NightmareLovers
3





 森の中には虫も動物もいなかった。重苦しいほど静かで、ティシラは息さえ潜めてしまう。クロシスは慣れた様子で草木の間を歩いていく。
「ねえ、ここはどこなの?」
 ティシラはそんな彼の背中に声をかける。クロシスは肩越しに振り向き、笑顔のままで。
「ここは鏡の中の世界だよ」
 そのままの答えに、驚くことは何もなかった。むしろあまりの捻りのなさに、それ以上は突っ込めない勢いがあった。
「ど、どうしてあなたはここにいるの?」
「分からない。いつの間にかここにいたんだ。ずっと一人ぼっちだった。あの倉庫の中でずっと誰かが僕を見つけてくれるのを待っていたんだ」
「ずっとって、どのくらい?」
「さあ。凄く長い時間だと思う」
「……寂しかったんだ」
「ううん」クロシスはあっさりと返事する。「寂しくはなかった。ただ、とにかく誰かと遊びたかった」
 掴みどころがない、ティシラはそう思って言葉を失った。そもそも、彼は一体何者なのだろう。人の姿をしているが、魔族とは違う気がした。
 ティシラは魔族以外の人種と会ったことがない。天使や人間という異世界の存在は知っているが、それがどんなものなのか、興味はあったが実際に見たこともなく、見る手段も持っていなかった。もしかするとクロシスは天使か人間なのかもしれないと思った。
「ねえ、クロシス。あなたはもしかして天使? それとも人間?」
「どっちでもないよ」
「じゃあ、魔族なの?」
「ううん」
 やはり会話は続かない。ティシラは気まずくなってしまう。だが、そんな不安を掻き消すように、風が流れた。うっそうとした木々がなくなり、目の前には広い湖が広がった。やはり静かだったが、その幻想的な雰囲気にティシラは目を奪われた。
 クロシスはティシラの手を離し、彼女に向き合う。
「ここは僕の庭」次に湖を指差し。「そして、あれは魔法の湖なんだよ」
「……魔法」
 ティシラの好きな言葉だった。幼い頃からアリエラに聞かされてきた人間界の話の中で、彼女が一番興味を示すものだった。
 魔法とは人間特有の能力であり、それを扱う者を魔法使いと呼ぶ。アリエラの語る物語の中には逸話もあれば寓話もあった。ティシラはそのどれも夢があって大好きだった。魔法という力は、弱い人間の希望の光だったからだ。
「魔法って、どんな魔法?」
 ティシラは目を輝かせてクロシスに顔を寄せた。クロシスも歯を見せて笑い、胸の前で両手を組み、それをぱっと開いた。彼の動きに釣られてその手のひらに目線を落とすと、クロシスの手の中には色とりどりの花が開いていた。
 ティシラは大きな瞳をさらに見開いて心躍らせた。すると花は散り、花びらは光になって上空に舞い上がった。光は瞬きながら、まるで音楽に合わせるようにクルクルと回りながら柔らかい粉を散らす。光の粉はティシラの頭上に舞い散ってくる。ティシラは嬉しそうにそれを指で追うが、光の粉はからかうように逃げていく。ティシラは声を上げて笑った。
「凄い。これが魔法ね。とっても綺麗」
 クロシスは黙って微笑んでいた。そんな彼がぼんやりと白い光に包まれる。ティシラはそれに気づき、クロシスに注目した。クロシスはふと瞼を落とし、少し背を丸める。彼を包む光が強くなった。
 ティシラは言葉を失った。クロシスを縁取る光は膨張し、彼の背中で白い大きな双翼を象っていく。次第に光は本物の羽になり、しなやかに、ゆっくりと羽ばたいた。それは優しい風を起こし、ティシラとクロシスの髪や衣服を揺らす。クロシスは薄く目を開けた。翼はもう一度、今度は強く羽ばたき、小さなクロシスの体を持ち上げる。クロシスは微笑みを取り戻し、思うがままに宙を舞った。ティシラは顔を上げて彼を目で追う。美しい。白い羽に包まれた少年の姿は、この不思議で深い森によく似合っていた。
 数回ティシラの頭上を旋回したクロシスは、驚きで目を丸くしているティシラの前に静かに降りてきた。クロシスが背を逸らすと、羽は弾けるように消え去る。クロシスがにこりと目を細めると、ティシラははっと我に返った。二人はしばらく見つめあったまま沈黙した。ゆっくり、ティシラの頬が上がる。そして、我慢できなくなったように高い声を上げた。
「凄い!」ティシラは涙が出そうなほど感激していた。「今のが魔法? 素敵。やっぱり、いいえ、思ってた以上に素敵だわ」
 返事の代わりに微笑んでいるクロシスに、ティシラは近寄った。
「ねえ、やっぱりあなたは天使なんでしょ。ううん、魔法を使えるってことは、魔法使いなのね」
 ティシラは興奮して、思いつくことから発言していた。
