SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-13





 ほんの一、二分のことだと思う。だがティシラとマルシオには異常に長く感じていた。理由はそれぞれあった。
 マルシオは、自分から言い出した提案に対し、ティシラにその場限りの軽い返事をして欲しいと祈っていた。イチかバチかではあったが、能天気な彼女のことだ。もしかすると「面白い」とか「そのくらい別に構わない」とあっさり乗ってくれるかもしれないと思ったのだ。しかし当のティシラは俯き、眉を寄せて何やら考え込んでいる。マルシオの緊張感は次第に増し、心拍数が上がってきていた。気がつくと、説明できない不安と恐怖が彼の中で膨らみ始めていた。
 ティシラはそんなマルシオの心情も知らず、腕を組み直したりして何やら思案している。マルシオが考え込んでいる間、ティシラは彼の出す答えを待っていたのだ。彼女としては、「マルシオの嫌なところ」つまり「婚約者がマルシオを呆れて見放す理由」を探しているつもりだった。その末に出た言葉が「俺の恋人の振りをしてくれ」──ティシラは首を捻った。どうしてそれとこれとが繋がるのか理解できないでいたのだ。
 相手の優劣がどうであれ、自分を恋人に持つことはこれ以上にない光栄なことのはずである。ティシラは自分でそうとしか考えられない。なのに、どうしてここでマルシオがそんな頼みごとをしてくるのだろう。
 婚約者を追い返す以外にも何か悩みがあるのだろうか。だが、今はそんな話はしていない。ならば、と冷静に頭の中を整理することにした。
 先ほどの考えを再度確認する。マルシオは現在、押しかけてきた婚約者を、無理やりでも理由をつけて天界に帰そうとしたがっている。彼の悩みを聞き、ティシラは協力できることがあるのならばしてあげようと珍しく厚意を見せた。それに対するマルシオの言葉が「恋人の振りをしてくれ」?
 ティシラは更に考えた。彼の突然のような発言が、もし自然なものだとしたら。自分がマルシオの恋人の振りをすることが、彼の婚約者を絶望させる。そういうこと、だとしたら。
 ティシラの背中に電気が走った。これ以上はもう考える必要はない。というか、本人に理由を聞いたほうが早いということに気づく。
「ちょっと、それはどういう意味よ」
 ティシラはマルシオの胸倉をつかみ上げ、目を吊り上げた。
「私が恋人になることが天使にとって最悪だってこと? 恥ずかしいってこと? 失礼にも程があるわ。私を誰だと思っているのよ」
「ちょ、ちょっと落ち着いてくれ」
「あんたみたいな軟弱小僧、こっちから願い下げだってのに、何よ、その言い草は。魔界では高等魔族が列を成して私に求婚してくるのよ。あんたにその価値が分からないの?」
 分かるわけがないし、分かるつもりもない。願い下げなのはお互い様だと思いながらも必死でティシラを宥めようとする。
「は、話を聞いてくれよ。お前が悪いと言ってるわけじゃないんだ。ほら、種族の違いだよ。それを利用したいだけなんだ」
「種族の違い?」
 表情を歪ませながら、ティシラは彼の声に耳を傾けた。
「そうだよ。天使にとって魔族は邪悪な存在だ。それは魔族が天使のあり方を理解できないのと同じことだろう。二つの種族が決して共存することはない。そもそも存在する次元が違う……だから、今までにいろいろあって、天使の俺が魔族のお前と禁断の恋にでも落ちたなんていえば、きっとフーシャは衝撃を受けて、俺に愛想を尽かすと思うんだよ。お前は不快かもしれないけど、背徳だの汚らわしいだのって言って」
 ティシラの目じりがピクリと揺れる。
「汚らわしい?」
「ち、違うって。お前がじゃなくて、異種族の恋愛をだよ。天使は特有の習慣を今まで大事に守り続けてきた。今まで一切外界のものを持ち込んだことがないほどに閉鎖された空間だ。天使の血に異種のものが混合されることは許されず、純血を守ることを義務だとさえ感じている。それが今まで長い間、ずっと受け継がれてきているんだ。そう簡単に崩せるものじゃない。だから俺たちが、愛し合っているから離れたくないって言う嘘の主張をすれば、彼女も天界も俺の事は諦めると思うんだ」
 マルシオは、自分の必死の説得に少し押されているティシラの腕を素早く振りほどき、怯んだ彼女の肩を掴んだ。
「だから、お前にも不愉快な思いをさせてしまうかもしれないが、頼む」
 真剣な眼差しを向けるマルシオに引きながらも、ティシラは彼の案を真面目に受け取ることにした。だが、まだ素直に乗る気にはなれなかった。
「なによ。そんなんだったら人間の女でもいいじゃない。人間だって異種でしょ」
 確かに、とマルシオは思いながら彼女の肩から手を離した。
「そうだけど、人間じゃちょっとインパクトが弱いんだ。もっと最悪で、恥ずかしい相手のほうが……」
「は? 何て言った?」
 マルシオはまた口が滑ったと、慌てて言い直した。
