SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-14





 マルシオは城の中に戻り、すれ違う警備兵にトールたちがどこにいるのかを尋ねながら彼らのもとへ足を運んだ。ティシラは大人しく後を着いてきているが、マルシオは内心で怯え続けていた。今から対峙することは話して解決する問題ではない。となると、多少の争いは避けられないだろう。
 そのことはティシラには伝えていない。だからこそ怯えていたのだ。マルシオの頼みの綱が、ティシラの「デタラメさ」にあったからである。大きな賭けだった。おかしな方向に進み、失敗すれば今以上に自分の立場が悪くなる。
(……ティシラはバカだが、根っからの悪人じゃない。それだけが救いだ)
 時々、機嫌を伺うために彼女を振り向くが、ティシラはマルシオの心理など理解できるはずもなく、何も知らずにとぼけた顔をしていた。
 トールたちと「彼女」のいる室の前で立ち止まる。扉の横にいた警備兵はマルシオの顔を知っており、静かに会釈をした。マルシオはそれを返しながら小声で中の様子を尋ねる。
「只今、許可のある者以外は立ち入り禁止となっており、中は強力で特殊な結界が張られています」
 そう言われると、確かに木製の扉が鉄のように重く感じられた。その結界が、フーシャ魔力を閉じ込めるものだということがマルシオには分かる。中ではどんな会話が行われたのだろう。今、みんなは一体何を考えているのだろう。フーシャの言うことに唆されていないか不安を抱きながら、勇気を出して扉をノックした。


 中から返事が聞こえた。トールの声だ。
 その隣で警備兵が「マルシオ様とご友人です」と知らせたが、マルシオは慌てて兵に向けてシッと息を漏らした。今ティシラは「友人」ではない。兵にその意味は分からなかったが、釣られて口に手を当てた。そうしているうちに、扉があいた。マルシオは息を飲む。
 中から顔を出したのはサイネラだった。神妙な顔をしている。
「お待ちしておりました」
 マルシオは答えずに、隙間から中を覗く。運悪く、こちらを見つめていたフーシャと目が合ってしまった。急いで逸らすが、彼女は違った。マルシオの姿を捉えた途端に目に涙を溜めて走り出した。
「マルシオ様!」
 しまった、今彼女に外に出られてはまずいと、マルシオは急いで室内に入り、不本意ながら飛び込んできたフーシャを抱きとめる形になってしまった。突然の光景に一同は目を丸くする。マルシオは周囲に「違う」と伝えたく、何度も小さく頭を横に振った。
 マルシオの胸に顔を埋め、フーシャは幸せそうに呟く。
「やっと、私の気持ちを分かってくださったのですね」
 違う、という言葉がマルシオは出てこなかった。恐怖で強張る彼の姿を、ティシラは黙って見つめた。ゆっくりと室内に入り、少し辺りを見回しながら戸を閉め、再び抱き合う二人に目を移した。
「マルシオ様、一緒に天界へ帰りましょう」フーシャは涙目で微笑んだ。「そして、私と幸せな家庭を……」
「いや、あの」マルシオは必死で声を絞り出す。「その、だから、話を……」
「ええ、二人でたくさん話をしましょう。あなたがいなくなって、少し天界は変わりました。そして、もうすぐマルシオ様も聖寿(千才)をお迎えなさるのです。それと同時に、皆に祝福されながら夫婦になりましょう」
「いや、それはその、俺はまだ……」
「ミロド様は今でもあなたをお待ちでいらっしゃいます。何も心配することはございません。もし誰かが反対したとしても、大丈夫です。私があなたをお守りいたします」
 駄目だ。このままでは話にならない。マルシオは震えながら、次第に体の力が抜け始めていた。ちらりと肩越しに振り向いてティシラに救いを求める。彼女は離れたところで棒立ちし、じろじろと二人の様子を眺めていた。マルシオはそんなティシラの他人事のような態度に怒りを抱いた。早く、なんとかしろ、と目で強く訴えた。
 ティシラはそれを受け取りながらも平然としていた。彼女はフーシャを観察していたのだ。フーシャの容姿は、確かに美しかった。だがティシラがそれを素直に認めることはない。自分のほうがよっぽど可愛い、こんな女に一切引けは取らないと、当然のように迷いもなく決定した。
 マルシオにはティシラの考えが読めていた。そんなことはどうでもいから、早く参戦してこいと苛立ちを顔に出す。ティシラはそれを分かっていながらまだ様子見に徹していた。かと思うと、突然不適な笑みを浮かべる。それに気づいた一同はえもいわれぬ寒気を感じた。