「ってことは、あなたは人間なの? 何でもいい。ねえ、もっと見せて。お願い」
 そんな彼女に反し、クロシスは表情を変えなかった。ティシラは一人ではしゃいでしまったことに少し恥ずかしくなり、あははと誤魔化しながら目を逸らした。
「いいよ」
 やっと返事をしたクロシスに目を向けると、彼は顔を背け、湖を見つめていた。
「もっと面白い魔法を見せてあげる。僕はそのつもりで君をここへ呼んだんだから」
 もっと面白いもの。ティシラは興味があったが、今度は感情を抑える。じっと湖を見つめるクロシスは目線の先に指を差した。
「あの湖は、水面に移した人の未来が見えるんだ」
 ティシラも彼の指差すほうに顔を向けた。
「未来?」
「そう。厳密に言うと、その人の『運命の人』の姿が映し出されるんだ」
「運命の人?」
「人にはみんな運命の相手が、この世にたった一人だけいるんだ」クロシスは湖を見つめながら。「だけど、その人に出会えるとは限らない。そうじゃない人と結ばれてしまい、不幸な人生を歩む人もいる。そしてそれはそう珍しいことでもないんだ」
「……そうなの」ティシラは悲しい表情になった。「それって、凄く寂しいね」
「うん。だから、僕はここに来た友達に運命の人を教えてあげるんだ。そうすれば、その人は迷わずに運命の人を探すことができるだろう?」
「そんなことが本当にできるの?」
「できるよ。今までも、ここにきた友達に見せてきたんだ」
「その人は、喜んでいた?」
「当たり前じゃないか。だって、運命の人っていうのはその人の半身みたいなものなんだよ。その相手を先に知ることができたら、絶対に間違わないでいられるんだもの。絶対に幸せになれるんだよ」
「……そうなんだ」
 いまいち食いつきの悪いティシラに、今度はクロシスが表情を陰らせた。
「あんまり、楽しくない?」
 ティシラは目を丸くする。そんなつもりはなかった、と慌てて大きな声を出した。
「えっ、そんなんじゃないよ。違うの。ただ、信じられなくて驚いているだけよ」
「僕を信じてくれないの?」
「ち、ちが」ティシラは更に動揺する。「そうじゃなくて、あの……」
「ティシラは見てみたくない?」
「え?」
「運命の人」
「────!」
「いつか、君と結ばれる相手。見たくない?」
 見たい。ティシラの脳裏に、その一言が躊躇わずに横切った。だけど、と、まだ迷いがあった。未来を知るなんて、そんなことが本当にできるのだろうか。クロシスは、まるでティシラの心の中を読み取ったように微笑む。
「それが、魔法だよ」
 ティシラには、魔法という言葉自体が魔法だった。クロシスの存在そのものが不可思議である。そしてこの鏡の中の世界。そして、運命の人を知ることができる魔法──すべてに興味があった。知りたい。ティシラはクロシスの深い瞳に引き込まれていく。
 クロシスは導くようにティシラの手を引いた。ゆっくりと湖に向かって歩いていく。二人は湖畔まで来て、そこで膝を折る。ティシラは水面を見つめた。そこには自分の顔と、周囲の緑しか映っていない。クロシスに顔を向ける。彼はティシラに優しく微笑んだ。
「見てて」
 クロシスは水面に片手を翳した。すると、風もないのに森が微かに騒ぎ始め、湖の中央には幾層もの円が湧き出してくる。ティシラの胸が高鳴った。
 自分の運命の人、いつか結ばれる相手……どんな姿なんだろう。素敵な人だろうか。その人は、今どこにいるのだろう。
 ティシラは短い間にいろんなことを考えた。次第に、怖くなってきた。理由は分からなかった。
 もし、と思う。恐ろしい人だったら? 全然好みじゃない人だったら? いや、人でさえないかもしれない。そうだとしても、ティシラはその人と結ばれなければいけないのだ。そんなの、イヤだ。やっぱり……怖い。
 待って、とクロシスを止めようと顔を上げた、その瞬間。
 片手を上げて水面を揺らしていたクロシスの体に、無数の棘が突き刺さった。
「!」
 クロシスは黒い血を流しながら倒れる。ティシラは悲鳴を上げて彼から離れた。
「ティシラ」
 混乱して涙を浮かべるティシラは、聞き慣れた声に呼ばれた。振り向くと、アリエラが厳しい表情でクロシスを睨んでいた。
「ママ!」
「ティシラ、そいつから離れなさい」
 クロシスを貫いた棘の根は、アリエラの体に繋がっていた。彼女の髪の毛の間や背中からいくつも伸び、捻れ、絡み合いながら容赦なくクロシスの体中を傷つけていく。クロシスは無数の棘に無残に串刺しにされ、黒い液体塗れになりながら奇声をあげてもがいている。ティシラは恐怖で震えた。
