Blood



 チビが目を覚ましたのは、次の日の朝のことだった。
 幸いにもおかしな後遺症は残っておらず、心拍も呼吸も通常のものだった。チビはゆっくり体を起こして周囲を見回した。ブラッドの姿がない。右手に痛みを感じてそれを持ち上げる。傷の手当がされ、包帯が巻かれていた。顔や首についた血も綺麗に拭われ、汚れた服も新しいものに替えられている。何があったのか、思い出す。昨日のブラッドの表情が脳裏に蘇り、ぞくりと寒気が走った。だがそれを振り払い、ベッドから降りる。
 ブラッドはどこに行ったのだろう。隣のベッドを見ると、人形の入った袋がある。チビは寝室を出てリビングや炊事場を見回った。割れたコップも血痕も片付けられていた。
 立ち尽くして呆然としていると、足音が近づいてくるのに気づき、チビは慌てて寝室に戻り、隠れるようにベッドに潜り込んだ。ブラッドが戻ってきた。まっすぐチビのいる寝室に向かってくる。チビは布団を被ったままじっとしていた。ブラッドはさすがに笑いかけることはできずに、隣のベッドに腰を下ろした。
「……チビ、まだ寝てるのか?」
 ブラッドは気配でチビが起きていることを勘付いていた。様子を伺うように声をかける。
「気分はどうだ」
 チビは動かない。
「それとも、僕と口をききたくないか?」
 ブラッドは深くため息をつく。
「それはそうだよな。いいよ。無理は言わない」
 チビは口をききたくないわけではなかった。しかし、どんな顔をしてブラッドと向き合えばいいのか分からなかったのだ。ブラッドは表情を陰らせて続ける。
「さっき、イデルに連絡してきた」
 チビの体が微かに揺れた。
「もう僕と一緒にはいられないだろう? でも僕は君を見捨てることはできない。君と別れるのは寂しいが、仕方ない。だからイデルに君を引き取ってくれるように頼んできたんだ。孤児院にも戻りたくないだろうし……冒険屋になるつもりもないのなら、イデルにところで働かせてもらえばいいと思った。彼に事情は話した。イデルは怖いが、他に人間はいっぱいいるし、みんないい奴ばかりだ。あそこなら君もすぐに慣れることができると思うし、僕も安心できる。もちろん、嫌ならまた他の方法も考えるし、君の行きたいところがあればそこに行けるように協力するよ。だから、もう乱暴したりしないから、君の意見を聞かせて欲しい」
 ブラッドは言えることだけを伝えて、チビの答えを待った。だが、チビは返事をしてくれなかった。ブラッドは困惑する。このまま置いていくこともできないし、無理に喋らせるわけにもいかない。限りはあるが、まだ少し時間はある。チビも考えているのかもしれないし、しばらく一人にさせてみよう。そう思ってブラッドは室を出ようと立ち上がった。チビに背を向け、歩を進めようとしたとき、布団の中からチビが呟いた。
「……お前も、他の奴らと同じなのか」
 ブラッドは足を止める。
「分かってるんだ。みんな俺のことが嫌いで、大人たちも寄ってたかって俺を追い出そうとしている。俺が悪いのかもしれないけど、だけど、どうしたらいいか分からないんだ」
 チビの声は震えていた。
「俺も、別に好かれようなんて思ってなかった。でも、いつも出て行けとか、お前なんかいらないとか言われてて、いつか追い出されるときがくるかもしれないって思ってた。手紙をもらったときだって、係のやつはなんだか意地悪な顔をしてた。俺、内容は読めなかったけど、お前からの手紙だったから、きっといいことだって信じてた。だからずっと待ってた。それで、お前が来て、俺を連れ出してくれたことは嬉しかった」
 ブラッドは胸が痛んだ。思いを吐き出すチビの言葉をちゃんと聞こうと、ゆっくりと彼の隣に腰を下ろした。
「……でも、お前も同じだったんだな。お前は、俺を捨てるために連れ出したんだ。そうだろ? だから、係の奴は笑ってたんだ。俺がいなくなることを喜んでいたんだ。俺なんかいらないんだ。みんな、そう思ってるんだ」
 チビは気づいていた。きっと院内の者たちはチビを煙たいものとして、それは冷たい視線を送り続けてきたのだろう。言葉にはしなくても、大人たちの醸し出す嫌悪の空気を敏感に感じ取りながら、見えない傷を蓄積させてきた。そんな彼が唯一信じたのが、信じられると思ったのがブラッドだった。優しく微笑みかけられたのは初めてで、自分を一人の人間として扱ってくれた、それがチビは嬉しかったのだろう。
