SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-18





 次の日、ティオ・メイの城は朝から騒がしかった。
 夜は大人しくしていたティシラだったが、日が昇ったころに我慢できなくなったのか、まだ起きていなかったマルシオの部屋に侵入して奇襲をかけたのだ。
 トールとライザは、マルシオの悲鳴を聞いて報告にきた兵に叩き起こされ、身なりも整えないまま廊下を走った。同じようにサイネラも別の兵に呼ばれていた。
 誘導する兵が指した先にある大きなオブジェの影に、膝を抱えて震えているマルシオの姿があった。まるで化け物に襲われた子供ようだった。いや、まるでというか、ほぼその言葉通りではあったのだが。
 ライザがゆっくりと近づき、恐る恐る声をかけるとマルシオは体中を揺らした。だが二人の顔を見て安心したのか、涙目になって肩の力を抜いた。
「マ、マルシオ」トールが隣に腰を屈める。「気持ちは分かるが……そんな調子じゃフーシャに嘘がばれるのも時間の問題だぞ」
「だって……」マルシオの声は上擦っていた。「ティシラの奴、自分で噛み付けないからって、寝ている俺にナイフで切りつけてくるんだ。躱せたからよかったものの……いくら俺が人間じゃないからって、やりすぎだよ」
「ナイフで? ティシラは何がしたいんだ?」
「俺の血を欲しがってる。弱味につけこんで脅してくるんだ。助けてくれ」
 トールとライザは顔を見合わせた。お互いに困った表情を向け合う。トールがマルシオに向き直り。
「説得して言うことを聞くとは思えないんだが……ティシラはやはり吸血鬼なわけだし、少しだけあげてみたらどうだろう」
「い、嫌だ。なんだよ、お前まで。この裏切り者」
「いや、裏切ったつもりは……ごめん」
 言葉を失い、再びライザに目を向ける。ライザも何も言えないでいた。
 そのとき、ライザの水晶のネックレスに光が灯った。サイネラからの通信だ。どうやら別のところでも問題が起きているらしい。
「緊急の知らせです。サイネラ様はティシラのところにいらっしゃいます。向かいましょう」
 サイネラから伝えられた場所はマルシオのいた部屋だった。つまり、ティシラが暴れた位置だ。トールが立ち上がりながらマルシオの腕を掴んだ。
「君も来るんだ」
「嫌だ」
「僕たちがついているから。さあ、早く」
「嫌だ。怖い。助けてくれ」
 情けない声を出すマルシオを、トールは引きずるように連行した。気の毒そうにライザも後に続いた。


 案の定、マルシオの部屋からは喧騒が聞こえてきていた。二人の警備兵が心配そうに戸に耳をつけていたが、トールの姿に気づき、姿勢を正して頭を下げた。戸から漏れる声は一人のものではない。まさか、とトールたちは慌てて戸を開けた。その近くにいたサイネラも寝起き姿のまま、無言で三人に救いを求めた。
 そこには、マルシオの悲鳴を聞きつけたのか、怒りで顔を赤くしたフーシャもいた。当然、ティシラと一触即発の状態で睨み合っている。
「あなた、一体ここで何をされているのですか!」
 ティシラは、マルシオに逃げられて機嫌を悪くしているところにフーシャに顔を出され、更に苛立ちを募らせていた。
「あんたには関係ないわよ。私とマルシオは恋人なの。どこで何をしようが自由でしょ」
 ナイフは見当たらなかったが、ベッドが乱れ、寝具の中の羽毛が散らばっていた。羽に塗れ、投げ出された枕には確かに傷があった。その傷は小さく深く、切り裂かれたというよりも、垂直に突き立てられたものだと見て取れた。トールはマルシオの言うことが本当だと思い、少し寒気を感じた。マルシオはこみ上げる嗚咽を堪えながらトールの影に隠れる。
「な、なんてふしだらな」フーシャは拳を震わせた。「もう我慢なりません。これ以上マルシオ様を、あなたのような汚らわしい輩の傍にいさせるわけにはいけません。今すぐ連れて帰ります」
 マルシオは再び逃げ出そうとするが、今度は素早くトールに襟首を掴まれて逃走は適わなかった。
「だからそれが勘違いだって言ってるでしょ」ティシラは金切り声を上げる。「帰るなら一人で帰りなさいよ。いずれそうするしかなくなるんだから、早いとこここから消えなさい」
「それは私の台詞です。マルシオ様とあなたとでは不釣合いです。身分を弁えなさい」
「なんですって! 私は魔界の姫なのよ。マルシオなんかには勿体ないんだから。仕方なく相手してやってるのよ。なにを偉そうに」
「……仕方なく?」
