次の朝、ただでさえ寝起きの悪いルークスは、今までで最高かと思うほど最悪な目覚めだった。
ベッドのすぐ近くで、悪霊が一晩中めそめそと泣き続けていたのだ。さすがにそんな中でゆっくり眠れるほど神経は図太くなかった。しかし、徹底的に無視し続けた。絶対に声もかけなかったし、可哀想だなんて一切思うこともなかった。
今日の予定は、アイに潰された。本当なら昼まで寝ていたい。しかし、面倒な仕事がある。なんとか終わらせよう。さっさと片付けて、あいた時間でできる限りの点数を稼ぐしかない。もう勝てる気はしなかったが、ギリギリまで足掻いてやる。もしかしたら、ランもあまりうまくいってないかもしれない。運に頼るしかないとは言え、まだ諦めるつもりはなかった。
顔色も悪く、髪もボサボサのまま、淹れたてのコーヒーを片手にリビングのソファに腰かける。タバコに火をつけながらペンと手帳を取り出し、まだ寝ぼけたような顔をアイに向けた。アイは泣き止んではいたが、見てるだけで気分が悪くなりそうな暗い表情で部屋の角に潜んでいた。
「おい」
声をかけると、アイは眼球だけを動かして目を合わせる。気持ち悪い、と思うがいちいち文句を言う元気はなかった。
「仕事だ」目線を手帳に戻して。「隅が好きならそこにいてもいいから、今から俺の質問に答えろ。ちゃんと、聞こえるように、な」
アイは返事をしなかったが、ルークスは構わずに話を進める。
「お前の名前は? フルネームだ」
「…………」
彼女の無言は、分からない、覚えてないということだろう。もう怒るのは止めた。喧嘩するだけ体力の無駄なのだ。ルークスは感情を押し殺して、次の質問に移る。
「じゃあ、住所は? どの辺に住んでいたのか、周辺の雰囲気だけでもいい」
「…………」
気を取り直し。
「相手の男は……お前が十八で四つ上ってことは、二十二歳だな。中小企業って言ってたが、どんな会社か分かるか?」
「…………」
「体格は? 髪や目の色は?」
「…………」
「…………」
ルークスはため息をついた。腹が立つと言うより、呆れるしかない。ペンをテーブルに投げ捨てて背もたれに寄りかかった。
「なるほどね」依頼内容をまとめると。「この世界のどこかにいる、十八歳の彼女を捨てた、既婚の二十二歳のサラリーマンを探して殺せ、ってことか」
途方もない話だった。気が遠くなりそうだ。二週間どころではないかもしれない。ルークスはコーヒーを少し飲んだあと、次にタバコをくわえた。
「質問を変えるけど」煙を揺らしながら。「お前、何で死んだんだ?」
アイは俯いた。
「……ある日」小声だったが、彼の耳には届いた。「彼と連絡が取れなくなって、何かあったのかなって思って、探したの。そしたら、彼はもう別の女性と結婚してたの。凄いショックで、それで」
「もしかして、自殺?」
「……分からない」
何にせよ、彼女の記憶は曖昧だ。あまり参考にはできない。それに、とルークスは何かに気づく。
「ってことは、お前は十八歳でその男は四つ上だったかもしれないが、それがいつの話かも分からないってこと、だよな?」
「……うん」
ルークスの体がずるりと下がった。ダメだ。これはもう単なる亡霊の妄想に、限りなく近い。かなり上級な仕事だ。そういえば報酬の話も何も聞いていない。責任者のギグは行方不明だし──おそらく、この仕事が片付くまで出てこないだろう。迷惑料から慰謝料まで、法外な金額をふんだくってやらないと気が済まない。いや、それ以前に、アイがそんな金を持っているとは思えない。幽霊に支払い能力があるのかもどうかも疑問だが、ギグは一応、報酬を踏み倒すような信用をなくすことはしたことはない。ってことは、ギグがこの仕事の報酬を出すつもりでいるのか? それとも、もしかしてアイのバックには誰かがついているのだろうか。
