宿屋に戻ったブラッドとチビは険悪な雰囲気だった。あんなことがあった後なのだから当然だ。機嫌が悪いのはブラッドだけではない。あれだけ好き放題喚き散らして、ブラッドを地獄に突き落としたチビも頬を膨らませていじけている。二人はリビングのソファに向かい合って睨み合っていた。
「チビ」ブラッドが唸る。「まったく君には呆れたよ。あんな作り話なんかしないで、普通に声をかけられなかったのか」
「ふん」チビは顔を背け。「お前が悪いんじゃないか」
「僕が一体何をしたと言うんだ」
「なんだよ。バカみたいにデレデレして。大体、人形が大事だったんじゃないのか。俺に預けたままどこに行くつもりだったんだ」
チビは意外と鋭いことを指摘してくる。
「それにな、そんな女みたいな顔してナンパなんかしてんじゃねえっての」
さすがにブラッドはムッとする。「女みたいな顔」というのは、チビの「チビ」と同じで、子供の頃からことあるごとに言われてきた言葉だったのだ。今でもたまに言われる。気にしないでいられるようになったはずだったが、このタイミングで、しかもチビに言われると異様に腹が立ってしまう。
「ナンパなんて、字も読めない子供がそんな言葉ばっかり覚えるんじゃない」
言い返され、チビもカチンときて大声を出す。
「なんだよ、お前なんか嘘つきじゃないか」
「嘘?」
「……何が『一人です』だ。俺のこと無視しやがって」
ぼやきながら俯くチビを見て、ブラッドは黙った。そして何かに気づき、ふっと目を細めて口の端を上げる。
「ふうん、なるほどね」見透かしたように。「君は妬きもちをやいているんだ」
チビは途端に顔を赤くした。
「はあ? なんだよ、それ!」
図星だ。ブラッドは更に皮肉な笑みを浮かべる。
「僕を他の人に取られるのが嫌だったんだろう。もっと、自分だけを構って欲しいんだ」
「な、何言ってるんだ。このバカ。意味分かんねえよ」
「強がるなよ。やっぱり子供なんだな。素直に甘えれば可愛いのに」
「うるさい! 勝手なことばっかり言うな。俺はお前なんか嫌いだ」
「あ、そう。だったら、僕も君なんか嫌いだ」
軽く言い返しただけのつもりだったが、チビには痛い一言だった。予想以上に落ち込み、ぐっと唇を噛み締めるチビにブラッドは戸惑った。
「おい、チビ」体を倒し、彼の顔を覗き込む。「……泣いてるのか」
チビは顔を隠すように、更に頭を垂れる。ブラッドは急いでチビの隣に移動し、頭を撫でながら。
「チビ。冗談だよ。なあ……」
顔を上げて、と優しく諭そうと思ったそのとき、ブラッドは腹に不意打ちのパンチを食らう。
「!」
子供は力の加減ができない。しかも、偶然だろうが見事にみぞおちに決まってしまっていた。さすがのブラッドでも、これは効く。チビは、腹を抱えて縮こまるブラッドから離れて胸を張る。
「バーカ、ざまあみろ。誰が泣くもんか」
ブラッドはそのままソファにうつ伏せになったまま動かない。動きたくなかったのだ。もう嫌だ。優しくすれば図に乗り、怒れば拗ねる。一体どうしろと言うんだ。これは、命を懸けた大仕事よりもよっぽど難易度が高い。そう思った。チビは謝ろうともせずに、もう気が済んだのか、テレビの前に座り込んでチャンネルを回している。ブラッドはこれ以上怒る元気も出なかった。
それからチビは何もなかったかのように普通にブラッドに声をかけてくる。あれだけ好き勝手にやっていれば機嫌も直るだろうと思う。だがいつまでも一人でヘソを曲げていれば、自分の方がよっぽど大人気ないような気がして、結局ブラッドは折れることにした。夜も更け、二人は就寝することにする。寝室にはふかふかのベッドが二つあり、チビは笑顔で飛び跳ねた。
「あんまりはしゃぐと怪我するぞ」
すっかり疲れてしまったブラッドは横になりながら注意する。チビは返事をしなかったが、今回は素直に暴れるのをやめて、いい匂いのする布団の中に潜り込んだ。だが大人しくはならない。イモムシのように布団の中で動き回っている。ブラッドはため息をつきながら、チビに背を向けて目を閉じた。人形の入った袋はブラッドの枕元に置いてある。
