Blood



 雨は好きだ。
 じっと打たれているだけで、染み付いて取れなくなった汚れまでも洗い流してくれるようだから。
 雨は好きだ。
 どこまでも燃え広がり、何もかもを消し去ってしまう恐ろしい炎をかき消してくれるようだから。
 心地いい。このまま雨と一緒にどこかに流れていけたら、どんなに楽だろう。一生かけて償っても終わらないほど積み重なってしまった「罪」と共に、このまま跡形なく消えてしまいたい。
 どうか、空よ。哀れんでください。涙の代わりに大地のすべてを濡らしてください。
 そして、何もなかったかのように、また暖かい陽を注いでください。


×××××


 気がつくとチビはその場で眠ってしまっていた。肌寒さを感じて目を覚ます。せめて朝になっていれば少しは安堵できたものの、周囲は更に深い闇を落としているだけだった。
 寒さと恐怖でチビは身震いする。静かな夜だった。まだ頭上には月が夜空を照らしている。だが、厚い雲が見える速度で空を覆い始めていた。それがチビにとっての救いである月の光を遮っていく。チビの不安は募る一方だった。
 もう一度眠ろう。このまま朝を待ってまた動けばいい。そう思ってチビは目を閉じた。閉じようとした。
 しかしチビは、頭上で何かが光ったかのような、警告のようなものを感じて目を見開き、体を起こした。辺りをきょろきょろと見回し、這うようにして立ち上がって暗闇の中を走り出した。


