15





 子供たちの中には秘密を守れない者もおり、避難所で何が起きたのかはおのずと上部に伝わった。
 血塗れで泣きながら飛び出してきた雅螺は門番をしていた鬼に捕まり、依毘士の元へ届けられた。雅螺は錯乱してとてもまともに話ができる状態ではなかったが、誰かが大量の血を流したことは雅螺の姿を見れば確実だった。すぐに手の空いた武神数名が避難所へ走った。
 だが、薄暗い廊下に続いていた血痕は途切れており、樹燐が姿を消したことだけが報告された。
 依毘士と鎖真の元へ、縛り上げられた雅螺を武装した珠烙しゅらくが連れてきた。
「こいつが、樹燐様を刺したガキだそうです。いかがしましょう」
 二人は正気を失っている幼子をしばらく見つめ、先に依毘士が目を伏せた。それは鎖真の判断に任せるという意味だった。彼の意志を受け取り、鎖真は牢に入れておくように珠烙に指示を出した。
 珠烙は言われたとおりに雅螺を引きつれ、その場を後にした。
 戦は終わったが、辺りは騒然としている。依毘士と鎖真は正当な軍人ではなかった。帝寄りではあったのだが、今の立場は地獄にある。その上依毘士は天竜という次元の違う力を扱うため、武将神同士の争いからは常に除外されることになっていた。
 その下に就く鎖真も同じ立場にあったため参戦はしなかったが、武神としての能力は抜きん出ており、眷属の指南や指揮を任されることがよくあった。
 二人は戦場の陣営内に鎮座していた。周囲は怪我人やそれを介抱する者ばかりである。終戦と勝利を喜んでいる者はほとんどいなかった。
 そこに、血を流して片足を引きずってくる者がいた。玲紗だった。
「鎖真」
 彼女は怪我を治療しに来たのではなかった。
「樹燐がいなくなったって、どういうこと?」
「どういうことって、いなくなったんだよ」
「どうして? あの女は避難所にいたんでしょ? どうして……殺されなきゃいけないのよ」
 殺されたと、死んだという情報はまだ入っていない。
「……いいから、お前は怪我を治療しろ」
「探さないの?」
「探してるよ。だが、手がかりがない。それが今の現状だ」
 冷静な鎖真の態度に、玲紗は苛立った。冷静でいなければいけないのは分かっているし、それが彼の役目なのだが、黙っていられなかった。
「……なんなのよ。あの女、どこまでバカなのよ!」
 我慢できず、玲紗は大きな声を出した。
「なんの能力もないくせに、どうして大人しく引っ込んでいられないのよ。出しゃばって、裏切られて、しかも、ガキに殺されたんですって? この私が一回も勝てなかったのに、なんでそんなことになるの。どこまで私に恥をかかせれば気が済むのよ。最悪の嫌がらせだわ。絶対に許さない」
 震える声で、見なくても分かる。玲紗は大粒の涙を流していた。
「私は、あの女に何一つ勝ってないの。冗談じゃないわ。絶対に、見つけ出して、ボロボロになるまで罵って、泣かしてやるんだから!」
 玲紗は怪我の痛みを忘れ、黙っている鎖真に掴みかかった。
「ねえ、探してよ。楽になんかさせるものですか。早く探してよ!」
 鎖真は少しだけ眉間に皺を寄せ、樹燐を身を案じているのはお前だけではないとでも言うように、彼女を突き放した。玲紗は項垂れ、その場に崩れ落ちた。
「なんなの……一体、私たちは何のために戦ったっていうのよ。私たちが武器を持って命を懸けて戦っていたその裏で、どうして女と子供が殺し合ってんのよ。私たちの方がバカみたいじゃないの」
 玲紗の言葉を聞き、周囲は静まり返っていた。
 その沈黙を破ったのは、依毘士だった。
 依毘士は突然立ち上がり、いつもの彼からは想像もできないような大声を張り上げた。
「今動ける者、すべて、樹燐の捜索に尽力せよ!」
 隣で鎖真は目を丸くして体を引く。
「命令だ! 逆らう者はすべて……天竜の餌食にする」
 それを聞き、動ける者が次々に走り出していた。依毘士はその様子を見つめながら、再び口を閉ざした。
「な、何やってんだよ」
「鎖真」目を合わせずに、呟く。「私は何か、間違っているか?」
「……いや、でも」
「この中の誰か、帝も含め、今の私の命令に異論を唱える者がいると思うか?」
 鎖真は答えなかった。依毘士は聞いてもないのに、続ける。
「あの女に勝手に死なれては困る。私はまだ、暴言を撤回していない」
 珍しく気にしていたようだと、鎖真は彼の僅かな良心を垣間見た。
