COLLECTION

3.LOVE


 ルークスは自宅に戻っていた。
 もちろん、「お荷物」も一緒に。
 ここは二十階建てのマンションの最上階だった。角部屋で大きな窓があり、眺めがいい。防犯システムは最新のものが取り付けられており、ルークスは更に金をかけて壁や窓全体に防弾の設備も施していた。同業者は息苦しく感じるかもしれないが、何の訓練も受けていない女性なら、ここをただのおしゃれな部屋だとしか思わない。室内はできるだけ区切りを少なくしてあり、見通しがよく広々としている。落ち着いたブラウンの家具でまとめられ、見えるところにあまりものは置いてないが、スタンドライトやステレオなどのインテリアがバランスよく配置してある。女性ほどの気配りはさすがに感じられないが、男の一人暮らしの部屋にしては隅々まで整っている。本人は別に部屋の内装には興味はなかった。だが、女はこういうムードのある空間が好きらしいということで、その手の職人に頼んでやってもらっていたのだった。洗濯や掃除も専門の者に任せてある。遊びにきた女がやたらとやりたがる時があるが、私物に変な癖が残るのは気分が悪い。そこはうまく断っていくことで、ここは常に、女っ気のない「作られた空間」であり続けてきた。
 アイは冴えない表情で部屋の片隅で膝を抱えている。鬱陶しい。ルークスはそう思いながらソファに腰掛け、テレビをつける。
「それで」目も合わせないでルークスが声をかける。「その殺したい男って、どんな奴?」
 アイは顔を上げ、小声で答える。
「……私より四歳年上で、中小企業のサラリーマンで……」
 なんだ、ただの一般人か。どんな大物に騙されたのかと思ったら、とルークスは鼻で笑う。
「名前は?」
 アイは口を閉ざした。ルークスは首を傾げ。
「言えよ。殺して欲しいんだろ」
「それが……」アイはまた顔を下げた。「覚えてないんです」
 今のルークスはちょっとしたことでも頭に血が上る。必要以上の苛立ちを露わにした。
「は?」
「彼に対する恨みは募る一方なんですが、その代わりに彼のことや自分のことも、どんどん記憶が消えていってしまうんです。もう彼の名前も、顔も思い出せなくて……」
「ふざけんな!」
 ルークスは大声を上げて、テレビのリモコンを彼女に投げつける。だが、リモコンは彼女の体をすり抜け、壁に当たって落ちる。
「顔も名前も分からないでどうやって殺せってんだよ。バカじゃねえのか」
 アイはしくしくと泣き出した。彼女の周りの空気が暗くなる。それは次第に広がり、部屋中を取り巻き始める。ルークスは寒気を感じ、体を縮めた。舌打ちをして。
「わ、悪かった。言い過ぎた。だから、泣かないでくれ」
 アイは鼻をすすりながら泣くのを止める。
「とにかく、今日は大人しくしててくれ。時間があるときに調べてやるから」
 時間があるときに、という言葉にアイは不満そうだった。やっと室内の空気が戻ったところで、ルークスはため息をつきながらソファに深く座り直した。
「今から客がくるんだ」冷たい目を向けて。「お前、他の奴には見えないんだろ?」
「客って、誰?」
「女」
「彼女?」
「いいや」当たり前のように続ける。「今日は俺の誕生日ってことで、高価なプレゼントを持ってきてくれることになってるんだ」
「そ、そうなんだ」アイは無理して笑顔をつくる。「おめでとう」
 ルークスは素直な彼女の言葉を一蹴した。
「バーカ」死人のくせに、と思いながら。「嘘に決まってんだろ。自分の誕生日なんか知らないし、俺の自己申告が本当なら、一体一年で何回年取ってることになると思ってるんだ」
「え?」
 アイには意味が分からない。ルークスは説明するのも面倒臭かった。
「とにかく、当然だけど、客は泊りだからな」いやらしく口の端を上げ。「別に見ててもいいけど、嫌ならトイレにでも隠れてろ。それでも声は聞こえると思うけど、何なら出ていってくれてもいいぜ。そのほうが俺も助かる」
 アイの表情が消える。彼が何を言わんとしているのか、さすがに読めた。彼女の変化には気づかずに、ルークスは携帯電話を取り出す。
「それと、明日も大事な用があるんだ」ボタンを押しながら。「後一押しで仕上がる、貴重な獲物とデートしなきゃいけない」
 アイの目が鋭くなる。顔が翳り、眉間に皺が寄った。
