力、とは思えなかった。人間の体では本気で戦っても勝てないのではないのかと、怖くなるほどの腕力や握力だったことは記憶している。
「あいつは鬼子母神と、俺と同じ帝釈天の血が流れている。姿は前者、力は後者のものを受け継いでいたのか、生まれついて恵まれた女だった」
 幼い頃、立場を確定するにあたり、本当は武神を薦められていた。樹燐はまだ自分の将来を決めることができずにいたのだが、彼女の宿敵である、ある人物が挑発してきたことで進路が決められた。
「玲紗っていう、樹燐にそっくりな怖い女がいるんだよ。そいつは武神の血族じゃなかったんだが、いっつも樹燐と喧嘩ばっかりして張り合い続けていたんだ。そいつが、樹燐を出し抜こうと、無理に武神の道を選んだ。今はどう思ってるか知らねえけど、その頃は『美人で強くてかっこいい女武神』っていうのに憧れたらしい。それを聞いた樹燐は玲紗に対抗して、自分は暴力なんて野蛮なことは嫌い、人を愛する女神になるのだと、戦うことに背を向けたんだ」
 樹燐が死者であることを差し引いて、才戯は心の中で「暴力が嫌いとは、どの口が言うか」と呆れの感情を抱いた。
「それでも、本質を変えることはできない。あの通り、力が有り余ってじっとしていられない女になってしまったってわけだ」
 迷惑な話だと、才戯はため息をつく。
 彼の心情を読み取り、鎖真は再度笑いながら目を伏せた。
「……そんな女がさ、一体誰に殺されたと思う?」
 才戯はかすかに指先を揺らした。
「武器さえ持たないが、樹燐は常に隙がなかった。敵も多かったからな、喧嘩なんかは日常茶飯事。相手が男だろうが女だろうが、すべて返り討ちにしてしまうほど護身術に長けていた。武神として育てられた玲紗だって、取っ組み合いになるといつも泣かされていたんだぜ。そんな女の懐に飛び込み、死に至るほどの傷を負わせるなんて者なんて……想像できるか?」
 鎖真は口惜しそうに、涙を堪えるかのように、眉を寄せた。



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