Blood



 いろんな話をしているうちに、すっかり機嫌の直った二人はのんびりドライブを楽しんだ。目的地まで、なんの障害もなく進めば四日くらいで到着する。特にそれまでにやることもないし、何かあったときのために余裕を持って出発している。自由な時間は結構あった。

 日は暮れ、ブラッドとチビは通り道にある町に停泊することになった。ブラッドは目についた宿屋に車を止め、二人部屋を取った。初めて来る町だったが、情緒のある雰囲気のいい土地だった。ここはビールの原産地で、夜も明るく、町人たちも祭り好きな気さくな者ばかりだった。二人が泊まる宿屋も遊び心があり、一つ一つの宿が一軒屋になっていた。それらは木々で縁取られた広い敷地の中に、いろいろなデザインの部屋が不揃いに立ち並んでいる。まるで観光地のペンションのようだ。ブラッドたちが案内されたのは、ログハウスタイプの落ち着いた部屋だった。
 中に入るとチビはあちこちを物色し回った。孤児院以外で寝泊りなどしたことがなかったのだ。すべてが目新しいものばかりだった。ブラッドは車内から自分の荷物と、人形の入った袋だけを持ち込んだ。落ち着きなく室をうろうろするチビに声をかける。
「チビ」袋を指して。「分かってると思うが、これは大事なものだ。絶対に失くしたり、勝手に開けて遊んだりするんじゃないよ。持ち出しも禁止だ」
「分かってるよ。それに、俺、人形なんか興味ないよ」
「まったく興味がないのも困る。これに何かあったら大問題だ。もし何かに気づいたらすぐに知らせるんだ。いいね」
「何かって、何だよ」
 ブラッドは、いちいち口答えをするチビにため息が出る。これは地道な努力が必要なようだ。心を鎮める。
「例えば、袋が破れていたりとか、リボンが解けていたりとか、その程度のことでもいいから」
「そんなの、お前が気をつけろ」
 はい、と一言言えば済むものを。ブラッドはキリがないと思い、もうこの話は止めることにした。人形の入った袋を、それより一回り大きな袋に突っ込み、肩にかけながら。
「お腹空いただろう。何か食べにいこう」
 ブラッドは呟くような声で言ったのだが、チビは聞き逃さない。途端に笑顔になる。
「うん」
 いつもこう素直だと可愛いのに。まあ、そうであれば孤児院を追い出される危機に瀕することもなかったのだろう。ここは踏ん張りどころだ。ブラッドは、スポンサーを差し置いて先に室を出て行くチビの後を追った。


 宿屋を出てしばらく歩くと繁華街に出た。町は華やかに賑わっていた。今の時間帯ならまだ子供も普通にいるのだが、どの店も自慢のオリジナルアルコールを前面に押し出しており、大人たちは当たり前のようにほろ酔い状態である。この空気は、町に昔からある独特なものだった。ほとんど無礼講状態で、慣れない者は、どこが隣の店との境なのか見分けにくい。だがもちろん最低限のマナーやルールは存在する。酒は楽しく行儀よく、それがモットーだった。

 チビは人混みで迷子にならないように、ブラッドの裾をしっかり掴んでいた。しかしどうしても町並みに興味がいってしまい、じっと前を向いていられない。時々ブラッドの肩から提げた袋が頭に当たるが気にしない。ブラッドも辺りを眺めながら空いていそうな店を探す。人はたくさんいるが、広い店が多い。入れないことはないようだ。肩越しにチビに声をかける。
「チビ、何か食べたいものはあるか」
「え? えっと」一度彼と目を合わせるが、すぐに周囲に移す。「なんか、よく分からないものばっかりだな」
「ああ。確かに、酒がメインって感じだね。料理もいろいろあるみたいだけど、酒に合うものを基準にしてるのが多いみたいだ」
「俺は酒なんか飲まないぞ」
「言われなくても、僕が飲ませないよ」
 ブラッドは笑いながら、チビの髪の毛をグシャグシャと撫でた。
「まあ、そんなに難しく考えないで。料理はどれもおいしそうじゃないか。適当でいいか?」
「うん」
 チビの返事を聞いて、ブラッドはその場から一番近い店に入っていった。