「違う。お前個人がどうってことじゃなくて、天使の持つ魔族に対するイメージは邪悪なものが多い。人間は、一応昔天使と共存していたのもあって、神や天使を敬う心を大事にしていることを知っている。だから天使は今も人間を敵視しているわけじゃない」
「別に魔族と天使だって対立してるわけじゃないじゃない」ティシラはマルシオに人差し指を突きつける。「魔族は魔族、天使は天使で交わることなく世界を保持してる。私たち魔族は人間を餌として見ることはあるけど、天使がそのことに口出ししたなんて話は聞いたことないわよ。天使が邪悪と見做すものは大体が人間の背徳でしょ。どちらかというと天使にとって人間の方がよっぽど低い位置にいるんじゃないの?」
 ティシラの言う事は、仲間を擁護しているようでもっともな意見だった。能天気な彼女がそれぞれの種族の根底を理解していることに、マルシオは驚きを隠せなかった。
 それでも、今はティシラの見識は違うところにある。マルシオは、フーシャに絶望させるためにはティシラの種族や身分含め、目を覆いたくなるようなデタラメさのすべてが必要だと思っていたのだ。それを言うとティシラは怒って話を聞いてくれなくなる。なんとか彼女を納得させなければいけなかった。
「そ、そんなことはない。いや、そうなんだけど、天使を崇める人間が相手だとフーシャは怯まないに決まっている。お前じゃなくちゃいけないんだ。分かってくれよ」
「なんでそんなに私に拘るのよ」
「だって、人間以外の女はお前しかいないだろ」
「あんたなんかと恋仲になってるなんて、そんな恥ずかしい思いする私の精神的苦痛はどうしてくれるのよ」
 それこそこっちの台詞だとマルシオは言い返したかったが、今は我慢する。ティシラに協力してもらえれば、きっとフーシャは諦めて天界に帰るはずだし、そうなってしまえばもう下手に出る必要はなくなる。それまでの辛抱だと、ただでさえ似合わない笑顔を引きつらせた。
「それは、その、何度も言ってるけど、魔族であるお前じゃないと意味がないし、下手な言い訳をしたら余計に刺激することになるかもしれないんだ。それに、俺は気心の知れてるお前が適役だとしか思えないんだよ。フーシャの前で演技をしなければいけないわけだし、そのときにお互いに相手のことを知っていないと不自然だろ? フーシャを騙すには失敗は許されない。もし俺が小細工したことがばれたら、もう絶対に逃げられなくなってしまうんだ」
 マルシオの必死さに、ティシラは嫌な顔をしつつも目を泳がせて迷っていた。もう少しで頷く。マルシオはそう感じた。
「あんたの言い分は分かったわよ。でも、それじゃさっきの質問の答えになってないわ」
「さっきの質問?」
「私の、精神的苦痛」
 うっ、とマルシオは言葉を詰まらせた。それは自分だって同じなのだからお相子だろうと言いたいが、それを言えば間違いなく決裂する。悔しいが、今は自分の立場はティシラより下にある。大体、友としてガタガタ言わず協力してくれればいいのにと、心の中でぼやきながら拳を握った。
「それは、お願いだから、我慢してくれないか。俺たちを知っている人たちは嘘だって分かっているし、フーシャだけを思い込ませればいいんだ。その彼女さえ信じさせればすぐにいなくなるはずだし。た、頼むから、な」
 ティシラは、弱気になるマルシオに冷たい目線を送った。言いたいことは受け入れてくれているようだが、後一押しといったところだろうか。これ以上どうすればいいんだと思っていると、ティシラは突然口の端を上げた。
「分かったわ」
 その言葉を待っていた、が、嫌な予感がする。
「でも、人にものを頼むにはそれなりの態度があるんじゃないかしら?」
 ――きた。
 マルシオの顔色が変わる。この女、調子に乗ってきやがったと拳を震わせた。
 ティシラは腰に手を当てて目を細める。
「私は協力してやってもいいのよ。でも、別にあんたが天界に連れて帰られても構わないわ」
 マルシオの眉尻が揺れた。
「少しは寂しいかもしれないけど……それも仕方ないことだろうし。あんたは元々天使。天界に帰らなきゃいけないことになっても、誰も止められないものね」
 押し黙るマルシオが面白く、ティシラは更に彼を煽る。
「ああ、残念」わざとらしく声を高くし。「できることなら帰って欲しくないわ。あんただって帰りたくないんでしょ? 何か私に協力できることある? ぜひ聞かせて欲しいわ」
 ティシラは俯くマルシオの顔を覗き込む。そこには悔しそうに唇を噛む表情があった。可哀想だとは、一切思わない。ティシラは笑いを堪えながら背を伸ばす。マルシオは震える目をちらりと彼女を向けたかと思うと、すぐに落とした。