冷静に考えてみると、おかしなことばかりだと思った。きっとアイは何も知らない。ただこの世を彷徨って、恨みを晴らすことに執着しているだけ。彼女が何かを企んで、隠しているとは思えない。ギグが一番怪しい。しかし、ただゲームを邪魔するためだけに、ここまで手の込んだことを……奴なら、あり得る。
(……ダメだ。今は考えても無駄だな。ギグを探して真相を突き止めるより、真面目に仕事に取り組んだ方がよっぽど早い。いや、どっちもどっちだが、ギグを捕まえたところで、どうせアイは俺に取り憑いてる。俺が動かないことには、この件は片付かない。貧乏くじもいいとこだが、受けた仕事を遂行すれば誰も文句は言わないわけだし……やるしかないか)
そもそも、ギグに警戒もせずに、詳細も聞かず安易に依頼を受けてしまった自分にも責任はある。確かに少し浮かれていたかもしれないと、ほんの少しだが、ルークスは気持ちを戒めた。
まだ嫌々感が残るまま、ルークスはタバコを消して立ち上がった。出かける準備に取り掛かることにし、洗面所に向かう。彼が頭や顔を洗っている間も、アイは隅に座ったまま、シャワーやドライヤーの音を黙って聞いていた。しばらくして髪をいじりながらルークスが戻ってきた。まっすぐクローゼットに向かいながら、アイに話しかける。
「そうだ」昨日、壊れてしまったカメラの残骸を足で除けながら。「答えられないかもしれないけど、一応聞いてみる……お前、ギグと特別な場所でどうとかって言ってたよな。
アイは動かず、瞬きもしない。
「それって、どこで、どんな状況だったんだ?」
アイはチラリとルークスに目を移すが、服を着替える彼の背中を見て、慌てて顔を逸らす。
「……それは」少し考えて。「よく覚えてないけど、言っちゃいけないって……言われた気がする」
「ふうん」やっと頭が冴えてきた。「ま、そうだろうと思ったけど。いいよ、そういうのはよくあることだから」
と言うことは、やっぱり本当の依頼主はアイではないようだ。予想としてはいくつか考えられる。彼女の身内か何かで、アイを成仏させて欲しいとか、もしくはアイは自分を紹介される前に他の誰かに取り憑いていて、それをこっちに押し付けられたとか、そういうことだと思う。それか、最悪の場合、ギグが嫌がらせをするためにアイを利用しているだけか……少なくとも誰かには報酬は払ってもらえるようだ。今はそれでいい。任務遂行の暁には、状況によりギグに報復を与えるつもりではいるが。
ルークスは服を着替え、ソファに戻ってタバコを胸のポケットに詰め込む。羽織った上着の内側に、今日はそれなりの装備をしている。
そのとき、携帯電話が鳴った。ルークスは取り上げ、ディスプレイを確認して、はあ、とため息をついた。
相手は残った獲物のうちの一人からだった。今日は無理だ。残念だが数日は待ってもらおう。ルークスは電話が切れるのを待って、応答しないままジャケットのポケットにしまう。だいぶ怒りや苛立ちを制御できるようになった彼は、落ち着いて玄関のドアの前に腰を下ろし、履き慣れたブーツの紐に手をかけた。
その様子を黙ってみていたアイは立ち上がった。
「どこいくの?」
ルークスは振り向きもしないで答える。
「仕事。とりあえず手当たり次第調べてみる」
「私もいく」
言いながら、アイは急いで彼に寄り、背後に立った。だがルークスの言葉は冷たい。
「何のために?」
「だって、もしかしたら、何か見たり聞いたりしたら思い出すことがあるかもしれないし」
「いい。お前には何も期待してない。それに、邪魔」
「やだ。ついていく」
「じゃあ、話しかけるなよ。お前とは外では口を利かないからな。また頭がおかしいと思われる」
「大丈夫よ」アイは珍しく笑顔になった。「みんなにも見えるようにするから」
