Blood



 何かを哀れむように雨は降り続いていた。もうすぐ、夜明けが訪れる。
 薄暗い空の下、大地の一部が赤く染まっていた。横たわった男が三人。一人は肩と胸から、そして二人は腹部から血を流している。その傍らには、ずぶ濡れで薄汚れた少年が項垂れていた。


 ブラッドは暗闇の中にいた。自分がどこにいたのか、そしてどこへ行こうとしていたのか、思い出せない。
 ここがどこなのかも分からない。辺りを見回しても闇だけで、道も何もない。
「……ブラッド」
 頭上高くから声が聞こえた。見上げるが、やはり何もない。どこかで聞いたことのある声だった。誰だったか、考える。そのうちに、もう一度同じ声が降ってきた。ブラッドがぼんやりしながら首を傾げていると、頬に水滴が当たった。雨、ではないような気がした。だが水滴は量を増していく。やはり雨か、と思う。また声が聞こえた。声は何度も何度も自分を呼んでいる。
 それに意識を集中させると、体が浮いていくような感覚に襲われた。ブラッドは流れに身を任せる。どうせ道はどこにもないのだ。体の力を抜いて、瞼を落とす。まるで海に浮いているようだった。
 正確には、暖かいものに抱かれているような感覚だった。大きくて、とても深い。守られ、そして愛されている。そう思った。
 ブラッドはふと、記憶にないはずの、遠い世界を思い出す。これは、まだ自分が胎児だったころに包まれていた、母の羊水だ。母はきっと、自分が生まれてくることを楽しみにしていたに違いない。そのためなら、どんな苦痛にも耐える覚悟を持って。
 なんて優しくて、力強いのだろう。これが本当の「愛」なのだと、ブラッドは感じた。自分も同じことをしていたつもりだった。だが、全然違うと思った。勘違いも甚だしいとはこのことだ。目を閉じたまま、薄く自嘲する。揺れる空間に舞い降る雫もまた、温かい羊水に似ていた。やはり、雨とは違う。ならば一体何なのだろうと、ブラッドはそれを知りたくなった。そう思えば思うほど、浮上する速度が上がっていった。今まで見えない引力に頼っていたブラッドは、体は思うように動かないが、自らそこへ行きたいと強く願った。
 誰かが呼んでいる。必死で、何度も何度も。
 今、いくから。
 ブラッドは光を感じた。それが強まるほどに、激しい苦痛が訪れた。次第に息苦しくなり、耐え難いほどの激痛になる。もうこれ以上は無理だ。限界を感じ、ブラッドは瞼を持ち上げた。


