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 樹燐は我に返って、今の天上界の状況を思い出した。
 戦が始まろうとしている。そもそも自分が宮廷に来ていたわけはそこにあったのだった。
 依毘士の後を追うように早足で室を出る。長い廊下の先には、まだ彼の後ろ姿があった。
 それを目で追いながら眉を寄せ、なぜ彼がここにいるのか、その理由を考える。部外者である樹燐に伝えられることは大まかな状況だけで、詳しいことは事後の報告となる。それが気に食わず、自分で情報を集めたく足を運んでいたのだ。
 依毘士を捕まえようと樹燐は廊下を走り出す。しかし、その途中にある大きな窓ところで足を止め、その先にある光景に目を奪われた。
 樹燐のいた宮廷は高い位置だったのだが、広がる庭園に行列ができていれば嫌でも視界に入る。
 樹燐は窓に貼りつき、行列を見つめた。そこにあったのは、暗く悲しい表情を浮かべた幼子の集まりだったのだ。泣いている者もいる。しかし、子供を慰めているのは、同じ幼い子供だけである。そこにいる大人は、子供らを避難所へ誘導する心無い担当者のみだった。
 樹燐が一番心配していた光景であり、深く心に突き刺さった。
 ぐっと奥歯を噛み締め、怒りに任せて再度依毘士の後を追う。
「依毘士!」
 樹燐の怒鳴り声は廊下に響き、依毘士の耳にも当然届いていた。彼は反応を見せずに背を向けたまま足を止めなかったが、肩に乗る天竜が首をもたげて振り返る。樹燐は依毘士に追いつき、彼の前方に回って足止めをする。依毘士は立ち止まるが、眉間に皺をよせて樹燐を睨み付けた。
「依毘士、あれは」窓の外を指差し。「一体なんだ」
 依毘士は指された窓をちらりと見、すぐに目を伏せた。
「保護者のいない子供たちだろう。それがどうした」
「保護者がいないとは、どういうことだ」
「戦に出た武神の親を持つ子。または、戦で親を失ったそれらだ。行き場がないから、帝が用意した避難所に移動しているだけではないか。何をそんなに興奮しているのだ」
 淡々と語る冷たい態度の依毘士に、樹燐は更に怒りを増した。
「戦で親を奪われたと、私たちが軽々しく流していいことではない!」
 樹燐は、昔からこうだった。
 個人的な争いや喧嘩は日常的だったが、戦争というものを酷く嫌っていたのだ。
「戦で得るものは死人だけだ。それに何の意味がある」
「敵の戦力を奪うことが戦いだ」依毘士は早口で。「死者なくして戦は成り立たぬ。貴様一人が騒いだところで歴史は変わらぬ」
「戦とは大人が、強者が起こす災い。その影で居場所を失う弱者に償う方法もないくせに、偉そうなことを言うな」
 話にならない。依毘士は心を静めた。
「……一体、何が言いたい」
 その二人の言い合いを、廊下の角からこっそりと覗く者がいた。鎖真だ。仲の悪い二人に顔を合わさせた自分にも責任はあると、気になって様子を伺いに戻ってきていたのだ。案の定、二人は険悪な雰囲気である。
 汗を流す鎖真の左目の下あたりに、赤黒い痣があった。役目を果たせず、代役を頼んだ不甲斐無さに対する依毘士の制裁である。傍にあった槍の柄で殴られたのだった。
 樹燐も呼吸を整え、必死で怒りを抑えようとしていた。
「今すぐ、この下らない戦を止めろ」
 無理だと分かっているが、言わずにはいられなかった。
「戦とは歴史の中で起こる避けられない現象であり、世界を変える。止めろと言って止められるものではない。下らないのは、貴様の戯言だ」
「ならば……あの子供たちを救ってみろ。私たちは神だ。三界の頂点にある、偉大なる存在。それが、戦だと? そんなことを繰り返すからこの世に不幸がなくならないのではないのか」
「勘違いするな。戦とは選ばれし武将が主のために命を懸ける、聖なる儀式だ。戦いなくして世の繁栄はあり得ぬ。貴様如き女の汚していい小事ではない」
