SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-31





 陽は一番高いところに上ろうとしていた。
 ルミオルは珍しく侍女を連れずに一人で廊下を歩いていた。そこはティオ・メイの城の西側「青月の杯」。青月は比較的、紅陽より人が少ない。日当たりも悪く、常に冷たい印象があった。
 ルミオルは姿勢を正し、静かな廊下にコツコツと足音を響かせていた。その足音がぴたりと止まる。止めたのは、ルミオルと同じ色の瞳を持つ青年だった。
 二人が対峙した途端、まるで城中の空気が凍りついたかのように重い空気が落ちてきた。ルミオルを切り裂くほど鋭く、冷たい目線で睨み付ける彼は、実兄であるラストルだった。
 ラストルもまた一人で、この滅多に人の通らない廊下の角から姿を現した。まるで、ルミオルを待っていたかのように――いや、待っていたかのようにではなく、ラストルは彼を待っていたのだ。
 ルミオルは驚くことなく、王家の紋章が描かれた重いマントを羽織る兄を見つめた。ルミオルは一瞬、目線を落す。その先には、ラストルのマントから見え隠れする立派な剣があった。同時に自分も、念のためにと剣を腰に装着してきておいてよかったと心の中で呟いた。
 ラストルは、立ち止まったままじっと目線を外さない弟にゆっくりと歩みを進めた。二人の間には音のない火花が散り、今にも大きな爆発を起こしそうなほど緊迫した時間が流れた。
 先に動いたのはルミオルだった。目を細め、口の端を上げる。
「兄上、お久しぶりでございます」
 同じ屋根の下で暮らす兄弟の交わす挨拶ではなかった。しかしこの二人には珍しいことではない。ルミオルは肩の力を抜いて続ける。
「待ち伏せですか?」微笑む表情には憎悪のそれが混ざっている。「時期王位継承者ラストル様のやることとは思えませんね」
 ラストルはすぐには応えず、ルミオルの数歩前まで足を進め、止める。
「貴様が、またこの神聖なる空間を土足で汚していると聞いてな……」
「やだなあ」ルミオルはわざとらしく顔を傾ける。「汚すだなんて。ここは俺の家ですよ……例え、俺がどれだけ下劣な男だったとしても、その事実には相違ないのですから」
 ラストルは同じ空気を吸うのも吐き気がするとでも言うかのように、嫌悪の感情を剥き出しにする。
「……クズが。王家に生まれたというだけで調子に乗るなよ。王とは人の上に立つ才覚があって初めて戴ける大いなる権力だ。貴様のように濫用していいものではない」
 ラストルから、兄とは思えない殺気が放たれる。同じような状態が、今までも何度かあった。ルミオルは幾度となく彼に剣を向けられてきた。その恨みは大きい。しかしそれを表に出さないように、冷笑を保ち続けた。
「分かっていますよ。幼い頃から耳が腐るほど聞かされてきたのですから」
「ならば、貴様に生きる価値はない。そう思わないか」
「ええ。そう思います」にこりと笑う瞳に影を落とし。「生まれてこなければよかったと、いつも思っています。でも、生まれてしまったのですから仕方ないではないですか。いずれ、俺は死にますから。そう焦らないでください」
「そのときを待つ理由も、必要もない。今すぐにでも死ね」ラストルは奥歯を噛み締める。「そうでなければ、二度と私の城に近付くな。どこかで人知れず、黙って土に還れ。それが貴様に相応しい」