「ブラッド!」
 チビに怒鳴られ、ブラッドは唸り声を漏らしながら目を覚ました。まだ雨は降り続いている。無防備に横たわるブラッドに、容赦なく大粒の雨が叩き付けられている。ブラッドは夢から覚め、何があったのかを思い出す。
 確か、刺客を排除し、クロウという大男に……。
 そうだ。苦しくて当たり前だ。剣が体を貫通したのだから。腹部が焼けるように熱い。震える手をそこに当てると、まだ血は溢れ出している。これだけの雨が、血しょうに固まる暇を与えてくれない。そうでなくても、簡単に塞がる傷ではないのだ。それ以前に、なぜまだ生きていられるのかが不思議だった。もう周囲に殺気は感じられなかった。体が動かず、確認することはできないが、傍でクロウは死んでしまっているはず。
「……ブラッド」
 再び呼ばれ、ブラッドは我に返る。反射的に声を出した。
「チビ」
 その声を聞いて、チビは肩を揺らした。チビはブラッドの隣に座り込んで彼の顔を覗き込んでいる。ブラッドは視界に映ったその光景を疑った。一瞬だけ、痛みを忘れる。
 チビは眉を寄せ、何度も大きく息を吸っている。彼から滴る温い雫が、いくつもブラッドの顔に落ちてくる。
 ──分かった。暗闇の中で自分を呼んでいたのは、チビだった。羊水に似た優しい雫は、彼の「涙」だったのだ。
 チビは自分が初めて泣いているのだという自覚もないまま、ブラッドが息を吹き返したことを確認できた途端、大きな声で泣き叫んだ。その声は土砂降りの雨音に紛れるが、ブラッドの耳には十分に届いた。
 だが、なぜ、とブラッドは心の中で繰り返す。あれだけ追い詰められても泣かなかったチビが、どうしてここで。そう思うが、ブラッドはすぐに考えるのを止める。理屈なんかどうでもいい。心の底から嬉さがこみ上げてくる。チビが自分を思って、あれだけ厚かった見えない壁を乗り越えてきてくれたのだから。何よりも、こんな形ではあるが、またチビと会えたことは奇跡に近い。強く願ったそれは叶ったのだ。その事実がブラッドの苦痛を少しだけ和らげた。
 ブラッドは表情を歪めながら、必死で腕を持ち上げた。それに気づき、チビは急いで彼の手を掴んだ。温かかった。だがチビは、彼の手が確実に冷たくなっていることを感じ取った。それでも、まだ彼が「死ぬ」なんて考えられなかった。
「この、バカ」チビは嗚咽交じりに怒鳴りつける。「何やってんだよ。こんなに、傷だらけになって……」
 チビは自分で何を言っているのか分からなかった。ただ、彼が生きていた喜びを、どうしても素直には伝えられないでいた。
「お前、また俺を騙そうとしたな。死んだふりなんかしやがって……何度も呼んだのに、返事くらい、さっさとしろよ。この、嘘つき」
 死に掛けている相手に対して、なんて乱暴な、とブラッドは思う。だが、彼らしくていい。小さなため息をついて、微笑む。
「やっと」搾り出す声は、脆弱だった。「涙を見せてくれたね」
 言った途端、ブラッドからも涙が溢れた。
「もう……心残りはない」
 チビは震え出した。強くブラッドの手を握ると、彼もそれに応えるように指を動かした。
 ブラッドは分かっていた。チビに呼ばれて一度は戻ってきたものの、もう長くは持たないことを。改めて自分の存在理由を探した。親と共に逝くことができず、ここでまた僅かな時間を与えられた。自分など、さっさと死んでしまえばいいのにと思う反面、見えない何かに感謝していることに気づく。生まれて、生きた。そしてチビと出会い、彼は今、自分のために泣いてくれている。体は深く傷つき、死んだほうがマシなほどに苦しい。なのに心はこんなにも安らいでいる。こんなにも満足しているではないか。
 もしかすると自分の生まれたわけとは、チビに涙を与えることだったのだろうか。
 いや、違う。なぜいつも与えるなどと傲慢になってしまうのだろう。与えたのではない。与えられたのだ。
 行き止まりで立ち尽くす自分に、チビが笑顔を与えてくれたのではないか。失いかけていた本当の自分を、チビが思い出させてくれたのだ。
 その為に、自分たちは出会った。そう、確信した。
 ブラッドの弱々しい目から、止め処なく涙が溢れ出す。そして、自然と声を漏らしていた。
「……ありがとう」
 あまりにも細い声を、チビは聞き取れなかった。涙と雨で濡れた顔をブラッドに近づけた。
「な、なに?」
 ブラッドは少し目を伏せ、もう一度呟く。
「ありがとう。君に会えて、よかった」
 今度ははっきりと聞こえた。悪い言葉ではないのに、チビは急に悲しくなった。まるで今まで溜まっていた分までも押し出すように、また、涙が零れてくる。
「な、何言ってんだよ」チビは泣きながら、必死で笑った。「お前、仕事があるんだろ。あの、ゴミみたいな鉄クズを、偉い奴に届けるんだろ? まだ間に合うじゃないか。なあ、起きろよ。苦しいなら、病院に寄っていけばいいだろ。歩くのがきついなら俺が手伝ってやるから。なあ、早く起きろよ。このままじゃ風邪ひくじゃないか」
 チビの繕う笑顔は引きつり、止まらない涙で不安を隠しきれていなかった。そうではないと、ブラッドが死ぬはずがないと自分に言い聞かせていた。
「お前、俺とまた花火するって言ったじゃないか。また嘘ついたのか。俺、楽しみにしてるんだぞ。なあ、俺にも作り方を教えてくれよ。俺も作れるように練習するから。だから、早く起きろよ」
 そうだった、とブラッドは体に力を入れようとする。が、入らなかった。視界がぼやけるのも、雨だけのせいだけではい。だが、ここでじっと死を待っていても仕方がない。まだやることがある。
 任務は、失敗に終わる。こんなことは初めてだったが、悔しいという気持ちはなかった。クロウは十分に強かった。相打ちという結果が幸運なほど、自分には相応しい相手だったのだ。