 樹燐は牙をむき出し、依毘士を睨み付ける。
「女だからこそ、無垢な命を守りたいと思うのだ! 貴様のように殺すしか脳のない単純な男に何が分かる!」
 鎖真は、これはまずいと大量の汗を流した。すぐに出ていって止めるべきだと思うが、恐怖で足が進まない。
 しかし、そんな悠長なことは言っていられなかった。
 売り言葉に買い言葉――ここで二人が争う理由は何もないのに、互いを罵しり、言い負かすことに意識が集中してしまう。その末、依毘士は言ってはいけないことを口に出す。
「……罪なき幼子が哀れだから、守りたい、だと? そういうお前は、一人の伴侶も持てず、子一人産んでいないではないか」
 鋭く目を細め、口の端を上げる。
「女は男を癒し、優秀な遺伝子を残すための人形に過ぎぬ。その程度の役目を果たさぬ貴様に、女としての価値などない。生き恥とは、まさに貴様のことだ」
 その言葉は樹燐の心を切り裂いた。陰口を叩かれることはよくあったのだが、こうして面と向かって言い切られると、思っていた以上に、辛かった。
 それでも、引き下がることはできなかった。悔しくて、奥歯を噛み締めながら樹燐は涙を浮かべた。
「依毘士!」
 そこで、とうとう我慢できなくなった鎖真が出てきた。二人に駆け寄り、依毘士を睨み付ける。
「謝れよ。今のは、差別だ。いくらお前でも、言っていいことと悪いことがある」
 分かっているのかいないのか、依毘士の無表情からは読み取れない。二人はしばらく睨み合っていたが、依毘士から先に目を逸らして、無言のまま立ち去っていった。
 依毘士の足音が遠ざかると、廊下は途端に静かになった。
 鎖真は彼の消えていった先を見つめていたが、傍で肩を震わせている樹燐に気づき、声をかける。
「……気にするなよ。あいつが性格悪いのは知ってるだろ? 本音じゃないだろうし、他の誰もそんなこと思ってねえから」
 慰めたいのだが、樹燐は俯いたままじっと拳を握っている。
「それにさ、大体戦の価値をお前たちが言い争っても、何の意味もないだろ。お互い立場が違うんだから……」
 鎖真の話を聞いていない様子で、樹燐は顔を上げた。その目は真っ赤になっており、いつもは隠してきた涙が溢れ出していた。それを拭おうともせず、鎖真を睨んだ。
「……私は、決して戦を許さない!」
 その迫力に、鎖真は言葉を失う。
「神として、女として、無垢なる者を救ってみせる」
 樹燐は言い切り、鎖真を押しのけて走り去っていった。
 ――どうして、彼女はすべてに逆らおうとしているのだろう。樹燐との付き合いは長かったが、いつまで経っても理解できない部分があった。
 無垢な者を救おうというのは、決して悪いことではないが、樹燐のやろうとしていることは無駄な抵抗なのである。戦をこの世から排除するなど、できる者がいるとすれば、世界を創った宗(おおもと)くらいであろう。神とは言え、樹燐一人で動かせることではない。
 きっと本人も分かっているはず。それでも反発しようとする理由は、一体なんなのだろう。
 いや、理由などない。樹燐は、許せないものは許せない、ただ、それだけの意志に従っているだけ。そして、そんな彼女を止めることができる者は、いない。
 となると、彼女の往く先は、一つ。鎖真は樹燐を思い、心痛した。
 見守ることしかできない自分の非力さを思い知らされ、重い足を引きずるようにして、持ち場に戻っていった。




 樹燐は止まらない涙を拭いながら宮廷を走った。
 人の気配は、近くには感じられなかった。武神は戦場へ、それ以外の者はそれぞれに避難しているのだろう。
 本当は樹燐も移動先を指定されていた。しかし保護者のいない子供たちの身を案じて、素直に指示に従おうとしなかった。
(……違う。私は、自由の身だからこそ無垢なる者を守ることができるのだ。私にだって役目はある。生き恥などと、誰にも言わせるものか……!)