ルークスの手がぴたりと止まる。固まる彼の背中を眺めて、アイは首を傾げた。
「……できるのか?」低く、重い声で。「みんなに見えるように、できるのか?」
「うん。普通にしてたら人間だとしか思われないから、大丈夫」
しんとなった。すべての動きを止めたルークスは心の中で、いろんなものと戦っていた。彼女の悪気のない言葉に、怒鳴りつけたい気持ちを必死で抑えていたのだ。普通にしていられるなら、なぜ昨日もそうしてくれなかったのだ。お蔭でこっちはとんでもない恥をかかされた。どうしてこの女はいちいち人を怒らせるようなことしかしないのだろう。わざとなのか、天然なのか。どうせ文句を言ったところで「だって」と、また独り善がりな言い訳をしながら泣き出すに決まっている。同じやり取りはもう御免だ。ルークスは口を結んで、じっと我慢した。腹に力を込め、溜め込んだものを飲み込む。呼吸を整えて、靴紐を結ぶことに集中した。
ルークスは、まずはヴァレルに向かった。ここからシスレ街を通り抜ければすぐに着くので、いつも歩いていく。天気はよかった。閑静な住宅街を眺めながら後ろから着いてくるアイを、ルークスはまるでいないもののようにして、さっさと歩いていた。歩幅が違いすぎるために、アイはすぐに彼に遅れを取る。その度に小走りで後を追ってきていた。
しばらくするとシスレ街に入る。いつものように華やかな店先や若者たちが街の空気を明るく彩っていた。平日の午前中だというのに、ここはバカのたまり場だと、ルークスはいつも思う。人のことが言えるのかどうかは別にして。
ヴァレルへの一番近道である通りに入った。ここは少し入り組んだ細道になっているが、やはり様々なショップが愛想を振り撒きながら立ち並んでいる。ルークスはそれらにはまったく興味を示さず、早足のまま突っ切る、つもりでいた。だが、後ろからアイに上着の裾を引かれ、足止めされてしまう。
「ねえ」
ルークスは途端に嫌な顔をする。振り向くと、アイがインテリアショップのウィンドウに張り付いて、その奥に目を奪われていた。
「何だよ」
アイは珍しく明るい表情をして、ガラスの中を指差した。
「あれ、すごく可愛い」
だから何なんだ、と思いつつ、ルークスは中を覗いた。アイが指した先には、三十センチほどの白いくまのぬいぐるみが置いてあった。その円らな瞳と目が合い、見て損したと思いながら、ルークスは背を伸ばした。だが、アイはそこから離れようとしない。
「置いていくぞ」
言い終わる前に置いていこうとする彼の裾を、アイはまた掴む。
「欲しい」
「殴るぞ」
「買って」
「金がないなら盗め」
「お金がないの?」
ムカ。ルークスはその感情を顔に描き表した。しかしアイはまったく怯まない。
「お願い」
別にこんな安物の人形くらい、いくらでも買える金はある。こいつの我侭はなかなかしぶとい。ここは、大人しくしてもらうためにガキにエサを与えるつもりで、と身銭を切ることにした。
アイはすっかり機嫌が良くなり、今まで落ち着きなく辺りを見回していたのだが、それも止めて胸に抱いたぬいぐるみだけに微笑みかけていた。極端なアイの態度の変わりようを横目で眺めながら、ルークスはぼやいた。
「女ってのは、どうしてそんな役にたたないものが好きなんだか。理解できないね」
「可愛いから」
「だから、どうなんだよ。その布と綿の繋ぎ合わせが何かしてくれるのか」
「うるさいなあ」アイは口を尖らせる。「あんたみたいな心のない冷血漢には分からないわよ」
ルークスは、何でこいつはこう、と思いながら。
「……それが奢ってもらった奴の態度か」
「何よ」アイはつんと顔を逸らして。「自慢できるほどのプレゼントじゃないじゃない」
ルークスはアイと喋るのが嫌になった。黙って、更に歩幅を広げた。
