COLLECTION

5.DOLL




 次の朝、二人は何事もなかったかのように顔を合わせた。
 先日と同じ流れで、あちこちを巡りながら情報を集めた。その間もアイはぬいぐるみを決して離さなかった。
 ルークスは、仕事の合間に残った獲物の一人と時々連絡をするだけで、ナンパもしようとせずに仕事に集中していた。正直、ここまで最悪ならいっそのこと最悪を極めた方が潔いかもしれないなんて、投げやりな気持ちになってしまっていた。中途半端な点数を晒して笑われてしまうより、思い切ってゼロだったと言えば、ランの驚く顔くらい拝ませてもらえるかもしれない。卑屈だと言われれば否定はしないが、もう今更何をしても無駄だという答えが出てしまっていたのだ。
 あれから十一日──ゲームの終了期日まで二日。
 だがルークスは、そう落胆していなかった。ゲームよりも、仕事の方が順調に進んでいたからだ。アイという少女の死は、彼女の住んでいた地域では有名な悲恋話として今でも残されていたのだ。それを手繰れば、意外にも事は早く済んだ。だが、今でも語られているそれは、決して怨念などに捕らわれるような悲惨な話ではなかった。

 ルークスとアイはリビングのソファに並び、テーブルに散乱している書類の束に目を通していた。その中のいくつかを手に取り、ルークスは語るように説明していた。
「アイ・サンノース、十八歳で病死。もう二十五年前のことだ」
 アイは左手でくまを抱き、右手で書類を見つめていた。その表情は暗い。
「お前の付き合っていた男は、当時二十二歳。名前はクリストファー・デルタス。現在四十七歳、エルノコースという街で証券会社の課長を務めている。家族は妻と子供が二人。長男は十九歳で結婚し、一年後に一児が生まれる。クリスは定期預金を解約して一軒家を購入し、二世帯構成家族六人で生活している。可もなく不可もなく、ごく普通で幸せな生活を送っている」
 アイは書類を戻し、また違う紙を取り上げる。ルークスも次のレポートに移り、続ける。
「アイは生まれついて体が弱く、持病を持っていた。医者からもあまり長くは生きられないことを告げられていた。それでも近くの学校に通い、十六歳のときにクリストファーと出会う。彼はアイの余命が少ないことを知りながら、婚約を交わした。プロポーズの言葉は、アイが生きてるうちに結婚式をあげよう──クリスは結婚直後に妻を失うことを承知のうえで、その少女に僅かな時間でも幸せを与えたいと願い、両親を説得した。周囲に援助、協力されながら、二人の結婚式の準備は進んだ。しかし式を一週間後に迎えたとき、アイは倒れた。せめてもう少しだけと、医者は最善を尽くし、街中が懸命に祈り続けた。だが、それは報われず、アイは二度と目を覚まさなかった」
 ルークスはそこで話を区切る。書類を置いて、タバコに火をつける。黙ったまま真実を受け入れる彼女を横目で見て、煙を吐く。
「情報屋の一人が直接クリスに会って、そのときのことを聞いたらしい。もちろん、お前が幽霊となって、彼を恨みながら未だに現世を彷徨っていることは伏せて。クリスはアイのことを思い出すと、今でも涙が出るそうだ。男は泣きながら、立ち直るまで三年かかったと言った。本当はアイの後を追おうとしたらしい。だが周囲に止められ、あらゆる医者やカウンセリングに通い続け、やっと外に出られるまで回復し始めた頃、今の妻と出会った。更に二年という時間をかけて結婚したんだと」
 しばらく、沈黙が流れた。室内にはルークスの煙を吹く音だけが、ときどき聞こえるだけだった。もう少し待ってやるべきかもしれないが、これも仕事だ。ルークスは本題に入る。
「男の居場所も分かったし」書類の下に埋まった灰皿を取り出しながら。「後は、殺すだけだな」
 アイは我に返ったように顔を上げた。その表情には迷いがあった。泣きそうな目で、ルークスを見つめる。ルークスも目線を返すが、彼にとっては仕事でしかない。情はなかった。
「言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 アイは再び俯いた。思いつめ、強く目を閉じる。
「……やっぱり」震える声で。「やめて。彼は……悪くない」
 アイは真実を聞かされ、当時の彼の写真を見ても、そのときのことを思い出せずにいた。それが彼女を更に辛くさせていた。結局彼女自身は何も変わらなかったからだ。誰かを恨んでいたからこそここにいたはずだった。しかし、その誰かは、恨むべき相手ではなかった。ならば自分がここにいる理由はなんなのだろう。これから、どこに行けばいいのだろう。
「私、どうしたらいいの……?」
 アイは強くぬいぐるみを抱いた。肩を揺らして涙を流す。
 ルークスは目線を上げて、宙に煙を吐いた。無表情で、冷静に話を進める。
「いいから結論を出せ。男を殺すのか殺さないのか」
 アイは涙で濡れた顔を上げ、訴えるように声を上げた。