 二人は仲がよかった――昔は。
 幼い頃はたった二人の、血の繋がった兄弟としていつも一緒に時を過ごしていた。どちらが先に生まれたかなど、関係ないかのように。
 奔放な父の言葉に甘え、周囲から危ないと注意されながらも、二人はよく城の近くの森へ遊びに出かけていた。
 ある日また警備兵の目を盗んで森へ向かった。そのとき、二人が北側の階段を駆け下りていく姿を見つけた従者、メリアは急いで後を追った。
 メリアは城の炊事を任せられている初老の召使だった。二人の健康を管理している立場にあり、よく面倒を見てくれていた。
 昨日の夜に中規模の地震があった。特に大きな被害はなかったのだが、同時に雨が降っていたために地盤が緩み、特に森の中は注意をするようにと知らせが入っていたばかりだったのだ。
 子供であり、そもそも森になど用事のないはずのラストルとルミオルはそんなことを知らなかった。メリアはすぐに二人を引き止めて連れ戻そうと考えて、警備兵に知らせるより早く二人を追っていった。
 追ってきたメリアの姿を見つけ、二人はふざけて森の中を逃げ回った。体力のないメリアは次第に呼吸を乱し、やはり誰かに知らせるべきだったと後悔した。
 しかし、もう手遅れだった。
 小さな二人の足元が崩れた。地震によって傾いていた岩場は微妙なバランスで、辛うじて保たれていただけだった。そこに、幼いとは言え二人の子供が駆け上がった衝撃は、崩れ落ちるに足りるものだったのだ。
 二人は必死で岩にしがみついてメリアに助けを求めた。ラストルは自分の横で指を滑らせるルミオルの腕を掴んだ。その衝撃で更に岩は揺れ出した。怖かった。泣き叫ぶだけで余計に岩が崩れてしまうのではないかという恐怖が上回り、叫ぶこともできない。岩を掴むラストルの手は爪が剥がれ、血が流れ出す。同時に、決して弟を離してはいけないと自分に言い聞かせて助けを待った。
 メリアは夢中で、老体に無理をさせてラストルの腕を引いた。だが、その力は脆弱で、子供を二人引き上げることはできなかった。
 助けて、と泥に塗れた兄弟はメリアに訴えた。メリアの体力は限界に達しようとしていた。このままでは、ティオ・メイという大国の王子を二人とも、自分の責任で亡くしてしまうことになり兼ねない。短い時間の中で、最善の方法を考えた。
 ズルリと、メリアの体が崖へ引きずりこまれる。
 もう駄目だ。
「……ラストル様」
 メリアは咄嗟に、声を絞り出した。
「弟君を、ルミオル様を、お離しください」
 二人は目を見開いた。
「そんな……」
 ルミオルは全身を凍らせた。そして、ラストルは弟を掴む腕に力を入れて涙を流す。
「……なんで? できないよ」
 その間にもメリアの体はゆっくりと引きずられている。意識も朦朧とし始めていた。メリアに子供の気持ちを気遣える余裕はなくなっていた。
「ラストル様、あなたは時期王位継承者であらせられます」早口で、厳しい口調で続けた。「世界の未来を背負う一国の王子なのです。こんなところで亡くなっていいお方ではありません。あなた一人なら助かる可能性があります。どうか、賢明なご判断を……!」
 幼いラストルには残酷な選択だった。ルミオルはたった一人の弟であり、今までも、これからも一緒に力を合わせて苦楽を共にしていくものだと思っていた。
 しかし、メリアがその幻想を打ち砕く。
「あなた方はご兄弟である前に、一国の王子なのです。何かを守るために情を捨てねばならないときが、これからもあるのです。今がそのとき……ラストル様の王としての素質が問われているのです。ご決断を」
 ラストルの屈託のない目から溢れる涙は止まらなかった。痛む肩の先で腕を握り返している弟の温度を感じながら、彼の顔を見ることができなかった。
「……兄上」
 裏返る声で、弟が自分を呼んだ。同時に、未だ不安定な岩が嫌な音を立てて揺れる。
 このまま落ちていくのだけは嫌だと、ラストルは思った。せめて決意を固めなければと、ルミオルとメリアを掴む腕の両方に力を入れる。
 兄として弟を守るべきか、それとも王子として弟を見放すべきか。どちらも選べないまま命を落とすのだけは許されないと、何かがラストルを追い詰めた。
 彼が悩む時間は短かった。だけど、本人には長く、長く感じた。そのとき、具体的に何を思い描いたのかは、本人も覚えていない。
 出した答えが正しかったのかどうかも、もう誰も分からないほど、ラストルはまともではいられなくなっていたのだ。

 ラストルは、ルミオルの腕を離した。

 ルミオルの恐怖と絶望は計り知れなかった。ラストルの裏切り、メリアの無情な言葉に、ルミオルは心を切り刻まれた。
 自分たちは一国の王子。そしてルミオルは、後から生まれた「弟」という立場にある。第一王子であるラストルがすべてにおいて優先されるのは、当然のことなのかもしれない。
 ここで手を離したラストルは、間違ってはいなかった。それだけは、心理の奥深くのところでルミオルにも分かった。
 ただ、その真実はあまりにも突然すぎたのだ。今まで何の贔屓もなく平等に育てられてきた。故に兄だから、弟だからという隔たりを感じたことはなかった。いずれ教えられていくことだったとしても、なにもこんな形で――ルミオルは、体に流れる「王家の血」を恨みながら、一人で地の底に堕ちていった。

 気がつくと、二人は傷だらけになって城のベッドで治療を受けていた。
 話を聞くと、結局ルミオルだけでなく、ラストルとメリアも崖に落ちてしまったらしい。崖が絶壁でなかったことが幸いしたらしく、二人は一命を取り留めた。
 しかし、老体で無理をしたメリアは弱った体を強く打ち、息を引き取っていた。王子二人を命がけで救おうとした彼女の努力と忠義心を、誰もが涙を流して惜しんだ――ラストルと、ルミオル以外は。
 意識を取り戻したラストルが、ルミオルに謝ることはなかった。それどころか、今まで顔を合わせて笑い合っていた彼は目をあわせようともせずに、無表情でルミオルを避け始めた。
 最初はただの罪悪感だったのかもしれない。それでも、彼が変わってしまった理由など、ルミオルには関係のないことだった。
 このときをきっかけに、「ルミオルは不要な人間」であるという言葉が、二人の心に深く刻まれた。
 二人の態度の変わりように周囲は戸惑ったが、思春期や反抗期という複雑な時期に紛れて誰も深く追求しようとしなかった。
 そして、何よりも二人が「男」であり、「王子」であるという現実が、互いに対抗心を生み出したのだろうと勝手な憶測で真実は闇に葬られていった。
 二人の距離は見て取れるほど離れていった。離れただけではなく、まったく違う道を歩み始め、大人になった今では誰も手が付けられないほど荒々しい関係になってしまっている。

 もう修復は不可能。何よりも当人たちこそが修復など頭の隅にもない。
 反発し、恨み、憎しみ合っているうちに、彼らは「兄弟」ではなく、誰が見ても「敵」でしかなくなっていた。


「……ならば」ルミオルは笑みを歪ませる。「あなたのその偉大なる手で葬ってしまえばいい」
 言葉以上に、ラストルは彼の浮かべる表情こそに憎悪を膨らませていく。顔を見るだけで、この世に存在するだけで苛立つ弟を、ラストルは許すことができなかった。
 ルミオルが死んでも誰も困る者などいないと信じて疑わないラストルは、挑発に臆することなく、剣を抜いた。


   

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