SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-41





 ティシラはサヴァラスの部屋へ案内された。
 森の奥の突き当たりに、城に似た屋敷があった。これはサヴァラスが自分で魔界から取り込んだものらしく、蔦で形成されたものではなかった。ちゃんとした材木や石でできた建物だった。
 人間の感覚では幽霊屋敷かと思わせるような不気味な風貌だが、魔界では珍しくない禍々しさが漂っている。王族と貴族である二人にとっては屋敷ではなく「部屋」程度の大きさだった。
 大きな玄関を進み、普段はサヴァラスが寛いでいる広いリビングに案内された。
 壁の一面は大きな窓になっている。しかし、その向こうは見晴らしのいいものではなかった。蔦だ。蔦の壁以外、何も見えない。
 ティシラは魔界に戻ってきたような気持ちになり、中央にあったソファに遠慮なく腰を下ろした。サヴァラスも低めのテーブルを挟んだ向かいのそれに座った。
「ティシラ様。こんなところであなたにお会いできるなんて、光栄でございます」
 ティシラは気の抜けた顔をしていた。
「私だって驚いたわ。で、あんたはどうしてここに?」
「私はロアに召還されたのですよ。まさか人間界にああいう魔法使いが残っていたとは……持ちかけられた話も面白そうだったので、彼と契約を結びました」
「……でも」言っていいものか、一瞬迷い。「負ける前提で戦力を育ててるんでしょ?」
 サヴァラスが何も知らないわけがないと思いたく、ティシラは話を進める。彼に対して情があるわけでもなんでもなかったが、ロアの野心だけで魔界の貴族に恥をかかせることは避けたかった。
 しかしティシラの心配を他所に、サヴァラスはまったく動じなかった。
「仙樹果人は使い捨てですから。私には被害も損害も何もありません。ご心配なく」
「そっか……」
 急に、ティシラを酷い疲労感が襲った。
 疲れた疲れたと思ったまま、なんだかんだで神経の磨り減ることばかり続いているのだ。サヴァラスとの会話を最後に、今度こそ休もうとティシラは心に誓う。いっそのこと、ここで少し眠っていこうか。急いで帰らなければいけない理由もない。
(ああ……でも、もしマルシオが探してたら、また問い詰められたりして面倒なことになるかもなあ)
 瞼が重くなった、そのとき、隣の室の扉が開いた。
 奥に誰かいたのかと思いつつティシラが顔を向けると、そこには一本の枯れ木が立っていた。驚くべきは、その木が枝に、ティーカップの乗ったトレイを抱えて歩いていたことだった。ティシラの眠気は飛び、目を見開いた。
 枯れ木は人間の大人ほどの身長で、手足らしき太目の枝を違和感なく使いこなしている。その動きや仕草は、人間とそう変わらなかった。顔の位置はどこだか想像できるが、目鼻などは見当たらない。
 ティシラが背を伸ばして枯れ木に目を奪われていると、それは何も言わずに二人の前にあるテーブルにカップを並べていく。作業が終わると、背を向けてノシノシと出て行った。
「な、何……今の」
「仙樹果人の試作品です。よく出来ているでしょう」
 サヴァラスはそう言うが、未完成な歩く枯れ木ごときを自慢しようとは思っていなかった。
「ちゃんと動き、主人の言うことを理解して従うことができるかどうかを実験中です。悪くはないです。後は、もっと体を強化させて戦う方法を仕込まなければいけません」
 ここが魔界ならば難しいことではないのだが、魔力の弱い人間界なのが問題だった。しかも、最初ここは土台となる地面すらない空間だった。
「呪樹の国から持ち込んだ一つの種から、すべては始まりました」
 まずサヴァラスが種を植える土壌を魔力で生み出した。芽を出したそれをロアが増やし、望む形に成長させていった。そして蔦だけで壁を作り、生命を閉じ込め、そうすることで一つの空間になった。それが、今いるこの世界である。要した時間は、僅か半年ほどだった。
「ロアという魔法使い」サヴァラスは目を細め。「なかなか肝の据わった男です。人間にしておくのは勿体ない。しかし、かなりしたたかでしてね、決して悪ではないのですよ。だからと言って、奴には正義感など欠片もない。ああいう掴みどころのない者は苦手です」
 枯れ木が消えた扉をいつまでも見つめていたティシラに話しながら、サヴァラスは運ばれてきた紅茶に口をつけた。