×××××


 来た。敵の気配を感じ取り、ブラッドはボンネットの上で素早くゴーグルを装着する。片膝を立てたまま背を伸ばし、ライフルを構える。ゴーグルには特殊な機能があった。断熱、遮光、防弾を兼ねたフィルタが数層にも重ねられている、ブラッドが職人に作らせた一点ものだった。
 ブラッドが構えるライフルの先が狙うものは、彼が罠を仕掛けた小さな森だった。ブラッドには敵が見える。視界に映らずとも、空気を通じて伝わってくる微妙な振動を読み取り、相手の呼吸から筋肉の動きまでを予測できるのだ。それは目に見えない限り、あくまで想像に過ぎなかった。だがブラッドのそれは九十パーセント以上の確率のものだった。材料は人の気配だけではない。周囲を取り巻く大地や木々の呼吸、空気や風の流れのすべてを利用して、肉眼では捉えられないものを探るという特殊な能力だった。生まれついて持っていたものなのかは分からない。誰にでも真似できるものではなかったが、ブラッドは訓練を経てその力をものにしていた。
 刺客の人数は、予想通り十人。森の中を警戒しながら、静かに歩み寄ってきている。ブラッドはスコープで狙いをつけ、機を待った。
 ブラッドはフンと鼻を鳴らした。敵がブラッドの思惑通りに動いていたからだ。それはつまり、敵がブラッドの特殊能力を知らないことを意味する。きっと、たかだか一人の冒険屋だと高を括っているに違いない。
(……ルチルがデスナイトを超えられない理由は、情報収集力の欠如にある)
 ブラッドは敵を見下しながらも、世に自分の素性が知れ渡っていないからこそ仕事がやりやすいのだということに感謝した。
(念のためにと多めの人員を用意したつもりだろうが……僕にとっては十人も百人も同じこと。まとめて――消えろ!)
 スコープから赤い光が走り、真っ直ぐに森へ伸びる。一瞬、沈黙が落ちる。次の瞬間、森の一部が火を噴いた。
 ブラッドが狙ったのは個人ではない。森の中の至る所に仕掛けた爆弾だった。張り巡らされた罠に敵がかかり、爆弾に刺激を与えることでも威力を発揮する。だがそれだけでは並の冒険屋と同じ手段に過ぎない。ブラッドのそれらと違うところは、敵の動きを先読みし、離れたところから罠を自由自在に操れることだった。
(……まず二人、仕留めた)
 敵は思わぬ攻撃を受けて素早く動きを変えた。気配を消して、散り散りに身を潜めている。まだ状況を読めてないはずだ。きっと、ドジな人員がトラップにかかったとしか思ってないのだろう。ブラッドにはその様子さえ手に取るように窺い知れていた。容赦なく次の攻撃に出る。再び、爆発が起こった。
(二人……仕留めた。一人は体の一部を持っていかれただけで息はあるようだな。だが損傷はそれになりに大きい。きっともう動けない。復帰も無理な状態だろう)
 そう思いながら次の獲物の位置を探る。そして待たずに、撃つ。炎は燃え広がり、この勢いなら森がそれに包まれるまでそう時間はかからないと思う。ここからはブラッドも気を抜いてはいられない。敵が森から出てくるまでに、できるだけ多くを消してしまう必要があるのだ。続けて左右に火を放つ。
(一人……また一人。あと四人)
 ブラッドには人間の肉が殺げ、焼ける感触をも感じ取ることができた。死体が多いときには異臭が鼻を衝くときがある。その匂いは特異のものだったが、いつの日にかそれにも慣れてしまっていた。慣れるなどという言葉を使っていいものなのか危惧されるのだが、そのことを受けいれなければブラッドは立ち竦むしかできなくなる。一時期はその匂いに取り付かれ、いくら体を洗っても落ちないような気がして一人で思い詰めるときもあった。そのとき、ブラッドは自分はもう人間ではなくなったのではないかと疑った。だから、慣れるしかなかったのだ。そうでなければ、部屋から出ることさえできなくなってしまうから。そしてブラッドはその苦痛を乗り越えるために、自ら地獄へ身を投じ続けた。その結果、いつしか仕事での付き物として気にならなくなってしまっていた。だが現実は「気にならない」のではない。ただ、「死の匂い」への恐怖を「見ないよう」に背を向けることが癖になっただけのことだった。それには相当な精神力が強いられる。つまりこの癖もまた、ブラッドの特殊能力のひとつであることを、彼を知る者も認めていった。いい意味でか、悪い意味でなのかは、人それぞれの考え方で二分されたが――。
 残った敵の四人の中で、二人が素早く、その内の一人が賢い。おそらく後者がルチルのトップだろう。トラップだけで抑え込むのは難しいようだ。ならば、せめてあと二人はここで仕留めておきたい。ブラッドは攻撃の手を休めなかった。
 仕掛けた罠に、あと三つ炎を灯せば森は完全に燃え上がるだろう。次の瞬間にはまた森から炎が吹き上がり、その反対側からもう一つ、そして中央辺りで三つ目が爆発した。もう森を包む炎を沈静させる手段はなくなった。そこにある物体が消失してしまうまで収まらないだろう。自然への挑発のようなブラッドの攻撃に物申さんとばかりに雨雲が活発に動き出した。それでもブラッドは構えを解かなかった。
(二人はこのまま逃げ切るか……)