「だから、殺せるわけないじゃない。彼はもう年を取って、家族と幸せに暮らしてるんでしょ。私が何も知らなかっただけ。自分が死んだことにも気づかなくて、必死で生きていた彼を勝手に恨んでいただけじゃない。もう二十五年も前の話だし……私、今まで一体何をしてきたの?」
「俺が知るか」ルークスは早口で言い放つ。「俺はお前に殺してくれと依頼されたから今まで付き合ってやってたんだ。お前の感情なんかどうでもいい。殺したくないなら、仕事として訂正しろ」
「な、何よ、仕事って。そんな言い方、酷い」
「訂正しないなら、俺は依頼どおり男を殺しに行く」
「ダ、ダメよ。それは」
「じゃあ、どうしたい?」
「どうって……」
「例えば、男に会いたいとか、話がしたいとか」
 アイは少し考え。
「……それは」
 彼と会うことも話すことも、確かに可能だった。だが、今更それをして何になる? 彼はもう孫までいるお爺さんだ。二十五年も前に死に別れた恋人の存在を知って、喜ぶとは思えない。それどころか、きっとまた、苦しませてしまうだけ。もうすべては終わっていたのだ。彼にとっては思い出でしかない。それにアイ自身も、彼がどんな人物だったのかさえ思い出せないほど、それほどまでに遠く、もう拘る必要などなかったことを受け入れるしかなかったのだ。
「ううん」少し瞼を落として。「会うなんてできないし、話すこともない。彼にはこのまま幸せで居て欲しい」
「満足できたって事だな」
「……うん」
 ルークスは一度深く目を閉じ、開ける。そして、何かの合図かのように煙を吹いた。
「なら、これで任務終了だ」
 アイはその言葉を聞いて、途端に寂しくなった。終了。怖いが、その意味を確認しなければいけない。
「……そしたら、私は」
 アイは言葉を濁した。やはり、怖い。しかし、ルークスには彼女が何を言おうとしているのかが分かる。待たずに、答えた。
「当然、出て行ってもらう」
 アイの目が揺れた。ルークスは彼女の気持ちを悟りながら続ける。
「ま、成仏しようが、まだ現世で彷徨うかはお前の自由だが、二度と俺の前には現れるな。今すぐ、出て行け」
 ルークスの冷たさは彼女の悲しみを増大させた。確かに最初は自分から殺してくれと頼んだ。そして、今までルークスと一緒に行動して、いろんな話をして、いろんなところに行った。密かに毎日を楽しく過ごしていたアイは、男を殺したいという恨みも薄れ、ただ自分の素性を探す冒険をしているようで、いつか答えが出るということも忘れてしまっていたのだ。彼は違った。ただ仕事としてしか、依頼主としてしか自分を見てくれていなかった。その事実を、今はっきりと感じ取っていた。
(……どうして?)彼の向ける鋭い目は、アイの心を切り裂いた。(数日だったけど、意地悪もしたけど、寝ても覚めてもずっと一緒にいたじゃない。嫌いだったら、そんなことできるわけない。そう思っていたのに)
 ルークスはアイを人として受け入れていたわけではなかった。彼は元々そういう人間だった。仕事だと割り切れば、私情を切り離すことなど容易だった。好意も嫌悪もすべてを遮断し、「機械」になることが癖にさえなっていたのだ。それが、彼が「天才」と呼ばれる所以だった。人としては冷酷だと言われるかもしれないが、冒険屋としては、誰もが真似できることではない天性の性質だったのだ。彼自身はその能力を特別だと思ったことはなかった。いつものこと、当然のことでしかなかった。情に絆されることで、ミスを犯す者を「無能」だとしか思えないほどに。
「これでお前との繋がりは完全に切れた」短くなったタバコを消しながら。「一発くらい殴ってやりたいところだが、それも仕事の一環だと思って忘れてやるよ」
 言いながら、ルークスは立ち上がり、アイに背を向ける。アイは慌てて声を上げた。
「ま、待って」
 と、彼を止めてみたものの、次の言葉が思いつかなかった。どうしよう。ルークスの言うとおり、このまま消えてしまうのだけは、嫌だと思った。
「あの……」焦りながら。「彼のことは、もう未練はないけど……でも、私、成仏できないよ?」
 ルークスは眉を寄せる。
「俺には関係ない。自分で考えろ」
「そ、そうだけど……えっと、あのさ、少しだけ時間をちょうだい」
「何のために?」
「もしかしたら、何かやり残したことがあるのかもしれない。集めてくれた資料とか、もっとよく見てみたり、いろいろ考えてみたいの。だから、そんなに無理なことはもう言わないから……お願い」
 ルークスは表情も変えずに、背を向ける。
「今から出かけるから、その間に考えとけ。夜には帰ってくる。それ以上は待たない」
「う、うん」
 ルークスはいつもと同じ流れで出かける準備に取り掛かった。アイはその様子を目で追いながら、彼が玄関に向かったとき、小声で呟いた。
「どこいくの?」
 ルークスは答えずに、室を出ていった。アイはこれが最後かもしれないと思いながら、この空間の匂いを記憶に刻み込んだ。


