ロードは毎日騒がしい。
店内の隅のテーブル席で、ルークスは一人で飲んでいた。ここは彼の特等席だった。
ルークスはまだ若いが、誰もが一目置く男だった。と言うか、誰も関わりたくなかったのだ。血の気が多く、人を殺すこともなんとも思わない危険人物だった。しかも皮肉なことに、その容姿は絵に描いたような、完璧な美形だった。下手に目を付けられると自分の彼女や妻に手を出してくるという、恐ろしい噂もあった。とにかく性質が悪い。姿は天使のように綺麗だが、その中身は悪魔そのものだと言われていた。
ルークスは物思いに耽りながら、周囲を眺めていた。そんな彼の視界の端に、見慣れた顔が映りこんだ。その途端、店内の雑音が大きくなる。
ギグだ。銀狼の獣人、ロードの店主。彼もまた相当な危険人物だった。ルークスとは違う意味ではあったが。ギグはとにかくいい加減な男だった。尻だけでなく、口も軽い。取り返しの付かない問題を起こしても「ごめん」の一言で片付け、後始末もしない。長く続くサイバード一族の中でも、最も手に負えない紹介屋として有名だった。
それでもなぜか友達は多く、なんだかんだで斡旋の仕事も適当にこなしている。そうは見えないが、頭がキレるとでも言うのだろうか。彼は最小限の仕事しかしないが、そのひとつひとつが中身の詰まったものだったのだ。ギグの過去は、それこそ誰も知らない。組織に所属していたという記録も話もない。だが、持って生まれたものなのかもしれないが、力もあるし、喧嘩の仕方も銃の腕も並ではない。年齢は五十を超えているはずだが、現役の若い冒険屋にも引けをとっていなかった。調子に乗って彼を怒らせてしまった者は、大抵が行方不明になっている。殺されたか、もしくはそれ以上の仕打ちを受けたのは間違いないのだろう。
ギグが店に顔を出す確率は半々くらいだった。営業はほとんど従業員に任せ、自分は気まぐれにしか現れない。今日も社長出勤だ。獣人たちが騒ぎ出したのは、彼を歓迎する囃しだったのだ。
ギグは仲間に愛想を振り撒きながら、カウンターではなく店の奥に潜り込む。なんとなく彼を目で追っていたルークスに気づき、ギグは馴れ馴れしく近寄ってきた。
「よう、ルークス」向かいの席に腰掛け。「また一人で四人掛けを占領しやがって。顔がよかったら何でも許されるとでも思っているのか」
いつもの乱暴な挨拶だった。ルークスは表情も変えずに答える。
「思ってる」
「ムカつくガキだな。一体どんな教育受けてるんだ」
「教育? 食えるのか、それ」
「そうか。学校にもいけないほど貧しかったんだな。かわいそうに。よし、今度俺が辞書を買ってやるよ」
「その前に、読み書きを教えてもらわないとな」
「なるほど。だが残念なことに、それは俺も習っていない」
そんな冗談を交わしているうちに、いつものように従業員がギグにビールを運んできた。ギグは目も合わせずにジョッキを掴み、口に運んだ。
「ところで」ビールを飲み干し。「うちの出来のいい息子と面白いゲームをやってるらしいな」
「なんだよ」ルークスもビールを一口飲んで。「お前にだけは秘密にしろってことだったのに、相変わらず地獄耳だな」
「俺には噂好きな妖精の友達がいるんだ。隠し事なんて無駄な努力だ」
「いつかバレるとは思っていたが、今回は思ったより遅かったな」
「そう言われると腹立つな」
「ランが口止め料をばら撒いてたからな。あんたの耳に入っただけでも奇跡だよ」
「まったく、我が子ながら冷たい奴だ。俺はこんなに可愛がっているのに、どうして素直に父の愛を受け入れられないんだろう」
「いや、愛どころか、はっきり言ってかなり嫌われているぞ」
「そうなんだよ」ギグはさめざめと泣き真似を始める。「反抗期はとっくに終わってるはずなのに、俺の顔を見た途端に、まるで汚いものでも見るかのような恐ろしい顔をするんだ。あれは心底嫌ってる目だ。その度にどれだけ俺が傷ついているか知りもしないんだろうな」
「あんたらほど仲の悪い親子も珍しいよ」
「あいつは執念深いんだよ。女みたいにいつまでもネチネチしやがって。俺はそんな器の小さい男に育てたつもりはないのに。聞いてくれよ。あいつの彼女にちょこっと手を出したときなんかは」
えっ、とルークスは耳を疑った。
