Blood



 次の日の午前中のうちに、二人は別れた。
 チビはローピアの隣町ガレッタにいた。背中には人形と、地図やお金の入ったリュックを背負っている。ガレッタもローピアほどではないが大きな町だった。だが、隣町と言っても、周辺は森や山岳に囲まれている。二つの町の間は山岳が遮っているが、それらを繋ぐ車も通れる人道が設けられている。歩けば五時間ほどかかるが、指定の日まで後二日。ガレッタならローピアまで一本道だし、治安も悪くない。ブラッドはチビの一人旅の出発点にここを選んだ。
 町の中で迷子になる可能性はあるが、そのくらいならチビにはちょうどいい試練だと思う。印をつけた地図も渡してある。チビが字は読めなくても図表くらいは理解できることを確認しておいた。そして、何かあったときのために少し多めの金を持たせた。失くすな、落とすな、無駄遣いをするな、財布の中身を人に見られるなと念を押してある。それから、子供が一人で宿に泊まるときに不審がられないために、ブラッドが一筆書いたものを渡した。内容は、チビがローピアにいる親戚のところに旅行をしていることになっており、宿代もちゃんと所持しているということだった。チビの身元はイデルの身内だということになっている。
 本当はチビに冒険屋を名乗らせればそこまで手配する必要はなかった。このくらいの年の冒険屋は多くはなかったが、いないことはない。そうだと言えれば最低限の責任能力があると判断される。だが、問題はチビにそんな意識も能力もないことだった。嘘をついて何か問題が起きれば警察に突き出されることもあり得る。それは面倒だと、ブラッドはチビを一般市民として扱うことにした。チビにはそこまでの事情は分からない。言われたとおりに従う。
 ブラッドは移動中、まだ眠そうなチビに分かりやすく説明し続けた。
「何かあったらイデルに連絡するんだ。君のことは話してあるから、力になってくれる。それから、道に迷ったら誰かに尋ねるんだよ。だけど、知らない人はダメだよ。警察とか、どこかの店に入ってそこの店員に声をかけるんだ。いいね」
 あれから数時間眠ったあと、早朝の車の中ではそんな会話しかできなかった。チビも時間が惜しかったが、どうしても眠気には勝てなかった。ブラッドと別れたら一人になるのだ。必死で彼の言うことに耳を傾けているのが精一杯だった。
 ガレッタに着き、ブラッドはチビを降ろして行ってしまった。まだ空気が少し冷たい町の中で、チビは小さくなる車をいつまでも見送っていた。


 ブラッドのことも気になるが、今は自分の心配をしなければいけなかった。まずは宿を確保して、時間に余裕があればそれなりの服を揃えるように言われている。令嬢に会うのであれば少しは身奇麗にしたほうが印象がいい。必要以上に畏まると変な違和感を醸し出してしまうだろうが、宿ではちゃんと風呂にも入って、歯磨きや洗顔もするように当たり前のことを言い聞かされた。顔だけじゃなく、口うるさいところも女みたいな奴だとチビはどこかで思ったが、皮肉ればまた倍返しされるだろうと思って言葉にはしなかった。と言っても、チビが女のことをそう知ってるはずがない。院での大人たちの会話やテレビなどで、女が男よりも神経質であると勝手に思い込んでいるだけのことだった。
 右も左も分からないチビは、とにかくブラッドに言われたことを守ることにする。まだ少し眠気もあるし、どこか宿を探したい。きょろきょろと周囲を見回すと、大きな建物がたくさんある。開いているところに入って人に聞けばすぐに見つかるはずだと、チビは歩き出した。


 思ったとおり、チビはすんなり宿を取れた。あまり豪華ではない宿屋を選び、ブラッドに書いてもらった書面を見せると店員も疑うことなく受付を済ませてくれた。念のためと、料金は先払いだと言われ、性格上文句を言いたくなったが、ここは堪えてチビは素直に従った。
 部屋に案内され、チビは荷物を下ろしてベッドに横になった。当然だが、一人部屋だ。今まではブラッドがいて、二人用か、それ以上に広い部屋にいた。孤児院の自室はこんなものではなかったのだが、チビには今いるところが妙に狭く感じた。もう我侭を言う相手も、時間が来れば食事や就寝を促してくれる人もいない。チビは、いつも一人でなんでもできると思っていた。孤児院にいたときも、自分は一人のはずだった。だが、そうではなかったことを少しずつ感じ始めていた。嫌でも思い知るしかなかったのだ。改めて考えると、どんなタイミングで食事をすればいいのか分からなかった。空腹になったときには、食べたいものだけを食べればいいのだろうか。だが、その食べたいものとはどこから持ってくればいいのだろう。チビは急に不安になった。そして、この狭い空間から出たくないと思った。
 怖い。それが正直な気持ちだった。寝るのはいつでもできるが、いつ、どうやって起きればいいのだろう。出かけるタイミングも分からない。外に出たとして、どこへ行けばいいのだろう。
 もうブラッドは傍にはいない。連絡も取れない。孤児院に戻ろうとも、ここからだと遠くて簡単に帰れるはずがない。
 チビは寂しくて、布団の中に潜った。目を閉じるとブラッドの顔ばかりが思い出される。やっぱり、どんなに危険でも着いていきたかった。こんなところで一人になってしまうくらいなら、怪我くらい覚悟でブラッドと一緒にいたかった。
 チビはまだ「ブラッドが死んでしまうかもしれない」という可能性に対して実感が湧いていなかった。チビは人の死を目の当たりにしたことがないのだから当然のことだった。その無知さが、「ブラッドにまた会える」という希望を失わせなかった。もう二度と彼に会えないなんて考えることができないでいた。