 メニューは一品の、カロリーの高そうなものばかりだった。ブラッドは店員にお薦めのアルコールを聞いてそれを頼み、料理はチビの希望を優先させる。そのため、ずらりとテーブルに並んだのは彩りも栄養も偏ったものばかりになった。ブラッドは太る体質ではないのだが、普段から食事には気を遣っている。たまにはこういうのもいいかと思い、チビに合わせることにした。
 チビはただ好きなものだけを腹にかき込んでいく。今回はさすがにブラッドの真似をしようとはせず、素直にジュースを飲んでいる。
 店内には、知り合いではないが冒険屋も混じっていた。ごく普通に見える者でも、ブラッドにはちょっとした仕草や気配でそれを見分けることができる。この土地の者なのか、旅で立ち寄っているだけなのかは分からない。逆に、いかにも乱暴そうな者が一般人であることもしばしばだった。
 チビが夢中で料理を食べている間に、ブラッドは酒の味を楽しみながら、入れ替わり立ち代るいろんな人々を眺めていた。
 気がつくとテーブルの上はぐちゃぐちゃになっている。ブラッドはまだ少ししか手をつけていないのに、チビは気遣いなど欠片もなく、好きなものだけを好きなように食べ散らかしていたのだ。
「うわ、酷いな。これじゃまるで残飯じゃないか」
「腹いっぱいだ」チビは笑顔でお腹をさする。「うまかった」
 自分勝手な奴だと思うが、子供なんてこんなものだろうとブラッドは肩を落とした。よく考えたら自分は子供の世話をしたこともなければ、今までもそれほど接したことさえなかった。好きとか嫌いと言うよりも、興味がないというのが本音だった。だが、なぜだろう。子供のすることだと思えばすべてを許せてしまう。それが子供だからなのか、チビだからなのかまではまだ分からない。ただ、今はチビの楽しそうな、幸せそうな姿を見れることを嬉しいと思えるのは認めるしかなかった。このまま、この時間がずっと続けばいいのに。ブラッドは心からそう思った。
 そのとき、店内で喧騒が起きた。ブラッドとチビは同時に顔を上げる。なにやら揉め事が起きたようだ。場所はそう遠くない。人々の隙間からその様子が見えた。
 ガタイのでかい、ガラの悪い男が顔を真っ赤にして小柄な女性の腕を掴んでいる。どうやら飲み方を知らない余所者が、酔っ払って絡んでいるようだ。店員や周囲の者が注意をするが、男が凄みを利かせるとたじろいでしまっている。
「おい」チビが背を伸ばして。「あいつ、ケンカしてるのか」
 ブラッドはすぐには答えず、冷静に状況を観察した。
(……大声を出して威嚇する、典型的な小心者じゃないか。酔っ払って気が大きくなってるだけだな)
 ほっとけばそのうちに誰かに追い出されるだろう。きっとここは、ああいう乱暴者はそれほど珍しくないはずだ。周囲に迷惑はかかるが、何かしらの方法で鎮められるのだと思う。他に男よりも腕の立ちそうな者もいるのだが、関わりたくないかのように傍観に徹している。きっとブラッドと同じようなことを考えているのだろう。
「ただの酔っ払いだよ」
「でも、女の人が虐められてるぞ。助けなくていいのか」
 助ける──ブラッドはここ数年、仕事以外で人を助けたことがなかった。こうして揉め事を見かけたことはたくさんある。だが、いつも今と同じように素通りしてきた。いつから自分がそうなってしまったのか、思い出せない。
 そうだ、確か。冒険屋として自分の立場を確立した頃からだと思う。いつの間にか「力」は商売道具となり、仕事以外での使用を出し惜しむようになっていたのだ。それは正義でも悪でもなかった。慣れた冒険屋は誰でもそうしているのだ。そうでなければ冒険屋の価値が落ちるからだ。冒険屋の力とは、欲しければ見合った報酬が必要であり、逆に金さえ出せば簡単に手に入る「商品」なのだから。
 目の前にいる不安そうなチビは、そうではない。ただ子供として、人として他人を心配しているだけ。きっと彼が大人だったら、相手が誰でも恐れずに弱者を守ろうとしていただろう。ならば、と思う。自分の「人」としての力、そして心はどこにあるのだろう。いや、どこにいってしまったのだろうか。動けないことはない。なのに、動く理由を探している自分がいることを否定できなかった。