ヴァレルに入り、ルークスは大通りに面する武器屋に入った。この街は、午前中から開いてる店は少ない。ここもまだ看板は出していないのだが、構わずに戸を潜る。
この店にはいつも人がいる。中は狭い。壁や棚に乱雑に商品が詰め込んである。隅のレジカウンターに、見慣れた男が座っていた。ルークスに気づき、顔を上げる。
「なんだ、ルークスか。どうしたんだ、こんな時間に」
ルークスは床にも転がる商品を跨ぎながら奥に進んだ。アイも足元に気をつけながら、緊張した様子でついてくる。
「仕事なんだ」ルークスはカウンターの前に常備してある、古いパイプ椅子に腰掛ける。「調べて欲しいことがある」
ここの店長、シダは武器の売買を兼ねて、情報屋の仕事も掛け持ちしている。といっても彼が直接動くわけではなく、専門のルートをいくつも確保しており、依頼がくれば片っ端から声をかけていく。そこで、一番早く、有力な情報を依頼主に届けるという仕組みだった。たくさんの冒険屋がここをよく利用していた。
詳しく話を聞こうとしたシダは、この場に似つかわしくない少女に気づく。アイは倉庫のような店内を眺めながら不器用に歩を進めていた。
「お前の連れか?」シダは少し驚いていた。「なんと言うか……」
言葉を濁す彼の心理を読み、ルークスは口の端を上げた。
「レベルが低いって?」
「いや……」
本人に聞こえようが構わなかった。むしろシダの方が気まずそうな顔をする。
「だから、仕事だって言っただろ。依頼主だよ」
「そ、そうか」
特別にアイが標準より劣っているわけではないのだが、彼の連れにしては珍しいタイプだと思っただけだった。アイは聞こえていたが、無視している。シダは言い訳する機会を失ってしまった。
「調べて欲しいってのは」ルークスは話を進めた。「あの女のことだ」
「ああ」
シダは思い出したような声を出す。
「名前は『アイ』。年は十八。記憶を失くしているんだ。こいつと付き合っていた男を捜して欲しい」
ルークスは淡々と問題の説明をして聞かせた。シダもプロだ。外に漏れてはいけない事といい事柄はきちんと選り分ける。ルークスは彼を信用して、全部を話した。彼女が幽霊であり、ギグが強引に持ちかけた仕事だということは下手には触れ回れないと判断した。これはかなり神経を使う、面倒な仕事だ。一通り内容を把握して、シダはため息をついた。
「……調べろって言われてもなあ」
ルークスはタバコを取り出し、火をつける。シダの頭上に「火気厳禁」と大きく書いてある看板が下がっているが、ここにくる客は目もくれない。かく言うシダも、吸殻が積もった灰皿をカウンターに置いているのだが。
「誰にでもできることじゃないから頼んでるんだろ。いくらかかってもいい。ぜんぶギグ持ちだから」
「まったく、あのオヤジは……一体いくつになったら落ち着いてくれるんだ」
「あれは一生治らないよ。追放してやりたいところだが、一応この土地の領主だからな。逆に俺たちが路頭に迷うことになる」
「それも分かっててデカい顔してるんだろうな」
「早く死んでくれることを祈るしかない」
「世界が滅んでも生き残ってそうだがな」
アイは二人の内輪ネタを、少し離れたところで傍聴していた。彼女の存在は、気にしないと忘れてしまうほど薄い。ルークスはタバコを吸い終わって、汚れた灰皿に押し付けながら立ち上がった。
「俺もほかのところを回って調べる。何でもいいから、話が入ったらマメにこっちに回してくれ。できるだけ、速急に、頼む」
「ああ。やってみるよ」
振り向き、ルークスは通路に立ち尽くしていた彼女を押しのけるようにして戸に向かった。アイは結局最後まで緊張したまま、彼の後を追っていった。