 いつの間にか、チビは眠ってしまっていた。布団の中で目を覚まし、慌てて体を起こす。目を見開いて時計を確認する。どうやら眠っていたのは三時間程度だったようだ。ほっと胸を撫で下ろす。ベッドから降り、二階の窓から町を眺めた。まだ午前中だったが、だいぶ人が動き始めている。賑やかな町中を眺めた後、チビは再び暗い顔になってベッドに腰を下ろした。
 気を紛らわすために、やるべきことを考える。まずは買い物にでも、と思う。別にどうしても必要なものではないのだ。よく分からなければ買わずに戻ってくればいい。そういえば、とチビは肩を落とした。お腹が空いていることに気づく。食べるものも何とかしなければ、これだけは我慢してどうにかなるものではない。とりあえず、宿屋の一階に食堂があったはず。朝はそこで済まそうと、チビはやっと部屋から出た。
 朝食のはずだったが、チビが食べ終えたときにはもうすぐ正午になる時間になっていた。食堂では、子供が一人でと少し気にかけたように見られることはあったが、ちゃんと支払いもできたし、挙動不審になりかけながらも行儀よく済ませている様子に、声をかけてくる者はいなかった。チビは緊張してしまい、食べた気がしなかった。部屋に戻り、再び外に出かける気力を失っていた。
 ソファに深く腰掛け、ため息をつく。隣にあったリュックに目を移し、ゆっくりと引き寄せた。中にある、ブラッドから預かった人形をぎゅっと抱きしめる。これは大事なものだ。チビは自分に言い聞かせた。これを果たさなければ、ブラッドに会えたときに笑われる。また子供だとバカにされる。チビは一度深く目を閉じた。
 光のない真っ黒な視界に思い描かれたのは、ブラッドの笑顔でも、冷たく恐ろしい顔でもなかった。彼の流した温かい涙がチビの中に流れ込んできた。
 涙。涙とは何だろう。孤児院にいたときも、自分くらいの子や、自分より体の大きな者も流していた。唇を噛み締めて肩を震わせている者、大きな声を上げて何かを訴えている者、思い起こせばいろんな涙があった。だが、チビにはそれが何を意味するのか分からなかった。きっと悲しいときや苦しいときに流すものだとは思う。だけど、何のためにそんなことをするだろう。ブラッドも、自分に泣けと言った。なぜだろう。
 なぜ、どうして。チビは泣くことが嫌だとか、気持ち悪いだとか、そうは思わない。ただ、人が一体どうやって泣いているのかが理解できなかったのだ。だが、ブラッドの涙は優しかった。たった一粒二粒の雫なのに、チビの心に染み渡った。そして、彼が自分のことを嫌いなわけではなく、それどころか、本当に別れなければいけないことに心痛していることが伝わった。あれだけは嘘ではないと確信できた。だからこそチビはここで一度、彼から離れることができたのだ。もしブラッドを信じられなかったらきっとチビは彼を恨んでいただろう。ブラッドの言うことなど聞けずに、自分は捨てられたのだと絶望していたに違いない。だが、そうではない。それが今のチビの唯一の原動力になっていた。
 チビは勇気を出そうと決心する。立ち上がり、抱えていたリュックを背負い直しながらドアに向かった。