 それに気づき、ブラッドは考えることを止める。気持ちをニュートラルに入れ、この喧騒の中、流れに身を任せたとき、自分がどこに進むのかを想像した。すると、自然とひとつの答えが出た。ブラッドはそれに従うことにし、ふっと微笑んだ。隣の椅子に置いていた袋をチビに手渡しながら、席を立つ。
 チビはきょとんとして袋を受け取って胸に抱いた。
「チビ」ブラッドはウインクして見せて。「僕のかっこいいところ、見せてやるよ」
 背を向け、大男に真っ直ぐ向かっていった。チビは目を丸くして、ぎゅっと袋を抱きしめた。
 男は我が物顔で女性に嫌がらせをしていた。抱きつき、酒臭い顔を寄せて卑猥な言葉を囁いている。女性の目に涙が浮かぶ。
「やめてください」
「なあ、二人っきりで飲もうぜ。ちょっとだけ、いいだろ」
「い、嫌です!」
「あぁ、そう。じゃあ」言いつつ、片手を下げ始める。「ここでもいいんだぜ」
 そのとき、大男の背後にブラッドが静かに立った。二人の身長差は二十センチ以上もあり、肩幅も比べものにならない。周囲が一斉に注目し、どよめきの色が変わった。チビもその場で固唾を飲んで見守る。
「失礼」
 ブラッドは落ち着いて、そして笑顔で男に声をかける。男は手を止めて不機嫌そうに振り向く。
「ああ? 誰だ、てめえは」
「旅の者です。ちょっと道をお伺いしたいのですが」
 突然、何を言っているんだろうと誰もが思った。どう考えてもそんな場面ではない。
「なんだ、てめえは。頭おかしいのか」
 男は女性から手を離すが、女性は怯えてその場から動けないでいた。
「病院への道でも聞きたいのか」男は自分の頭を指差しながら。「それとも、脱走したはいいけど、帰り道が分からなくなったのか? 重症だな」
 男はブラッドに顔を近づけてゲラゲラと笑う。ブラッドはまったく動じず、笑顔のままだった。
 そんな様子を見守っていたチビは、席で青ざめていた。チビも彼の言動が理解できないでいたのだ。確かに、頭がおかしいのかもしれないと不安で仕方なかった。
「……あなたは」ブラッドはやっと口を開く。「まともに酒も飲めない。言葉も汚い。それに、息も酷く匂う」
「……なんだと?」
 男は笑みを消した。周囲も冷や汗を流す。だが、その中で分ブラッドだけは穏やかだった。
「ここで会えたのも何かの縁。その汚い口を矯正してあげましょう」
 ブラッドが言い終わって、その一秒後のことだった。誰の目にも止まらないほど、早かった。
 ブラッドの右足が綺麗に、垂直に伸びていた。そのかかとが男の顎に炸裂している。男自身でさえ、何が起きたのかすぐには理解できなかった。視界が揺れてグラリと巨体が倒れそうになるが、それを待たずにブラッドは上げた右足をすぐに下ろし、今度はそれを軸にして軽やかに回転する。上半身を低くし、右足と入れ替えるように伸ばした左足のかかとが、続けて男の顎を砕く。鈍い音がした。男は今度こそ、近くのテーブルや椅子を巻き込んで遠慮なく倒れた。
 ブラッドは体を起こし、足を揃えて姿勢を正す。店内が静寂に包まれる。男はピクリとも動かずに、完全に気を失っていた。顎がおかしな方向に曲がっている。血の垂れる唇から、折れた歯が転がった。
 次に、歓声が押し寄せた。細身で端麗な青年が暴挙を働く豪傑を簡単に倒すことは、酔っ払いたちを喜ばせる「面白い祭り」だった。周囲から「ざまあみろ」「兄ちゃん、かっこいいぞ」などの野次が飛んでくる。
 ブラッドも機嫌がよくなり、ちらりとチビに得意気な目線を送る。チビは席から、驚きと感激の眼差しを向けていた。そして、ぱあっと明るい笑顔になり、袋を抱いたまま席を降りる。騒ぐ人々の足元をすり抜け、ブラッドに駆け寄った。
「ブラッド」
 無邪気な笑顔で彼に飛びつく、つもりだった。だが、その勢いが急に消え、立ち止まる。
「……あの」
 男に襲われていた女性が俯いてブラッドに寄り、声をかける。
「あ、ありがとうございました」
 そう呟く彼女は顔を赤らめて、上目でブラッドに熱い視線を放っていた。ブラッドはそれほど器用でもないが、鈍感ではない。女性の表情に浮かぶ感情をピンと察知した。感謝されるつもりではなかったのだが、悪い気はしない。