その後も、ルークスは同じような感じで数件の情報屋の元を回った。その間にも、何件か電話がかかってくる。必要があればメモを取り、私用の電話やメールは一切無視し、慣れた様子で着々と情報を集めていく。だが、本人の思うように事は進んでいなかった。やはり、そう上手くはいかないかと、ルークスは足を止めて一息ついた。
今まで、いたこともすっかり忘れていたアイと目が合う。腕の中に大事そうにぬいぐるみを抱いて、じっとルークスを見上げていた。
「まだいたのか」仕事の顔を解かずに。「着いてきても邪魔だって分かっただろ。うちに戻ってろ」
アイは表情も変えないまま、何度も頭を横に振った。
「あっそ」ルークスは背を向けながら。「勝手にしろ」
それだけ言葉を交わして、二人は夕方まで同じことを繰り返した。途中で二回ほど休憩を取ったが、その場の近くのベンチに腰を下ろしてジャンクフードやドリンクを口にしただけだった。その間も、ルークスは情報収集に集中しており、ほとんどアイに語りかけることはなかった。
夕方、ルークスは部屋に戻り、ソファに疲れた体を預けていた。アイも少し距離を置いて、ぬいぐるみを抱いて隣に座っている。そう言えば、彼女が部屋の角に縮こまらないことに気づく。どんな心境の変化だか、とルークスはいつもの調子に戻って皮肉な笑みを浮かべる。
「安い女だな」目を細めて。「そんなお人形で喜んでくれるなら、お前なんか百回落とせる」
アイは、ちらりと横目を向ける。そして、ふっと微笑んだ。
「できるものなら、どうぞ?」
ルークスは違和感を覚えた。そうだ。彼女のこんな表情は初めてだ。それに、何なんだ。その余裕は。面白くない。眉を寄せて不快感を露わにする彼から目を離し、アイはぬいぐるみに頬ずりした。
「私には友達がいるもん」くまのことらしい。「だからもう寂しくないの」
何を言っているんだか。ルークスは突っかかる気も失せる。改めて、どっと疲れが出てきた。そうだ、今日は朝からずっと歩き回っていたんだ。それで、集まった情報は大したものでもない。しかし手応えはあった。今日明日は無理だろうが、時間をかければ何かが分かるかもしれないと、期待を抱いていた。
そのとき、ポケットに入れっぱなしにしていた携帯が鳴った。何かを思い出したように取り出し、モニタを確認する。獲物の一人だ。朝に無視してしまった彼女がまたかけてきた。何とか時間を作って繋ぎとめなければいけない。電話に出ようとした、が、隣からあの冷たい空気が押し寄せてきた。アイが睨み付けている。また悪霊の顔に戻っていた。ルークスは固まってしまった。危険を感じた。出てはいけない、そう思った。ルークスの手の中で、コールは切れた。室内は静かになり、二人はしばらく見つめあった。
「……何だよ」ルークスは口だけ動かして、呟く。「ちゃんと仕事してるだろ。何の文句があるんだよ」
アイは彼に冷たい視線を送り続け、低い声を出した。
「……別に」
それだけ言って、ふん、と目を逸らす。
気まずい空気が流れた。アイはくまに顔を埋めてじっと俯いていた。その隣で、ルークスはどうしたらいいか分からない様子で、何度も体制を変えていた。明らかに苛立っている。
どうして俺がこんな女に気を遣わなけりゃいけないんだ、しかし、力では適わない。大体、プライベートで自分が誰と何をしようが、こいつには関係ないじゃないか。くそ、ただの幽霊のくせに、彼女みたいな顔しやがって。俺は、束縛されるのが何よりも一番嫌いなんだ。
我慢できなくなったように、ルークスは立ち上がった。アイが見上げると、彼の顔は冷たく、感情のないものになっていた。再び上着を羽織り、黙って玄関へ向かう。
「……どこいくの?」
ルークスは乱暴にブーツに足を突っ込みながら、解けたままの靴紐に構わず、戸に手をかける。
「どうせカメラも壊れたし、ここに呼ぶ必要もない。今日はゲーム抜きで、生身の人間と過ごしたいんだ。邪魔しないでくれ、頼むから」
