3




 順調に朝の部を終え、音耶は颯爽とその場を立ち去った。
 珠烙は音耶専用の休憩室で待っていてくれているはずである。いそいそとその途中にある渡り廊下に差し掛かった。
 途端に、熱気が音耶を襲う。毎日通る場所なのだが、未だに慣れない彼はそこの独特な匂いに片手で鼻を覆った。
 廊下の左側は広大な庭になっている。植木や花で飾られたような優雅な庭園ではなかった。すべてがいびつな岩でできており、あちこちに大きな穴が開いていた。穴にはドロドロの溶岩のような沸騰した湯が張っている。しかもその湯に浸かって談笑している鬼たちの姿は、人に近い体の音耶には目を疑う光景だった。
 地獄に落とされた罪人の魂を茹でる「釜茹地獄」の湯はそこから引いているらしいが、鬼たちにとってはただの温泉のようである。不謹慎ではないのかと思うこともあったが、鬼たちがここで寛ぐことは音耶が生まれるずっと前から続いている風習だった。ゆえに音耶は何も言わずに見て見ぬふりをしてきた。
 早足で廊下を過ぎると、大きな広間に出る。そこは地獄の中で最も天上の雰囲気に近い空間だった。
 大王や、天上人が来訪したときに主に使う場所であり、大理石の床に、金箔で包まれた壁と天井、大きな柱には細かい装飾が織り込んである。品のない鬼たちがほとんど近寄ることはなく、いつも静かだった。来客がない限り音耶しか通ることがないはずだったのが、そうはいかない。今の地獄には「あの二人」がいるのだから。
 音耶はこの先に珠烙がいると心を躍らせていた。束の間の休憩なのだが、彼女と過ごせるならいつもよりも安らぐのだろうと根拠のない期待を抱いていた。
 そんな足取りの軽い音耶は、突然後ろから頭を殴られて現実に引き戻される。
「……なっ!」
 頭を押さえて振り向くと、そこには、いつの間に近寄って来ていたのか、鎖真が仁王立ちして音耶を見下ろしていた。その後ろから涼しい顔をした依毘士も歩み寄ってきている。
「おい、何ニヤニヤしてんだよ。気持ち悪い」
 げ、と声を漏らしそうになったが、音耶はそれを我慢して彼に向き合った。
「べ、別に、ニヤニヤなんかしてませんよ」
 強がって睨み付けてくる音耶を笑いながら、鎖真は彼の肩を数回叩く。
「なんだよ、お前未だに言葉遣いが直ってないのな。いつまでビビってんだよ」
 しまったと思いながら、鎖真の腕を払いのける。
「いい加減に慣れてくれよ。俺たちがお前に危害を加えるわけじゃあるまいし」
「い、今、殴ったじゃないか!」
「それは挨拶だろ。挨拶」
 音耶はせっかくの気分を害され、いじけて顔を逸らした。この二人は、やはり苦手だ。大体、用もないのにどうしていちいち武装しているのか理解できない。存在だけで圧倒されるのに、武器を携えた二人は誰が見ても威圧される。背後からゆっくり歩いてきていた依毘士は挨拶さえもせずに、鎖真の少し後ろで立ち止まった。なぜか、音耶をじっと見ている。彼が人を静観するのは癖のようなものであり、特に理由がないことも分かっているのだが、依毘士の視線はいつも心に痛い。その上、肩の天竜も依毘士と同じ行動を取るために、四つの鋭い目が一気に向けられる。鎖真の暴力も酷いが、依毘士の無言の圧力も相当なものだった。
「で、何かいいことでもあったのか?」
 鎖真に問われ、音耶は我に返った。そうだ、この二人に構っていては時間がもったいない。
「俺たち退屈してんだ。面白いことがあるなら分けてくれよ」
 イヤだ、と音耶は瞬時に心の中で答えた。誤魔化しきれる自信はない。走って逃げようかと考えていたが、ふっと音耶は何かを思いついた。
 そうだ。彼らは天上でも身分の高い神族。もしかすると珠烙のことを知っているかもしれない。いずれ秘書になるかならないかの話をするかもしれないのだ。ここで少しでも情報をもらっておいても悪くないはず。