「本気で殺されかけたんだ。いや、殺されるなんてものじゃない。俺のナニを切り落として、口に突っ込んで生き埋めにしてやるなんて言い出すし。怖くて震えが止まらなかったよ。親子なんだから少しくらい大目に見てくれたっていいじゃないか。なあ、そう思わないか?」
当然のように語るギグの言葉に、ルークスの血の気がゆっくり引いていった。なあ、と言われても、同意なんかできるはずがない。
「……なんであんたが生きてるかってことが一番の疑問だ」
十分大目に見ていると思っていいんじゃないだろうか。ただでさえ軽蔑している父親に女を寝取られたなんて、ランでなくても耐えられない屈辱だ。間違いなく、親子の不仲の原因はこの父親にあるようだ。
しかし、ギグでなければ確実に殺されていただろう。殺さなかったのか、殺せなかったのか、それは分からない。それとも、他に理由があるのかもしれない。それは親子の、ルークスには理解できない領域なんだと思う。ルークスに親の記憶はなかったが、ランが羨ましいなどとは一切、今の今まで、一度も頭の隅を掠ったことさえもなかった。親のいない彼でさえ、こんなのならいないほうがマシだと、つくづくランに同情する。
「ま、そんなことより」ギグは泣き真似をやめ、顔を上げる。「どうなんだ? ゲームの方は。どっちが勝ってる」
ルークスは目を逸らした。どうしよう。詳細を喋ってしまったら後が怖い。だが、答えるまでギグは帰してくれないだろう。板挟みになってしまった。しかしこの男は、どうせまたどこからか情報を仕入れるに決まっている。少しだけ乗ってやってさっさと逃げよう、とルークスは目線を戻した。
「今は」ギリギリ届くくらいの小さい声で。「俺」
「あー、やっぱりか」ギグはわざとらしく大声を出す。「どうだ? 勝ちそうか?」
「さあ、まだ何とも言えない。かなり僅差だし」
「情けないこと言うなよ。あの天狗小僧の鼻をへし折ってやってくれ。あいつは挫折ってもんを知らない。周りの奴らもすっかりビビってるし、お前くらいだよ、まともに突っかかっていける男は」
「そうは言っても」ルークスは再び目を逸らす。「なんかムカつくんだよな。人数は圧倒的に俺が多いんだけど、あいつは一人から、かなりの点数を搾り取ってくるんだ。合計では上回っているとは言え、なんとなく、悔しい」
「お前まで何言ってんだよ。頼むよ、色男」と言いつつ、ギグは話題を変える。「そうだ、お前に仕事がある」
何だよ、唐突に。とルークスは眉を寄せた。ギグはいつもそうだ。人の話を聞いているんだかいないんだか分からない。とにかくマイペースだった。迷惑なほどに。
「期限まで二週間しかない」ルークスは残ったビールを飲み干し。「四人抱えてるんだ。二週間で全部ものにすれば勝てるかもしれない。余裕があれば後一人でも二人でも点数を稼ぎたい。今度にしてくれないか」
「女にかまけて仕事を疎かにするような男はもてないぞ。それに、悪くない話だと思うが?」
「どういうことだ」
「依頼人は女だ。それも素人」
「?」
「仕事のついでに口説き落とせば一石二鳥だろ。いいから会ってみろ」
「ブスだったら殺すぞ」
「お前って、クソ野郎の鑑だな」ギグはヘラヘラ笑いながら。「安心しろ。俺だってブスの依頼なんか請け負わないよ」
「ふん、人のことが言えるか。管理の立場のくせに、お前の方がよっぽど悪質だ」
「管理だからこその特権だろ」言いながら、内ポケットから手帳を取り出す。「明日、話をしてこい。待ち合わせ場所は……」
ルークスはギグからメモを貰い、店を出た。
あまり期待はしてなかったが、そのときはまだ、これが悪夢の始まりだということに気がつくことができなかった。
*****
次の日の正午。ルークスはシスレ街の外れの、少し上品なカフェにいた。
相手はまだ十八歳の一般人だと聞いている。武器は護身程度に、ルークスは全身を今風のファッションで固めてきた。こうしていると、誰もが目を奪われて振り返る、いい男以外の何でもない。窓際の席に座り、陽だまりを眺めながらタバコを吸っているだけで視線を感じる。自覚はあったが、彼にとっては当たり前のことだった。
