SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-19





 室内を飛び出したティシラの後をライザが慌てて追いかけたが、彼女の怒りは尋常ではなかった。心配するライザに「ほっといて!」と怒鳴りつけ、怯んだ彼女をおいて廊下の先に消えて行ってしまった。ライザは、今は冷静に話ができる状態ではないと思い、トールたちのところへ戻っていった。
 マルシオの泊まっていた部屋は落ち着いていた。トールとサイネラはまだ着替えもろくにできないまま、だがマルシオを放ってこの場を離れることができずに仕方なくソファに腰を下ろしていた。一度、トールは身を清めるようにとディルマンに呼ばれたが、もう少し待って欲しいと伝えて扉を閉じた。扉の向こうにはトールを待つディルマンと警備兵が二名立っていた。戻ってきたライザを見つけ、頭を下げる。ディルマンはライザにも同じことを言ったが、ライザもまたトールと同じく待つように指示し、室内へ入っていった。
 ライザが戻ると、朝から疲れ果てているトールとサイネラを他所に、羽毛が散ったままのベッドに運ばれたマルシオの枕元にそっと腰かけているフーシャの姿があった。フーシャは感激のあまり、未だに目に涙を溜めていた。愛しくて仕方ないと言わんばかりに、優しくマルシオの髪を撫でている。一見仲睦まじそうな二人の天使を、注ぐ朝日が照らしている。それは絵画のように美しい光景だったが、ライザは嘆くようなため息をついた。
 トールとサイネラも同じ気持ちだった。これからマルシオはどうするつもりなのか、そして自分たちはどうすればいいのか、考えると頭が痛くなってくる。暗い表情でライザもトールの隣に座った。
 マルシオは突然、眉を寄せて唸り出した。どうやら悪夢にうなされているようだ。フーシャは更にマルシオに体を寄せ、心配そうに顔を覗き込んだ。
「お可哀想に……」腫れた彼の頬にそっと手を当てる。「あんな魔女に騙され、心を犯され、暴力まで振るわれるなんて。でも……」
 フーシャは堪えられなくなったかのように、口元を緩めた。
「やはりどんな恐ろしい呪いも、真実の愛の力には太刀打ちできないものなのですね。辛い思いをしましたが、それをマルシオ様は証明してくださった。なんて幸せなことなのでしょう」
 囁きながらフーシャは、呻くマルシオの手を取った。
 その様子をソファで脱力している三人は黙って見つめていた。目線も変えずにトールが呟く。
「……ティシラは?」
 その問いにライザが小声で答える。
「かなりご立腹です」
「だろうな」
 会話は続かない。一同はとにかく早くマルシオに目を覚まして欲しいとだけ思っていた。


