SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-31





 静かだった廊下で爆発が起きた。
 正確には、剣と剣がぶつかり合ったのだ。城内で剣を交わすことは、決められた場所と特例を除いて禁じられている。ましてやそれが兄弟同士だなんて、誰も望まぬことだった。


 バルコニーで風に当たっていたティシラはふと顔を上げた。
 不吉で、恐ろしい殺気を感じ取ったからだ。その音までは届かなかったし、一体この城のどこで誰が何をしているかなど知る由もない。
 しかし嫌な予感を抱いた彼女は反射的に廊下に戻って、あてもなく走り出した。


 ラストルの振り下ろしてきた剣を、ルミオルも腰のそれを抜き、顔の前で交差させていた。二人は歯を剥き出し、剣を握る腕が微かに震えている。
 無理に余裕の表情を造り、ルミオルが囁くように呟く。
「……俺は、あなたの剣から身を守るために抜いただけですよ。いいんですか? 今誰かが来れば、無意味に剣を抜いたあなたが咎められることになりますよ」
 正当防衛を主張されても、ラストルは引き下がる気にならなかった。
「死んでいい人間が殺せと言った。それを処分する私に何の咎があるか」
「そんな言い訳が通用すると、本気でお思いで?」
「では、私と貴様と」ラストルは悪意に満ちた笑みを浮かべる。「果たして周囲は、どちらの言葉を信じると思う?」
 ルミオルから表情が消えた。どちらかが少しでも力を抜けば剣が体に届く。その中で、ルミオルは小さく、低い声を出す。
「……そうやって、また真実を隠すつもりですか」
 こんなに近いのに、その言葉はラストルの耳に届かなかった。
「何だと?」
 ルミオルの瞳が、光を失う。
「……あのときの、ように」
 ぞくりと、ラストルの背中に寒気が走った。その恐怖に似た何かに煽られ、ラストルは、今ここで彼を殺してしまわなければと更に腕に力を入れる。
 入れようとした、そのとき。
「なにやってるの!」
 廊下の先から、甲高い怒鳴り声が響いた。ティシラと、その後ろから二人の警備兵が駆けてくる。
 得体の知れない不安の元へ向かっていたのはティシラだけではなかった。金属のぶつかる音を拾った警備兵も彼女と同じ方向へ走っていたのだ。
 ラストルはマントを翻しながらルミオルから離れ、舌を打ちながら剣を収める。ルミオルも肩の力を抜いて静かに剣を下ろした。
 警備兵はティシラの後から血相を変えて走ってくる。二人の前で立ち止まり、呼吸を乱したまま、右手を左の胸に当てながら一礼した。
「ラ、ラストル様、ルミオル様。一体、何事でしょうか」
 警備兵に理由は読めていたのだが、殺し合いとも言える二人の喧嘩を当たり前として扱うことはできない。ラストルとルミオルも廊下での斬り合いが禁止されていることくらいは分かっている。互いに顔を逸らし、ラストルは何も言わずに一同に背を向けた。
「ラストル様」