「ちょっと」
 ティシラは大股で抱き合う二人に近づきながら大声を上げた。マルシオとフーシャは顔を上げる。
「あんた、一体なんのつもりよ」
 ティシラはフーシャの肩を乱暴に押し、睨み付ける。
「な、なんですか、あなたは。なんて不躾な」
「こっちの台詞よ。よくも恋人の前で人の男に抱きついたりできるものね。この恥知らず」
「……え? 一体、何をおっしゃっているのですか……」
「だから、私はマルシオの恋人なの! それ以上近づいたら許さないわよ」
 フーシャはしばらく固まり、何度も瞬きを繰り返した。怒り狂うかと思うと、次第にティシラを見下した表情に変わっていく。ティシラは彼女のその目つきに眉を寄せた。フーシャは肩の力を抜き、体勢を整えた。
「あなた、魔族ですわね」
 ティシラはその言葉を聞いて、背中に寒気が走るほどの嫌悪を感じた。だが負けじと、腰に手をあてて胸を張る。
「だから?」
「なんて汚らわしい」フーシャは顔を傾け、憎悪の目つきを向ける。「同じ空間にいるだけでも烏滸がましい。なのに、マルシオ様の恋人ですって?」
 途端に、二人の間に激しい火花が散った。マルシオにとってはここまでは予想できていた。重要なのはここからである。それでも、緊張する心臓を止めることはできなかった。いずれ矛先は自分に向けられることは逃れられないことだったからだ。取り乱さないように、早まる鼓動を必死で抑えた。
 いきなりの展開に、トールやライザたちは言葉を失っていた。関われば火傷をする。それだけがそこにいるすべての者の防衛本能に共通して宿った警告だった。それ以上も以下も冷静に考えらず、今は見守ることにする。何にせよ、ティシラとフーシャから放たれる凄まじい迫力に、理由のない沈黙を余儀なくされてしまっていた。
 フーシャには、ティシラが戯言を言っているとしか思えなかった。そうだとしても彼女の発言を聞き流すことはできない。
「酔狂にも程がございます」ティシラを毅然と見据える。「あなたの言葉はマルシオ様だけでなく、私も当然、そして天界と天使のすべてを愚弄するものです。今すぐ取り消しなさい」
 ティシラも黙っているつもりはなかった。そもそもフーシャとの対立は掻き乱すために起こしたことである。何よりも、フーシャはティシラにとってかなり気に入らない類の人種だった。遠慮する必要はどこにもない。
「勘違いしてるのはあんたでしょ」フン、と鼻を鳴らす。「あんたのことは少しだけ聞いたわ」
「聞いた? 何を」
「親が勝手に決めた婚約者なんですってね」
「勝手ですって!」
 かっとなり、拳を握るフーシャは大声を出した。だがティシラがその続きを素早く遮る。
「残念ながら」身を少し屈め。「ここは人間の世界。ここでは愛し合う者同士が結ばれる世界なの。そんな親だの地位だので決め付けられた婚約なんかは成立しないのよ。あんたはマルシオとほんの数回会っただけの女。でも私は、マルシオと長い間連れ添い、自然に惹かれ合ってお互いの同意の元に将来を誓い合った仲なの。私とあんたの違いが分かるかしら?」
「な、な……なんですって」
 あまりにも衝撃的なティシラの言葉に、フーシャの額に汗が流れた。マルシオは二人の傍で顔を真っ青にしていた。それでいい、はずなのだが、ティシラの思いつきに胸焼けを起こしていた。嘘とはいえ、聞いているだけで耳が痛くなる。
「な、なんと恐ろしいことを……」
 今まで平静を保っていたフーシャは足元をふらつかせた。ティシラは更に追い討ちをかけてくる。
「マルシオと一番親しくて、正式に婚約を交わしているのは他の誰でもない、私なのよ。ほら、これを見て」
 ティシラは自慢げに左手の甲を彼女の目の前に差し出した。
「この指輪はマルシオにもらったものよ」
 フーシャは目を見開き、両手で口を塞いだ。黙っていた周囲も、あれだけ嫌がっていた指輪をティシラから堂々と見せ付けるその行動に驚きを隠せない。そして、マルシオもビクリと肩を揺らした。
「う、嘘です!」
 フーシャには指輪はなかった。ティシラの言うことが本当なら堪えられない屈辱である。突きつけられた指輪を、疑いの瞳でじっと見つめた。
 その彼女の目つきに、マルシオが唇を噛んだ。フーシャが指輪の正体を探ったら嘘であることがバレるかもしれない。指輪を利用するのは構わないが、そうじっくり見せるのはまずい。慌てて口を出そうとした瞬間、フーシャは意外な反応を示した。