 まだトラップは残っている。先ほどの攻撃で一人は仕留めた。もう一人は、と空気を読んで状況を確かめる。負傷はしているがまだ息の根は止まってないようだ。その死に損ないの容態を探るが、漂う湿気のせいで見えにくくなってきている。確かな情報は得られそうにない。念のためにと、ブラッドは残った爆弾を狙い撃ち、確実に留めを刺した。
 そこでブラッドはライフルから顔を離す。ゴーグルを外し、少し目を顰めて森を眺める。それはもう森と呼べるものではなかった。不謹慎ではあるが、燃え尽きるのを待つしかなくなったものをブラッドは「焚き火」と呼ぶ。
 雨雲に包まれた重い空から雫が零れてきた。雨だ。ブラッドは湿気や風向きに敏感だ。森から目を離さないまま、天候を先読みする。これは小雨でも通り雨でもない。次第に雫は大粒になり大地を打ち付けるだろう。それでも、おそらくあの焚き火は、木々やその中に転がる肉塊が完全に炭になってしまうまで消えはしないだろうと思う。
 炎の中に二つの人影が見えた。生き残った敵がトラップを掻い潜り、獲物であるブラッドの命を奪うために一歩、一歩と近付いてくる。二人とも人間だった。だが全身を黒い戦闘服で包み、如何わしいマスクによって顔は見えない。装着したハネスホルスターには二つ三つの銃下げ、腰には凶暴な剣を携えている。ブラッドはライフルを下ろし、ボンネットの上に立ち上がった。後方に少し体を屈め、シートに備えてあった愛剣を掴む。鞘から抜き、一度腕を下ろして客を歓迎した。
 雨が視界を悪くするが、それは敵と同じ条件である。近づいてくる敵の一人は肩を負傷している。それでも、一対二というのは少々不利だと思った。ケガをしてない方が今回の任務のボスだろう。あの攻撃を無傷で躱してきただけでもその実力が計り知れる。できれば剣を交える前に雑魚を片付けておきたい。そう考えながら、ブラッドは表情を変えずにじっと二人を見据えた。
 敵は警戒を強めて炎を背にして冷静に歩いてくる。歩きながら、剣に手をかける。そしてブラッドの立つジープの五メートルほど手前で足を止めた。しばらく三人は沈黙した。滴る雨水が顔を濡らしても、拭おうともせずに。
 風が吹いた。ブラッドは冷たく微笑む。敵はその表情の変化を察知し、僅かに肩を揺らす。ブラッドはまるでからかうかのように、二人の手前に小型の爆弾を投げ落とした。
 二発。その威力は小さく、爆風以外に敵に直接は危害を与えないものだった。しかし負傷している方の敵が戸惑った。ブラッドの行動にも異常さを感じた上、先ほどまでの執拗な炎の攻撃に神経質になってしまっていたのだ。その反応は、ブラッドの思惑通りだった。
 爆発が収まったとき、彼の左胸には短剣が突き刺さっていた。手榴弾はただの目晦ましだった。敵が怯んだその一瞬の隙に、ブラッドは炎の壁の向こうに小さな剣を、音も立てずに放っていたのだ。剣先は心臓にまで届いていた。敵は膝をつき、その場に倒れる。
 残った黒い男は、身構えながらその様子を見届けた。最後の仲間が息絶えたことを確認し、改めてブラッドに向き直る。マスクの向こうのそれと目が合い、ブラッドはにこりと微笑んだ。
「仲間はみんな、無駄死にしてしまったね」
 優しい笑顔とは裏腹な、残酷な言葉だった。
「最初から君一人で来ればよかったのに」
 敵はしばらく黙っていたが、相手に不足なしと認知し、マスクの下で笑った。
「……そうだな」発する声は低かった。「お前がデスナイトの『赤い影』だったか。姿のない殺人兵器。噂は聞いていたがその通り名の意味が、やっと分かった。どれだけ恐ろしい姿をしているのかと思えば、まさかこんな優男だったとは想像したこともなかった。少し化粧でもすれば女にも見えるほどに線が細い。可笑しな話だな」
 皮肉であることは嫌でも分かる。だがブラッドは動じない。
「戦術も持つ力も僕のものだけど、作戦は組織なす業だ。君たちがデスナイトに勝てないわけはその単純明快さにある。帰ったら上司に伝えるといい。僕のような『変わった男』をスカウトしろ、とね──まあ、帰れたら、だけど」
 ブラッドは少し肩を竦める。彼の言葉の意味は分かる。今まで「赤い影」の正体が暴かれなかった理由は、ブラッドの仕事の完成度の高さにあるのだから。彼の「影」である姿を見た者は確実に消されてきたのだ。だから正確な情報を持ち帰った者が一人もいなかったということだった。
 男は、なぜ今までブラッドと自分が対峙することがなかったのか疑問にさえ思った。神がいるとしたら、今までそれはどっちの味方をしていたのだろう。だが、その答えはここで出る。どちらかが負け、どちらかが勝つのだから。つまり、勝った方にこそ、見えもしない加護があるということだ。
 常識で考えれば、強い者が勝つ、ただそれだけのことだ。しかし二人は既にお互いの実力を認め合っていた。勝敗を左右する材料は運のみ、それだけにかかっているとしか考えられなかった。
 ブラッドはボンネットを軽く蹴り、身軽に地面に降り立った。二人の距離は更に縮まる。雨は更にと激しさを増してくる。その中で、二人はお互いに剣先を向け合った。「デスナイト」と「ルチルスター」の最強の剣が交わる。合図もなく、一対一の殺し合いが始まった。