 ルークスは彼女の存在を無視して、明日の獲物、マリアに電話をかける。コールが三回鳴った。いつもなら一回で飛んで出るはずだが、と思っていた矢先に電話が繋がった。
『……ルークス?』
 電話の向こうの声は暗かった。何やら慎重な様子だった。
「マリア? どうした。何かあったのか」
 マリアはしばらく黙った。ルークスが再び口を開こうとすると、微かな泣き声が聞こえた。
「?」
『……ルークス。ごめんなさい』
「な、何だよ。どうしたんだ。明日、会えなくなったのか?」
 マリアはすぐには返事をしなかった。だが、覚悟を決めたように震える声を出す。
『やっぱり……夫とやり直すことになったの』
 ルークスは声が出なかった。頭が真っ白になる。マリアは泣きながら続けた。
『ごめんなさい。あなたのことは本当に愛していたわ。でも、彼と話し合ったんだけど、やっぱり子供のことを考えると、もう一度やり直したほうがいいって……』
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
『ごめんなさい。もう決めたの。何よりも、夫はまだ私を愛してると言ってくれたし……彼には私が必要なの』
「俺だって、君が必要だ」
『ええ。私もあなたとならって、本気で考えてた。でも、あなたは若いし、私みたいな年上の人妻よりもっと素敵な相手がいるわ。でも、夫には私しかいないのよ。それが分かったの』
「そ、そんなこと急に言われても……」
『ごめんなさい……もう、決めたの』
 あまりにも突然すぎて、引き止める言葉が思いつかない。ルークスは焦りを隠せずに。
「まっ、あの……話をさせてくれ。君の顔を見て話がしたい」
『……ダメよ。あなたの顔を見たら、また未練が出るかもしれないもの。私も辛いし、寂しい。だけど、もう答えは出たの。お願い。お互いが幸せになるために、隣にはいられないけど、一緒に乗り越えましょう』
 何言ってるんだ、このババア。こっちは点数さえ稼げば、後は夫とヨリを戻そうがどうしようが関係ないんだよ。二日前までは自分の言いなりで、手を握るだけで昇天しそうな声を上げてたくせに。なんでもう少し待てないんだ。ルークスは必死で考えるが、言ってはいけない罵詈雑言しか思いつかない。冷静に、とにかく落ち着こうと深呼吸をした。と、ほとんど同時。
『今まで、ありがとう。短い間だったけど、幸せだったわ』
 ルークスが息を吸った途端、電話は切れた。
 ルークスの顔が青ざめ、石のように固まってしまっていた。ゆっくりと現実を受け入れる。その傍らで、アイがじっと彼を見つめていた。
 四人中、一人が消えた。まずい、まずいとルークスは頭を抱えた。このままだと負ける。ならば、と素早く考えを切り替える。残った三人を確実に仕留め、その合間に新しい獲物を……とにかく、今から一人をものにする。これで後二人だ。二週間もあればなんとかなる。きっと最低でも他に一人くらいは何とかなるはずだ。
 纏まらない頭を冷やすために、タバコに手をかける。慣れた手つきで一本を口にくわえてライターに火を灯す。
 そのとき、目の前で色を変えていたテレビが点滅する。ふっと顔を上げると、臨時ニュースが流れ始めた。興味はなかったが、ルークスは無意識に画面に目を移した。
『先程、ナナツ大通りで大型トラックの追突事故がありました。運転手と、巻き込まれた歩行者の女性が病院に運ばれました。二名とも意識はなく、危険な状態とのこと。運転手は大手運送会社の……』
 大きな事故のようだ。ナナツ大通りといえば、ここからそう遠くない。ぐちゃぐちゃになったトラックの映像が映し出されている。
『……巻き込まれた歩行者の女性はグロリア・アンディスさん、二十一歳』
 ポロ、とタバコが口から落ちた。再び頭の中が真っ白になる。キャスターが伝えるその女性の名前と年齢は、今からここにやってくるはずの彼女とまったく同じものだったのだ。写真は出ない。まさか、まさかと、震える手でライターを置き、携帯に持ち替えた。グロリアの番号を押す。繋がるのを待った。その間、心臓が激しく脈打っていた。数秒後、電話からは無機質なガイダンスが流れた。
『お客様のおかけになった電話は、現在、電波の届かないところにあるか、電源が入っていないため……』