一時間もしないうちに、チビはいつの間にか眠ってしまっていた。まだ眠りにつけないでいたブラッドは体を起こして、無邪気に寝息を立てるチビを眺める。熟睡しているようだ。いくら元気がいいとは言え、初めての長旅なのだ。疲れて当然だろう。
ブラッドは彼の顔を見つめたまま、その目に悲しみを灯した。
本当に、このままチビを連れていていいのか。自分に彼を背負える力などあるのだろうか。だけど、正当な理由をつけたとしても、彼をここで手放せば後悔するような気がしていた。違う。もっと簡単なことだ。寂しいのだ。そう思えば思うほど、また別の迷いが生じた。自分の寂しさを埋めるためにチビを利用してしまうことになるのかもしれないと。
あのときも、そうだった。裏の世界でトップを争うほどだったイデルが引退し、その後を継ぐようにしてブラッドは必死に成績を上げていった。それと並行してイデルも立ち直り、思ったより事はうまくいき始めていた。その頃、一人の女性と出会った。優しく、美しい女性で、傷ついた自分を支えてくれる掛買いのない大切な人だった。ずっとこのまま一緒にいて守っていきたい、そう思っていた。だが、女性は自分に別れを告げた。彼女はずっと苦しんでいたことを打ち明けた。ブラッドは、それが突然の出来事ではなかったことを思い知らされた。イデルの右足の代わりにと、彼の分の功績までを背負おうとしていたブラッドは、彼女の苦しみに気づいてあげることができないでいたのだ。そして自分のしていることが、ただの「暴力」であることを彼女から教えられた。
イデルのため、彼女のためだと信じていた。そのためなら自分の体がどれだけ傷つき、汚れても構わないと思っていた。だが、そうすることでどれだけの人が悲しんでいたのか、そんなことも考えられなかった。気づけなかったのではない、知らなかったのだ。他人の気持ちなど、自分の知るところにはなかった、それが現実だった。ただ与えられればよかったはずなのに、自分は奪い続けてきていただけだった。彼女はそれを忠告してくれようとしていたのに、自ら抱え込んだ忙しさを理由に耳を傾けようとはしなかった。望まぬところで、ブラッドは彼女を孤独に追いやってしまっていたのだ。自分には彼女が必要だった。疲れたとき、辛いこと、いいことがあったときには一番に彼女に会いたかった。だが、彼女が自分に会いたいと思ったとき、自分は一体どこで何をしていただろう。
結局、幸せだと思っていたのは自分ひとりだけだったのだ。都合のいいときだけ彼女の優しさを欲しがる、自分勝手な人間でしかなかった。
もう手遅れだった。彼女の傷を癒す手段は自分の手の中にはなかった。そして、元々彼女を、いや、一人の女性を救う力など、持っていなかったことを自覚するしかなかった。この足は既にぬかるみにはまり、抜け出すことができなかった。そう、冒険屋を辞めることなど許されないところまで来てしまっていたのだから。
ブラッドが神の前で誓ったのは、幸せではなく、この身を「組織」に捧げることだった。
迷いはなかった。彼女を幸せにできる男は他にいる。だが、今の立場で与えられた任務を遂行できるのは自分だけなのだ。ここにこそ自分の居場所、生きる意味があるのだと、それがブラッドの出した答えだった。
だからそれでいいと思っていた。だからこそ、ブラッドは不安だったのだ。上司であるラグアの指示とはいえ、「組織の人形」である自分が一人の人間の運命を背負っていいのだろうか。もしかしたら、また同じことを繰り返そうとしているのかもしれない。
今はまだいい。だが、もしも「そのとき」が来てしまったら、チビに対して自分はどう動けばいいのだろう。例えそれが残酷な決断だったとしても、躊躇わずに、最善の方法で彼を守ることができるだろうか。