*****



 ティオ・メイの西側の城は「青月(せいげつ)の杯」と呼ばれている。その名には、夜空に輝く神秘の月を称える意味が込められていた。中央の神樹の枝を挟んだ東館・紅陽の鏡とは対照的に少し冷たい空気がある。西向きのそこは比較的陽が当たりにくいためだった。
 日光が苦手なティシラは自然と青月へと向かっていた。前のめり気味で早足で歩くその姿は、誰が見ても苛立っていると分かる。だが周囲にはほとんど人はいなかった。時々すれ違う人々は「どうしたんだろう」と疑問は抱くが、関わってこようとはしなかった。ティシラは行くあてもなく、目に入った階段を上がる。突き当たると扉があり、開けると広いテラスに出た。口をへの字に曲げたまま手すりまで進み、そよぐ風にあたる。テラスの真下は裏口へ続く森が広がっており、その先は荒野、さらに先の地平線には山脈が連なっていた。
 人間界の空気や風は嫌いではなかった。昼夜問わず広がる青い空も、季節で色を変える木々や花も。どれも魔界とは異質のものだったが、ティシラはたまに生命を持つものと会話をすることがある。直接言葉を交わすわけではなく、意識の波長を合わせればそれらの気分や感情を汲み取ることができるのだ。その能力を特殊だとは思わなかった。自然の中の命たちは必死で芽を吹き、賢い生態で子孫を残していく。そのどれもティシラを否定しなかった。太陽の光が暖かい、水が欲しい、と思うことだけをただ素直に伝えてくる。心地よかった。人間とは違い、他人を傷つけることはしないからだ。
 ティシラは怒りを忘れ、風を通して遠くへ意識を飛ばした。目を閉じると肉眼では見えないものが瞼の裏に映る。まるで空を飛んでいるかのように、そのまま見たことのない土地まで流れ進む。あまり遠くまでは行けないし、時に現実とティシラの深層心理と繋がることがある。そうなったときはすぐに意識を取り戻さないと迷い、抜け出せなくなってしまう恐れがあった。だからつい遠くまで行き過ぎてしまわないように常に心の制御が必要だった。
 今も意識が飛んでしまわないように集中している。だからと言って凝り固まってしまうと脳裏に映る風景は掻き消えてしまう。できるだけ遠くへ行けたほうが気持ちいい。心を解放しながら、道を誤らないようにバランスを取る必要があった。
 森を抜け、荒野を緩やかに進んだ。ティシラには地面の乾き具合さえも感じることができた。速度は次第に上がっていく。山脈を、まるで鳥が飛ぶように上へ下へと流れていく。町が見えた。知らない町だった。あまり栄えてはいないようだが、誰もが楽しそうに生活している。町はすぐに抜け、澄んだ河を渡り、その先にある大きな森に入る。
 そのとき、声が聞こえた。
 ティシラの意識が一瞬乱れた。集中すれば物音や声が聞こえるときはあるが、誰にも見えないはずの彼女の意識に語りかけられるような感覚を覚えたのは初めてのことだった。気のせいかもとも思いつつ、戸惑いは隠せない。これ以上はやめておこうと意識を戻そうとしたそのとき、先ほどよりもはっきりとした声を拾ってしまった。
『……て』
 ティシラはつい返事を返す。
(誰? 私が見えるの?)
 だが返答はない。声の主を探した。田舎の村を探る。そのずっと先の、人など入りそうにないほど鬱蒼と木々が茂った深い山奥で、何かの気配を感じた。こんなに遠くまで飛んだことは初めてだった。きっと声の主がそこの近くにいるとしか思えず、ティシラはつい深追いしてしまう。「もう少し」と、「これ以上は危険」という二つの意識が争った。ティシラは夢中になり、つい声を漏らした。
「誰?」
 すると、すぐ近くで返事があった。ティシラは現実に引き戻され、大きな赤い目を見開いた。
「――見つけた」
 はっきりと、背後から男性の声がした。反射的に振り向くと、扉に寄りかかっている青年が微笑んでいた。目が合うと彼は姿勢を正してティシラに寄ってきた。
 どこかで見たことがある。ティシラは青年の顔をじっと見つめた。それよりも、さっきの声は彼のものだったのだろうか。それとも、ここではないところにいる誰かがティシラの意識に語りかけようとしていたのだろうか。
 しかしそんな混乱は、彼が誰だったかを思い出した途端に消え去ってしまった。
「あっ」ティシラは指を指しながら。「あんた、確か」
「覚えててくれたんだ。嬉しいね」
 冷たい笑みに横柄な態度が定着しているティオ・メイの第二王子ルミオルだった。ルミオルはティシラの隣に立ち、馴れ馴れしく彼女に顔を近づけた。
「そう言えば、俺の名前教えてなかったよね」
 ティシラは体を引いて、あからさまに彼との距離を取る。
「聞いたけど、忘れたわ」
「じゃあ覚えて。ルミオルっていうんだ」
「いいわよ。興味ないから」
「俺は君に興味があるんだ。君の名前も教えてよ」
 ティシラは嫌悪を露わにしていた。ルミオルは微笑んだまま、またティシラに肩を寄せてくる。ティシラもまた、素早く一歩離れた。ルミオルは背を伸ばしてため息を漏らす。
「なぜそんなに俺を嫌うの? 俺が何かした?」
 ティシラはふいと顔を逸らす。
「別に。あんたみたいなの好きじゃないだけ」
「印象だけで決め付けるのはよくないよ。俺のことをもっと知ればもしかしたらいいことがあるかもしれないんだからさ」
「何がいいたいのよ」
「俺のこと、何も知らないんだよね。じゃあ一つ、教えてあげる」
 ルミオルは勿体ぶるように少し間を置いた。
「俺はルミオル・インバリン。この国の王子なんだ」
 自慢げに名乗る彼を、ティシラは横目で見つめた。ルミオルも彼女の目をじっと見つめ返してきた。ティシラには彼の自信の理由が分からなかった。
「だから?」
 冷たく返され、ルミオルは笑みを消す。今までに体験したことがなかった反応に驚きと戸惑いを抱いた。この名を示せば誰もが頭を下げた。時には悔しそうに上目で睨んでくる者もいるが、それでも逆らえずに言いなりになるしかない事実が快感だったものだ。それが当たり前だと思っていた。
 だが、その当たり前がここにはなかった。
 ルミオルは焦りを隠しながら、無理に笑顔を作り直した。
「分かってる? ティオ・メイはこの世界を統括していると言っていいほどの大国なんだ。その王子、つまり後継者はいずれ世界の頂点に立つ資格を持って生まれた男ってことだよ」
「うん。それくらい分かる」
 あっさりと返答され、ルミオルは口角を下げる。
「それが、俺ってこと」
「うん、だから?」
 ルミオルはとうとう口を噤んだ。ティシラは彼が何を言わんとしているのか、未だに理解できずに首を傾げた。釣られて、ルミオルも同じ方向に首を傾げる。
「おかしいなあ……」
「何が?」
「普通は誰でも驚いてくれるんだけど。女の子は特に、俺みたいな美形の王子様に目の色を変えてくるものだと思ってたからさ」
 ティシラはやっと、そういうことかと流れを読んだ。しかも自分で美形とまで言い切る彼に少し呆れつつ、冷めた表情で肩を竦めた。
「残念でした。あんた程度の美形なら見慣れてるわ。それに、王子だろうが乞食だろうが、私は身分なんかで人の質を決めるほどつまらない女じゃないんだからね」
 ティシラをよく知る者が聞いたら疑問を抱く発言だったが、彼女は無意味に胸を張っている。予想外の反応ではあったが、やっと話に乗ってくれたとルミオルは笑顔を取り戻す。
「へえ。じゃあ君は何を基準に男を選ぶの?」
「基準なんかないわ。私に相応しい素敵な人じゃないと全部却下。だけど、それは身分や容姿で測れるものじゃないの」
「それって?」
 ティシラは突然遠くに視線を投げ、瞳を輝かせた。
「運命よ。運命で決められたたった一人の最高の人。そもそも私に相応しいってことは世界一素敵な人に決まっているのよ」
 この手の話になるとティシラはすぐに恥を忘れる。そういうところは昔と変わっていなかった。
「かっこよくて優しくて、強くて、とっても素敵な人なのよ。そして私はその彼と並んで世界一幸せな女になって、誰からも羨望の眼差しを向けられるのよ」
「運命ね……好きになった人と幸せになるための努力とかはしないの?」
「そんな必要ないわよ。運命で決められた相手なら相性抜群で何の困難もあるわけがないんだもの」
「ふうん。じゃあ……その世界でたった一人の運命の人っていうのが、マルシオなの?」


   

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