 ルークスは最後まで聞かずに耳を離した。やっぱり、今テレビで流れた女性は、今ここに向かっていたその人なのだ。
 事故がどんな状態か、命に別状がないかなんてどうでもよかった。少なくとも、二週間以内にここへきて無償の奉仕をできる状態ではないことは確かだった。ルークスにはそれだけで十分だった。
 室内に重い空気が流れた。ルークスはしばらく死体のように放心していた。
 立て続けに二人の獲物を失った。なぜだ。おかしい。こんなことがあるはずがない。おかしい。
 今まで順調だった。それなのに、どうして。落ち着いて考える。何か変わったことがあっただろうか。すべてがダメになってしまうほどの、大きな問題が起きただろうか。自分の強運がひっくり返るような、不可思議な現象が──。
 ルークスは勢いよく体を起こし、吊り上げた目でアイを睨む。部屋の角で小さくなっている彼女は、さらに縮こまってルークスを睨み返した。その目には恨めしそうな、暗い光が灯っていた。
 まさか……いや、やっぱりそうなのか? そうとしか思えない。考えるまでもなかった。アイを見つめれば見つめるほど、ルークスの中に殺意が湧いてきた。
「……おい」じわり、と殺人鬼の顔になる。「てめえの仕業か」
 アイは片隅で彼に怨念を送り続ける。恨みと怒りが火花を散らした。それは途端に大爆発を起こす。
「殺してやる!」
 ルークスはソファのクッションの下に常備しているピストルを取り出し、アイに向かって放つ。三発、銃弾は彼女を通り抜け、壁に穴を開ける。分かっていたとはいえ、余計に怒りが増す。ルークスは無駄だと分かって、銃を放り投げる。アイは怯えもせずに、つんと顔を逸らす。
「もう、死んでるもん」
 ブチ、と何かが切れる音がした。
「赤の他人を呪う力があるなら、その薄情な男のとこへ行けはいいじゃねえか!」
「だから、顔も名前も覚えてないって言ったでしょ」
「お前、自分で何言ってるか分かってるのか」
「だって……」
 ダメだ。幽霊に常識なんて通用しない。だけど、この怒りをどこにぶつければいいのだろう。もうこの際なんでもいい。残った二人のどちらかを呼びつけて……いや、それは危険だ。またこの化け物に邪魔されるに決まっている。かと言って、怒りの標的は殺しても死なない。この俺に、ストレスを溜め込んで我慢しろと言うのか。それとも、どうしても言いなりになって、プライドを賭けたゲームを後回しにしてまで、どこの誰かも分からない、どうでもいい安月給のサラリーマンを捜さなければいけないのだろうか。嫌だ。冗談じゃない。そんなの……。
 イライラが頂点に達した彼は、ふっと何かを思い出した。突然、無心になってしまったルークスに、アイは怪訝な顔をする。感情のない彼の目が、微かに動いた。強く警戒していたアイは、膝を抱いていた腕を解き、構える。ルークスはそれを待たずに、彼女に襲い掛かった。
「!」
 アイは思ったより俊敏な動きでそれを躱した。ルークスは素早く体を起こし、歯を見せて笑った。
「やっぱり」その目には異様な迫力があった。「お前、俺にしか聞こえないし、見えないって言ったよな」
 アイは腰を引いて、片足を一歩下げる。
「思い出したんだよ。確か、今日、俺は店でお前の肩を触った。ってことは、聞こえるし、見えるし……触れるってことなんだよな」
「……だったら、何よ」
 アイは刺激しないように、ゆっくりゆっくり後ずさる。どうやら図星のようだ。
 ルークスは立ち上がり、アイを見下ろした。
「殺しても死なないなら」にじり寄りながら。「死にたくなるような思いを味合わせてやる」
 二人は同時に駆け出した。が、ルークスの大きな体にアイはあっさり署ルまってしまう。ルークスは少女を仰向けに倒し、乱暴に首を掴む。アイの表情が苦痛のものになった。そんな彼女にルークスは顔を寄せ、勝ち誇ったような笑顔を突きつけた。
「形勢逆転だな」
「は、離して……」
「黙れ」低い声で。「お前が一体何をしてくれたのか、思い知らせてやるよ」
 ルークスは掴んだ腕に更に力を入れる。アイは呻き声を漏らすが、相手が死なないと分かっているのなら遠慮はいらない。それどころか、元々サド気のある彼は、だんだん楽しくなってくる。
「ここしばらく女に気を遣ってばかりだったからな。仕返しついでに日頃の鬱憤も晴らさせてもらおうか」
「…………」
