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音耶はその足で昼の部の裁判に挑み、朝よりもだらしない表情で仕事を続けた。死者の数が少ない本日は予定通り、いつもより短い五時間程度で閉廷することができた。
その後に再び書類の整理に書斎に戻る。今日と明日の分の台帳をまとめ、普段は更に夜中まで残業を続ける。この残業で今まで溜めてきた仕事を片付けるのだが、今日くらいはなしでいいかなと罪悪感を抱きながらも、そのつもりにしていた。
本日分の業務が終わったところで、音耶は補佐役の鬼に珠烙の居場所を尋ねた。
「お客人はもういませんよ」
「えっ!」
「急用だとかでお帰りになりました。また明日、改めるそうです」
「ええっ……なんだぁ」
音耶はがっくりと肩を落とす。予定がなくなったのならいつもと同じように残業でもしていくかと、とぼとぼと書斎に戻った。
書斎で一人、音耶は肘をついてぼんやりしていた。
やることは山ほどあるのだが、仕事は一向に進まない。音耶の頭の中は珠烙のことで一杯になっていたのだ。
どうして急に帰ってしまったのだろう。音耶は嫌な想像ばかりする。やはり自分が暗い話をしたせいで呆れられてしまったのだろうか。明日来るって、それも本当なのか分からない。
だけど、珠烙は何か悩んでいたようだし、そのことを聞いて欲しいと言っていた。もう話したくないと思ったとしたら、そんなことを言うだろうか。
何を考えても、乙女心なんか分かるはずのない音耶には想像の粋を超えることができない。また明日来ると言っていた。こなければそれが彼女の答えである。そうなっても、まだ出会って僅かなのだ。すぐに忘れることができるだろうと自分を励ます。
だけど、もしかしたら明日また会えるかもしれない。うまくいけば珠烙が秘書となってくれて、ずっと一緒にいられるかもしれないのだ。
可能性は五分五分。今日はもう忘れて仕事を進めよう。音耶は心に鞭打ち、背を伸ばした。よし、と気合を入れて室内を見上げる。どこから始めようかと思ったと同時、音耶の脳裏に何かが過ぎった。
――そうだ。
音耶は目を見開いて固まった。
――ここに、この書斎の中に、彼女のすべてがある。
そう、悪い考えが音耶を包み込んでいった。心の鬼が彼の耳元で何かを囁いてくる。
――知りたい。
どうして樹燐が、規律を破っても書類を見たがっていたのか、今ならその切実な気持ちが理解できる。樹燐には断固拒否したが、誰にもばれないように、少しだけ覗くだけなら……。
「いや、ダメだ!」
音耶は一人で大きな声を出し、強く目を閉じて頭を振った。
「そんな卑怯なことをすれば、余計に珠烙様に嫌われるだけじゃないか!」
そうだ、そうだと心の中で繰り返す。閻魔大王として禄に仕事も捌けていないというのに、その立場を利用して人の秘密を覗くなんて許されるわけがない。
だけど、と、音耶は項垂れる。
珠烙は何か思い詰めていた。音耶の気持ちが分かるとも言っていた。もしかすると、音耶にだから話したいと思うことがあったのかもしれない。
もしも彼女が、今すぐにでも話したいと思っていたとしたら、自分の忙しさのせいで苦しめたのかもしれない。音耶は申し訳ない気分に陥った。
それに、と思う。目まぐるしく走り回る音耶に遠慮したという可能性もある。そんな気遣いは無用だと今すぐにでも言いたい。明日まで待てば伝えられるのかもしれないが、最悪は、もう二度と会えないのかもしれない。
寂しい。
音耶は浅い瞬きを繰り返し、ゆっくりと顔を上げた。
――せめて、彼女が明日、来てくれるかだけでも知りたい。
珠烙がここに来た理由だけ。本当に秘書になりたいのか、音耶を一人の男として見てくれていたのか。それとも、他に理由があったのか。それだけでも知りたい。
とうとう、音耶は梯子に手をかけた。
音耶の心臓は、室外にまで聞こえそうなほど激しく脈打っていた。
これは犯罪だ。こういうことがあってはならないために大王である自分が守ってきた空間なのだ。なのに、それを自ら破ろうとしている。
しかし音耶の好奇心は留まらなかった。少しだけ、ほんの少しだけ前の記録を、ちょっと視界に映すだけ。
たまたま整理をしていて、目に止まってしまっただけ。その程度の情報だと、たくさんの言い訳を頭の中に綴りながら、神族の書類のある棚の前に顔を出した。
いくつかの書類を手に取り、梯子に腰を下ろす。紙をめくるささやかな音さえ、音耶には刺激が強かった。
そして手が止まると同時、音耶の肩が大きく揺れた。
あった。
音耶の目に「珠烙」という文字が飛び込んできた。
息を潜め、ゆっくり、ゆっくりと目線を下ろしていく。
そして、そこにあった衝撃の事実が、彼の頭の中で大きな鐘を鳴り響かせた。
音耶は目眩を起こして梯子から派手に転落する。物凄い落下音に鬼たちが駆けつけてきて扉の向こうから声をかけてきた。
書類の上で腰を擦る音耶は、慌てて「なんでもない」と大声を上げる。鬼たちはそれを聞いて、さほど心配もせずに立ち去っていった。
すぐに静寂が戻った書斎で、音耶は倒れこんだまま涙目になっていた。体中が奮え、顔は蒼白している。
(……そんな、そんな)
彼の手の中から、力なく一枚の書類が落ちた。それは、こう書き出されていた。
『阿修羅の血族
文殊菩薩の眷属 珠烙(♂)』
騙された。