 フーシャは急に声を落とした。室内の空気が固まった。興奮してしまって口を滑らせたティシラはしまったと汗を流した。
「マ、マルシオがどうしてもって言うから……」口を尖らせ、言い訳する。「その、あんまり熱心に口説くものだから、仕方なく、好きになってあげたのよ」
 不自然なティシラの言い訳に、フーシャは更に疑いを強くする。
「仰っていることが、昨日と相違ございませんか?」
 ティシラは頭の回転が早い方ではなかった。特に、興味のないことには真剣に取り組もうという姿勢を持てない。自分の失言でまずい状況になったことは分かるが、機転を利かせた知恵など回るはずがなかった。
 背後でマルシオの震えを感じ取りながら、トールも思案した。朝っぱらから、と思いながらマルシオに耳打ちする。
「マルシオ、君の出番じゃないのか」
「えっ」
 急に話を振られ、マルシオは裏返った声を漏らす。
「ティシラを擁護するんだ。君がティシラを好きだと言えばこの場は収まるかもしれない」
「え、えっ」
 マルシオは一度深呼吸して何度も頭を振る。しかし心の準備もできないまま、トールに強く背中を押されてしまった。
 押し出されたマルシオはティシラとフーシャに同時に目を向けられる。マルシオは慌ててピンと背を伸ばし、ヘビに睨まれた蛙のように固まってしまった。室内に冷たく重い空気が落ちてきた。ライザはマルシオの身を案じ、そっと手を組んで神に祈った。
 マルシオの額に濃度の高い汗が滲み出た。二人はそんな彼をじっと見つめている。マルシオが取るべき行動は一つ。だが、その勇気がなかなか出ない。
 出ない、では済まされない。逃げてばかりではいけないと、マルシオは自分の心に言い聞かせる。大丈夫。この場にはトール、ライザ、サイネラもいるし、ティオ・メイの兵だって呼べば駆けつけてくれるのだ。殺されることはない。
 とにかく、自分も何かを発言せねば事は進展しないということを思い出し、マルシオは右手を胸に当てる。表情を引き締め、心を落ち着かせる。
 逃げ回っていた今までの彼ではなくなっていることに、誰もが気づいた。正直、まだ信用できないがほんの少しだけの期待を抱いた。
 張り詰めた空気をマルシオが揺らす。手を下ろし、拳を握って一歩、ティシラの方に足を出した。フーシャが唇を少し噛んだ。
 マルシオはティシラの隣に立ち、フーシャに向き合った。そして震えを抑えて声を出す。
「フ、フーシャ」今にも声が裏返りそうだった。「俺は、彼女が……ティシラのことが、好きなんだ」
 途端、フーシャは目を潤ませ、ティシラは口の端を上げる。その隣でマルシオの中に湧いた屈辱は、予想以上のものだった。今すぐなかったことにしたかったが、そうはいかない。奥歯を擦り合わせた後、続けた。
「わ、悪いけど、婚約はなかったことにしてくれないか。必要があるなら、俺がミロド様に直訴してもいい。だが天界には帰らない。これから俺が人間界でどうなるか分からない。ティシラとのこともだ。それでも、君との婚約を考え直すつもりはないんだ。だから……もう俺には関わらないでくれ」
 言った。しかしまだ終わったわけではない。これからが山場なのだと思う。マルシオは心拍数を上げた。
 フーシャはマルシオを見つめたまま、しばらく固まっていた。すぐには言葉の意味を理解できないでいるのだろう。そして、受け入れたくなく、だがこれ以上どうしたらいいのかも分からずに頭の中が真っ白になっている様子だった。
 マルシオにはそんな彼女の気持ちが伝わっていた。心が痛んだ。確かにフーシャは融通が利かず強引なところはあるが、決して悪いことはしていないのだ。純粋にマルシオの心配をしているだけ。それをよってたかって騙して、追い返そうとしている。そう思うと、急に可哀想になってきた。
 それでもここで情けをかけるわけにはいかない。フーシャにはマルシオのことなど忘れて、天界に帰ってもらうほうがいい。それが最善なのだ。婚約破棄という、天界では前代未聞の不名誉を負うことになるかもしれないが、ここに留まるほうがよほど辛い目に合わせることになるに決まっている。中途半端に優しくして未練を残し、永遠に近い時間を後悔させ続けることは残酷すぎる。可哀想だが、ここで思い切るほうができるだけ苦痛を和らげさせることができるはず。マルシオはそう考えていた。
 未だにフーシャは動けないでいた。瞬きさえしない。思った以上にショックを受けているようだ。後は受け入れてもらうだけなのかもしれない。ここからは二人で話をしてみようか。そう思っていると、空気を読まずにティシラが高らかに声を上げた。
