SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-40





 ロアが初めてルミオルを見かけたのは、ティオ・メイの夜の城下町だった。
 その頃ロアは一人であちこちを放浪する旅人だった。
 宿を求めてメイを歩いていたところ、喧騒が起きた。どうやら酔っ払い同士が揉めているようで、通りすがりにその様子を眺めていた。
 そこにルミオルの姿があった。一目ではまさか彼がティオ・メイの王子だとまでは分からなかった。
 決して大柄ではないルミオルに対し、相手は厳つい大男が四人。周囲には野次馬だけでルミオルの仲間らしき姿もなかった。
 ロアは、彼がこの不利な状況でどう動くのかを見守った。
 ルミオルはこの城下では、特に夜の街では有名人だった。しばらくすると周囲が耳打ちを始め、大男たちも不穏な空気を読み取る。
 次の瞬間、ルミオルは勝利を確信したかのように笑い、こう大声で言い放った。
 俺は、この国の王となる男だ、と。
 続けて、自ら身分と名を明かして男たちを威嚇した。
 男の一人は、酔いもあって怒りが収まらない者もいたのだが、ルミオルが本物であることを知っている者が慌ててその場を収めさせた。
 男たちの悔しそうな背を見送って、ルミオルは踵を返した。同時、ロアは彼の顔に落ちた影を見逃さなかった。
 ロアは最初、彼を、権力を乱用する暴君だと思った。それは間違ってはいなかった。しかし、ルミオルがそうしていることを楽しんでいるようには見えなかったのだった。理由を知りたい。その好奇心だけで彼に近付いた。
 後を追うとルミオルは、ティシラを連れて行ったあの地下の酒場へ向かった。その場所は一見お断りであるため、ロアは入り口で止められてしまう。そこで、咄嗟にルミオルの名を上げ、彼を呼んでもらうことに成功した。
 ルミオルはまったく面識のない「怪しい魔法使い」を、追い払わなかった。どうせ今日は暇だったのだと、快くロアを飲み相手として迎え入れた。
 それが、二人の出会いだった。
 ルミオルとロアは不思議なほど簡単に打ち解けた。
 酔いが深くなった頃には、あれだけ高飛車だったルミオルは年相応の姿を見せ始めていた。自ら「いらない人間」なのだと自嘲する彼を、ロアはこう皮肉った。
「不要な人間なんて人が本当にいるなんて。生まれて初めて見ました」
 優しく宥めることも、魔法使いとして説教することもせず、私を雇わないかと持ちかけた。
 ルミオルは、ロアの「国に所属も貢献もしていない」という性質を気に入っていた。今やほとんどの有能な魔法使いは国の支配下にある。そうでない者は、人の弱味につけこんで悪を企む「黒魔術師」や「邪道師」と呼ばれる、まともに付き合うことが難しい犯罪者ばかり。そんな中、ロアのような者は稀少かつ貴重な存在であった。
 ルミオルに彼の誘いを断る理由はなかった。
 あっさりと契約が成立したことで、ロアは「私を疑わないのか」と聞いた。するとルミオルは「俺はいずれ抹殺される身。利用したければすればいい。ただし、裏切るなら俺の願いを叶えてからにしてくれ」と、後はどうなっても構わないと答えた。
 ロアはその言葉を否定も肯定もせず、「そうします」と笑顔で返した。
 そのときから、ルミオルの復讐が始まった。