「考えによっては悪くないかもしれないな。幽霊を抱けるなんて、滅多にない機会だ。だが、気持ちよくなれるなんて思うなよ。これは虐待だと思って、覚悟しとけ。裂けようが擦り切れようが、俺の好きなようにさせてもらう。今更後悔しても遅いからな」
 ルークスは両手で彼女の首を絞め、悪魔のような顔で笑った。アイの目に涙が浮かぶ。力を振り絞り、耳を劈くような悲鳴を上げた。
 同時に、室内の空間で妙な音が鳴った。パン、パシン、と繰り返し、ルークスが慌てて顔を上げると、背後のクローゼットの角から小さな爆音と煙があがった。
 続いて、カーテンロールの影、ベッドの下や浴室からも同じ現象が起こる。ルークスは体を起こして辺りを見回した。目を見開き、額に汗が流れる。
「バ……バカ! やめろ」
 次々に音を立てて壊れたのは、部屋のあちこちに設置していた隠しカメラだったのだ。ゲームが終わるまでは大事なアイテムだし、金も時間も手間もかかった。決してばれないように、だが確実に機能してもらうために、高性能なものを巧妙に仕掛けていたのだ。また同じ状態にするには、急いでも一週間はかかる。
次に、部屋中の電化製品が不自然に点滅し始めた。テレビやステレオの音量が最大になり、その振動で窓ガラスが震えた。ルークスは耳を塞ぎながら、大声を出した。
「わ、悪かった! 頼む、止めてくれ。もうしないから、頼むから……!」
 ルークスは虚ろに床に横たわっていたアイを跨いだまま、頭を抱えた。アイは仰け反り、釣られるように上半身を起こす。髪を乱したまま、ルークスの顔を覗き込んだ。その目と合い、ルークスはゾクリと寒気を感じた。
 まるでブレーカーが落ちたように、すべての電源が消えた。光も音も失い、室内の時間が止まった、ような気がした。その中で、ルークスとアイはじっと見つめあった。次第に、ルークスの体が震え始め、滴り落ちるほどの汗が噴出してくる。
「……う」
 ルークスの喉から声が漏れた。アイの右腕が、彼の腹部に侵入していた。突き破っているわけではない。しかし、内で、彼の内臓を鷲掴みにしていたのだ。その痛みと苦しみは、現実のものではなかった。アイは氷のように冷たい顔で、ゆっくりと指先に力を入れていく。
 止めてくれ、という声さえ出ない。動けば苦痛は増し、前にも後ろにも倒れることもできない。今度こそ殺される。意識が朦朧とし始めた。落ちる、そう思った瞬間。
 ルークスは呪縛から解放された。アイは勢いよく腕を引き抜き、無残に床に転がる彼を目で追った。
 ルークスは腹を抱えて、深く呼吸をした。胃液が逆流しそうだった。服も破れてないし、血が流れ出しているわけでもない。だが生きたまま内臓を掴まれるなんて、そんなこと、信じられない。アイが目だけを光らせて、ジロリとルークスを睨みつける。暗いところで見る彼女は、今までに増して恐ろしかった。
 そうだ、こいつは化け物だ。悪霊なんだ。捕らわれているのは、逃げられないのは自分の方なのだと、今になってそのことを肌で感じた。
 こうなったら、仕事と割り切って彼女の望みを叶えるしかない。
(……って言うか)ルークスは心の中で悲痛な叫びを上げた。(こいつ……なんでこんなに強いんだよ)
適わない。ルークスは頭を垂れて、内側から溢れる泣きたい気持ちを抑えて脱力した。
 ルークスは、その日は大人しく就寝することにした。また部屋の隅で小さくなっているアイに背を向けてベッドに潜り込んだ。まだ胃腸の辺りには奇妙な痛みが残っている。
 腹を括ったとは言え、やっぱり納得いかなかった。本当なら、今頃、と口惜しくて仕方ない。ランと質は違えど、とにかくどんな手段を使っても勝ちたかった。何かひとつでも彼に勝るものが欲しかった。それが、勝負に負けるだけでなく、このままギグの思い通りになってしまうしかないのか。悔しい。


 室内はしんとしていた。いつもと同じ状況なはずだが、なんとなく落ち着かない。近くに悪霊がいると思うと無理もないのだが。
 そんな重苦しい時間が一時間ほど流れた。ルークスは布団の中でストレスを溜め続けた。眠れない。
「……ねえ」
 そこに、アイの暗い声が流れた。ルークスは寝た振りをして返事をしない。アイは構わずに小声で続ける。
「そっちに行っていい?」
 意味を考え、間を置き。