 そう自分に言い聞かせ、樹燐は「無垢なる者」の元へ向かった。

 子供たちの避難所は、宮廷の北側の地下にあった。長く、薄暗い通路には等間隔に灯りが並んでいるだけで、陽の届かないそこは少し肌寒い。
 万が一宮廷を狙われたときのことを考えると、この地下の構造は理解できる。しかし、こんなところに押し込まれた子供たちの気持ちを思うと不憫でならない。頼りになる守護者と言えば、入り口の門に立つ地獄から手配された巨大な鬼だけだった。
 樹燐は子供たちの閉じ込められた室の扉を開ける。
 そこには、五十人ほどの怯えた幼子が詰め込まれていた。
「みんな、無事か」
 樹燐は子供たちに駆け寄り、腕に入りきるだけを抱きしめた。
「あなたは?」
 一人が尋ねると、樹燐は優しく微笑んだ。
「私は、樹燐。戦の間、ここに居る。お前たちは私が守る。だから、安心しなさい」
 親を失い、行き場もなく、未来に絶望していた子供たちに笑顔が灯った。しかし、それだけで深い悲しみを払拭できるわけがなく、笑うことを忘れて俯く者もいる。すべての心の傷を癒すことはできないかもしれないが、周りに何を言われようと、樹燐はずっとここに居ると、絶対に逃げないと強く誓った。



 樹燐は子供たちといろんな話をした。
 この無機質な壁に囲まれた室内では心が晴れることはなかったが、できる限り眠らず、できる限り一人ひとりに話しかけ続けた。
 陽があたらないために、正確な時間は次第に分からなくなっていった。
 ただ、誰かが終戦の知らせを持ってくるときを、じっと待った。
 この間にも、きっとたくさんの命が奪われている。望んで死ぬ者は止められない。だが、残された子供には何の罪もないのだ。どうしてこんなに小さな命が苦しまなければいけないのか、どうしても納得ができなかった。

 更に時間は過ぎ、樹燐は蓄積された疲労で倒れる寸前だった。
 だが、それを吹き飛ばす知らせが届いた。
 扉が開き、そこに一人の武神が立っていた。樹燐は急いで駆け寄った。
「状況は?」
「間もなく、収束します。帝の軍の勝利です」
 勝利の行き先など、どうでもよかった。やっと終わると、樹燐は深く息を吐いた。
 彼女の背中を見守る子供たちに、樹燐は振り返って微笑んだ。
「みんな、ここから出られるぞ」
 その意味を察し、室内の空気が軽くなった。だが喜ぶ者だけではなかった。未だ暗い顔のまま、俯く者も少なくなかった。
 知らせを届けた武神は、樹燐に一礼して立ち去る。
 樹燐は子供たちに寄り、「どうした」と声をかける。
「……もう、私の親は、いません」
 一人が呟いた。
「私も、どこにも行くところはありません」
「これから、どうしたらいいのでしょう」
 引き取り手を捜すことはできる。しかし、すべてを満足させる環境を与えることは難しいかもしれない。
 何よりも口惜しいのは、子供らが親を失った理由が戦であることだった。ここにいる者は武神の血筋ばかりなのだ。いずれりっぱな神仏になれる要素があったとしても、現実を受け入れるまでの時間は、簡単には埋められない。
「……落ち込むことはない」樹燐は腰を折り、集まる子供たちを抱きしめた。「私がお前たちの母親になってやる。だから、安心しなさい」
「……本当ですか?」
 樹燐の一番近くにいた一人が、彼女の裾を握って顔を覗き込んできた。
「ああ。お前たちが一人前になるまで、私が守ってやる。だから、生きなさい」
 すべてではないが、大半の子供たちが樹燐に駆け寄ってきた。今はまだ漠然としていて未来は見えていないが、今まで見捨てずにずっと傍にいてくれた彼女なら信じられるかもしれないと、子供たちは次々に寄ってくる。
 いうほど簡単ではないと、樹燐は不安もあったが、自分が生きている間は決して、これ以上この子たちを傷つけはしないと決心する。
 これで、誰かに嫁ぐという一つの夢は潰えた。
 しかし、これ以上の大きな役目はないと、これで依毘士に見下されることはないと、樹燐は自信を持つ。この子たちには強く優しい大人になってもらいたいと、新たな夢を抱いた。
 子供たちは、仮の母親となってくれる彼女に触れたいと、互いに押し合いながら寄り集まってくる。
「こら、押すではない。大丈夫、私はここにいるから……」
 わがままな子供たちを本心から可愛いと思い、樹燐は一人ひとりの顔を大事なもののように見つめていった。
 ――――!