 フーシャの流れ出す汗が増えた。
「なんということ……」フーシャの声は悔しさで震えていた。「その指輪からは神聖な魔力が感じられ、素材の一部に、今は人間界にないノートンディルの銀が混入しています……」
 そこにいた一同が耳を疑った。フーシャは辛そうに顔を落とす。
「どうやら、本当のようですね」
 ティシラは、ただ思いつくままに行動しただけだったのだが、こうもうまくいくとは思っておらず、逆に面食らっていた。迷惑でしかなかった指輪がそんなに貴重なものでできているとはと、今更ながら見つめ直した。
 室内に重い空気が落ちてきた。フーシャは俯き、押し黙っている。ティシラもしばらく指輪を眺めていたが、ふと顔を上げてマルシオと目を合わせた。マルシオはマルシオで気まずい表情をしていた。
 そのとき、フーシャは涙を浮かべて声を出した。
「マルシオ様」
 マルシオは突然呼ばれ、背筋を伸ばした。
「お可哀想に……」
「えっ」
「人間界に堕ち、こんな邪悪で下品な魔女なんかに心を毒されてしまうなんて……」
 マルシオの顔から再び血の気が引いた。ティシラもまた眉を寄せて拳を握った。
「でも」フーシャはマルシオに向き合い。「それも一時の気の迷いに過ぎません。私はあなたの目を覚まさせるために来たのです。もうご安心ください。あなたを正しい道へ導いて差し上げます。今なら、まだ間に合います」
 マルシオが言い訳する間も与えず、ティシラが応戦する。
「いい加減にしなさいよ」牙を剥き出し。「もうあんたなんか用なしなのよ。それがどうして分からないの」
「お黙りなさい」フーシャも大きな声を上げた。「天使はこの世界の種族の何よりも高潔で崇高なる存在。卑しい魔族風情が、マルシオ様や私を侮辱することは何よりも罪深きこと。まだ私たちを穢すのならば、神に代わりこの私が相応する刑罰を与えます」
「はあ? バカじゃないの! あんたがどれだけ偉いのよ。ただ思い込みが強いだけの勘違い女じゃない。この私を罰するですって? できもしないくせに、天使様が程度の低い脅迫だなんて呆れるわ。どっちが間違ってるかどうか、マルシオに聞いてみればいいじゃない」
「聞く必要なんかありません。今はマルシオ様はあなたの低俗な魔力に毒されている状態にあります。それを清めるまで、マルシオ様は正しい判断をできないのです。己がかけた罠を利用して弱味に付け込もうなんて、魔族とは悉く卑怯な生き物なのですね。もうあなたの呪われた言葉など聞きたくはありません」
「あんたこそさっさと帰りなさいよ。マルシオは天界に帰りたくないの。私と一緒にいることが幸せなの! それなのに、あんたみたいなのが邪魔するからマルシオはすごく悩んでいるの。すっごく迷惑してるの。ここでいくらあんたの妄想を押し通しても何も意味はないんだから、潔く身を引くべきでしょ。そんなに高潔だとか言うなら尚更、これ以上生き恥を晒さないことをお勧めするわ」
「あなたなどに私たちの思想など理解できません。口出ししないでください。あなたこそ邪魔以外の何者でもないのです。あなたがいる限りマルシオ様は迷われたままなのです。これ以上私たちの間に介入しないでください」
「あんたとマルシオの間なんてどこにもないわよ。あんたが私たちを邪魔してるんじゃない。邪魔、邪魔、邪魔なのよ! このクソ天使!」
「……目眩がします。なんと恐れ知らずな魔族なのでしょう。お里が知れますね」
「もう、埒があかないわ。マルシオ、あんたも何とか言ってよ!」
 ティシラは言いながら、体を捻る。だが、さっきまですぐ傍にいたマルシオの姿はそこにはなかった。フーシャもそのことに気づき、目を見開く。
「マルシオ様?」
 室内を探すが、彼の気配さえどこにも感じられなかった。二人の白熱した口論に圧倒され、他の誰もが気を取られているうちに、どうやらマルシオは逃げ出してしまったようだ。
 ティシラとフーシャは上がった熱を下げることもできず、呼吸が深くなっていく。他の者も、マルシオのあまりの無責任さに戸惑いと悲壮感を抱かずにはいられなかった。
「マルシオ!」
「マルシオ様!」
 ティシラとフーシャは同時に怒鳴り、再び激しく睨み合った。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.