×××××


 チビは雨の中をひたすら走っていた。時々立ち止まっては辺りを見回す。そしてまた思う方向に走り出す。息は荒いが、彼に恐怖はなかった。大好きな月の姿はもう雨雲に完全に遮られている。森を取り巻く深い闇や冷たい空気が心に不安を注ぎ込んでくるが、チビは構わずに夢中で走った。
 どこに向かっているのか、自分でも分からなかった。ただ、あまり当てにならない勘が強い胸騒ぎを訴え、じっとしていることができなかったのだ。恐ろしいものに出会うかもしれない。事故で怪我をするかもしれない。それでも、チビは走らずにはいられなかった。果ての見えない闇の中で、光を求めて走り続けた。


×××××


 男はクロウと名乗った。クロウは体が大きく、獣人にも劣らないほどの腕力を持ち、更に俊敏な剣術を兼ね備えている。組織対組織の実力はデスナイトが上だったとしても、個人対個人となると話が違う。ここから先は男同士の喧嘩に過ぎなかった。弾き出された結果は組織の成績に影響を与えるが、勝てば報酬と栄誉が与えられ、負ければ死ぬだけ。後のことは後で考えればいい、それでよかった。
 相手の実力に驚いていたのはクロウの方だった。ブラッドはその小柄な体からは想像もできない剣術で敵を圧倒していたのだ。ブラッドは、クロウのマスクの下にある戸惑いを感じ取っていた。敵に驚かれるのはブラッドにはよくあることだった。大抵はブラッドを、小細工が得意なひ弱な男だと見下す。罠さえ抜ければ彼を倒すのは簡単だと見下すのだろう。しかしブラッドがただの狙撃手なら組織のトップになど立てるはずがなく、そこまでに到達するには一流に値する能力と、プラスアルファがなければ抜きん出ることなどできはなしないのだ。そんな初歩的なことを、彼の外見に騙されて見失う者は少なくなかった。
 そしてそれはお互いに通じることでもある。クロウがただの怪力バカなら、簡単に隙をつける。だが、それだけではなかった。クロウはブラッドの能力を冷静に見抜こうとしていた。その判断力がなければ彼はここまで来なかった。クロウは素早く、ブラッドが決して「小さな剣士」ではないことに気づき、見方を変えた。速く、鋭い彼の攻撃を受けながら、五感を研ぎ澄まして弱点を探り始めた。剣を交わせば交わすほど、二人は戦い難くなっていく。
 力は同等であり、故に苦戦だった。一度離れて息を整える。その間にクロウは腰に下げた銃器を、鬱陶しそうに投げ捨てた。身軽になり、凝り固まっていた肩の筋肉をほぐす。クロウの目の前には「悪魔」が、落ちついた様子で静かに姿勢を正している。雨に打たれたその姿は美しくも見えた。クロウはそれを錯覚だと振り払った。しかし、と思う。なぜ、こんなに優しい顔をしたまま人を殺せるのだろう。「赤い影」とは、この世界に降りた天使か、それとも神か。いいや、彼は人間だ。人間だからこそここまで残酷になれるのだ。
 頼まれてもいないのに、クロウはそれを口に出していた。
「お前がしていることは、欺瞞だ」
 雨の中でも、声は確かにブラッドの耳に届いた。その証拠に、微かに、彼の表情が変わったからだ。クロウは煽るわけでもなく、続ける。
「母から授かった肉体と、父から受け継いだ血液に逆らい、その幸福を与えた神に背を向け、この世のすべてを欺むいてきた……きっと、本心では人の命を奪うなど為したくない所業なのだろう。俺にはお前がそういう人間に見える。違うか?」
 ブラッドは答えなかった。だが、確実に胸中が騒ぎ始めいる。それを隠すことに必死で、声など出なかった。
「人は大人になったとき、心の中が容姿に反映されるのだ。こうして仲間を殺され、剣を交わした俺には、お前がなぜか天使に見える。お前の恐ろしさを知れば知るほど、美しいとさえ思える。こんなことは初めてだ。納得がいかない。答えて欲しい。もしも今、お前がここでないところにいたとしたら、どこにいたと思う?」
 ブラッドの心に闇が落ちてきた。
 クロウの問いかけを無視することができない。考えた。もし、今自分が、ここでないところにいたとしたら……? そんなこと、今更考えてどうする。そう思いながら、考えてしまう。
 答えなどあるわけがなかった。ブラッドが殺戮者あり、デスナイトという巨大組織の名誉を背負って、それに相応しい血を流してきたことが現実なのだから。考えたところで想像の枠を超えることはできないと分かっていながら、その脳裏にはある光景が浮かんだ。

 穏やかな景色だった。そこには自慢の手料理を振舞うイデルがいた。隣には、今は他の男性と結婚して幸せになったらしい「彼女」がいた。その二人の間には、微笑む自分の姿があった。そして、そんな自分を見上げながら手を握るチビがいる。周囲には剣も銃も、争いもない。なんて、幸せなひと時なんだろう。
 きっとその光景を手に入れる手段は、どこかにあったに違いない。振り返りも見向きもせず、ひたすらに人を殺し続けているうちに見逃してしまったのだと思う。

 雨に紛れて、涙が落ちた。
 そうだ。それが自分の望む未来だった。何もない平凡な毎日。退屈過ぎて刺激を求めたくなるほどの幸せ。叶えようと思えばそれほど難しいことではなかったはず。それこそがブラッドの本当の姿なのだから。なぜ気づかなかったのだろう。人を殺して、そこに何があった? 友は喜んだだろうか。そんなことをする為に、自分は母の腹を裂いてまで生まれてきたのだろうか。両親を失ったことはただの事故に過ぎず、恨みなどなかった。ただ、どうしてそこで自分も一緒に死ねなかったのだろう。その疑問の答えが、今なら分かる気がする。
 そうか。自分は長く生き過ぎたのだと、そう思った。このまま存えたところで、誰も幸せになんかなれないことを、改めて認めるしかなかった。そうじゃないと思いたかった。だけど本当は、気づいていた。それでも否定し続けてきた。だがそれももう、限界に来てしまっていた。
 ブラッドは、ここですべてを終わらせようと思った。雨と涙で濡れた目から光が消える。敵に死を請うつもりはなかった。彼を殺して任務を遂行した後に、この「悲劇」に自ら幕を降ろそうと決意する。
「……もし僕が」剣を持つ手に力を入れながら、呟く。「ここじゃないところにいたとしたら」
 幸せなら、この世にある、あったのだ。それを放棄した自分の行き着くところは、一つしかない。
「それは……地獄だ」