「嫌いではありませんが、契約履行後はすぐにでも縁を切るつもりです」
 ティシラはやっと彼に向き直り、紅茶を一口飲む。今は味などはどうでもよく、程よい熱さの液体が口中に広がったとき、喉が渇いていたことに気がついた。
 もう一口、紅茶を味わいながら、ティシラは目線を下げる。
 あの枯れ木は、ここが魔界ならああいうのがいても不思議ではないのだが、人間の前に現れようなら騒ぎが起きないわけがなかった。
 しかも先ほどものは試作品であり、実際人間を襲うのは、もっと大きく、もっと凶暴で危険なもの。その上、この世界からいくらでも量産できるのである。仙樹果人は使い捨て。対するは、一人ひとりが意志と感情を持つ人間。
 その悲惨な情景はティシラでも想像できた。ルミオルのイタズラは、かなりの痛手を負わせることになる。そしてその結果、誰一人喜ぶ者はいないという答えの出ているもの。
 なんて陰険で、醜悪な復讐なのだろう。
「……ルミオルは」ティシラは無意味に手中で揺れる紅茶を見つめていた。「どうしてそんなに家族を恨んでいるのかしら」
 彼女の呟きをすべて聞き取ることができなかったサヴァラスが、少し眉を寄せた。
「え?」
 魔族相手に何を言っているんだと、ティシラは我に返る。
「な、何でもない」
 サヴァラスが知っているとも、理解しているとも思えなかった。どうせなら本人かロアに聞いてみればよかったと後悔しつつ、話を変える。
「ああ、そうだわ。パパとママは元気?」
 サヴァラスはそれほど彼女の態度を気にしなかった。姫とは言っても、ティシラは少女なのである。心細くなることがあってもおかしくないのだから。
「ええ。お元気でいらっしゃるようです。まあ、私はそれほど近くにいないので詳しくは伺っておりませんが」
「そう……元気なら、いいけど」
 ティシラは乾いた笑いを漏らして誤魔化そうとしたが、この話題はサヴァラスが一番聞きたかったことだった。
「それよりも、どうしてあなたは家出などされたのですか」
 ギクと、ティシラの胸が締め付けられた。
「噂では、正体不明の男と駆け落ちしたと……」
「か、駆け落ち?」ティシラは顔を紅潮させ。「違うわよ。誰がそんなことを。もう、そんな変な噂立てたらパパが可哀想でしょ」
 ティシラの家出は初めてのことではないと聞いていた。だから彼女ならあってもおかしくないと思っていたサヴァラスには、ティシラの反応が意外だった。
「では……どうして」
「え? あー、えっと」ティシラは目を泳がせて。「なんとなく、退屈だったから、遊びにきただけよ」
 苦しい言い訳だった。いつの間にかサヴァラスの笑みは消えている。
「そうですか」
 サヴァラスはそれ以上聞かなかったが、更に聞かれたくない質問を投げてきた。
「……つかぬことを伺いますが、その指輪は?」
 しまった、と、ティシラの脈が早まる。もしも指輪のことを父に報告されたら、我慢できずに人間界に乗り込んでくるかもしれない。これだけは隠してもらわなければ。
「こ、これは、その、あれよ。ただの飾り」
 ティシラの慌てようは、明らかに何かを隠しているとしか思えない。サヴァラスは冷ややかな目を向ける。
「本当に、駆け落ちされたわけでは……」
「ないわよ! 相手もいないのに、なんでそんなことしなきゃいけないのよ。いい? このことはパパには内緒よ。そ、そのうち取れ……取るから。余計なこと告げ口したら許さないからね!」
 魔界では、ティシラが不相応な相手と恋に落ちて、ブランケルの許しを得ることができずに家出したと言われていた。親バカなブランケルと破天荒なティシラの二人なら、十分にあり得ると誰もが納得していたのだった。
 だが、本人は違うと言う。隠す必要もないはずなのだから、本当なのだろう。なぜこんなに必死になっているのか分からないが、知る必要があるなら、そのときに知ればいい。サヴァラスに笑みが戻った。
「――ところで」カップをテーブルに置きながら。「呪樹の主が、あなたに会いたがっていましたが」
「え?」話題が逸れ、ティシラは肩の力を抜いた。「どうして?」
「どうしてって、あなたを妻にしたいと切望されていたのですから、当然のことでしょう」
「つ、妻? 何よそれ」