やはり珠烙は樹燐の刺客だったのだ。疑っていたはずなのに、こんなに短時間でここまで見事に騙されるなんてと、音耶は自分が情けなくて仕方なかった。
きっと珠烙は只者ではないはず。音耶は涙で滲む目を再び書類に向ける。
『阿修羅の血を濃く受け継ぐ闘争心の強い武神。中性的でしなやかな姿を利用することで敵を欺く役目を自ら担うことを決意。隠れ蓑として文殊菩薩の眷属に属し、暗器や変装を巧みに操ることを得意とする』
音耶の衝撃は更に続いた。あの仕草も言葉も何もかも、すべてが演技だったのだ。信じられないが、疑う余地は一切ない。誰がどれだけ巧みにウソをついても、ここに書いてあることこそが真実なのだから。
音耶は床に伏せ、悔しさと悲しさを交差させた。
正直、初恋だったかもしれない。勘違いだったとはいえ、失恋である。この傷は深い。
「……だけどっ」
かと思うと突如顔を上げ、床を叩きながら独り言を呟く。
「もう騙されませんからね! 自分の力で真実を暴いたのです」
誰もいないのに虚勢を張り、必死で口の端を上げて拳を握った。
「私はこれでも閻魔大王なんです。明日また来たら、この真実を突きつけて樹燐様共々に悔しい思いをさせてやる。もうこれ以上の悪ふざけは……」
言い終わらないうちに、今度はあっと叫び声を上げる。
「うわあっ……しまった!」
端から見れば奇妙な光景だった。音耶は再び頭を抱えて床に転がる。
しまった。最悪だ。
樹燐の本当の目的は――音耶に珠烙の資料を盗み見させることだったのだ。
だから珠烙はわざと自分に気のある振りをして興味を抱かせ、悩み事があることを中途半端に口にして音耶の好奇心を煽っていた。必要以上に樹燐を庇わなかったのは、自然な流れを演出するため。挨拶もせずに姿を消したのは、音耶に思い詰めるきっかけと時間を与えるため。何もかも、すべてが計算だったのだ。
そうやって、樹燐は弱味を握って脅すつもりに違いない。まずい。彼女の好きにさせるわけにはいかないが、自分も罪を犯してしまった。どう言い訳すればいいのか、今の混乱状態では何も思いつかない。
珠烙の正体に気づいていないふりをして、それとなく追い払うのが一番安全かもしれないが、はっきり言ってそんな器用なことができる自信はない。ないどころか、もう珠烙の顔を見るのさえ怖いと思う自分がいる。何枚も上手の珠烙を前に、ごく自然な振舞いなどできるはずがない。
鎖真と依毘士に協力してもらおうか。しかし今日の彼らの態度からして、珠烙のことを知っていて隠したのだと、今なら分かる。だとしたら、彼らに聞いたことにして欲しいと頼んで、それをばらされてしまったら完全に自滅である。
それに、こんな理由で手を汚したことが父親に知れてしまったら、厳しく罰せられるに違いない。素質もない、仕事もできない。その上、女装した少年に誘惑されて道を踏み外すなんて、最低だ。もう見限られて……絶縁されてしまうのかもしれない。そうなってしまうと音耶には行くところなどどこにもない。
どこか地獄の隅で人知れず、一人で衰弱して死んでいくのだろうか。そんな救いようのない未来を想像し、音耶は絶望感に包まれて涙を流した。
どうしよう、どうしよう。
「地獄だ……ここは地獄だ」
今宵、音耶は仕事なんか手につくはずもなく、一晩中悩み続けて朝を迎えた。
約束通り、珠烙は昨日と同じ様子で地獄の門番の前で入場の許可を頼んでいた。しかし門番は申し訳なさそうな声で、今日はお通しすることができないと伝えた。
「何か、あったんでしょうか」
「さあ……しばらく部外者は一切入れるなと命令されていまして」
音耶は結局いい方法も言い訳も思いつかず、かと言って毎日予定の詰まった地獄から逃げ出すこともできずに、篭城という分かりやすい手段に出た。
珠烙はその理由がすぐに分かった。肩を落とし、目を伏せて俯く。
そして次の瞬間、小さな唇を歪めたかと思うと、小さく舌打ちをする。
「……たった一日かよ」
「?」
「ほんっと、つまんねえ男だな、あいつは」
珠烙は突如低い声でそう呟き、今まで内股で控えめだった立ち姿を一転させた。足を広げて踵をしっかりと地につけ、胸を張って門番に人差し指を突き出す。
「おい鬼。今度会ったら、その根性叩き直してやるって、大王様に伝えておけ」
本性を現した珠烙は、乙女とは程遠いものだった。大きな虹彩は一本の線にまで細り、眉間に深い皺が寄り、口の両端からは鋭い牙が漫ろ延びている。その形相は、まさに「修羅」の象徴。
豹変した彼女に、彼に戸惑う門番に背を向け、珠烙は大股でその場を後にした。
伝言を聞いた音耶が縮み上がったのは言うまでもなく、しかし誰にも相談できずに、ほとぼりが冷めるまではまともに仕事ができずにいた。
このままでは地獄が機能しないと感じた彼の父親が見兼ねて、樹燐に「あまり息子をいじめないでやって欲しい」とやんわりと伝えた。ここまで深刻になるとは思っていなかった樹燐でもさすがに気が引け、しばらくは地獄に出入りすることを控えることになった。
毎日を怯えて過ごしていた音耶を、父親や鬼たち、なんとなく責任を感じた鎖真も加わって、時間と手間をかけて立ち直らせていった。
今回のことで音耶が何を思い、学ぶのかは、彼自身が選んで出す答えだった。
-了-
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