ふっと時計を見ると、針がちょうど約束の時間を指した。二分待って依頼者がこなかったら帰ろう。そう思っていると、背後からか細い声が聞こえた。
「……あの」
ルークスが振り向くと、すぐ後ろに俯いた女性が立っていた。ルークスは少し焦った。いつの間に、と思うほど存在が薄かったのだ。
ルークスはいつもの癖で、一瞬にして彼女の容姿を見定めた。セミロングの金髪、薄いブルーグリーンの瞳。背は低めで、体のラインは細い。派手でも地味でもない、大人しめなピンクのワンピースを纏い、バストはそこそこ。彼的には五十点といったところだったが、問題は中身だ。少女は恥ずかしそうに目を逸らしたまま、再び小声で呟く。
「あなたが、ルークスさんでしょうか」
ルークスは心を隠し、優しく微笑みかける。
「そうだよ。君が依頼者?」
「は、はい……」
席を立ち、並ぶと身長差は二十センチ以上もある。ルークスは包み込むように彼女の肩を抱き、向かいの席にエスコートする。
「そんなに緊張しなくていいよ。ほら、座って」
少女は顔を真っ赤にして、オドオドしながら席に腰を下ろした。ルークスも座り直し、肘を突いて彼女の顔を覗きこんだ。
少女は必死で顔を下げた。少し肩が震えている。
一瞬、ルークスの目が冷たくなり、口の端が上がった。
(なんだ……これなら楽勝だ。大した点数にはなりそうにないけど、二日もあれば片付くだろう。ってことで、まじめに相手してあげますか)
ルークスは専用の顔を作り、穏やかに声をかけた。
「ねえ、君の名前を聞かせてくれる?」
少女の体がびくりと揺れた。怯えたまま目線だけを上げる。
「……ア、アイです」
「アイさん? 綺麗な名前だね」
「あ、ありがとうございます……」
「そんなに緊張しなくていいってば。もしかして、怖い?」
この様子だと、冒険屋と会ったのは初めてなのだろう。一般人の間の冒険屋の噂はよくないものばかりだ。だがそれも利用の価値がある。少し怖がらせておいたほうが、優しくしたときに「自分だけ」のものだと勘違いし易い。女とはそんなものだ。ルークスはそう思った。
「大丈夫」声を潜めて。「俺たちは依頼主を傷つけたりしない」
アイはルークスの優しい目を見つめ、顔を赤くする。ルークスは容赦なく熱いビームを送った。その攻撃は、少女のか弱い盾など容易に貫き、心にまで進入してくる。アイの表情の変化をルークスは見逃さなかった。強い手応えを掴み、話を続ける。
「ところで、君の望みは何?」
「あ……はい」
少女は我に返り、再び顔を暗くした。
「あの……」蚊の鳴くような声で。「ある人を……殺して欲しいんです」
へえ、とルークスは思った。虫も殺せないような顔で、思ったより過激なことを言うものだ。別に殺しの依頼は珍しくないのだが、この少女の口からそれが出てくるとは思ってもいなかった。
「ある人って?」
アイはゆっくり呼吸を整えて、改めてルークスに向き合った。
「私、婚約者がいたんです」その目には、怨念がこもっていた。「だけど、その人は私を裏切って……他の女性と結婚してしまったんです」
話の内容はそれほど驚くことではなかった。しかし、アイから発せられる恨みのオーラの凄まじさに、ルークスはうかつにも飲まれそうになった。今までの彼女からは想像もできないほどのものだった。まるで、別人のようだと思った。
「……そう」ルークスも不謹慎な笑みを消す。「で、どういうふうに殺して欲しい?」
「私を裏切ったことを心から後悔させてやりたいんです」
「じゃ」ルークスの目に残酷なものが灯った。「地獄のような苦しみを、ってこと?」
「はい」アイの怨念もぐっと強まる。「彼だけでなく、結婚相手も、その子供たちもすべてめちゃくちゃにして、不幸のどん底に落としてやってください」
「いいね。そういうの、得意なんだ」
「お願いします」
ルークスは彼女の怨念に負けない、冷酷な目を細め、タバコに火をつける。面白そうだ。頭の中ではいろんな計算が始まっていた。もちろんアイを落とすことも忘れてはいない。恨みに捕らわれた少女にいかにして夢を見させ、自分に惚れさせるか。短時間の中でうまく立ち回れば、結構な点数を稼げる。
まずは依頼を成立させなければいけない。詳しい情報や事情を聞こうとした、そのとき。
「ルークスじゃない」