ブラッドは、今はまだ答えの出ない疑問を抱えながら、惜しむようにチビの寝顔から目を逸らした。再び背を向け、横になる。
数時間が経ち、時計の針は深夜を指していた。チビの動く気配を感じ、ブラッドは目を覚ました。振り向くと、チビが目を擦りながらベッドから降りている。
「どうした」
「喉が渇いた」
「一人で行けるか」
「うん」
「危ないから明かりをつけるんだよ」
「うん」
寝ぼけているせいもあってか、チビはきちんと返事をしながら寝室を出て行く。だが言うことを聞かないで電気を点けないまま手探りで炊事場へ向かっていった。ブラッドは心配になり、体を起こして彼が戻ってくるのを待った。着いていくのにそれほど手間はかからない。やはり手伝ったほうが早いかもしれないとベッドから降りようとしたそのとき、案の定、ガチャンとコップの割れる音がした。まったく、と思いながらブラッドは急いでチビの元へ向かった。
「チビ、大丈夫か」
チビは返事をしない。ブラッドが明かりを点けると、思ったより酷いことになっていた。チビは割れたコップで右手を大きく切り、血塗れで座り込んでいたのだ。
「……大変だ」ブラッドは彼の隣に膝を折り。「すぐに止血を」
ブラッドはチビの右手を引き寄せ、傷の具合を見る。細かいガラスの欠片が刺さり、手のひらから手首まで傷ついている。痛みもあるだろうし、流血も止まらない。まずはガラスを取り除き、と適切な処置をしようとするが、ブラッドはふと手を止める。
「……チビ?」
声も出さずにじっとしているチビの表情の異変に気づく。体中が振るえ、顔は青ざめ、息が荒くなっている。
「どうしたんだ?」
チビは答えない。汗が流れ出し、次第に息が上がっていく。
ブラッドは眉を寄せ、彼をじっと見つめた。
(そうだ、確か、チビは……)
やはり、そうなのか。ブラッドは気になっていたことを、今ここで確認しようと決める。その後にどうなるのかまでは考えずに、傷ついたチビの手を乱暴に掴む。
チビの体が揺れる。ブラッドは顔を寄せ、鋭い目を突きつけた。
「チビ、痛いか?」
チビの震えが激しくなっていく。目を見開き、ブラッドの冷たい表情を、吸い込まれるように見つめ返す。
「こんなに酷い傷、痛くないわけないよな」
「……い、痛い」
チビは必死で声を絞り出した。流れだす汗が落ちる。
「だったら……どうして泣かない?」
「……泣く?」
「そうだ。痛いときは泣くんだ。怖いときは泣いて、大人に助けを求めるんだ。お前にそれができるか?」
ブラッドはチビの腕を掴む手にゆっくり力を入れていく。チビは痛さで抵抗しようとするが、彼の力には到底適わない。ブラッドの指の間から血が滲み出す。
「痛い……離せよ」
「離して欲しければ泣いて叫べばいい。助けて、と」
「な、何言ってるんだよ」チビの呼吸が乱れ始める。「何だよ、もしかして、まだ今日のこと怒ってるのか。嫌だ、離してくれよ……あ、謝るから」
「謝らなくていい。涙を流せ。泣いて、痛いことを僕に示せ」
チビの目は潤んでいる。もう少しだ。ブラッドはそう思った。
ブラッドは初めてチビと会った日、別れるときに彼が悲しそうな顔をしているにも関わらず泣こうとしなかったことを怪訝に思った。強がって我慢しているように見えななくはなかったが、それとも違う気がした。それどころか、チビが浮かべる表情に異常を感じ取ってしまったのだ。だから資料室でチビの幼少の頃の様子を調べた。もしかしたらチビは「泣いたことがない」のではと思ったのだ。その予感は当たった。拾われてきた直後の写真は、哀れなほど痩せ、干乾びる寸前だった。泣くどころか、声さえ出せる状態ではなかった。予想だが、死産だと思われて捨てられたのかもしれない。だとしたら、チビは産声さえ上げなかったと考えられる。
それから回復し、今に至るまでの成長記録も目を通した。だが、記録にも写真にもチビが泣いたという痕跡は見当たらなかった。