 逆に思えば、たったそれだけのこと、そんな当たり前のことをこれほどまでに大切に感じるチビは、やはり可哀想な子供なのだと思う。チビにとってブラッドは救いの光だったのかもしれない。なのに、自分はそれを裏切るようなことをしてしまった。謝って済むことではなかったとしても、誤解は解きたい。彼を傷つけることが目的ではなかったのだ。何よりも、ブラッドは決してチビが嫌いではない。守りたい。心からそう思える存在だった。昔、同じように思った女性がいたが、それとは違う気がした。チビという人間は他の誰でもなく、自分だからこそ心を開くことができ、自分でなければいけないと思ってくれている。そんな純粋な気持ちを無碍に踏み躙れるほど無情にはなれない。
 だが、そう簡単にひとつ返事をするわけにはいかなかった。チビが真剣だからこそ、彼にとって一番いい道へ導いてやりたい。それが自分と一緒にいることだとは限らない。チビはまだ幼い。本人の意志次第でどうにでもなるはず。まずは彼がどうしたいのかを聞く必要がある。それに手を差し伸べるのが大人の役目だ。
 今のこの時間は二人にとって大事なものだとブラッドは思った。
「チビ」ブラッドはゆっくり、そして優しく口を開く。「僕を他の人と一緒にするなとは言わない。だけど、僕は君のことが好きだ。僕に自由があるなら、君を守りたいと思っている」
「……嘘だ」
「嘘じゃない。そうでなければ連れてこなかった。君のことが嫌いで、捨てようなんて思っているならわざわざ一緒にいたりしない。それに、今だって君を置いていくことだってできるだろう? だけど、もし君が僕のことを嫌いになったのなら無理強いするつもりはないけど、誤解されたまま別れるのは辛い。だからこうして話をしているんだ」
「……誤解って、何だよ」
「僕が、君を傷つけたことだ。酷いことをしたことは認める。悪いと思ってる。許してくれなくても心から謝りたい。でも、君が嫌いでやったわけじゃない。それを分かって欲しい」
 言ったあと、ブラッドは少し目を伏せて声を落とした。
「いや、分かって欲しいなんて、それは僕の我侭だ。君のためだとか、そんな綺麗ごとも言わないよ。ただ、僕は君のことが好きで、幸せになって欲しいと思ってる。そのためにできることがあるなら力になりたい。信じてもらえないかもしれないけど、せめてこれだけは伝えておきたいんだ」
 チビは布団に潜ったまま、返事をしなかった。チビが何を考えているにしろ、きっと同じ年頃の子供なら泣いていたのだと思う。苦しんでいることだけは分かる。だが、その苦しみを分かち合ってやることはできなかった。だから、こうなることをどこかで感じていたからこそブラッドは一度彼との繋がりを切ろうとした。自分には彼を救う力はない。なのに、チビは自分を必要としている。なぜだろう。ブラッドはただその「理由」を追い求めていた。
「チビ」少し体の力を抜き。「傷はどうだ。痛むか」
 やはり返事はない。
「……当然だよな。ごめんな、ほんとに」
 重い沈黙が落ちてきた。ブラッドはチビが何かしら反応してくれるのをじっと待ちながら、何かできることはないものか考えた。だが、何も思い浮かばない。この際罵倒でも何でもいい。とにかくチビから意思表示をしてくれないとこれ以上は何も言えないし、できない。ブラッドはため息を漏らし、立ち上がった。
「急がなくていいから、よく考えてみてくれ。しばらく出かける。二度と君に酷いことはしないって約束するから、思いついたことを端々でもいい。僕に伝えてくれ。後で、ちゃんと話し合おうな」
 チビは布団の中でブラッドの言葉に耳を傾けていた。
「食料はさっき適当に買ってきたものをテーブルに置いてるから、お腹が空いたら、意地を張らないで食べるんだよ。僕はそんなに遠くには行かないし、数時間したら戻ってくる。傷の手当はそのときにしよう」
 ブラッドが言いながら、室を出て行こうとしているのが音で分かる。それでもチビは動かなかった。ブラッドの足音が、戸口で止まった。しばらく間を置き。