 チビはフロントで宿を出ることを伝え、優しそうな店員に「気をつけて」と声をかけられながらその場を後にした。町はすっかり活動していた。この時間帯と雰囲気ならチビが紛れても目立つことはない。先ほどまでの不安が自然となくなったチビは、大通りを歩きながら子供服のありそうな店を探した。お目当てのそれは意外と近場にあった。チビが恐る恐るそこに入ると、愛想のいい店員にすぐに声をかけられた。チビは目を逸らしながらも、素直に事情を話して店員に服を選んでもらう。事情と言っても、チビがローピアの親戚のところへ一人で向かっていることと、久しぶりに会う親族に恥ずかしくないような服が欲しいという作り話ではあったが。それでも店員は疑わずに「偉いね」とチビにエールを送ってくれた。
 たったそれだけのことだったが、チビは、思ったよりうまくいくものだと気を緩ませた。夜とかの時間帯に一人で出歩くことを避ければ問題はないのかもしれないと思った。
 会計を済ませたチビは店を出て地図を広げた。できれば明るいうちにやれることは進めたほうがいい。ここからローピアまで五時間、チビの足ならそれ以上かかるかもしれない。それを踏まえても今日のうちにローピアに入ることは可能である。そうすれば残りの時間はゆっくりできる。よし、と心を決めたチビは道を確認しながら歩を進めた。


 もう一時間は歩いただろうか。広いガレッタの町の果てはなかなか見えてこない。チビは、同じところをぐるぐる回っているんじゃないだろうかと心配になった。足を止めてもう一度地図を確認する。方向は合っている。チビには地図と、ブラッドのつけてくれた印以外に頼れるものがなかった。誰かに尋ねるほうが早いのかもしれないが、チビはそういうことには慣れていない。自分から、知らない人に唐突に声をかけるということを思いつけなかった。とにかく先に進もう。調子を取り戻し始めたチビの中には、いつもの意地が甦ってきていた。
 だが、やはりそれが事をよくない方向へ捻じ曲げた。チビは元々勘がいいわけでも、運が強いということもない。なのに、この状況で無理をしても碌なことがあるわけがないのだ。地図を握り締めたチビは、なぜか森の中にいた。何か嫌な予感がした時点で引き返せばいいものを、地図にない木々の集まりがただの通り道であり、きっとすぐに抜けれると信じてそのまま進んでしまったのだ。これ以上は限界だと足を止めたときは、もう手遅れだった。前後左右、どこを見ても、うっそうとした樹木しかない。その隙間に目を凝らしても、建物も人の姿も見当たらない。手の中に地図があるにも関わらず、チビは自分がどこにいるのかさえ把握できなくなっていた。
 つまり、迷子になってしまったのだ。さすがに、ここは誰かに助けを求めたいが、こんなときにはその相手がどこもいない。だが、まだ空が明るいのもあり、チビはとにかくこの森を抜けようと更に進んだ。森と言っても限りがないわけではないのだ。ここを出ればきっと町に戻るか、もしかしたらローピアに着いているかもしれない。そう、簡単に考えた。


 とうとう日が落ち始めた。だが、チビはまだ森を抜け出せずにいた。緑に囲まれたチビは立ち尽くし、顔が青ざめている。食料は少しリュックの中に買い置きをしておいた。とは言え、このままだと夜を森の中で過ごさなければいけないし、無事に朝を迎えたとしても、一体いつここから出られるのか途方に暮れてしまう。ひたすら真っ直ぐに歩き続けてきたチビは、その場に座り込んだ。地図を握ったまま、次第に暗くなり始める世界を呆然と眺めた。
 どうしよう。
 チビの不安は限界に達し、もしかすると、このままここで野垂れ死んでしまうんじゃないかとまで思う。心配は飢えだけではない。この森に凶暴な賊や獣がいないとも限らない。そんなものに出くわせば、チビなどあっという間に殺されてしまうだろう。チビに寒気が走った。やっぱりもっと進んでみようかと足に力を入れようとするが、入らない。怖くて腰が抜けていたのだ。
 ブラッドの安否を気にしている場合ではない。自分の方がよっぽど窮地に立たされているではないか。
(……なんだよ)チビは微かに震えていた。(あの、バカ。どうして森に迷ったときにどうすればいいのかを教えてくれなかったんだよ)
 心の中でチビはブラッドを責めた。だが、明らかにそれは見当違いだった。万が一にあり得ないとは言えないが、目的地とは逆にある森に、しかもこんな深くにまで迷い込むなんて誰があの短い時間に想像できるだろう。そのことを予想できるくらいの余裕があれば、二人は別れることはなかったほどの僅かな可能性へと、わざわざチビは進んでしまっていたのだ。今更どうすることもできない。ブラッドから渡されたイデルへの連絡先も、電話がなければ繋ぐ手段がない。チビは完全に一人になってしまった。今はただ、この暗闇の中で彼を取り巻く恐怖や不安と、地味に戦うしかできることはなかった。