「……不名誉な噂が立っては私の名が汚れる。死ぬなら、その後にしてもらいたい」
 苦しい言い訳だと、鎖真は思う。依毘士は樹燐に対して情はないのだが、自分の暴言で心を傷つけたまま、必死に守ろうとした幼子にまで裏切られ、何も言い残さないまま消えてしまう彼女を、さすがに哀れに思ったのだろう。
 お咎めはない、と思う。鎖真も、自分も「動ける者」であると、腰を上げて樹燐の捜索に動いた。


  



 ――そんなことが自分の知らない時間と場所で起こっていたのかと、才戯は額に流れた汗を拭った。
 りんが記憶を失っていてよかったと、今なら思える。いや、失うべき記憶だったのだ。他人である才戯でさえ、あまりの理不尽な出来事に気持ちの整理ができないでいる。
「……ま、でもさ」鎖真は再び縁側に目線を移し。「樹燐がここにいるって分かって、安心したよ」
 細める瞳には疲れが見えたが、鎖真は自然と微笑んでいた。
「人間になれて、よかったんだと思う。あいつは、なまじ力があったから何かをしなければいけないって必死になってたんだ。全部取っ払ってしまえば、ただの女だからな」
 才戯も同感だった。あの欲張りな樹燐が、持っているものを自ら放棄するとは思えない。こうして無理やり奪うくらいがちょうどいいのかもしれない。
「うまくいってんだろ?」
 突然の問いに、才戯は顔を引きつらせた。
「話したとおり、あいつは完全な孤独の身。お前しかいないんだ。分かってるよな?」
 なんだ、その言い方は――才戯に、また違う汗が流れてくる。
「おい、大事なことなんだから答えろよ」鎖真から笑みが消えた。「樹燐と所帯持つつもりなんだろ? だからこんないい屋敷にいるんだろ?」
「ちょ、ちょっと、落ち着けよ」
 そこまで意志を固めていない才戯は、鎖真から溢れ出してくる殺気に焦りを抱いた。
「ここに宿替えしたのは、確かに、あの女がきっかけだった。でもな、まだ、その、あいつとはそういう話はしてないんだよ」
「は?」
「いや、だから」
 どうしてこんなことを説明しなければいけないのか、才戯は腑に落ちない。が、話すまで鎖真は解放してくれないだろう。
「俺だって、今の今まであいつのこと、何も知らなかったんだぜ。いきなり人の庭に落ちてきて、面識あったから拾って、とりあえず面倒見てるだけなんだ。先のことなんか考えられるか」
「じゃあこれから、今すぐにでも考えろ」
「むちゃくちゃ言うなよ。まだあいつになんて話せばいいのかも分からないし、それに、りんがどうしたいかも聞く必要があるだろ」
「そんなもんねえよ」
「はあ?」
「樹燐はずっとお前を思って、天上でもずっと思い悩んでたんだ。あいつの意志は決まってるも同然。後はお前が腹を括るだけだ」
 才戯は気を失いそうになった。鎖真は更に追い討ちをかけてくる。
「いいか。あいつを苦しめたり泣かしたりしたら俺が許さないからな。不幸にでもしたら、今度こそ手加減なく、なぶり殺しにしてやる。それを忘れるなよ」
「あのな……!」才戯は堪らず身を乗り出す。「なんなんだよ、お前たちは。どいつもこいつもすぐに脅しかけやがって。そんなの、強制的にやらせることじゃねえだろうが」
「雑魚の分際で権利を主張するな」
「ざ、雑魚?」
「俺に勝てねえくせに。殺されたくなかったら言うこときけ。それが弱者の生き方だ」
 才戯は開いた口が塞がらなかった。なんて奴だ、それが武神の台詞かと、呆れ果てる。
「別にいいだろ。力のない樹燐ほどいい女はなかなかいないぜ。世話好きで気が利くし、酒の飲み方もうまい。きっと退屈はしないと思うぜ。昼も、夜もな」
 そんなこと知るかと、才戯は目を逸らした。鎖真は反抗的な彼の態度にため息をつく。
「度胸のない男だなあ。それとも、まさかまだ磨陀利まだりのことを気にしているんじゃないだろうな。そうなら……」
 聞いたことのない名を耳にした瞬間、才戯の体が石のように固まった。まったく知らない名なのに、自身もその理由は分からなかった。その異変に気づき、鎖真は首を傾げる。
「……どうした」鎖真は少し声を落とす。「もしかして、お前は先祖の名を知らなかったのか?」
 図星だった。才戯は何も答えない。その名の者がどんな人物で、どんなことをしたのか、知りたいとも知りたくないとも思えなかったのだ。