「……さっきは殺す勢いで拒否ったくせに、今度は大胆に上に乗りたくなったのか?」
 ルークスはアイが何を言いたいのか分からないまま皮肉で返した。アイは口を尖らせて。
「そんなんじゃないよ」呟く。「……寂しいんだもん」
 アイは女の子らしいことを口にするが、ルークスはまったく反応しない。都合のいいときばっかり甘えるな、と同情の余地もなかった。だがアイは、罵らないだけでもマシな彼にそっと近寄る。音も気配もなかったが、背中に寒気を感じ、ルークスは我慢できなくなって体を起こす。
「何なんだよ」いつの間にか隣に正座しているアイを睨み。「お前、俺と同じベッドで寝るってことがどういうことか分かってやってるんだろうな。俺は幽霊だろが妖怪だろうが、女ならなんでもいいんだ。そこいらの良心的な男と一緒にするなよ」
 ルークスは真面目な顔で、脅すように続けた。
「言っておくが、俺は恋だの愛だの、そういう気色の悪いものには興味はない。生まれたときから、そんなものは欠片も持ち合わせていないんだ。自分だけが良けりゃそれだけでいい。どこの誰が苦しもうが、不幸になろうが、俺が楽しむための家畜だとしか思っていない。いいか、俺に情なんか求めるな。お前は仕事だから構ってやってるだけだ。特別に可愛くもなければ、色気もない、用でもなけりゃそんな女と口を利くのも煩わしい。俺はこういう男なんだ。それを忘れるな」
 アイはじっと黙ったまま、ルークスを見つめていた。その目に表情はなかった。ただ隣に座って、呼吸もしていない。まるで人形だった。
「……分かったか」
 それでもルークスはめげずに念を押す。アイはやっと、少しだけ頷いた。だが、そのまま何も言わずに体を倒して布団の中に潜り込んできた。
「おい!」堪らず、怒鳴りつける。「聞いてんのか」
「うん」アイは素知らぬ顔で見上げる。「私だってあなたがどんな人かなんて、どうでもいいの」
「何だと」
「ただ、隣で寝たいだけ」
 そう言って、アイは目を閉じる。ルークスは怒りで体を震わせた。この化け物は、どこまで俺をバカにすれば気が済むんだ。しかし力尽くではどうにもならない。クソ、覚えてろ。後で何とかして仕返ししてやる。そう思いながら、仕方なくアイに背を向けて横になった。
 こんな屈辱は初めてだ。隣に女が寝ているのに何もできないなんて。いや違う。これは女じゃない。ただの幽霊、化け物なんだ。ルークスは必死に自分に言い聞かせた。思いつめる彼の背中に、アイは体を寄せてくる。ルークスは内側にこみ上げる衝動や殺意と戦っていた。
 そんな気も知らず、アイは幸せそうに呟いた。
「……人間って、温かい」
 ルークスはもう何も考えないことにする。どうせ何をしても、言っても無駄だ。忘れよう。隣には誰もいない、何もない。何度もその言葉を心の中で繰り返していた。
やっと二人は大人しくなった。再び静寂が訪れる。
 だが、二十分も経たないうちに、ルークスの体が微かに震え出した。それは次第に激しくなってくる。アイはやっと彼の変化に気づき、目を開けた。声をかけようとする、それより早く。
「寒い!」
 ルークスは勢いよく飛び起き、アイを思いっきり蹴っ飛ばした。
 アイは無防備のまま、悲鳴を上げてベッドから転げ落ちる。顔を上げると、青ざめたルークスが肩を揺らして自分を睨み付けていた。
「何が温かいだ。ふざけんな」必死で怒鳴る彼の唇が震えている。「人間様はな、欲求は我慢できても、感覚まではどうしようもないんだよ。何なんだ、その北極みたいな体は。これ以上てめえに付き合ってたら病気になる」
 アイに体温はない。それどころか、周囲の温度を吸収してしまう体質だったのだ。幽霊になって人と触れ合う機会がなかった本人はそのことを自覚していなかった。目を丸くしてルークスの罵声を浴びる。
「俺も金輪際手を出そうなんて考えないから、お前も、二度と俺に近寄るな。いいか、分かったか。このクソ女!」
 ルークスはそれだけ言い捨てて、凍えた体を温めるべく布団を全身に巻きつけた。
 アイは一人、取り残されてしばらく呆然としていた。じわりと、目に涙が浮かぶ。そしてそのまま床につっぷして、恨めしそうに朝まで泣き続けた。




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