どうして誰も気づかなかったのだろう。チビは泣かないのではない。泣けないのだ。健康な子供であるにも関わらず、今まで泣き方を知らないでいたのだ。
涙がないわけではなさそうだ。目が乾いたり、ゴミが入ったときなどに潤すためのそれは機能する。だが、チビに必要なのは、何かを訴えるために、自己表現や意思表示するために流す感情的な涙なのだ。
きっと院内の者は、泣かないチビをただの強情張りだと決め付けて、彼の異常に気づいてあげられなかったのだと思う。そして、何よりも本人自体もそのことを知らずに、泣かないことは強いことだと勘違いしていたに違いない。その悪循環が彼を追い詰め、孤独という鎧に身を固めてしまったのだろう。
違う。泣かないことは強いのではない。子供ならば尚更、必要不可欠なものである。子供は弱い。怖い、痛い、苦しい、寂しい。そんな感情を自分で処理できる知識も経験も持ち合わせているはずがないのだ。だからこそ泣いて、大人に助けを求める必要がある。だが、チビはそんな当たり前のこともできないでいる。本人は知らないでいるだけだが、それはとても可哀想なこと。
だからブラッドは、せめてそれくらいは克服させてやりたいと思った。それに、きっと子供らしく泣く方法を知ればもっと人から愛されるようになる。チビは人から迫害されるような寂しい人間ではない。ただ、思いを伝える方法を知らないだけなのだ。
ブラッドは更に腕に力を入れる。チビは痛みで顔を歪ませ、逃れようと体を捩る。もう少しだ。泣け。苦痛と恐怖で涙を押し出せ。ブラッドも感情的になってしまい、チビを限界まで陥れようと、血のついた手でチビの首を掴む。
そのまま床に押し付け、もう片方の手で常備しているバタフライナイフを取り出す。器用に回転させ、むき出した刃先をチビの目の前に突きつける。
チビは言葉にならない声を漏らす。
「チビ。泣け。泣いて助けを求めないと殺されてしまうぞ」
チビの目から涙が零れた。が、これじゃない。これは極度の緊張からくる機能的なものに過ぎない。これじゃない。本能からの、生理的な涙がチビには必要なのだ。
チビに突きつけられたものはナイフだけではない。それ以上に鋭く、冷たいブラッドの殺気こそが彼の心を深く切り刻んでいた。
今までの、チビが知る優しくて温厚な彼とは別人にしか見えなかった。怖い。唯一心を許し、信じていたブラッドに傷つけられることは、誰に嫌われるよりも悲しくて仕方なかった。チビの心は、限界に達した。
ブラッドは急に我に返り、体を起こしてチビから離れた。
チビの呼吸がおかしい。目を見開いて瞬きもしない。震えが痙攣に変わっている。
しまった、やり過ぎた──ブラッドはナイフを投げ捨て、慌ててチビを抱き起こした。
「チビ、チビ」耳元で必死に呼びかける。「聞こえるか。しっかりしろ」
チビは張り詰めた神経に異常を来たしてしまい、呼吸困難を起こしていた。このままでは自我が崩壊してしまうかもしれない。傷ついた手からはまだ血が流れ出していた。ブラッドはとにかく落ち着かせようと、チビを強く抱きしめた。
「チビ、呼吸をするんだ。ゆっくりでいい。聞こえているか」
チビは言われるように、必死で息を吸おうとしていた。だが、呼吸の乱れは直らない。
「しっかりするんだ」
ブラッドは何度も何度もチビを呼んだ。声は聞こえているようだが、考えることはできないでいる。昂ぶった感情を抑えようとチビは無意識に、血塗れの小さな手でブラッドの服を掴んでいた。これが彼なりの、精一杯の危険を知らせる信号だった。ブラッドはそれに応えようとチビを抱く腕に、何度も力を入れた。
「……ごめん」深く、後悔する。「ごめん、チビ」
次第に、チビの痙攣も治まり始め、呼吸が落ち着いてきた。チビの体の力が抜け、強張っていた神経も緩んでいく。
チビは瞼を落とし、ブラッドの腕の中で気を失う。訪れた静寂の中、まだ塞がらない傷から流れる血が、音を立てて床に垂れた。