 それに、結構好みだった。今まで気づかなかったが、さすが酔っ払いに絡まれるだけあってなかなかの美人だったのだ。
「いいえ」必要以上に爽やかな笑みを作り。「か弱い女性を守るのは、男として当然の道理です」
 女性はまんまとブラッドの後押しに刺激される。胸の前で手を組み、今にも溶けてしまいそうな瞳はトロンと脱力していた。
 ブラッドは、ただチビにいいところを見せようと思っただけのはずだったのだが、その気持ちは別のものへと切り替わっていた。チビは、下心で一杯になった情けない彼をじっと眺めてしまっている。
「あ、あの」
 女性はまるで、運命の王子様と出会ったかのような輝く瞳ですっかり浮ついていた。
「よろしかったら、お礼に……何かご馳走させてください」
 ブラッドは「落ちた」と確信した。この時点でチビのことなど忘れ、「色男」モードに入る。
「そんなつもりは……悪いですよ」
 まずは、いきなり乗らずに引いてみる。
「そんな……」女性はしおらしく目を逸らし。「あ、そうですよね。お一人ではないんですよね。そうですよね」
 女性は途端に悲しそうな顔をした。よし、とブラッドはここぞとばかりに最高の笑顔で止めを刺す。
「いえ、僕はいつも一人です」
 女性は再び顔を上げ、幸せそうに涙さえ浮かべている。
「もしかすると」ブラッドは囁く。「これからは二人なのかもしれませんね」
 二人はまるで薔薇でも咲き誇っているかのような世界で見つめ合った。
 だが、それをまるで汚いものでも見るかのような目で睨み付けている者がいた。他ならぬチビだ。もちろん、これ以上黙って見守るはずがない。大きく息を吸い込み、腹の底から大声を出す。
「父ちゃん!」
「……え?」
 ブラッドの目が点になる。今になってチビの存在を思い出す。しまった、と思うがもう遅い。
「父ちゃん!」チビはブラッドに駆け寄り、喚き散らす。「何やってんだよ」
「ちょっと……チビ」ブラッドの顔が青ざめる。「な、何を言って……」
「バカオヤジ! 俺たち、出て行った母ちゃんを探すために旅してるんだろ」
「え……ええっ?」
「なのに、そうやっていつもいつも女の人に声ばっかりかけて、ちっとも先に進まないじゃないか。そんなんだから母ちゃんに逃げられるんだ。俺は早く母ちゃんに会いたいんだよ! いい加減にしろ、このスケベ!」
 薔薇色の世界が、一瞬にして地獄に変わった。今までブラッドを尊敬の眼差しで見ていた者たちはもちろん、あれだけ感激していた女性もすっかり現実に引き戻されている。ブラッドは突然の出来事に言葉を失い、言い訳すら思いつかない。とにかく誤解を解こう、と口を開くその前に。
「ご、ごめんなさい」女性は慌ててブラッドに頭を下げた。「そうですよね。あなたみたいな素敵な人、誰もいないなんてないですよね」
「え、ちょ、ちょっと……」
「厚かましく誘ったりして、恥ずかしいです」
 女性は、今すぐこの場から消えてしまいたそうに、一歩足を引く。
「ありがとうございました」笑顔に涙を浮かべ。「奥さん、見つかるといいですね……お子さんのためにも」
 そういい残して、女性は人混みをかきわけて走り去っていった。
 今すぐこの場から消えてしまいたいのはブラッドだった。微かに震えながらチビを見据えると、彼は舌を出して挑発してくる。
 院内の者が、チビを虐める気持ちが痛いほど分かった。ブラッドも、できることならこのクソ生意気な小僧を、ボールのように思いっきり蹴っ飛ばしてやりたいという衝撃に駆られていたからだ。だが、それをぐっと我慢する。これ以上恥を晒すわけにはいかない。いや、もう修復不可能なのだ。今やっておかなければ後悔するかもしれないとまで思う。
 いや、と、やはり耐える。何もかもが手遅れだ。何をどう、どこから間違えたのだろうか。ブラッドは美女を悪の手から救った堅実なヒーローではなく、若くしてコブつきで、しかも病的な浮気性が原因で嫁に逃げられたという、とことん甲斐性のない、絵に描いたようなダメ男として晒し上げられてしまったのだ。
 ブラッドは、良心で人助けなど二度と、金輪際するものかと、心に強く誓った。