 そしてこれが、ずっと彼が待ち続けてきた「神が与えた最期」だった。ブラッドは満ち足りていた。勿体ないほどだと、神に感謝する。
 ここにきて任務を疎かにするわけにはいかない。ブラッドは呻きながら上半身を起こした。
「ブラッド」
 やっと動いてくれたと、チビは少し安心した。そんな彼にブラッドは微笑んだ。
「チビ。君にも仕事があるだろう?」
「……え、人形のことか?」
「そうだ。お嬢さまは君を待っている。早く、行くんだ」
「お、同じとこに行くんだろ? お前も一緒だろ?」
「……いや」ブラッドは少し目を伏せる。「僕はここでやらなきゃいけないことがある。君は先に行ってくれ」
「やらなきゃいけないことって……」
「正直に言うとね、僕はもう歩けない。傷が癒えるのを待っていても、どうせ期限には間に合わないんだ。だから、ここでチップを完全に破壊してしまわなければいけない」
「破壊? 大事なものなんだろ?」
「データは本部に保管されているから、また同じもの作ることはできる。でも、ここにあるものをそのまま放置するわけにはいかない。これは、自分のミスに対する尻拭いだ。任務は失敗した。また別の者に、なんらかの形で引き継がれることになる。だから、僕に与えられた任務はここで終わらせてしまわなければいけないんだ」
 チビにさえ、「失敗」というその言葉がひどく虚しく感じた。
「君にはまだ『責任』というものがどういうことか理解できないかもしれないけど、これは、僕のけじめだ……もう時間がない。お願いだよ、チビ。先に行ってくれ」
 チビは何度も鼻をすすり上げ、必死で涙を止めようとした。だが、止まらない。それを隠すかのように、血塗れのブラッドに抱きついた。ブラッドは少し戸惑ったが、ゆっくりと腕を上げて、小さな彼を緩く包んだ。
「……ありがとう」
 ブラッドの胸の中で、チビは声を上げた。
「何だよ。そんなこと言うなよ」
「どうして?」
「なんか、寂しいし、それに、お別れみたいじゃないか」
「……そうだね。ごめんね」
 できればずっとこうしていたかった。だが、次第にブラッドの意識が薄れていく。このままで眠るわけにはいかない。ブラッドはチビの肩を押した。
「……行くんだ」
 チビは顔を上げ、荒い呼吸を抑えて微笑んでいる彼の顔を見つめた。また会えるのかどうかを確認することができなかった。
 きっと、ブラッドはまた嘘をつく。そんな気がしたからだ。
 だから何も言わずに、涙を拭いながら立ち上がった。チビは重い足を引きずるようにしてブラッドから離れる。
 ブラッドの腕が地面に垂れた。それを持ち上げる力さえ出なくなった彼は顎を上げて、ローピアへの方向を示す。チビが迷った森とは大きく離れていた。わざわざ「迷った」と説明するまでもない。チビはただ頷くだけだった。もう何も話すことはなかった。チビはいつまでもブラッドから目を離せないまま、ゆっくりと歩き出した。チビの服についた彼の血は、後を残しながら雨に流されていく。
 ブラッドも、落ちそうな瞼を持ち上げてチビを見送った。十メートルほど離れたところでチビはやっと彼に背を向けた。それを確認して、ブラッドは体を横に倒す。視界はぼやけて、はっきりとは見えないが、小さくなっていくチビの背中から目を離さなかった。何も心残りはないという言葉に偽りはない。ブラッドはゆっくりとコートの内側に手を入れる。
 処分すべきチップは、決して奪われることがないようにと──左腕に埋め込んだ。いちいち取り出す必要も、そんな力も残っていない。彼の手の中には、小型で強力な爆弾が握られていた。
 限界まで彼を見送りたい。そして、事切れる前に爆弾のスイッチを押さなければいけない。
 最期が訪れた。ブラッドはもう一度、微笑む。
 そのとき、ふっとチビが振り返った。チビは確かにブラッドと目が合い、彼の優しい笑顔を確認した。
 その直後だった。
 ブラッドの姿が大きな爆発に掻き消された。大雨の中、燃え上がる炎は近くにあった車や死体を巻き込み、すべてを焼き尽くしていく。
 チビは爆風を受けて反射的に両腕で顔を覆い踏ん張った。腕の隙間から覗くと、そこにはもう、微笑むブラッドはいなかった。
 体中の力が抜け、その場に座り込む。何が起こったのか、答えを出すことを躊躇った。いや、受け入れたくなかったのだ。頭に浮かぶその言葉を必死で否定する。だが、いつまで待っても、もうどこを探しても二度とブラッドには会えないのだという現実を、激しい炎がチビに叩きつけてくる。
 チビの脳裏に、ブラッドと過ごした短い時間の思い出が駆け巡った。掛買いのない思いと共に、再び涙が溢れてくる。体の奥から突き上げてくる深い感情に太刀打ちできず、チビは大きな声を上げた。暗く重い空を威嚇するかのように泣き喚いた。だが、その声は誰にも届かない。それでも、チビはただ一人で泣き続けた。雨雲の向こうで太陽が昇り、空が少し白くなっても、チビの悲しみを拭ってくれるものは何もなかった。


 大粒の雨に掻き消されても、何も残ることがなかったとしても、二人の男が出会った事実は変わらない。
 思い出を奪うことは、万物の神でさえ不可能な所業である。
 だから、チビは泣き続けた。悲しいから。寂しいから。苦しいから。ブラッドが大好きだから。
 人を思って流す涙は、恵みの雨よりも尊いのだということを知ることができたからだ。
「チビ」は今、ここで産声をあげた。
 きっと、ブラッドが笑えたら、母のように彼を出迎えてくれたのだと思う。
 だけど、彼はもういない。チビに染み付いた赤い血痕だけを残して、跡形もなく消え去ってしまった。
 夜が明ける。

 ここから、少年の新たな冒険が始まった。