 かと言って長話はしたくない。気持ちを切り替えて簡単に質問を始めた。
「あ、あの」また敬語を使いそうになり、慌てて軌道修正する。「珠烙という女性を、知っているか?」
「しゅらく?」
「あ、文殊菩薩様の眷属だと仰ってたんだが」
 鎖真は依毘士と目を合わせて、すぐに音耶に戻す。
「そいつが何?」
「いや……き、樹燐様がちょっと口にしてた名前だったんだ。別に他意はないんだけど、どんな人かなと思って」
 音耶は必死で緩む表情を隠そうとしていたが、抑えきれていない。勘が働いた鎖真は心の中で「ふーん」と呟いた。その隣で白けている依毘士も、すぐには答えてくれそうにない。その気まずい空気を読み、音耶は片足を引いた。
「し、知らないならいいんだ。確か、若いらしいから、お前たちでも知らないのかもしれないしな」
 乾いた笑いを漏らす音耶は、変に探られる前に逃げようと腰を引く。それを止めるでもなく、鎖真が呟いた。
「知ってる」
「ほんとか?」
 音耶は素早く向き直る。
「あれだろ。文殊の従兄弟の嫁の友達だとか何だかで、文殊とは他人。でも確か身分はちゃんとしてるはずなんだ。そいつなら、だいぶ前に会ったことがある。変な奴だなって思ったが、別にそれ以外は興味なかったな」
「変な奴って、何が変だったんだ?」
「いや……だって、確か、あいつ」
 鎖真が言葉を濁していると、依毘士が静かに目を伏せながら、音耶に見えないように鎖真の背中をつついてきた。鎖真はすぐに依毘士の意思を読み、口を閉じて数回目を泳がせる。
「どうした?」
 音耶は二人の不自然な態度が理解できずに、何か問題があるのだろうかと不安になった。
「ああ、そうだ」思い出したように鎖真が続ける。「ほんとは阿修羅の血族なんだよ。でも闘うのは嫌いだとかで無理やり文殊の眷属に入ったとか言ってたな」
「そうなのか。でも、何が変なんだ」
「いや……別に意味はない。なんとなく俺が思っただけだし、昔のことだからあんまり覚えてないし」
 音耶が首を傾げていると、依毘士がやっと口を開いた。
「ところで、今日は立ち話ができるほど暇なのか?」
「あっ!」
 暇ではない。せっかくの貴重な時間である。珠烙の身元がしっかりしているということだけでも有益な情報だと考え、音耶は二人に背を向けて礼も言わずに休憩室へ走り去っていった。
 彼の姿が重い扉の向こうに消えていったことを確認して、依毘士は振り返って歩き出した。モヤモヤが残る鎖真はその後についていく。
「……依毘士、お前ってさ」少し、間を置き。「思った以上に性格悪いな」
 依毘士は表情を変えずに黙って歩き続けた。
「音耶のあのバカみたいに浮かれた顔、見ただろ? さすがに可哀想じゃないか?」
 依毘士は鎖真と目も合わせない。
「樹燐の名前が出たということは、どうせまたあの女が何か企んでいるのだろう。関わるべきではないと判断したまで」
「そうだけどさ」
「それに、真実は一つ。隠そうが欺こうが事実は変わらないのだ。その上で音耶が何を学び、どんな答えを出すのかは本人が決めること。あれに足りないのは経験。いずれ立派な閻魔になるためには己で苦悩を乗り越えねばならない。それを邪魔するのは意志にそぐわぬ」
 鎖真は歩きながらしばらく依毘士の言葉の意味を考えた。しかし、結局のところ自分と同じ気持ちなのだとしか思えなかった。
「つまりさ、お前もあいつがどうなるか、面白そうだと思ってるんだろ?」
 依毘士は答えない。彼が答えないということは、肯定しているも同然だった。
「やっぱお前、性格悪いわ」
 鎖真はしみじみと言ったあと、それも今更かと自分で思う。そして依毘士本人も同じく、「今更、自他共に認めていること」と心中で呟いた。


