SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-39





 ティシラが脱力したところに、ドアが開く音が聞こえた。
 そこから眉尻を下げて困った笑みを浮かべてロアが入ってくる。ティシラは彼を睨み付けながら上半身を起こす。
 ロアは床に倒れたルミオルに寄って膝を付き、頬を腫らして気絶している彼を抱き起こした。
「やれやれ、ルミオル様は、今は私の主人なんです。あまり手荒なことはしないでください」
 言いながら、ロアは気を失っているルミオルをティシラの隣に座らせる。
「覗いてたの? やることが悪趣味ね。二人揃って」
「否定はしません。ですが、私はルミオル様に危険がないように見守る義務がありますので。ご容赦ください」
 ティシラは苛立ちで顔を赤くする。
「こいつは私を襲おうとしたのよ。なんで私が責められなきゃいけないの」
 ロアは床に片膝をついたまま、肩を竦める。
「そんなつもりはありません。でも、襲おうとしてたのはルミオル様ではなく、あなただった。私にはそう見えました」
 ティシラは喉の奥から再び唸り声を漏らす。納得のいかない様子の彼女に、ロアは続けた。
「意味もなく透視していたわけではありません。指輪がどう動くのか、それも拝見させていただきました」
「……指輪の?」
「ええ。見えました」ティシラの左手に目線を移し。「その指輪は、あなたの意識に絡み付いています。それは、とても深いところまで」
 ティシラとルミオルを二人っきりにしても危険がないことは、ロアには分かっていた。
 ティシラがそうやすやすと心を許すわけがないこと、そして、もし彼女がルミオルを襲おうと考えても、必ず指輪が邪魔することを確信していたからだった。
 ロアが見たかったのは、指輪が魔法を発動させる瞬間だった。
 案の定、指輪は力を発揮した。ロアはそれを心の目でじっと探った。
「座ってもよろしいでしょうか」
 そのまま話を続けるのかと思っていたティシラは、腰を上げながらそう言う彼に拍子抜けする。
「……どうぞ」
 ティシラがため息混じりに呟くと、ロアは向かいの椅子に腰掛けて一度目を伏せたあと、ティシラに向き合った。
「その指輪の先に、術師はいます。しかし、近くではありません」
 漠然とした彼の言い方に、ティシラは眉を顰めた。だが口出しはしなかった。「近くではない場所」がどこかなのか、心当たりがあり、それを自分の口から言いたくないからだった。
「その場所からあなたを操作しているのではありません。指輪は、肉眼では捉えられないほど繊細で、複雑な魔法の塊として構成されています。その細かい、細かいものが、あなたの指を通して意識に侵入しているのです」
 すぐにイメージすることはできなかったが、嫌な予感が押し寄せる。
「侵入……?」
「はい。つまり、指輪の向こうの術師があなたを監視し、あなたに何かがあったときに魔法を起こしているのではありません。指輪の中にある魔力があなたの意識を見て、触れて、仕組まれた法則に従って力を発揮するものなのです」
 つまり、と言われても、ティシラには理解し難い内容だった。いや、し難いのではなく、したくないというのが正しい。
「うん、まあ」ティシラは流れ出す汗を隠し切れない。「なんでもいいわ。とにかく私にとって迷惑なことには変わりないってことよね」
「ええ。そうですね」
 笑顔で即答するロアに殺意を覚えた、ような気がした。
「と、取ってよ」
「無理です」
「どうして!」
「かなり高度な魔法だからです」
 魔法の中でも特に注意を払う必要のある幻術が駆使され、銀という感情のない物質に意識と判断力を与えて忠実に従わせているものだった。そして、指輪がティシラの指を締め付ける行為は、彼女の脳に命令されているだけの幻でもあった。しかしその痛みは、仮にティシラが耐え抜いたとしても、本当に指が千切れ落ちる激痛と同じところにまで達する。きっとそのたびに悶え苦しむしかなく、慣れるなど不可能に近いことだった。
 魔法とは、術師の魔力と呪文によって発動するもの。指輪のそれの恐ろしいところは、術師本人がその場にいないにも関わらず、その者の思い通りに、寸分の狂いなく操れるという事実にあった。
「もしも私が術師と直接対立できるのであれば、いくらか抵抗する手段があるかもしれません。ですが、その術師はどこにもいないのです」
「どこかにはいるんでしょう? 探すことはできないの?」
「証拠を示す方法はありませんが、私には分かります」ロアの口調が僅かに強くなる。「『彼』は、この世界にはいません」
「……そ、そんな」ティシラは泣きそうな声を上げた。「じゃあ、指輪を壊すことは? それもできないの?」
「それも無理です。その指輪はあなたの意識に侵入していると言いましたよね。正しい解除の方法を用いねば、あなた自身にも深い傷がつくことになるのですから」
 しばらく口を開けたまま呆然としていたティシラは、とうとう諦めてがっくりと頭を垂れた。
 つい肩に力が入ってしまっていたロアはそのことに気づき、椅子に深く座り直す。