*****



 次の日、空は晴れ渡っていた。
 ゲームの最終期限日に、ルークスは幽霊少女を連れて大きな遊園地に来ていた。これは一応「デート」になる。相手が化け物だろうと、いつもの癖で服装はそれなりに気合が入っている。アイは二週間前と変わらないピンクのワンピース。会ったときと違うところと言えば、邪魔にしか見えないくまのぬいぐるみを抱え、無邪気で純粋な笑顔であることだった。
 前日の夜、アイは戻ってきたルークスに遊園地に連れて行って欲しいとお願いしたのだった。アイは生前のことを思い出せずにいたままだったが、資料によると病弱であまり外出できない体だったことは分かる。という事は、きっと年頃の女の子らしい遊びなどしたことがなかったに違いない。最後に楽しい時間を過ごしたい、それが欲しいという答えを彼に伝えた。もちろん、ルークスはバカバカしいと思ったが、どうせ後一日。今更ゲームの点数を稼いだところでブタの餌程度の価値しか得られない。最後に幽霊との下らないデートで締めてみるのも一興かもしれないと、彼女の依頼を受けることにした。
 園内には、平日だというのにそれなりに人が入っていた。さすがに親子連れは見当たらないが、暇そうな若者や恋人たちがはしゃいでいる。元々ルークスはこういうところには興味なかった。これまでに、今回と同じように女に誘われてきたことはあったが、楽しいと思ったことは一度もなかった。

 昼を過ぎ、二人はレストランのオープンテラスで寛いでいた。アイは膝の上にぬいぐるみを置き、辺りを見回しながら笑顔を絶やさない。相変わらず愛想のないルークスに目を移すと、彼は視線に気づき、目を合わせる。
「楽しいか?」
「うん」
「ならいいけど」
「ルークスは、楽しくない?」
「全然」
「そっか」
 素っ気無い返事をされてもアイは機嫌がいい。少し体を倒して。
「ねえ、気づいてる? 私たち、結構見られてるんだよ」
「何が」
「街を歩いてるときも思ってたんだけど、みんな羨ましそうな目で私を見るの。ルークスっておしゃれだし、見た目だけはかっこいいもんね。」
「一言多い。褒めるなら素直に褒めろ」
「別に褒めてないよ」
「は?」
「私の気分がいいだけだもん」
 言うことが可愛いんだか可愛くないんだか。別に好きで付き合ってやってるわけじゃないし、とルークスはそれほど気にしなかった。それに、周りから見られていることも自覚はあるし、慣れている。その程度の優越感でよければいくらでもどうぞ。そう思いながらルークスは彼女の笑顔から目を離した。
 それから日が暮れるまでアイはルークスを引っ張りまわした。アイは幽霊だからか、呆れるほど疲れを知らなかった。さすがにルークスは体力の限界を感じる。このテーマパーク自体も、かなり有名な観光地で一日では回りきれないほど広い。アイは飽きることなく、どこまでも進んでいく。
 いい加減にしてくれと、ぐったりしたルークスに愚痴られ、二人はまた近くのカフェに入って休憩をした。
「お前な」ルークスはため息をつく。「いつになったら成仏するんだよ」
 アイは現実に引き戻されたようで、むっとした顔をする。
「いいじゃない。楽しいんだから。今日は一日付き合ってもらうからね」
「今日だけだからな」ルークスは強い口調で。「お前が満足しようがするまいが、これで絶対に最後だ。もう我侭は受け付けないからな」
「分かってる」
 アイは拗ねたような態度でぬいぐるみを抱きしめた。