――雨よ、
 すべてを洗い流してください。
 そして何もなかったかのように、僕の血と肉を大地に返してください。
 そして、その土の上に新たな命が芽吹くように、光を注いでください。
 今度こそ綺麗な花が咲き誇るように、明るいところへ導いてください。
 通りかかった旅人の心が安らぐような、真っ直ぐな花になります。

 だから、もう許してください。


×××××


 森を抜けた。チビはそこがどこなのか検討もつかない。いきなり途切れた草木の抵抗がなくなり、勢い余って飛沫を上げながら転倒する。痛みを堪えてすぐに立ち上がり、周囲を見渡す。そこは固い土でできた小さな丘だった。顔を上げて先に進むと段差があり、そこでまた足を止める。
 チビの視界には見渡す限りの荒野が広がった。雨で濡れた目を擦る。見間違いじゃない。見間違うはずがないのだ。荒野の端に燃え上がる森があった。そして、その傍には見慣れたジープと、「彼」の姿があった。
 彼の姿を見てもチビに喜びはなかった。彼がそこで何をしているのかまでは分からなかったが、震え上がるほどの恐怖がチビを襲ったのだ。だが竦んでいる場合ではない。チビは転びそうになりながら丘から駆け下り、体力の限界を振り切ってブラッドに向かった。
 行ってはいけない。いや、行かなければいけない。どっちにしても、行かなければ絶対に後悔する。確かではなかったが、ブラッドが自分を呼んでいるような気がしていたからだ。でなければ、きっと出会えなかった。出会ったことには意味があるに違いない。チビは雨で足を掬われそうになりながらも走り続けた。
 剣を交える二人は同時に、予想外の「来客」の気配に気づいた。手は止めずに剣を重ねたまま、炎上する森とは逆の方向に注目する。ブラッドは目を見開いた。
(……チビ)大きく息を吸い。(どうして……!)
  来るな、と言う前に、クロウが呟く。
「知り合いか」
 ブラッドは言葉を飲み込んだ。今、チビの存在は「邪魔」でしかない。チビが巻き込まれたとしても、ブラッドはこの男を倒すという義務を果たさなければいけないからだ。ブラッドは、彼がここにたどり着く前に終わらせようとクロウに向かった。クロウもそれを受け、戦闘を再開する。
 ブラッドは必死でチビの存在を心の中から消した。情を遮断することなど、もう当たり前にできる、はずだった。なのに、ブラッドの心は揺れていた。もう修復することができない。
 クロウはそれに気づき、勝利を確信した。
 同時に、ブラッドは敗北を受け入れた。
 剣が骨肉を貫く。そこから溢れ出す赤い血が、雨と一緒に地面に散った。
「……ブラッド!」
 チビが車の向こうで立ち止まる。その瞬間は、幼い彼にはまだ衝撃的過ぎる酷なものだった。
 クロウの視界には、「鬼」の形相のブラッドが映った。クロウの剣は「鬼」の腹部に深く突き刺さっている。
 勝った、と思ったその直後だった。ブラッドは自分に刺さった敵の剣を掴み、引き寄せた。当然、剣はブラッドの中に更に深く進入していく。クロウは力任せに人を貫くことはあっても、自分の意志ではなく、これほど鈍く、ゆっくりと生きた肉を裂くのは初めてで背筋が凍る。最後には、彼の背中の皮一枚がプツリと裂ける感触までが伝わってきた。クロウはブラッドの異常な行動と、浮かべる狂気を帯びた表情に飲み込まれる。
 そのときだった。クロウの闘志が削がれたその一瞬に、ブラッドは最後の力を振り絞り、クロウのわき腹に剣を差し込んだ。
 流れ出す血は、二人分なった。赤いそれは雨に混ざり合い、大地を染めていく。
 二人は串刺しになったまましばらく動けずにいた。力が抜け、体温が下がっていくにつれ、体が傾く。ビチャ、と音を立てて二人の冒険屋は倒れる。
 チビは目を逸らすことができずに、雨の中、ただ立ち尽くしているしかできずに、見開いた目に映ったすべてを見届けた。