 兵の一人が声をかけるが、引き止めたところで話すことはない。返事もせずに足を進める彼にそれ以上は何も言わなかった。一同は、黙って廊下の角に姿を消す彼の背中を見送る。
「ルミオル」
 ラストルのことをほとんど知らないティシラにはまったく意味不明な光景だった。とりあえず怪我はなさそうだが、そこにあった険悪な雰囲気が普通ではなかったことは分かる。
「どうしたの? 今の人、確か……」
 ルミオルは眉尻を下げてティシラの頭を優しく撫でる。
「俺の兄上だよ。ちょっとした兄弟喧嘩だから。気にしないで」
 ちょっとした、ではないような気がする。ティシラが戸惑っていると、ルミオルは頭を下げている警備兵に「問題ない」と一言伝え、立ち去るように命令した。できれば関わりたくないと思う警備兵は顔を見合わせ、素直にルミオルに従った。
 警備兵がいなくなった後に、ルミオルは剣を収めてティシラに微笑む。
「ティシラ。君に会いに行こうと思っていたところだったんだ。気分はどう? 何か困ったはないか?」
 どうやら、ルミオルはもう兄の話をするつもりはないようである。ラストルの消えた廊下の先をしばらく見つめた後、ティシラは戸惑いながら返事を返す。
「わ、私はもう平気。あんたが部屋まで送ってくれたのよね?」
「うん。酔ってるだけで具合が悪いわけではなさそうだったから、すぐに部屋を出たけど。大丈夫だった?」
「う、うん」
 なかなか気まずさが抜けない。その理由がルミオルにはよく分かり、話題を変える。
「そうだ、魔法使いのことだけど」
「えっ?」
 突然すぎて、ティシラは高い声を出す。やっと自分だけに集中してくれそうだと思い、ラストルは話を進めた。
「近いうちに会わせられるかも。早ければ今日にでも」
「今日? 夜ってこと?」
「今日かどうかはまだ分からないけど、できれば夜の方が動きやすい。前もって予定を伝えられないから、できれば深夜は一人でいて欲しいんだけど、できる?」
「……うん」
「それに、兄と今の警備兵に君と知り合いであることもバレちゃったしね。探りが入ると面倒なことになる」
「あ、ああ、そうか。そうね」
 気持ちに余裕のできていたティシラは、魔法使いのことは後回しにしてもいいと考えていた。なのに、せっつくのをやめた途端に話が先に進もうとしているために、ティシラの戸惑いは途切れなかった。
 わざとかどうかは分からないが、ルミオルはやはり扱いにくい人物だと、つくづく思う。
 今のところ害はない。しかし、先ほどの彼の姿。そこから醸し出されていた恐ろしいほどの殺気と怨念。ただ事ではないことだけは確かだった。
 好奇心旺盛なティシラは当然、原因を知りたかった。だが、聞いてはいけないことなのかもしれないという、彼女には珍しい「遠慮」の気持ちが邪魔をする。大国の王子が、兄弟同士で、誰もいない場所で殺し合おうとしているなんて、そこにどれだけの理由があるのか想像もつかない。きっと昨日今日できた溝による争い事ではないのだろう。
 そう考えると、話が長そうだ。今すぐここで問いただす必要もないしと、ティシラは気持ちを切り替えることにした。