×××××


 広大な荒野の真ん中に車が一台あった。オープンのジープは屋根を取り外されており、ボンネットには一人の青年が片膝を立て、フロントガラスに背をもたれて座っている。光の加減で銀に見える灰色の髪が、緩い風に揺れた。
 静かに呼吸をしている青年はブラッドだった。額には、その優しい顔には似合わない、厳ついゴーグルを宛てている。そしてその足元には彼の愛銃である、手入れの行き届いたライフルスコープが横たわっていた。鋭く、感情のない細い瞳の先には小さな森があった。その向こうは岩肌のむき出しになった岸壁になっている。
 ここは未開地であり、周囲に町や村もなく、人も滅多に通らない。ここならいくら大地を破壊しようと、何人殺そうと誰も文句は言わない。ブラッドには都合のいい場所だった。だから、ここを選んだ。
 チビには殺すことが目的ではないと言ったが、迫る刺客をすべて抹殺するか、再起不能に陥れる必要があった。情報を知る者を放っておくわけにはいかない。例え「荷物」を依頼主に無事に手渡したところで、後でそれを奪われたり、依頼主を殺されては意味がないのだ。
 冒険屋の任務とはあくまで個人のなす業だった。人事は組織に委ねられているが、与えられる仕事は一人の人間の能力、戦術にすべてがかかっている。その責任は重大なものだった。だからこそ、それを理解しているからこそブラッドは残酷になれた。情を交えてはミスを犯す。だから心を切り離す訓練をしてきた。そして、それを身につけた。だから今、ブラッドはここにいる。
 チビのことが気にならないと言えば、嘘になる。だが今は考えないことにした。彼の身を案じてしまえば任務に支障が出る。それは避けなければいけないことだった。こうして、機械のように、当たり前のように人を殺すことをチビは悲しむと思う。それでも、躊躇ってしまえば二度と彼には会えなくなってしまうのだ。自分がどうなろうと、そんなことはどうでもよかった。ただ、もう一度チビの笑顔が見たい。そして彼が正しい道を進み、立派な大人になってくれることを望み、できることならそれをずっと見守ることができればどんなに幸せだろうと思う。この仕事を終わらせて、彼が望むならば冒険屋を辞めてもいいとまで考えていた。もちろん、そんなことが許されるわけがないことも承知のうえで。
 夢物語だと思った。だけど、自分はいつもそうだった。現実を見据えることができずに、間違った信念を貫いてきたのだ。間違っていると気づいてからも、直そうとはしなかった。人を殺しながら、いつか誰かが幸せになれると夢を見続けてきた。それでよかった。それしか生きる方法がなかったからだ。だから、自分を責めることを、いつの日にか止めていた。
 開き直りだと言っても過言ではなかった。自責の念など、何の糧にもならないのだから。好きで人を殺しているのではない。仕事だからである。人が人を殺しているのではない。「武器」が「障害」を取り除いているだけのこと。その証拠に、ブラッドには莫大な金銭が与えられてきた。だから、もう考えることを止めた。それに、もし自分のしていることが罪ならば、いつか神が見合った罰を、残酷な結末を与えてくれる。そう信じた。
 そう、神は何も奪わない。与えることしかしてくれないのだ。幸せになれないのなら、それは自分の選んだ道以外の何でもない。それでいい。ブラッドはそのときを待ち続けていた。
──ならば、自分に無碍に殺されてきた、そしてこれから殺されていく罪無き者の死もまた、神の与えた残酷な最期なのかということまでは考えなかった。そこを追求してしまうと、自分の信じる神とやらが何者なのか分からなくなってしまうからだ。自分の中から「救いの神」がいなくなってしまえば、ブラッドは生きていけない。だから、目を逸らしてきた。
 こうしている間にも、確実に敵が近づいてきていた。ブラッドはその迫り寄る殺気を感じ取っていた。
 少し瞼を落とし、漂う空気の匂いを嗅ぐ。嫌な湿気があった。雨雲がゆっくりと向かってきていることをブラッドは読み取る。少々不利な状況になりそうだ。だが、自身の放つ業火を消すほどのものではない。いいだろう。来るものすべて、受け入れてやろうではないか。口の端が微かに上がった。
 頭上には神々しい光を放つ満月が浮かんでいる。
 同じ頃、チビも森の木々の隙間から同じ月を眺めていた。チビは嫌なことがあったとき、寂しいとき、こうして月を見つめているのが好きだった。月と向き合っているだけで、今日あったことや不安や悩みを相談しているような気分になれるからだ。そして、闇を照らす月の光に願いをかけると叶いそうな気がしていたのだ。あの時もそうだった。院でブラッドから手紙を貰って待ち続けてきたときも、三日間ずっと月に願っていた。ブラッドに会いたい、と。だからチビは、そのときと同じように、また願いをかけた。