「ほら、私の言った通りだったでしょ」
 フーシャの体がビクリと揺れた。せっかくの流れを台無しにされ、マルシオの心臓が握り潰されたかのような衝撃を受けた。バカ、黙れとティシラに怒鳴りそうなるのを我慢するが、ティシラはお構いなしに続ける。
「あんたなんかがこの私に及ぶわけがないのよ。身の程を思い知って、さっさとお家に帰りなさい。そして、自分に相応する程度の低い男を探すことね。それがあんたのためなのよ」
 フーシャはマルシオから目を離し、勝ち誇るティシラを激しく睨んだ。その目には涙を溜め、流れ出さないように必死で堪えているのが見て取れる。
 マルシオだけではなく、トールたちもティシラの暴走に少々呆れていた。そんな追い討ちをかけたらフーシャには何の救いもなくなってしまい、引くに引けなくなってしまうだろう。どうやらティシラの目的はマルシオたちのそれとは違うものになってしまっているようだ。ただ目の前の敵を屈服させることしか考えていないのだろうと思う。予想外ではないはずなのだが、一同は彼女の偏った性格のことを忘れてしまっていたことを後悔した。
 フーシャは再びマルシオに向き合う。震える唇から弱々しい声を漏らした。
「……マルシオ様。例えそれが、魔族の差し金だったとしても……一度でもそのような穢れた言葉を口にされたあなたを、私は哀れみます」
 やはり、素直には受け入れられないようだ。だが手応えは相当ある。もう少しだと思う矢先、フーシャは嗤うティシラに鋭い目を突きつけた。
「私は、あなたを許しません」
 マルシオは再び焦りを見せた。もうティシラには触れないほうがいいに決まっている。これ以上彼女を煽らないでくれと言おうかどうか迷った。言うべきだったのかもしれないが、下手なことを言うと嘘がばれる。マルシオが戸惑っていられる時間は短かった。間に合わなかった。
「天使の魂を穢したあなたを、私は全身全霊をかけて憎みます」
 言い切った後、フーシャはとうとう涙を流した。恨みを叩きつけられても、ティシラは勝者の微笑みで彼女を嘲った。
「どうぞご自由に。どうせあんたは何もできやしないんだから、怖くもなんともないわ。そうやって男を横取りされた恨みをいつまでも抱えて、つまらない男と惨めな一生を送るといいわ。あんたみたいな心の狭い女にはそういうのがお似合いね」
 フーシャは悔しさで顔を赤くした。涙が次から次へと流れ出す。ティシラは気味がよく、更に調子に乗ってくる。
「これからは喧嘩を売る相手はちゃんと選ぶことね。天使だろうが、どれだけ立派なご身分だろうが、結局は『いい女』が勝つようになっているのよ。あんたの悪あがきはただの恥の上塗りだったってこと。これ以上ここにいても惨めになるだけでしょ。さっさとこの場から消えなさい。誰も、引きとめはしないんだから、ね」
 もう我慢ならなかった。トールたちもそれは言いすぎではないかと思っていた。必要以上に打ちのめされたフーシャを少しでも救ってやれるのはマルシオしかいない。何か言葉を、と求めようとしたその前に、室内に衝撃が走った。
 思いがけず、マルシオはティシラの頬を叩いていた。
 一瞬、何が起こったのか、マルシオ本人さえも理解できなかった。
 すべてが違う方向へ捻じ曲げられてしまった瞬間だった。
 ティシラのあまりの暴言に堪えられなかったのはマルシオだった。フーシャへの同情もあり、かっとなってティシラに手を上げてしまっていたのだった。
 だが、それは今やってはいけないこと。そして、もう手遅れだった。ティシラが牙をむき出すより僅かに早く、マルシオが手を引いて真っ青になる。
「……なんのつもりよ」
 ティシラに凄まれ、マルシオは言葉を失った。言いすぎなのは間違いなかったが、協力を求めたのは自分のほうなのだ。それなのにこの仕打ちでは、ティシラがそう簡単に許してくれるわけがない。
「いや、あ、あの……ごめ……」
 まともに言葉が出ない。しかし出す必要はなかった。ティシラはマルシオに何を言われても納得する気は一切なかったのだから。
 彼の言葉が終わらないうちに、ティシラは自分が受けた平手より何倍も強烈なそれをマルシオに食らわせ、憤慨しながら室を出ていってしまった。
 フーシャは自分を庇ってくれたマルシオに感動して泣き崩れる。その隣でマルシオは無残に頬を腫らせて気を失ってしまった。


   

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