「ママ、どうしたの? なんでこんなことするの」
「未来なんて、見てはダメ。そいつは、クロシスは性質の悪い時神(ときがみ)。悪戯に人に未来を見せて、そこに呪縛する悪神よ」
「えっ、神? 神様なの?」
 ティシラは這うようにしてアリエラに駆け寄る。
「やめて。もし、彼が神様なら、そんなことしたらママが危ないじゃない」
「構うものですか」アリエラは攻撃の手を止めない。「私の娘を、ティシラを傷つける者は誰であろうと許さない」
「……ママ」
 クロシスは悲鳴を上げながら湖の中に飛び込んだ。同時に、水面から水柱が上がった。気がつくと周囲にあった木々は消え、透き通っていたはずの緑が黒と混ざり、おぞましい斑の空気に変わっている。その空間に、何かが蠢いていた。目を凝らすと、腐りかけた魔族や人間たちが生きたまま転がっている。ティシラはその恐ろしい光景に泣き出しそうになる。
「これが未来を知ってしまった者の哀れな姿よ。例え見たものが明るい未来だったとしても、生きる意味と希望を失い、そこから動けずに永遠に捕らわれてしまうの」
「で、でも、未来が明るければ、頑張ろうって思えるんじゃないの?」
「いいえ。すべてを知った者は生気を失くしてしまうの。それに、クロシスはただ答えを教えるだけでなく、その人にこれからある出来事のすべてを見せてしまうの。そこに素晴らしい未来があれば、その人は夢に酔いしれ、この世界から出たくなくなってしまう。逆に悲しい末路を辿る者は、絶望し、ここから動けなくなってしまうの。そして永遠にこの中で悪夢を見続ける。体が腐っていることも気づかないまま。先のことなんか分からないからこそ生きる楽しみがあるのよ。辛いことを乗り越えた先にこそ幸せがあるの。だから、見てはダメ」
 アリエラは棘を引っ込め、ティシラを抱き上げる。水柱の頂に、黒く染まったクロシスが牙をむき出して不気味に笑っていた。
「魔族如きが」その声は低いようで高く、耳に不快だった。「私に逆らうとは」
 アリエラは気丈にクロシスを見据えるが、内心では怯えていた。彼が「消す」と決めたら逃れられないだろう。それでも、ティシラだけは守ると心に誓い、娘を強く抱きしめた。
 クロシスは攻撃しようとするでもなく、心を見透かすように二人を見下ろしていた。アリエラは恐怖を表情に出さないように気を強く持ったが、流れ出す汗までは隠すことができなかった。
 いつ殺されてもおかしくない状況だった。いや、殺すという常識のレベルではない。クロシスは時間を司る、大いなる創世神の一人である。命を奪うのではなく、きっと存在も記憶もすべてを、最初から何もなかったかのように消し去ることも容易いに違いない。彼らにとっては命を支える魔力の有無も、その強弱も関係ないのだ。気分ひとつで世界を作り変えることさえ叶う、そんな次元の違う存在なのである。アリエラとティシラを初めとするこの世の生命のすべては、彼らが創り出す自然の法則の中にある、気に留めなければ見逃してしまうほどわずかなもののひとつに過ぎない。
 アリエラは早まる鼓動を抑えることができなかった。消すも逃すも、彼らにとってはほんの些細なこと。つまり、これ以上は干渉してこない可能性も十分にある。アリエラは、抵抗することのできない彼の決断を、黙って待った。
 クロシスは何かを気取ったかのように深く肩を揺らし、口の端を耳の近くまで持ち上げた。
「面白い」
 クロシスはそれだけ言うと高らかに笑い声を上げた。
「まだこの世界には面白いことがあるようだ」彼を支える水柱が捩れ始める。「じっと寝ていては時間が勿体ない。もっと、面白いことを……」
 クロシスは意味不明な言葉を綴りながら上空高く昇っていく。それを中心に嵐が起き、水面は暴れ、腐った者たちは巻き込まれて千切れた肉が辺りに飛び散る。
 どうやらクロシスはアリエラに報復を与えるつもりはないようだ。分かっていたことだが、アリエラの攻撃など、時神には戯れ程度の痛みしか与えることはできなかったのだ。
 アリエラはティシラを抱えて走り出した。漂う腐臭に眉を寄せながら、ティシラはふっと湖を振り返った。
 嵐の中、揺れる水面にぼんやりと人影が映っていた。まさか、と体を乗り出すと、アリエラは彼女の頭を抱えて抑え込んだ。
「ティシラ、ダメだって言ったでしょう」
「ママ、もしかして、あそこに私の運命の人が映っているの?」
「さあ」
「見ないから、それだけ教えて」
「ダメ」



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