 話を聞いているうちに、ティシラの畏怖の念はロアに向いていた。
「じゃあ、あんたがルミオルを挑発したってこと?」
 ロアの平静が揺らぐことはなかった。
「挑発ではありませんよ。私は彼を救いたいのです」
「何よそれ。あんたが手を貸さなければこんな空間は作れないでしょう。どうしてこんな下らないことをするの?」
「……下らない、ですか?」
「下らないわ」ティシラは吐き捨てるように呟いた。「どんな大層なことを企んでいるのかと思えば、好き好んで負け戦を仕掛けようなんて。どうせなら男らしく全力で向かっていったほうがいくらかマシじゃない」
 ロアは少し浅く椅子に座り直し、ゆっくりとした姿勢で目線を落とした。
「……それではダメなんですよ。そんなことをして袋叩きにでも遭ってみなさい。ルミオル様は亡くなった後まで笑い者になってしまうのですよ」
「今だって、十分に滑稽だわ」
 ロアは瞼と眼球だけを動かしてティシラを見つめた。目が合い、ティシラは口を結ぶ。彼の視線が、鋭く感じたからだった。
 そこには、ルミオルを見下し、嘲笑うことだけは許さないとでも書いてあるようだった。腹は立たなかった。ティシラはその理由をすぐに悟る。
 おそらく、ティシラが「魔族」であり、「少女」である限り理解し難い感情があるのだと思う。
 こっちは被害者だというのに、という理不尽さを抱きつつ、ティシラは口籠る。
「あんたって、おしゃべりなのね。そんなことベラベラ話して、まさか私が同情するとでも思ってるの?」
「いいえ」ふっとロアから棘が消え失せた。「普通の人なら同情するかもしれませんね。でも、あなたは違う。だから話しました」
 どういう意味だと、ティシラの不快感は募っていく。
「大体、あんたは何者なのよ」
 ロアは、その問いにすぐには答えなかった。言葉を選んでいるかのように、じっとティシラを見つめている。ティシラは彼のそんな態度に負けまいと、自分もロアから目を離さなかった。
「……私は、ただこの世界を見たくて旅をしているだけです」
 ロアは生まれついての魔法使いだった。静かな場所で過ごしてきただけで、アカデミーを通らずとも自然に魔力と英知を身につけていた。
「ルミオル様とは、偶然出会っただけ。彼は私の力を必要としてくれ、私も彼の力になりたいと思った。今は主従関係にありますが、私はルミオル様を気の合う友人だと認識しています。だから、彼が困っているのなら喜んで手助けをしたいのです」
 そう語るロアの口調は淡々としている。心があるのかないのか汲み難く、神経を逆撫でしてくるその喋り方。確かに、ルミオルと似ている。
 バカが二人つるんだことで、バカの度合いが強まっている。そうティシラは確信した。
 そんなことで被害を被る国が気の毒だと、心底思う。
 それでも、ティシラは止めようなどと考えなかった。そして同時に、ロアの素性を知るつもりもなかった。
 目を逸らし、小さな息を吐く。
「で、私はどうすればいいの?」
「どうすれば、と仰るのは?」
「このまま共犯者になるしかないのかどうかを訊いてるの」
「それは本意ではありません。お嫌でしたら城へお戻りください。お送りしますので」
 軽い口調であっさりと言い切るロアに、ティシラは肩透かしを食らった。
「なによ、本意じゃないって。だったらこんな騙したみたいなやり方しないで、最初から本当のこと話せばよかったじゃないの」
「いえ、正確には、私の本意ではない、ということです」にこりと微笑み。「ですが、ルミオル様があなたをお気に召していらっしゃるのは本当です。あなたがご迷惑ならこれ以上拘束はしませんし、ルミオル様が心配でしたらこのまま居てくださっても結構ですよ」
 ティシラはポカンと、間抜けな顔になった。
 私の、つまりロアの本意ではないという理由で、主人であるはずのルミオルの意見を聞かずにティシラを帰そうとしているのだ。
 散々喋っておいて、そんなに簡単に――ティシラは呆れるしかなかった。
「い、今私を帰したら、トールたちに全部バラして邪魔するかもしれないのよ?」
 もっともな脅しにもロアは迷いなく答えた。
「どうぞ、あなたがそうしたいのならばご自由に。どうせあちらの世界に具現化しなければ、この空間は誰にも、目に映ることさえないのですからね」
 準備が整うまで、ここに干渉する手段はないということだった。それこそもっともである。
 どうやら、ティオ・メイの本当の敵はルミオルではなく、ロアのようだ。
 ティシラはもう言い返す気がなくなっていた。
 しかし、どうぞと言われたら二の足を踏んでしまう。それに、ロアの余裕綽々な態度も気に入らなかった。こいつを戸惑わせてやりたい。そう思うと同時、ティシラは目を閉じて頭を横に振った。もしかするとそれが狙いなのかもしれないと思ったのだ。逆に、人の心理を操ってここに留まらせようとしているのではないかと、疑う余地が十分にある。
 帰ると言えば本当に帰してくれるのかどうかそれも怪しいが、ここにいるのは危険だと思う。ここにというより、ロアの近くにというのが正しい。ロアこそが一番の曲者なのだから。きっとティシラがここにいようが帰ろうが、彼は自分の思い通りに事を動かすつもりでいるのだろう。ならば、この身動きの取れない空間に閉じ込められていても、ただの共犯者になるしかなくなってしまう。
 この件に関して、ティシラはどうしたいのか、どうなって欲しいのかという意見はなかった。しかしどうせ関わりを避けることができないなら戻ったほうが――。
 そのとき、ティシラはあることを思い出して顔を上げた。
「あ、そうだわ。呪樹の……サヴァラス。彼に会いたいわ。帰る前に」
 ロアも今思い出したように「あ」と声を漏らす。
「そうでしたね。積もる話もあるでしょう。ご案内します」
 サヴァラスとは別に親しくはなかった。積もるほど話したことがあるわけではないが、彼の考えや魔界のことを聞いてみたかった。帰るのはそれからでもいいと、ティシラは未だ動かないルミオルを退けて腰を上げた。
 ロアも立ち上がり、扉の方へ数歩進んだあと、ティシラに向き合った。
「ごゆっくりどうぞ」言いながら、ポケットの中を探っている。「ルミオル様は私が介抱し、目を覚まされましたら、あなたのことも話しておきますので。ご安心を」
 ロアはポケットから細い銀のネックレスを取り出し、彼女に差し出した。
「これをお持ちください。これに念を送るだけで、私と会話ができます。お話しが終わったときに呼び出してくだされば、すぐにお迎えしますので」
 ネックレスの先には小さな水晶が付いていた。ルミオルが持っていたものと同じ石だった。ティシラが受け取ろうと無意識に左手を出した、その瞬間、水晶に触れそうになる寸前に指輪が小さな火花を散らした。
「な、なに?」
 ティシラは慌てて手を引っ込める。ロアも予想外だったのか、驚いた表情を浮かべていた。
「ああ……ごめんなさい」戸惑いながら。「私が指輪に嫌われていることを忘れていました。ティシラ、この水晶は右手で扱ってください。指輪には触れないように、注意してくださいね」
 ティシラは白けた顔をしながら、額に汗を流した。ロアにも呆れるが、指輪の徹底した敵対心も決して負けていない。ティシラは指輪に対し、そんなに嫌か、と、胸中で投げかけた。
 仕方なく右手で水晶を受け取り、ティシラはロアに着いて扉へ向かう。彼が呪文を呟くと今までと同じように扉が光り、一人で口を開いた。
 もう靄を潜ることに抵抗はなかった。ティシラはふっと振り向き、見送るロアに一言残していく。
「……なんで指輪があんたを嫌うのか、なんとなく、分かったわ」
 そう言われて初めて、ロア自身も分かったような気がした。参ったとでも言いたそうな笑顔で、ティシラを別室へ送り出した。