*****



 ちょうど正午を跨ぐ頃、サンディルが城を出ることになった。
 あの後ティシラはルミオルと少し言葉を交わしただけで、これ以上一緒にいるところを人に見られるのはまずいという彼の意見を受けてその場で別れていた。
 王室前の広場にはサンディルを見送るためにトールとライザとマルシオ、少し遅れてきたティシラが集まっていた。
 サンディルはまずティシラに苦しい思いをさせてしまったことに深く頭を下げて詫びを入れた。確かに危険な目には合ったのだが、結果的にプラスにもマイナスにもなっていないティシラにとっては、あまり深く考えないで欲しいことだった。
「あ、あの」慌てて片足を引いて。「私は別に気にしてないから、そ、そんなに謝らないで」
 一同はどちらの気持ちも理解でき、口出しせずに見守っていた。正直サンディルも、現時点では謝ること以外何もできないことを重く受け取っており、そしてティシラがいつまでも根に持つ性格ではないことも理解している。今はこれ以上ここにいても仕方がない。今回のことを忘れずに、いつかなんらかの形で彼女に貢献すると心に決めてこの場を後にすることにしたのだった。
「ただ、一つだけ、単なる言い訳かもしれないが、聞いて欲しい」
「な、何?」
「……今回のことで、失敗の中でも僅かながらヒントを得た。もちろんクライセンを救いたいというのも本音じゃが、同時にティシラのことを救いたいのも事実。今回のことを無駄にはしない。わしに何を、どこまでできるかは分からないが、必ず力になる。信じて欲しい」
 ゆっくりと頭を上げるサンディルに、一同は改めて向き合う。ライザが恭しく少し腰を曲げて。
「お体の調子は大丈夫でしょうか。よろしければご自宅まで護衛をお付けしますよ」
 気を取り直し、サンディルはやっと微笑んだ。
「問題ありません。お気遣い、感謝します」
 本当は、まだ謝り足りていない。しかしどれだけ謝っても満足することはないのだろうとサンディルは口を閉じる。後悔し続けていても意味はないと、無理に笑顔を作ってマルシオに優しい目を向けた。
「マルシオ。ティシラを、頼みますよ」
 改めて言われ、マルシオは戸惑う。頼まれても今は自分も問題を抱えている。しかしティシラの傍に一番いてあげられるのは自分しかいないのだという自覚はあった。マルシオはサンディルの気持ちを汲み、素直に頷いた。
 マルシオだけでなく、ここにはたくさんの有力者がいる。何よりもそれらが純粋にティシラと、そしてマルシオを慕う者であることは心強かった。二人のことである。大人しく平穏に時を過ごせるわけがない。きっと今ある問題だけでは済まないと予感するが、それも二人がこの世界に居場所を見つけるための試練だとサンディルは思う。そんな二人の力になれる者は限られているが、自分もその限られた人物の一人であることを心に留め置き、それまでは多少の苦労や無理を続けていく覚悟を強く持った。
 本当なら、この二人を守れる人物はただ一人なのだと、サンディルはそう思っていた。だから彼を救い、ここへ戻ってくるまでの橋渡しこそが自分の役目。トールたちもきっと同じ思いだと感じていた。
 大丈夫、なんとかなると、サンディルは自分に言い聞かせる。しばらくは誰の手も借りずに一人で時間を過ごす必要があると、静かに城を後にした。


 その様子を密かに見つめている二種類の瞳があった。
 一つは透き通った緑のそれ。ティシラを連れ出す機会を伺うルミオルはまた、自室で一人、水晶を通して賢者の背中を見送っていた。
 ルミオルにとって、ティシラを守ろうとする人物はすべてが邪魔者である。しかも相手が、国を挙げて特別視している賢者となったら尚更この場にいて欲しくない者だった。
 サンディルが広場から離れ、誰もいない場所で煙のように消え去ったところまでを確認し、安堵しながら水晶から顔を離した。


 そしてもう一つは、雲よりも透明な銀の瞳。
 フーシャは決して、部屋に篭って落ち込んでいるわけではなかった。密かに天使の魔力を使い、ティシラの行動を追い続けていたのだ。
 いつか必ずティシラの本性を、真実を見抜くために。
 だがこの強い結界の中では自由に魔力を使うことはできない。できる範囲と時間に、そして彼女を探っていることを他に悟られないように、静かに、静かに戦いの準備を進めていたのだった。
 サンディルの気配が消え、一同がそれぞれにその場から解散していったのを見届け、フーシャはゆっくりと瞼を落とす。
 その脳裏には、先ほどティシラと言葉を交わしていたルミオルの姿が浮かんだ。ティシラと彼がどんな関係にあるのかはまだ分からなかったが、フーシャは貴重な情報を得たと確信していた。ルミオルの背後にある大きな影の存在を敏感に感じ取ったからだ。
 ヘタに動けば、ただこうして魔力を通して様子を伺っているだけでも「謎の力」に勘付かれて邪魔をされる可能性がある。フーシャは警戒が必要だと判断し、同時に、ティシラに見え隠れする怪しい影に興味を示していた。
 やはりティシラは邪悪な何かを持つ者であり、それを暴き、可能であれば撃退すべき存在だと眉を吊り上げた。
 マルシオの心を開くのはその後――フーシャの心に灯る炎が歪んだものであることに、まだ本人は気づいていなかった。


   

Copyright RoicoeuR. All rights reserved.