「……チビ」少し低い声で。「今の君には僕という力と盾があることを忘れないでくれ。僕は決して君の敵じゃない。今までは一人ぼっちで、何も持たない子供だったかもしれないけど、今は違う。僕が許せないならそれでいい。だけど、僕は君の力になる。君の望みを叶えることができるんだ。だから、よく考えて、正直な気持ちを聞かせてくれ」
 ブラッドは背を向け、今度こそ姿を消した。ドアを閉める音に続き、彼の足音も遠ざかっていく。
 しんとなった室内で、チビは突然顔を上げた。体を起こして隣のベッドに目を移す。人形の入った袋がない。チビは息を飲みながらベッドを降り、リビングに向かう。テーブルの上には彼が言っていた食料がいくつか置いてあった。チビはそれに興味を示さずに辺りを見回した。ブラッドの荷物もない。途端に胸が痛んだ。
 次第に心が騒ぎ始め、落ち着いていられなくなる。この込み上げる感情が何なのかは分からない。ただ、どうしてもじっとはしていられなかった。
 チビはなりふり構わずに部屋を飛び出した。そのまま宿屋の敷地を飛び出して通りに出る。道は広い三叉路になっており、周囲は住宅街だった。何気に通りがかる人々は、腕に包帯を巻き、裸足できょろきょろしているチビを奇妙に思うが、声をかける者はいなかった。チビは三つに分かれた道のどこに進めばいいのか分からず、何度も遠くを見つめる。ブラッドの姿はどこにもない。チビの焦りと不安は募り、衝動的に大きな声を上げてしまっていた。
「ブラッド!」
 周囲は驚き、足を止めてチビに注目する。もうチビの感情は止まらなかった。
「ブラッド! この暴力男、ドスケベのオカマ野郎!」
 怒鳴りながら、彼の姿を探す。いない。チビは眉を寄せ、訳も分からずに喚き散らした。
「誰か! 聞いてくれ。俺の父ちゃんは最低なんだ。仕事もなくて金もなくて、母ちゃんにも逃げられて、もう育てられないからって俺を捨てようとしてる!」
 周囲はざわつき始め、気の毒そうにチビに注目した。
「それなのに、今も女をナンパしに行ったんだ。俺は捨てられるんだ。俺は不幸だ。バカ親父! ダメ親父……っ!」
 ゴン、とチビの脳天にゲンコツが落とされた。舌を噛みそうになりながらチビが振り向くと、どこから、いつの間に現れたのか、もの凄い形相で拳を握っているブラッドが自分を睨み付けていた。
「……君は、何をしているんだ」
チビも彼を睨み返し、頭を抑えて再び元気を出す。
「暴力親父に殴られた! こいつはいつもそうだ」怪我した腕を掲げ。「この怪我だって、こいつがやったんだ! 俺はいつか父ちゃんに殺される」
「このっ、バカ……!」
 ブラッドは慌てて屈みこみ、チビの口を押さえる。そして無理に笑顔を作り、怪訝そうに集まってくる周囲に愛想を振り撒いた。
「ち、違います。僕はこいつの……兄です」
 チビはブラッドの腕の中で暴れるが、ブラッドは更に力を入れる。
「お騒がせしてすみません。イタズラ好きの弟が……まったく、いつもこうで大変なんです。この怪我も、自分でドジっただけなんです。本当に、言うことを聞いてくれなくて僕も困ってるんですよ」
 周囲はどっちを信用するべきか迷っていた。ブラッドは空気を読み、このままでは自分が不利になると先読みした。やばい。とにかくチビを黙らせないと。これ以上目立つわけにはいかない。急いで宿屋へ戻ろうとした、そのとき、揉める二人に見知らぬオヤジが笑顔で寄ってきた。
「おう、兄ちゃん。確か、昨日居酒屋で暴れた、あのときの兄ちゃんだろ」
 まずい。昨夜の店にいた野次馬の一人らしい。シラを切って逃げようとしたが、間に合わない。
「まだ息子と仲直りしてないのか」笑いながら、しかも大声で。「女は騙しても、子供を泣かすのは感心できないな。若気のいたりだったとしても、せっかく恵まれた子宝なんだ。大事にしないとバチが当たるぞ」
 ブラッドは凍りついた。違う、とさすがに言い訳したく口を開こうとしたが、周囲の人々はこそこそと互いに耳打ちをし始める。しかも、特に女性たちは年齢を問わずに彼を軽蔑したような目つきに変わっていく。きっと何かを発言すればするほど更に事態は悪い方へしかいかないだろう。だが、黙ったからと言って回復できるものでもない。最悪だ。ブラッドはこれほどまでに追い詰められたのは初めてかもしれないと思った。世界中が敵になったような気がする。そんな彼の頭の中には、今まで、これだけはしたくなかったことが、あり得なかった一言しか思い浮かばなかった。それは「諦める」こと。