 店を出たあと、結局ルークスの足が進まず、二人は広場の噴水の前で時間を過ごしていた。最初、アイは不満そうだったが、ベンチに腰掛けて他愛ない会話を交わしているうちに機嫌は直っていっていた。
 二人の前にある大きな時計台の針は、十時を指していた。さっさと閉園してくれればいいのにと思うが、ここは深夜二時までと、その営業時間の長さも人気の理由のひとつだった。気がつくと、客の雰囲気も変わっていた。年齢層も高めになり、落ち着いた大人の恋人たちが多くなっている。何が楽しいのかは理解できないが、ムードは悪くない。連れが生身の人間ならこの空気に便乗したいところだが、今日まではお預け、もう少しの辛抱だとルークスは肩を落とした。
 アイはそんな彼の気も知らずに、隣から微笑みかけてくる。そんな彼女の無神経さにも、慣れてしまったことに気づく。こんなに長い時間、同じ人物と一緒に過ごしたのは初めてだった。何かしら利益がない限り、人と関わることを嫌ってきたが、やればできるものだと思う。アイが人間ではないこと、仕事が絡んでいることも含んではいたが、もし家族がいればこんな感じなのだろうか。どう考えても、アイは性の対象にはならなかった。「妹」という言葉が近いかもしれない。今まで女をそういう目でみたことはなかった。好きでも嫌いでもないが、一緒にいる。何のために? どんな理由があって? ルークスは少し考えた。だが、答えを出そうとはしないまま、考えるのを止めた。

 アイは疲れきっている彼に、遠慮なく話しかけてくる。無視すれば機嫌を損ねていろいろ面倒だからと、ルークスは適度に返事をする。大して身になる会話ではなかった。だが、気がつくともうゲーム終了まで二十分を切っていた。同時に、アイとのお別れの時間も近づいている。アイはそのことも忘れているかのように、昼と同じテンションのままだ。

 日付変更まで後五分になったところで、突然目の前の噴水が踊りだした。
 みんなが一斉にそれに注目した。アイも目を輝かせて立ち上がる。時計台から流れてくるオルゴールの曲に合わせて、色とりどりのネオンが点滅し、その光を反射しながら水飛沫が宙を舞う。
 ルークスも素直に、凝ったパフォーマンスだと感心したが、別に見なかったからといって損するわけでもないと、冷めた感想を抱いていた。
(……でも)重い腰を上げて。(イベントのフィナーレには、悪くない締め括りだな)
 アイの隣に立つ。アイは光の飛沫を浴びながら、今までで最高の笑顔を浮かべた。
 つい、綺麗だと思ってしまった。それを否定するように、ルークスは目を逸らして時計を眺めた。後一分。心の中でカウントダウンを始める。
(……三、二、一)三本の針が重なった。(ゼロ)
 今度は時計台が澄んだ鐘を鳴らした。
「……ゲームセット」
 観客たちが拍手を送る中、ルークスはため息をついた。終わった。帰ろう。すっかり疲れてしまっていた彼は、つい今までと同じように、アイに声をかけようとした。
 した、が、ルークスは声が出なかった。さっきまですぐ隣にいたはずの彼女の姿が消えていたのだ。どこに行ったんだと、辺りを見回す。アイはどこにもいなかった。
 その代わり、今まで少女が立っていた地面に、くまのぬいぐるみが転がっていた。約束どおり消えてくれたとしても、アイがぬいぐるみを置いていくとは思えない。あんなに大事に、肌身離さずに抱いていた「友達」を──。
「……アイ?」
 ルークスはぬいぐるみを拾い上げ、未だ華やいでいる広場を何度も見回した。