*****



 靄の向こうは、一度足を踏み入れたことのある空間だった。
 だだっ広い、不思議な森。世界そのものを包み込むすべての木々に緑の葉は一枚もなく、薄気味が悪い。時折、動くはずのない何かがゴソゴソと音を立てるたび、背筋に寒気が走った。
 足音をひそめて進むと、森が開ける。そこには上下左右が蔦で覆われた球状の場所に出た。中央には巨大な「核」が聳え立っている。大木ではなかった。天井から地面に続く、深く絡み合った蔦の集合体。
 今は仙樹果人とやらは沈黙しているらしく、辺りは静まり返っている。
 核の傍に魔族の気配があった。そこにサヴァラスがいることは分かる。
 核の少し手前でティシラは足を止め、目の前にある巨大なものを仰いだ。
「サヴァラス。私よ」
 ティシラの声が僅かにこだました。こんなに広くて鬱蒼としているのに、小さな音が隅々にまで染み渡ってどこにも逃げ場がないようだった。
 当然、サヴァラスに声が届かないわけがなかった。
 核の中心が、蔦をこすらせながら蠢いた。ティシラがそこに目線を移すと、動く蔦が次第に人の顔を象っていく。ズルリとサヴァラスの首が突き出てきた。頭髪は蔦に繋がっており、最初は作り物のように虚ろだった瞳に、光が宿る。
 視界にティシラを捕え、サヴァラスはゆっくりと口の端を上げた。おじぎをするように、頭を下げる。すると、絡んだ蔦の固まりだけが一メートルほどそぞろ伸びた。首の先に体はなく、彼の頭は長い首だけの化け物のような、奇妙な姿で再び核の中に潜り込んでいった。
 サヴァラスの魔力が上から下へ移動しているのが、ティシラには分かった。それを目で追っていると、ティシラの頭より高い位置で止まる。
 古い建物の戸口を無理やりこじ開けているような、軋む音が響いた。ティシラの目の前で、蔦の塊がうねる。まるで重いカーテンを開くかのように、蔦がアーチ状に口を開けた。その中から、サヴァラスが静かに姿を現した。
 先ほどの不気味なものではなく、魔界の貴族らしい凛々しい立ち姿だった。
 彼がティシラの前に進んで一礼すると、核は口を閉じた。
「ティシラ王女。先ほどは失礼いたしました」
 儀式の途中で侵入してきたとき、仙樹果人の騒ぎでティシラの気分が悪くなったことを詫びていたのだが、彼女はもう忘れており、何のことだか分かっていなかった。
「ちょっとだけ、話をしたいんだけど」
 改めてこの森の壮大さに感心しながら、ティシラは呟いた。サヴァラスは、こちらこそという微笑みを浮かべ。
「歓迎します」
 紳士的な態度でティシラを森の奥へ誘導した。


   

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