 もう、なんとでも思ってくれ。
「……はい。すみません、でした」
 ブラッドは誰にともなくそう呟いて真っ青な顔で涙を浮かべ、乾いた笑いを返した。どうせここは通りすがりの町だ。今だけ、と自分に言い聞かせながらチビを抱えて宿屋へ引っ込んでいった。その背中に浴びる非難の視線は、直接切り裂かれるよりもよっぽど痛く感じた。


「何なんだ、お前は!」
 室に戻るなり、ブラッドはチビを怒鳴りつけた。チビは顔を逸らして口を尖らせている。ブラッドは苛立ちを必死で抑えながらソファに腰を沈めた。
「いくら何でもメチャクチャだろう。僕は君を気遣って出ていったんだぞ。話がしたいならそう言えばよかったじゃないか」
 チビも向かいのソファに飛び乗って大声を出す。
「お前、俺を置いて逃げるつもりだったんだろう!」
「逃げる?」
「そうだよ。隠しても、嘘ついても分かるんだぞ。意味の分からないことばっかり言って、結局俺を捨てるつもりだったんだ」
 ブラッドは改めて、チビに呆れる。どうやら自分の心からの言葉は彼には通用しなかったようだ。頭が悪いとかの問題ではない。感性の違いとでも言うのだろうか。いや、だが、とブラッドは思う。そもそも自分たちはまだ出会ってそう長くない。それに年齢も考え方も何もかもが違うのだ。そう簡単に分かり合えるはずがない。そのことを今更ながら思い知るしかなかった。
 だが、これだけははっきり分かった。
 チビは、自分と一緒にいたがっているのだ。あれだけ酷いことをしたと言うのに、なぜだろう。きっとチビに明確な理由はないのだと思う。自分も同じ気持ちだったからだ。親子でも兄弟でもなければ、師弟などの上下関係もなく、二人の間には何の絆も約束もない。なのに、お互いに何かを求め合っている。
 なぜ、どうして。何のために。
 ブラッドはもう考えるのをやめる。そうだ。友達というのが一番合う言葉だ。「友達」の間に制約など存在しないのだ。イデルともそうだった。今はそれぞれに感謝や尊敬の気持ちを抱き、汚すことのできない大事な存在であるが、幼いころはそんなものはなかった。ただ偶然に、その時間、その場所で出会っただけ。それだけだったはず。チビともそうだ。すべてが偶然だったのだ。自然に歩み寄り、成り行きでここまできた。必死で理由を探そうとしていたのは自分だけだったのだ。チビだって、行くところがないからここにいるわけではない。他に優しくしてくれる人がいないから自分にくっついているわけではない。彼はブラッドを選んでいるのだ。一人の人間として、一緒にいて楽しい相手として。
 無理にチビの力になる必要などなかったのだと、ブラッドはそのことに気がついた。もしかしたらまた傷つけてしまうかもしれない。いや、傷つけないでいられることはあり得ないのだ。完璧に彼を守ろうなど、傲慢な者の虚言に過ぎない。そんなことができるはずがないのだ。できない、それでいい。チビもそんなことは求めていない。傷つけられても構わない。その覚悟を持って自分を選んでくれているのだ。チビは強い。そう思うと、ブラッドは自分の方がよっぽど小さい存在のように感じた。そして同時に、自分もチビも、年齢の差があるだけの、ただの人間であることに気がついた。ここで離れればきっと後悔する。そう確信し、ブラッドは思い出したように立ち上がった。
「チビ」再び荷物を抱え。「ここを出よう」
「な、なんだよ、いきなり」
「君のせいで僕はこの町の名物になってしまう。もうここにはいられない」
「は、はあ?」
「もうここに長居する必要はない。さっさと次の町へ行こう」
 ブラッドはチビに背を向けて戸口に向かう。チビは慌てて後に続いた。
「つ、次の町って?」
「目的地の途中にあるどこかだ。それとも、他に行きたいところがあるか?」
 チビはブラッドを見上げて、首を横に振った。
「ううん」
 ブラッドはチビと目を合わせて、微笑んだ。