*****



 黒い布のかかった丸いテーブルの上で、人の形をした小さな紙が燃え上がった。それを挟んで、二人の女性が呼吸を潜めている。一人は、黒いレースのマントを羽織った、怪しげな「占い師」だった。その向かいにいるのは、今風の若い女性一般人。占い師は深いフードで顔が見えない。その隙間から覗く真っ赤な唇の端を上げた。
「ゲームセット」
 燃える人代の隣には、大きな水晶が内に灯す光を揺らしていた。客である女性は、それを見つめながら、占い師の言葉を聞き届けて両手を挙げた。
「やった!」
 女性の顔には晴々とした笑顔があった。占い師はフードの中から優しい声を出す。
「どうかしら。満足して頂けた?」
「はい」女性は下ろした手で拳を握り。「ありがとうございました。ジェスティ様」
「そう、よかった……では、これでお終い。あなたの幸せを祈ります」
 女性はもう一度「ありがとうございました」と深く頭を下げて、女性に人気の占いの館「ジャスティス」を後にした。この店は隠れ家的な小さな占いの店で、「マザーの魔女」と呼ばれるジェスティが気まぐれに運営する怪しげな空間だった。表向きは占い屋だったが、店主のジェスティはマザーの中でも幹部クラスの、高等な呪術師でもあったのだ。その正体も素顔も、誰も知らなかった。人間なのかも疑わしいと言われる彼女は、ここで仕事の依頼を受けるときもある。今の女性も、口コミだけを頼りに、それに見合った報酬を用意してここへたどり着いたのだった。
 依頼人の望みは叶えられた。薄暗い室内でジェスティは水晶をじっと見つめていた。背後は幾重にも重ねられた、マントと同じような黒いレースのカーテンが天井から垂れ下がっている。その奥から、低い男の声が聞こえた。
「お疲れさん」その口調は軽い。「さすが地獄の使者、魔女ジェスティ様だ。完璧だな」
 ジェスティは振り向かずに、微笑む。
「これで任務終了だ。さっさと、消えなさい」
「冷たいな」男は笑いながら。「俺もこんな陰気臭いところに長居するつもりはない。報酬は三日以内に振り込んでおいてくれよ。じゃあな」
 男は姿を見せないまま、裏口から出ていった。完全に気配が消えたことを確認して。
「……神は」ジェスティは呟いた。「なぜ害虫に強い生命力を与えたのでしょうか……」
 その疑問の答えは出なかった。占いも答えてくれない。