 やっと珠烙と再会した音耶は、用意されていた昼食を一緒に食べることができた。
 地獄での食事は、炊飯係の鬼がやってくれる。見た目からは想像できないが、意外にも器用で料理がうまい鬼がいるのである。しかし、問題がないわけではない。料理が上手でも味覚はやはり鬼は鬼。時に蛇だの鼠だの、とんでもないものが悪意なく入っている。気づかずにそのまま胃に入れてしまっていることもあるのだろうが、食べたものはもう取り消しにはできない。いやな予感を抱いたときには、音耶は何も聞かず、何も知らなかったことにして忘れるよう努めていた。救いがあるとしたら、どんな食材であろうと味だけは悪くないということと、今までどれほどのゲテモノを口にしてしまったのか分からないが、食事が原因で体を壊したことだけはなかったのだ。
 彼らの料理の腕は信用できるが、今日だけはお任せにするわけにはいかなかった。
 朝の裁判が始まる寸前に、音耶はぬかりなく「今日の昼食は野菜しか使うな」と強めに命令を下していた。鬼たちは無神経なだけで根性悪ではない。理想的な精進料理が用意されているのを確認し、安心して珠烙に食事を勧めることができた。


 楽しい食事を済ませた後、午後の勤務までもう少し寛ぐことにした。
 そこの空気には不釣合いな鬼に皿を引かせ、食後の茶を運ばせる。落ち着いたところで、珠烙が明るい声を弾ませた。
「ごちそうさまでした」
「貧相な料理でしたが、お口に合いましたでしょうか」
「貧相なことはありませんよ。体によさそうだし、味付けも独特でとてもおいしかったです」
「そうですか。安心しました」
「あ、でも、昼食までごちそうになってしまって……勝手にお邪魔してきたのに、図々しいですね、私」
 申し訳なさそうに俯く珠烙に、音耶は慌てて上半身を乗り出した。
「えっ、そんなことはないですよ! 待つように言ったのは私ですから、遠慮なんかしないでください」
「そうですか……? 私のこと、厚かましい女だと思われていませんか?」
 上目遣いで眉尻を下げる珠烙の表情は音耶の心を掻き乱す。樹燐にも官女にもなかったそれに顔を真っ赤にして声を上擦らせた。
「そんなことありませんってば。私がお誘いしたんじゃないですか。厚かましいのは私のほうですよ」
「そんな……押しかけたのは私で」
「いいえ。私がお願いしたんです」
 どちらも譲りそうにない雰囲気に、先に口を噤んだのは珠烙だった。途端に訪れた静寂にしばらく二人は言葉を失い、同時に照れ笑いを浮かべる。
「音耶様って、お優しい方なんですね」
「え、いや、そんな……」
「閻魔大王様って、怖い方だと思ってました。でも、全然そんなことなくて、一緒にいてこんなに楽しいなんて、想像もしてませんでした」
 溶けそうな瞳で見つめられ、音耶は目線を返すことができなかった。今までこんなことを言われたことはなく、素直に喜ぶことができない。
「……いえ、閻魔大王ってのは、怖くないといけないんです」
「え?」
「今ままでそうでしたし、私も父の血を引いているんです。ほんとは、罪人が萎縮するような迫力がないといけないんですよ。でも、私には貫禄なんか微塵もなく、いつも周囲から見下されてばかりなんです」
 音耶は顔を上げて必死で笑った。代わりに珠烙が笑みを消して泣きそうな表情を浮かべる。
「ご、ごめんなさい。こんな情けない愚痴を初対面の女性に話すなんて……ほんとに、私は弱くてダメな男ですね」
 乾いた笑い声を漏らす音耶を、珠烙はじっと見つめた。音耶は暗い空気にしてしまったことを後悔しつつ、だけどどうやって話を変えればいいのかが分からずに汗を流した。その間に、珠烙の瞳が潤んでくる。
 まずい、理由は分からないが、泣かせてしまう。音耶は焦り出し、意味もなく腰を上げようとした。その寸前に、珠烙が口を開く。
「……そのお気持ち、分かります」
 意外な言葉に、音耶は耳を傾けた。珠烙も、先ほど彼が浮かべた自嘲のそれと似た表情を浮かべる。
「私、本当は阿修羅の眷属なんです」
 音耶は驚かない。当然だった。そのことは鎖真に、軽くだが聞いていたからだ。
「訳あって、文殊菩薩様の一族に移籍させてもらっているんです」
「訳、って?」
「それは……」
 珠烙はすぐには答えなかった。思い詰めたような彼女の様子に、音耶はどんな態度を取ればいいのか分からない。悩みがあるなら聞いてやりたいが、言いにくいことを無理やり聞き出す権利はない。どうしよう、と戸惑っていると、幸か不幸か鬼が戸を開けて声をかけてきた。
「音耶様、もうお時間ですよ」
 二人は同時に顔を上げ、我に返った。
「あ、ああ。今いく」
 現実に引き戻され、音耶は慌てて席を立つ。珠烙も立ち上がって頭を下げた。
「変な話をしてしまってごめんなさい」
「いえ、それはこっちの台詞です。情けないところを見せてしまいました」
「いいえ、お話してくださって嬉しかったです」珠烙はいつもの笑顔に戻り。「私、今からどうすればいいでしょうか」
「今から?」
「あ、ごめんなさい。また図々しいことを……」
 珠烙は両手で口を覆った。音耶はすぐに、大事な話にまったく触れていなかったことを思い出した。
「そうでした。結局私の話ばかりになってしまってすみません。また夜なら時間が取れますが……」
「まだ待っててもよろしいんでしょうか」
「ええ。珠烙様さえ問題なければ」
「では……次は私のお話を聞いてくださいますでしょうか」
 珠烙は嬉しそうに微笑み、頬を染めた。やはり、可愛いと音耶は思い、釣られるようにして顔を赤くした。
「ええ。ぜひ」
 そう約束をして、後ろ髪を引かれながら音耶は仕事に戻った。



◇  ◇  ◇  ◇







Copyright(c) RoicoeuR. All rights reserved.