と、高い声が聞こえた。顔を向けると、色っぽい女性が近寄ってくる。ルークスは眉を寄せた。
キーノ。マザーの女だった。ルークスより年上の大人の女性で、艶やかな黒髪を靡かせ、胸元の開いたスーツを身につけている。キーノは微かに彼を軽蔑したような目で見下ろした。
「相変わらず目立ってるわね」細い指先を唇に当てながら。「こんな場違いなところで、一体何やってるの」
ルークスも途端に不機嫌になる。この手の女はあまり好きじゃなかった。それに、今はタイミングが悪い。こんな下品な女と知り合いだと思われたら、また警戒されてしまう。さっさと追い払ってしまおう。ルークスはキーノを横目で睨んだ。
「お前には関係ないだろ。仕事中なんだ。気安く声をかけるな」
「やだ」キーノは吹き出してしまう。「仕事中? とうとう頭おかしくなっちゃったの?」
「は?」
「じっとしてても目立つのに、さっきから『一人』でブツブツ喋っちゃって。ほら、周りのみんなが心配してるわよ。いい男なのに、気の毒にって」
この女は何を言っているんだろう。ルークスはちらりとアイを見る。さっきまでの恐ろしい殺気を解き、怯えた様子で自分たちのやりとりを黙って見ている。別に変わったところはない。頭がおかしいのはお前だろ、とルークスは思う。キーノは笑いを堪えながら続けた。
「まさか、とうとう薬にまで手を出して幻覚でも見てるんじゃないでしょうね。それとも、ヤリ過ぎでもう一生分の種を使い切っちゃって、治療の新薬でも試してるの? ま、あんたの勝手だけど、そういうときは大人しく自宅にこもってなさいよ。周りが迷惑するでしょ」
ここまで意味不明だと、ルークスは腹も立たなかった。いろんな可能性を考えた。何から確認して、試せばいいのか。いや、まさか、と思いつつ、最悪な例えをはじき出す。平静を装うが、流れる汗までは隠せなかった。まずは落ち着いて、基本から確かめることにした。
「キーノ」低い声で。「俺は、一人で喋っていたのか?」
真面目な表情の彼が、キーノは可笑しくて堪らない。返事はしないが、その態度でルークスは理解した。
「俺は、今も一人なのか?」
キーノはとうとう声を上げて笑い出す。
「いやだ、もうやめてよ」涙目になりながら。「あんたの可愛そうな姿なんて見たくないわ。お願いだから病院にいってきて。ヤブじゃないところ、紹介してあげるから」
ルークスは困惑しながら、慌ててアイに向き合う。アイは体を縮めて、俯いた。
「おい」ルークスの顔が青ざめる。「お前……まさか」
アイは答えない。彼女の翳った顔は今のルークスのそれよりも青白くみえる。そこに漂う空気は、少し冷たかった。
そんな彼にキーノは哀れみの眼差しを向けた。
「やっぱり、もうダメになっちゃったのね。寂しいけど、私もあんたと一緒にいて、これ以上恥をかきたくないの。ごめんね」
そう言って、背を向ける。ルークスの中にやっと怒りがこみ上げてきた。
「う、うるさい」彼女の背中に牙を向けながら。「さっさと消えろ、この売女が」
キーノはそんな罵倒など気にもせずに、手を振りながら去っていく。
ルークスももうキーノに構っている余裕はない。感情的になり、拳をテーブルに叩きつける。アイは泣きそうな顔で震えだした。
「これだけははっきり答えろ」ルークスの声が震えていた。「てめえ……人間じゃねえな」
アイの目に涙が浮かぶ。ルークスはその姿に同情などしなかった。泣きたいのはこっちだ、とさらに怒りが増す。
「答えろっつてんだろ!」
店内がざわつき始める。そろそろ注意をしようかと、店長がプラントの影で様子を伺っている。
アイは思い詰めた表情でじっと黙っていた。それが答えだった。ルークスは我慢できなくなり、乱暴に席を立った。
ルークスは歯を剥きだして、店を後にした。
何が仕事だ。何が女だ。話にならないと、アイを置いて大股でロードに向かった。今すぐギグを殴ってやらないと気が済まない。貴重な時間を無駄にされた上、恥をかかされてしまった。イライラしながら裏路地へ入る。古いビルの間の細道で、ほとんど人は通らない。ここを抜けたら大通りに出る。そこからタクシーを拾うつもりでいた。だが、ピタリとその足が止まる。