*****



 ルークスはぬいぐるみを持ってランのところを訪れていた。ランは実家から出て、無機質なビルの一室を借りて一人暮らしをしている。その理由は、もちろん父親と顔を合わせたくなかったからだ。故に、ランはロードに登録もせず、ほとんど近づくこともしていなかった。
 室内は広いが、飾り気も何もない。ランにとってこの空間は雨風を凌げる「物置」であれば十分だったのだ。それでも最低限のものは揃えてある。ルークスはテーブルの上にぬいぐるみを置いて、椅子に腰掛けて放心していた。
 あれからしばらく待ってみたが、アイは二度と姿を現さなかった。理由は分からない。あれだけ自分から「今日限り」だと念を押したとは言え、せめて礼くらい言えばいいのに、と思いながらその場を後にしたのだ。入るときは彼女と一緒だったが、出るときは一人。こんなことは初めてだった。それでも、虚しい、寂しいという言葉は浮かんでこなかった。体は倒れそうなほど疲れているのだが、なぜかまっすぐうちに帰る気になれなかった。いつかゲームの結果を出さなければいけない。先に伸ばしても仕方ないと、草臥れついでに嫌なことはさっさと済ませようと思ったのだった。
 ランがルークスの向かいの椅子に座りながら、転がされたぬいぐるみに気を取られた。
「なんだこれは」
 ルークスは脱力したまま、呟いた。
「戦利品」
 怪訝な顔をするランに、ルークスは投げやりな態度で続ける。
「今回はこれだけだ。そっちはどうだ。ここしばらく女に飢えてたんだ。早く面白いものを披露してくれ。さあ、遠慮なく自慢してくれ」
 そんな彼を、ランはしばらく眺めた。重い空気が流れる。ルークスは待つわけでもなく、ただ呆然と何もないところを見つめていた。
 ランが目を伏せて、口を開く。
「俺も仕事が忙しくてな。遊んでる暇がなかった」
 ルークスの目が微かに動いた。今更期待する事は何もなかったのだが、ランの態度が妙だということを素早く察知した。
「笑えるわけじゃないが」ランは上着の胸元を探りながら。「面白いものを手にいれた」
 言いながら、一枚の写真を取り出した。ルークスはそれほど驚かなかった。
「……それだけ?」
「そうだ。今回は俺もこれだけだ」
 ランはその写真をルークスの前に置く。ルークスは一枚の写真に目を移す。そこに写っているものを、すぐには理解できなかった。
「これ……」
 そこには一人の少女が写っていた。どこかで見たことがある。思い出しながら、やっと体を起こした。
「……リカ?」写真を手に取り。「なんでお前がこんなもの持ってるんだよ。どういうことなんだ」
 リカという女性は、二年前にルークスが適当に遊んで、すぐに飽きて捨てた女だった。その記憶すら忘れていたのだが、顔を見ればさすがに思い出す。なぜ今更この女が現れ、そしてどうしてランが彼女の存在を掘り起こしてくるのだろう。ただでさえ疲れていたルークスは混乱した。ランは落ち着いて、テーブルに肩肘をついた。
「お前、ギグに騙されたらしいな」
 どうやらランは彼の波乱な二週間のことを知っているようだ。
「……まあ、そうだけど。でも、ちゃんと任務は遂行した。結果的には騙されたってわけじゃない」
「幽霊に取り憑かれたんだってな」ランは哀れな目を向ける。「もし、その幽霊が仕組まれたものだとしたら、どう思う?」
 ルークス息を飲んだ。まさか、ともう一度写真を見つめる。いろんな予想が頭の中を駆け巡った。いや、考えるより聞いたほうが早い。ルークスは顔を上げる。
「なんだよ、どういうことだ。まさか、リカが? この女がやったってのか?」
 焦る彼とは対照的に、ランは何から話すべきか少し考え、ゆっくりと口を開いた。
「そのリカという女は、お前を恨み、二年という時間、限界まで働いて大金を溜め込んだ。そしてその金でジェスティを雇って、お前に復讐を依頼したんだ」
 ジェスティの名前は聞いたことがある。マザーの幹部である大物だ。そうだとしたら、ジェスティがアイを操っていたとしたなら、あの歯が立たない強さが納得できる。それに、そんな奴に狙われていたのかと思うと、今更ながら鳥肌が立つ。
「依頼内容は『ルークスに忘れられないほどの屈辱を与えて欲しい』」
「で、でも、じゃあアイって、その幽霊は何だったんだ。俺はちゃんと調べたんだ。アイは確かに存在していたんだ。まさかアイもグルだったってことじゃないだろうな」
「それは違う。アイという少女は、お前の言うとおり確かに存在していた。その少女はたまたま選ばれただけだ」
「たまたま、だと?」
「お前に宛がう幽霊のモデルとして、白羽の矢がたったんだろう。できるだけ時間を稼ぐために、それなりに厄介な死亡者を選んだとは思うが、アイという少女である必要も、その理由もなかった。その少女が奴らにとって都合のいい条件にあっただけ。たまたま、だ」