 鎖真は余計なことを口走ってしまったようだと少し後悔したが、隠す必要もない。それに、名前さえ知らなかったということは、おそらく誤解もあるはず。もう才戯が天上人と話す機会など他にないだろうし、いい方にいくことを願いながら、話し出した。
「たぶん、勘違いしてると思うけど、帝は磨陀利を晒し者にしたんじゃない」
 才戯は数回瞬きをしたが、その目は虚ろで、聞いているのかいないのかも分からない表情を浮かべていた。
「磨陀利と般闍迦はんしかの間でどんないさかいがあったのかは、もうほとんど忘れられて俺も詳しくは知らない出来事だが、磨陀利が自分で反逆軍を作って戦を起こしたのは事実だ。そして、磨陀利が敗北して魔界に落とされたのも、事実」
 磨陀利の下についた武神とその家族は全滅させられた。しかしそれも、本当は殺されたのではなく、敗北が決まった途端に、暗い密室で集団自殺をしたのである。正確には自らの命を絶ったのではなく、親しい者同士で殺しあったのだった。すべて磨陀利の指示だったと思われる。密室で発見された死体はどれも痩せ細っており、その場で断食と冥想を続けていた形跡があった。呪いの儀式だったのだろう。そこに篭っていた怨念は凄まじく、密室が開かれたときに外に漏れた瘴気は並為らぬものだった。
「凄惨な事件だったらしい。磨陀利の下についた者は、まるで彼こそが唯一神であるかのように、妄信していたんだ。帝が磨陀利だけを生かした理由は、彼が生み出した怨念をすべて背負わせ、魔界で輪廻転生を繰り返させることで血と呪いを薄めるためだったんだよ」
 いずれ役目が終われば再び天上へ戻ってくるだろう、そのときは快く受け入れると、帝は今でも心に留め置いている。しかし、過去に事件を起こした者を許せず、また繰り返すのではと疑念を持つ者がいては、浄化できるものもできなくなる。だから帝も、そして般闍迦も磨陀利の名を口にせず、時間と共に天上人の記憶から遠ざけようとしていた。
「そこで……磨陀利の子孫であるお前が、般闍迦に似た姿をして生まれたということは……どういう意味か、分かるか?」
 才戯は、やはり答えない。まあ、分かるわけがないかと、鎖真は続けた。
「磨陀利の業は浄化された。俺は、そう思った」
 千獄の時に関わり、樹燐と出会った。この世の出来事はすべて運命で決められているのだ。偶然なんかではない。だから、ここで彼を解放することは間違いではないと、鎖真は確信していた。
「もしお前が、先祖の怨念に取り付かれているとしたら、それは、ただの幻だ。帝も般闍迦も、お前の先祖を許しているし、決して嘲るために生かしたわけじゃないって、分かっただろう? お前が苦しむ理由もない。だから、これ以上時間を無駄にするんじゃない」
 才戯の瞳が揺れた。まるで意識を取り戻したかのように、鎖真に焦点を合わせる。
「人間の寿命は、お前が思っているより短い。自由でいられるのは、きっとこれが最後だ」
「……最後?」
「次は」鎖真は不適な笑みを浮かべ。「上で働いてもらうことになるだろうからな」
 才戯の中で、何かが変わったような、変わらないような、不思議な感覚があった。
 今まで見せられていた悪夢は、すべてが、彼の脳に摺りこまれていただけの妄想だった。変わったことがあるとすれば、もう二度とあの夢を見ないということだろう。
 鎖真に聞いた話を、今すぐ理解することは難しいと思った。りんのことも考えなければいけない。なんて、重い。いや、そう思っているのは自分だけ。人間とは何も知らずに時間を過ごす生き物である。自分もそうすればいいのだ。今までと、何も変わらない。
 鎖真は才戯が納得するまで待つつもりはなかった。
 彼と樹燐の間に、障害など何一つない。多少の喧嘩や苦労は見逃すつもりで、腰を上げた。
「じゃ、達者でな」
 才戯は取り残されてしまうような不安に襲われ、顔を上げた。
「お前とは、またいつか会える。ああ、樹燐のことは、上には分かるように報告しておくから。誰かが連れ戻しにくることもない。安心しろ」
 一人にはされたくないが、何も言いたいことがなく、才戯は呆然と鎖真を見つめた。
「あ、それと」鎖真は踵を返しながら。「依毘士が、ごめん、って。機会があったらでいいから、伝えといてくれ」
 なんのことか分からないし、そんな機会などあるわけがない。やはり才戯から言いたいことは出てこず、天に消えていく鎖真を、黙って見送った。



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