 ふと、そんな樹燐の目に、怨念を抱く鋭い視線が飛びこんできた。
 それは今まで守ってきた子供の一人で、縋りつくように彼女の胸に飛び込んできた者を抱きしめた、その次の瞬間だった。
 ぞくりと寒気が走ったときは、もう遅かった。
 子供は、樹燐に抱きしめられた形で、隠し持っていた刃物を彼女の胸に突き立てたのだ。
 ――どうして?
 その一言が、樹燐の頭の中で繰り返されている間も、子供の刃物は強く胸にねじ込まれていく。
 先に、樹燐の口から赤いものが流れた。それに気づいた一人が悲鳴を上げる。ほとんど同時、樹燐と子供の間から大量の血が溢れ出した。
 一瞬にして室内は騒然とする。やっと戦が終わったのに、どうしてまた血が流されてしまったのか。もう誰を信じていいのか分からずに、子供たちは樹燐から離れた。
 彼女の胸元に残った一人は、刃物を突き刺したまま、涙を流した。
「……俺は、反逆軍の一人を親に持つ、雅螺がらと申す者」
 雅螺は決して大人とは呼べない、他の者と変わらない幼子だった。しかしその目に宿る悲しみと恨みは深く、見せる姿と表情には違和感があった。
「俺の親は、お前たちに殺された。許さない。親が俺を産んだ理由は、お前たちに復讐するためだったんだ。だから紛れ込んで……誰でもいい、誰かを殺して、親の仇を討つためにここに来た」
 まだ善悪の区別もつかないであろう雅螺は、ただ恨みだけを募らせて、これからも守ろうとした樹燐に刃を向けたのだった。
 この怨恨の連鎖こそが、無差別な殺戮を繰り返すのだ。
 樹燐は、雅螺が哀れで、じっと見つめる。
 たった一つでもいい。ここで連鎖を断ち切りたいと、樹燐は苦しみを堪えて雅螺を抱く手に力を込めた。
「……逃げなさい」
 雅螺は我に返ったように、涙で濡れた目を見開いた。
「戦は終わり、お前は親の仇を討った。しかしこのことが知れたら、お前は追われるだろう。だから、今すぐ逃げなさい」
 樹燐はゆっくりと、雅螺の肩を押した。体の力が抜けた雅螺は刃物から手を離し、血塗れの彼女を見て震え出した。
「雅螺、お前は罪を犯した。そうさせたのは、私たちなのだ。それでも罰は受けなければいけない。生きて、償いなさい。そのために、不当な扱いを受けないところへ、逃げなさい」
 雅螺は死ぬつもりでここへ来ていた。だが、本当はそんな覚悟はできていなかったのだ。誰の目にも見て取れるほど震え上がり、被った鮮血が涙の筋を描いている。
 周囲の子供たちは怯え、雅螺に軽蔑の目線を向けていた。
「みんな……」樹燐は、無理に声を出す。「雅螺を追うな。憎むな。その子は私が許す。道を空けなさい」
 子供たちは戸惑っていたが、声を殺して室の隅に移動し始めた。たくさんの不審の目線に囲まれ、雅螺は混乱した。しかし、もうこの場に自分の居場所はない。大きな嗚咽を漏らしながら、体当たりするように扉を押し開け、走り去った。
 樹燐の周りに、子供たちが集まり始めた。誰が見ても助からないと分かるほど、酷い出血である。次第に視界がかすれ、子供たちの泣き声も遠くなってくる。
 腕を持ち上げ、胸に深く刺さったままの刃物を掴み、引く。意外にも簡単に抜け落ちたが、その途端に更なる大量の血が溢れ出した。
 子供たちの悲鳴が轟く。恐怖に陥るそれらに、樹燐は「大丈夫だ」とウソをついて、微笑んだ。
「みんな、ここで待っていなさい。今、人を呼んでくるから」
 また戻ってくるかのような言葉を残し、立っているか倒れているのかも分からない状態で、樹燐は遠いところへ姿を消した。



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