「じゃあ」ルークスは少し声を落とした。「アイは、もうとっくに成仏していたのか」
「そうかもな。もしかしたら、この世のどこかで彷徨っているかもしれない。それは誰にも分からない」
「……じゃあ」無意識に、手の中の写真を握りつぶしていた。「俺のところにいたアイは、あれは一体誰だったんだ?」
 ルークスの中に、怒りとも悲しみとも言えない、複雑な感情が渦巻いていた。その湧き上がるものが、誰に対してのものなのかは分からなかった。ただ、いきなり聞かされた事実に困惑するしかできなかった。
「いや、でも」目を泳がせながら。「なんでお前がそこまで知ってるんだよ」
 やっと気づいたか、とランはため息をついた。
「……今回の復讐劇の背後にはジェスティとリカと、ギグが絡んでいたんだ」
「え?」
「リカから依頼を受けたジェスティは、お前に罠を仕掛けるためにギグを雇った。そして、ギグはどこからか仕入れたゲームのことを持ち出し、それを利用したんだ」
 ルークスの開いた口が塞がらなかった。ギグを、紹介屋を雇った? どういうことだ。意味が分からない。ランは続ける。
「ギグの本職は紹介屋だが、あれでフリーの冒険屋もやっているんだ――しかも、マザー専属の」
 このことを知る者はほとんどいなかった。ランでさえ、血の繋がりがあるからこそ知りえた情報に過ぎない。子供の頃に近しい者から聞き、それを今でも覚えていたのだ。
「そんな異常なことをやってるのはあいつだけだ」呆れながら。「もちろん、情報の管理は最低限、ちゃんとやってはいるようだが、紹介屋と冒険屋の仕事を天秤にかけ、いつどんな基準で動くかは分からない。とにかく危険で厄介な男だよ、あいつは。まあ、今回は何を思ったか、ジェスティの依頼を受け、任務を遂行したってことだ」
 信じられないことだった。紹介屋が裏でマザーと手引きしているなんて。危険なんてものじゃない。異常だ。まともじゃない。
「つまり……」ルークスの顔が青ざめていた。「俺は、その三人に、いいように操られていたって……ことだよな」
 ランはさすがに気の毒に思った。しかし、ルークスでも今回は相手が悪かった。それを動かしたリカという女の執念も凄いが、罰があたったと思って腹を据えるしかないと思う。
 ルークスは背もたれに寄りかかり、脱力した。疲れがどっと押し寄せた。手の中にあった写真が床に落ちる。しばらく呆然としていたが、ふっとくまのぬいぐるみと目が合った。ルークスはそれから目が離せず、ゆっくりと手を伸ばした。ぬいぐるみの腕を引き、膝の上に乗せる。今までのことを思い出していた。僅か二週間だったが、思い返せば長かったような気もする。ぬいぐるみに、アイの姿が映った。暇さえあれば恨み、泣き、最後に笑った。
「……これじゃ」独り言のように、語りかけた。「まるでお前が人形じゃないか」
 くまは何も答えなかった。分かっていたが、言わずにはいられない。
「たまたまターゲットにされて、いいように利用されて、用がなくなったからっていきなり、理由も教えられないまま消されて……」
 ルークスはそこで言葉を飲んだ。その理由を、ランは分かっていた。彼自身も同じことを、今までたくさんの女にしてきたことに気づいたのだろう。そして、ランは彼の心の変化も素早く感じ取った。ルークスは自分より先に、他人のことを考えたことなど、今まで一度もなかったのだ。だが、今の彼は違う。おそらく本人は自覚していないのだろうが、ひどい仕打ちを受けたことへの怒りより、アイという少女への同情が先立っている。
 感情をコントロールできずに、傷心を表情に露わにしてしまっている彼が少し子供っぽくに見えた。ランは、悪い気分ではなく、独り言のように呟く。
「人形も、そう悪くないと思うぞ」低く太いが、穏やかな声で。「そこにあるだけで何かを埋めてくれる」
 ルークスは何かに気づいたように瞳を揺らした。ランと目が合うと、バツが悪そうに唇を噛む。きっとランの少ない言葉を聞いて、いろんなことを考えたのだと思う。しかし、人の意見を素直に受け入れる男ではない。自分がアイという「人形」に何かを埋めてもらっていたかもしれないなどと思いたくなく、無理してぬいぐるみを睨み付けた。ランは彼のそんな態度が余計に幼稚に見えた。しかしこれ以上煽ることはしなかった。このことをどう受け取るのかは、彼自身が決めることなのだ。
 確かにやりすぎかもしれないが、いい経験になったのではないだろうか。おそらく、彼は反省などしないだろう。しかし、このことを時々思い出すだけでいい。僅かでもある、彼の中の「良心」が初めて作動したのだ。ランも、彼が本物の冷血漢なのではないのかと疑ったときさえあった。だが、心のない人間などいない。ラン自身もそのことを改めて心に留めることができた。