目の前に、朧げな少女が立っていた。アイだ。幽霊を怖いなんて思ったことはなかったが、やはり不気味だ。ルークスは彼女の顔なんて、これ以上見ていたくなかった。
「ついてくるな、この化け物が」
アイは恨めしそうに泣いていた。ルークスの苛立ちが募る。
「お願いします」路地に篭った声が響く。「彼を殺してください」
「俺は幽霊と遊んでやれるほど暇じゃないんだ。あんたの気持ちは分からなくもないが、人選違いだ。よそを当たってくれ」
「いいえ」アイは顔を上げた。「あなたしかいないんです。私の声を聞き、姿を見ることができるのはあなただけなんです」
「はあ? ギグとも話したんだろうが。だったらギグに頼め。あいつも人殺しなんて屁とも思わない奴だ」
「いいえ、あの方とは特別な場所で言葉を交わしただけです。そして、快く依頼を請け負ってくれたんです。お願いします。私の望みを叶えてください」
「知るか」ルークスは怒鳴りつける。「俺は忙しいんだ。これ以上付き纏うってんなら、今すぐ霊媒師のところに駆け込んで、てめえを突きつけてやるからな」
その言葉で、ザワリとアイの髪が揺れた。急激に温度が下がる。さすがのルークスも寒気を感じた。
「……おい」
アイの表情がぐるりと変わる。まるで般若のような恐ろしい形相だった。ルークスは息を飲んだ。アイの姿がゆっくり、流れるように近づいてくる。動けなかった。彼女の怨念がルークスの心の中に流れ込み、幻覚だと分かっていてもそれから逃れることができなかった。
彼女から放たれる不気味なオーラがルークスの首に巻きつく。締め上げられ、呼吸ができなくなる。
「お願い……」
アイの低い声がルークスの心の中に響く。まずい。殺される。
(……畜生)
悔しい。だが、とにかく今はこの呪縛から脱さなければ、本当に死んでしまう。くそ。こんなに力があるなら自分で相手を呪い殺せばいいじゃないかと思いながら、ルークスは声を絞り出した。
「わ、分かった……」
ほんの少しだけ、空気が緩んだ。ルークスは透かさず続ける。
「分かったから。な、何とかするから……離して、くれ」
「……本当?」
「ほ、本当だ。だから……」
ふっと体が軽くなった。ルークスはその場に膝を付き、激しく咳き込む。ちくしょう、畜生。ルークスは、今までの重苦しい怨念を説き放ち、ごく普通の少女の顔に戻っているアイを睨み付けた。アイは目が合っても表情を変えない。いつの間にか立場が逆転している。ルークスにとって幽霊は専門外だった。仕事でも、プライベートでも。こんな厄介なものと関わることになるなんて考えたこともなかった。どうしてくれよう。このまま大人しく言いなりになるのだけは嫌だった。しかし、今はなんとか呪い殺されないように気をつけながら策を練る必要がある。
まずは、とルークスは怒りを堪えて呼吸を整えた。
夕方、ルークスは開店前のロードに殴りこんだ。
「ギグ! 出て来い」
準備をしていた従業員たちが一斉に彼に注目した。その背後にいる恨めしそうな少女の姿には、誰も気がつかない。
「ルークス」副店長が呆れた様子で。「いきなりなんなんだ。店長ならいないよ」
「連れてこい」
「無茶言うな。呼んで来るような人なら誰も苦労はしない」
「なら、どこにいる」
「さあ」
そこに、カウンターの奥からアルバイトの一人が顔を出した。
「店長なら、『旅に出ます』って連絡があったよ」
「はあ?」
従業員たちが笑い始める。その和やかな雰囲気はルークスの神経を逆撫でする。
「また何かやらかしたんだろうなとは思ったけど」バイトは肩を竦めて。「まさかあんたに仕掛けていたとはね」
副店長も大きな声で笑い出した。
「さすが店長はやることがデカい。大した度胸だ」
ルークスは体中を震わせて歯を噛み締めた。あのクソ野郎。最初から邪魔をするつもりだったんだ。おそらくゲームの話を聞いて、何かちょっかいを出してやろうとでも思ったに違いない。やられた。ルークスは拳を握った。
このままでは済まさない。何がなんでもゲームに勝ってやる。そう強く、心に誓う。
明るい笑い声を背に、ルークスは黙って店を出ていった。その後ろを、虚ろな少女が静かについてきていた。
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