ルークスは振り向かないまま、捨て台詞を残し。
「お前はそのお友達がいればいいんだろ?」
鍵もかけずに室を出て行った。残されたアイは、彼の消えた戸をいつまでも見つめていた。
ルークスは歩いて五分ほどの公園のブランコに腰を下ろしていた。子供用のそれに長身の彼の体は合わず、アンバランスだった。
タバコをくわえたまま、携帯を取り出す。先ほどかかってきた彼女の番号を表示させ、発信ボタンを押すのを躊躇っていた。
(……あの女、高飛車だったからな。二回も電話に出なかったし、もうダメだろうな。今頃他の男のとこにでも行ってるかもしれないし)
いつもになく、自分が弱気になっていることには気づかない。なんとなく、面倒臭くなっていたのもあった。頭を使って立ち回り、気を遣う元気がなかったのだ。
(もういいや)
ルークスは電話を閉じた。これでまた一人が消えた。だが、それほど悔しくなかった。もしかしたら忘れたころに後悔するのかもしれないが、今は先のことが考えられなかった。疲れていたのだ。勢いで出てきたはいいが、いっそのこと今日は大人しく寝てしまえばよかったと考え直した。また明日も探偵ゴッコをしなければいけないのだ。ため息が出た。
ルークスの手の中で電話が鳴った。のろりと相手を確認すると、シダからだった。応答し、やる気のない声で用件を聞く。依頼している件のちょっとした情報だった。ルークスは返事だけしながら内容を頭に入れていた。
「……分かった」呟くように。「今からそっちに行く」
そう言って、電話を切る。ルークスは仕事だけは手を抜いたことがなかった。嫌とも辛いとも思ったことがなく、いつの頃か、生きていくための生活の一部となっていたのだ。疲れた体を起こし、落としたタバコの火を靴の裏で踏み消した。ポケットに手を突っ込み、ルークスはまるで機械が操られているかのようにヴァレルに向かった。
日付が変わろうとする頃、ルークスは自宅へ戻ってきた。部屋は真っ暗で物音ひとつしない。いつものことだった。
あれから、それほど有力とも言えない話をやり取りした後、結局どこに行く当てもないまま戻ってきてしまったのだ。自分を歓迎してくれる女はいくらでもいる。しかし、そのどれにも心を許していないことを、今になって思い知らされていた。だが、彼の中に寂しいなどという感情はなかった。疲れたときくらい一人でいたいとしか思えず、帰る場所はここだけという結論が出ただけだった。
ルークスは電気もつけずに寝室に向かう。その途中、ソファで横になっているアイを見つけた。ぬいぐるみを抱きしめて目を閉じている。眠っているのかどうかは分からない。ルークスは彼女をしばらく見つめ、音を立てないように近づいた。そっとアイの頬に指先を当てる。冷たかった。やはり、呼吸もしていない。
(……人形、か)その目に感情はなかった。(確かに、人間よりは気が楽かもしれないな)
ルークスは背を向けて、足音を潜めて再びベッドに向かう。
アイは少し瞼を上げた。顔も上げないまま、細い声を漏らした。
「……おかえり」
ルークスは微かに体を揺らしたが、歩みを止めなかった。上着を脱いでベッドに横になる。今まで、自分がいないときに誰かをここに居させたことはなかった。しかし、彼女は人間ではない。それでも自分の帰りを待っていたことに間違いはないのだろう。
アイとは一体何者だろう。幽霊、人間、人形……。どうして、誰が必要としてここにいるのだろうか。そして、彼女は何を必要としているのだろう。
そんなことを考えているうちに、ルークスは眠りについた。夢も見ないほど、深く眠った。
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