「ところで」ランも肩の力を抜いて。「ゲームは、どうする?」
 ルークスの表情が消え、気まずそうな汗が流れた。今その話はしたくなかった。だが、そうはいかない。しばらく黙ったあと、ルークスはがっくりと頭を垂れた。
「……俺の完敗だ」
 ランは皮肉な笑みを浮かべた。悔しい。やっぱりこの男には適わないのか。ルークスはそれでも素直には認めたくなかった。
「でもさ」反抗的な目を向け。「邪魔が入らなかったら、俺が勝ってたかもしれないよな?」
 ランは白々しく目を逸らす。どうやらまだ何か隠しているようだ。ランは肩を竦め、やっと白状できると思いながら口を開いた。
「何で俺がギグの陰謀を知ったと思う?」
 今度は何を言い出すんだろう。ルークスは嫌な予感を隠した。そうだ、いくら親子でもギグがランにすべてを話すとは思えない。口の軽いギグのことだから、いつか誰かに喋るかもしれないが、それにしても情報が早すぎる。
「お前」ルークスは覚悟を決める。「何をやってたんだ」
 ランは、明らかに上からの目線を送る。少しもったいぶった後、結論から簡潔に伝えた。
「ギグの家に、隠しカメラや盗聴器を取り付けていたんだ」
 もう何も考えられなかった。先を読むのも止める。聞きたくない、が、聞きたい。ルークスの血の気がゆっくりと引いていた。
「今まで掻き集めてきたゲームの戦利品」ビデオや写真のことだった。「あれ、全部ギグだ」
 ランは笑いを堪えていた。
「認めたくないが、遠目だと俺と似てるからな。プロに頼んであちこち修正して、音声も俺の声質に摩り替えてもらったが……しかし、自分でやっておいて、悲しくなったよ。こんな年甲斐のないエロオヤジの遺伝子を少しでも受け継いでいるかと思うと、ほんとに泣きたくなった」
「…………」
「怒らないでくれよ。これでも大変だったんだ。あのギグに見つからないように仕込むだけでも大仕事だったし、あの男の所業を自分のことかのように晒す気分は、それは首を括りたいほどの屈辱だったんだ。お前なら分かってくれるよな?」
 ルークスは言葉が出なかった。首を括りたいのはこっちだ。何が分かってくれるだ。冗談じゃない。ただでさえ寄ってたかって振り回された上に、ランにまで騙されていたなんて。
 やはり、完敗だ。このゲームの登場人物の中で一番の腹黒は、ランだという結論が出た。適わない、とても。張り合おうなんて思った自分が浅はかだった。そもそもランは、まともに自分の相手をしようなんて端から思っていなかったのだ。
 こいつだけは敵に回すのは止めよう。それが、ルークスが今回のゲームで学んだ現実だった。
 ショックから立ち直れないでいるルークスに、ランは容赦なく追い討ちをかけてくる。
「ギグの女好きとナンパの技術は」にっ、と歯を見せ。「お前なんか足元にも及ばない。上には上がいるってことを忘れるな」
 言われなくても、とルークスは目を潤ませた。誰もいなかったら泣いていたかもしれない。
 これで、完全にゲームは終わった。
 今までの「コレクション」はすべて灰にし、この世から完全に消滅された。どっちが勝つのかと、結果を楽しみにしていた者は肩透かしを食らわされた。ランが真実を触れ回ることをするはずがないし、ルークスはルークスでその話をすると機嫌が悪くなる。しつこくすると命を獲られ兼ねない。ブーイングの嵐の中、「ルークスが途中放棄した」という噂が流れた。その出所は、思い出したように帰ってきたギグらしいと言われていたが、証拠はなかった。ルークスはギグを恨んだが、ランに利用されていたことを知らないで笑っているのだと思えば、気持ちは晴れた。
 ルークスはそれからも、懲りずにランに下らない勝負を挑んでいた。女を騙し、弄ぶことも止めなかった。五年前のあの「事件」が起きるまで、ヴァレルの雰囲気は変わることはなかった。
 ルークスがいなくなって、部屋が引き払われるとき、ランがその場に立ち会った。そのとき、ベッドの横に「あの」くまのぬいぐるみが置いてあったのを見つけた。懐かしみながら手に取ってみると、ぬいぐるみのちょうど心臓のあたりに、銃で撃たれた穴がひとつ開いていることに気づいた。腹いせに彼がやったのだろう。きっとそれが、ルークスにできる精一杯の復讐だったのだと思う。それでも、彼の「良心」の欠片であるそれを捨てずにいたことは、ランにとっての救いでもあった。

 ランは黙ってそれを引き取り、開いた穴を器用に修繕した。そして、白いくまのぬいぐるみは、「コレクション・ゲーム」の唯一の遺留品として、今でもサイバード家の窓際に置いてある。 <了>





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