 それにしても、とロアは思う。指輪の魔法の術師だけはよく分からない。決してティシラが憎くてやっているわけではないはずなのに、これは少々手荒すぎる。だがなぜか、ロアは納得している。その理由を探ってみると、「彼女にはこれくらいでちょうどいい」という言葉が脳裏を過ぎったのだった――まだティシラとは出会ったばかりだというのに。
 ティシラは魂の抜けたような顔で天井を仰いだ。ソファの背もたれに体を預けて目を泳がせている。
 すべての希望が失われ、何も考えられないといった様子だった。
 そんな彼女の膝元に、体勢を崩したルミオルが倒れてきた。ティシラは短い声を上げた。
 打ち所が悪かったのか、まだ気絶している。そうさせたのはティシラなのだが、一気に怒りがこみ上げてくる。
「もう、なんなのよ!」ルミオルの頭を鷲掴みにする。「ねえ、こいつってなによ。こいつと関わって何もいいことなんかないじゃない。口ばっかりで、ああっ、腹立つ!」
 気持ちは分かるが、ロアは安易に同意することができずに乾いた笑いで誤魔化した。
「ねえ、こいつはいったい何がしたいの? なんで私に付き纏うのよ」
 怒りにまかせてルミオルを床に投げ落とそうとした寸前、ロアは静かに答えた。
「あなたが、国王陛下のご友人だからですよ」
 ――――。
 ティシラの中の炎が、吹き消されたような感覚に陥った。ルミオルから手を離し、じっとロアを見つめる。ロアは彼女のまっすぐな視線をまっすぐに見つめ返し、口を開く。
「ルミオル様は、ティオ・メイを滅ぼそうとしているわけではありません」
 予想もしていなかったロアの言葉に、ティシラはじっと聞き入った。
「ただ、自分という存在を認めさせたいだけなのです。一人の人間として、そして、自分を迫害してきた者への復讐を兼ねて……」
 ティシラは彼の言っている意味が分からないとでも言うような顔をしていた。
「ルミオル様は分かっていらっしゃいます。世界はおろか、ティオ・メイを滅ぼすことなどできないということを。そもそも、世界を滅ぼそうなんて、そんなことを本気で望んでいるわけではないのですから」
「……なにそれ」ティシラは首を傾げ。「じゃあ一体、ここで何をしてるの?」
「国を脅かす力を生み出しているんです」
 余計に理解できないとティシラは思う。ロアは続ける。
「ただ、傷をつけたいだけなのです」
 その言葉で、ティシラは少し眉を寄せた。
「何に?」
「国と家族。そして、自分自身に」
 やはり、分からない。いや、意味は分かるのだが、そういう考え方には、魔族であるティシラには理解ができないのだった。
「どういうことよ。何? まさかこいつは、ただのイタズラでこんなことやってるってことなの?」
「いいえ、イタズラとは言えませんよ。だって、彼は命を懸けていらっしゃるのですから」
 なんとなく、分かった。ティシラはそう思った。
 国を脅かすほどの力を作り出し、恨みのある者に敵意を向け、傷つける。しかしそれが本当の目的なのではなく、誤魔化しの利かない大罪を犯して、それに値する罰を受けるための計画だった。
 そうすることで全世界にルミオルという人間の存在、恨みの大きさ、恐ろしさを人々に植え付けることができる。それが、自分にできる精一杯の復讐であり、己の存在価値だと信じている。
 普通の人間ならどこかで怖気づくだろう。だがルミオルは留まらない。そのわけは、きっと。
「死を覚悟しているのね」
 ティシラはルミオルに目線を移した後、すぐにロアを睨み付けた。
「ルミオルは、死に場所を求めてる。違う? 大国の王子として生まれ、だけど兄にすべてを奪われ、それどころか邪魔者扱いされることが許せない。だから大国の王子である立場を利用して、それに相応しい死に様を手に入れようとしているのね」
 ロアの優しい目が、僅かに鋭くなった。
「そうです。ルミオル様は、敗北を前提とした戦を企てていらっしゃるのです。国王や兄上がいなくなっては後悔も自責の念も生まれず、自分を認めてもらうこともできませんからね」
 ティシラは唇を噛み、再びルミオルを見つめる。
「……私は『ついで』ってことね。父親であり国王であるトールの大事な客だから、巻き込もうとしている。世界を救ったと言われている重要な人物である私を共犯者にして、トールの命令で処罰させようとしているのね」
「その通りです。陛下は心優しい方だとお見受けしております。そのような方が大切な友人を自らの手にかけて、苦しまないわけがありません……ただ、ルミオル様の見解は少々異なっています。国王は所詮、国王。己の立場を守るためなら息子も友人も、平気で罰を与えて命を奪うことができる冷酷な人種であることを認めさせたい、それが真の目的なのです」
 ティシラは急に息苦しさを感じて、深く息を吸った。彼女の肩が上下に揺れたことを確認し、ロアは問う。
「どう思いますか?」
 ティシラは考えるまでもないというような間を空けて、一言。
「バカみたい」
 それを聞いたロアは、安心したかのように目を細めた。


   

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