 くそ。最初は自分から乗ってきたくせに、どうしてこんなことに。マルシオは強く目を閉じた。考える時間はあまりない。それに、考える必要もなかった。今はティシラに協力を請うしかないのだ。今までの流れからして断られることはないと思うが、そのためには厄介な壁を乗り越えなければいけないようだ。くそ、と繰り返す。しばらくの間演技をしてくれればいいだけで、そう難しいことではないはず。いちいち手のかかる女だと、マルシオは腹を括る。
 今だけだと自分に言い聞かせ、感情を押し殺す。
「……お、お願いします」
 マルシオの苦しそうな呟きに気づき、ティシラは再び顔を寄せた。
「なあに? 聞こえない」
 終わったら、絶対に仕返ししてやると心に決め。
「お願いします……協力してください」
「お願いします? 協力してください? 何を?」
 ティシラは目線をあげながら白々しく聞き返す。マルシオの苦痛は限界に達したが、後一言、思い切ってしまえば楽になると歯を食いしばった。
「お願いします。婚約者を諦めさせるために、俺の恋人の振りをしてください!」
 勢いまかせに吐き出し、マルシオは深く頭を下げた。ティシラはすっかり気分がよくなり、楽しそうに笑い声を上げた。
「よくできました」軽々しく彼の肩を叩きながら。「分かった。そこまで言うなら協力してあげるわ。まったく可哀想な奴よね、あんたって」
 誰のせいで可哀想な目に合っているんだと不満を募らせながらマルシオは顔を上げた。恥ずかしさと屈辱で顔が少し赤くなっている。
 ティシラは元々、そのくらいなら協力することに抵抗はなかった。ただ、自分を邪悪で汚らわしいものとして扱われることに不満があっただけのこと。それも、マルシオに恥をかかせることで払拭された。それさえなくなれば、後は面白そうだという期待感が湧いてきていた。マルシオの婚約者がどんな人物かは分からないが、少なくとも自分を敵として見做すことは間違いないだろう。ティシラは自分に自信があった。誰からも美しいと言われる天使を、自分の魅力で叩きのめして天界に追い返してやれるのだ。成功すればなかなかの快感を得られるに違いない。ティシラはすっかり浮かれていた。
 そのとき、ふとマルシオは何かを感じた。今の光景、どこかで見たことがあるような――。
 そうだ。確か、アカデミー卒業後にティシラと再会し……。
 マルシオは目を見開いた。自分がクライセンの屋敷の場所を教えてやるから、ティシラに頭を下げろと言って、まさに今ここで起きたことが、逆の立場で展開されたことがあったのだ。そのことが、ひどく懐かしく感じた。ティシラは覚えているのだろうか。いや、覚えているはずがない。
(……だけど)マルシオは息を飲む。(ティシラは戦争後、数十年も眠り、目を覚ましてから人間界や天界のことはあまり教えてもらえなかったと言っていた。だったら、どうしてそんなに三界の人種の違いや関係性に詳しいのだろう。自分で勉強でもしたのか。だけど、そんな話は聞いてないし、人間界に来てからそんなに時間は経ってない上に、その間にティシラが学ぶ状況はなかったはず……)
 可能性があるとしたら、ティシラに昔の記憶があることだった。昔の彼女なら魔法や魔法使いに興味を持っていたし、アカデミーとその卒業後にも勉強をしてたくさんの知識を持っていた。それが今もティシラの中にあるのならば納得がいく。
 だが、それは失われたはずだった。
 なのに、なぜ。もしかして記憶があるのだろうか。何か理由があって隠しているのだろうか。いや、彼女が記憶をなくした振りをしているようには到底思えない。
 一体、ティシラの中では何が起きているのだろう。
 マルシオは目下の問題のことを一瞬忘れそうになった。そのとき、何も知らずにティシラが笑顔を向けてきた。
「そうと決まれば」マルシオの腕を掴み。「行きましょう」
「!」
 マルシオは馴れ馴れしくくっついてくるティシラの態度に慌てて体を引いた。
「な、なんだよ」
「なんだよじゃないわよ。私たちは恋人なのよ。仲睦まじくしたほうが効果的でしょ」
「だかたらってベタベタすればいいってもんじゃないだろ。余計にわざとらしいじゃないか。それに、誰もいないところでまで演技する必要はない」
 引き気味のマルシオに、ティシラは口を尖らせる。
「なによ、その態度は。敵を欺くには入念な計画を立てないと」
「今更どうするって言うんだよ。決まったのはついさっきじゃないか。いいから、お前は俺の言うことに頷いてくれればそれでいい。ちゃんと礼はするから、頼むから言うことを聞いてくれよ。そうしてくれないとせっかくの努力が無駄になる」
「ふうん。そっか、分かった」
 と言いつつ、ティシラはマルシオに腕を絡めてくる。マルシオの背中に寒気が走った。
「お礼か。何をしてもらおうかなあ」
 ティシラの不適な笑いを聞き、マルシオは余計なことを言ってしまったと後悔した。怖気づく彼に構わず、ティシラは城に向かって足を進めた。マルシオは引きずられるように一歩遅れてついていった。


   

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