 またそういう話かとうんざりするが、ティシラは魔界の姫である。彼女を娶るということは、魔王の次の位に就ける、これ以上にない大きなチャンスなのである。そういった申し出が尽きないのは当然のことだった。
 ブランケルの親バカは魔界中で有名な話だった。決して容易いことではないが、確実に一つの枠はあるのだ。つまり、それを手に入れる者が確実に、一人はいるということ。可能性がある限り、野心の強い貴族のプロポーズが絶えることはない。
「あなたが駆け落ちされたという噂を聞いて、主は相当落ち込んでおりましたよ。でも、誤解だったようで、安心しました」
 魔界のことは聞きたかったが、こんな場所でまでそんな話をされるのは鬱陶しいと、ティシラはあからさまに嫌な顔をする。
「だからって私と結婚できるわけじゃあるまいし。主のことは、名前は知ってるけど一回も会ったことないわよ。それって、パパが追い返してるってことでしょ?」
 冷たい態度のティシラに怯まず、サヴァラスは小さく吹き出した。
「その通りです。城へ足を運ばれた回数は百を超えるそうです。主は魔族としてはかなりの力を持っていますが、外見が、その、特殊ですからね」
「特殊?」
「ええ。まずは大変なご老体ですしね。それだけでブランケル様の目に適うことはないのでしょう。それに、主はほぼ老木のようなお姿ですから……」
 ――追い返されて当然だと、ティシラは思う。しかし、呪樹の一族は魔界のあらゆる樹木を支配していると言っても過言ではないほどの権力があった。その自信が、身を引くことを許さなかったのだろう。
 こういうときはブランケルの余計なお世話に感謝せざるを得ない。ヘタしたらティシラの見合いは、毎日休む間もないほど続いてしまっていたかもしれないのだ。
 そんなブランケルを置いて出てきてしまったことは、やはり申し訳ないと思う。だが縁を切ったわけではない。きっと、父と母はいつでも自分を許して歓迎してくれると、ティシラは信じることにした。
 今ごろ何をしているだろうか。もしかしたら自分を連れ戻したく、何度も人間界に乗り込もうとしたのかもしれない。それとも、まさかもう見限られてしまっているとしたら――。
「……それで」彼女の表情が暗くなったとほとんど同時、サヴァラスが続ける。「私も、立候補させていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 ティシラはしばらく彼の言葉の意味を考えてしまった。
「……は?」
「ここで会ったのも何かの縁かと思います。私だって魔界の貴族。こんな機会を見逃す手はありませんから」
 ティシラは大きなため息を漏らす。
「何言ってるのよ……あんたの主が狙ってるってのに、抜け駆けして怒られないの?」
 サヴァラスとてこの場で答えを出してもらえるとは思っていない。彼女の態度を気にせずに切れ長の瞳を細める。
「いずれ私が主の後を継ぐことは決定しています。あなただけでなく、ブランケル様だって若く美しい私のほうが望まれるのでは?」
 確かに、サヴァラスは少々奇妙ではあるが、神秘的で貫禄もあり、容姿端麗である。それに、彼の魔力と能力はこの世界を見れば一目瞭然。本家の呪樹のそれは、これ以上のものだと想像するに容易い。
 きっと魔界では、主を優先していたためにブランケルの前に出てこなかったのだろう。もしかすると、せめて息子、つまりサヴァラスなら会わせてもいいくらいは言われたのかもしれないが、主がそれを認めなかったというのも考えられる。
「……立候補するのは自由だけど」それでも、ティシラは特に乗り気ではなかった。「私に言っても仕方ないわよ。パパに申し出たほうが早いんじゃない」
「今ここであなたにお会いできたからこそです。ティシラ様と直接親しくでき、あなたからブランケル様に推していただければ、可能性はぐっと高くなるでしょう? だから、ここでお話ししているんですよ」
 その言い分は、よく分かる。しかし、今ティシラには結婚相手を決めるという気持ちは皆無だった。それどころではないというのが本音である。
(……言い寄る男は底を尽きないというのに、なんなのかしら、この虚しさは)
 ティシラは遠くを見つめて脱力する。その理由は、サヴァラスには分からない。
(そうよ。指輪よ。これのせいで何もかも台無しなのよ……ああ、そうだわ。相手が魔族なら、どうなのかしら)
 ティシラはまたよからぬことを考える。
(そういえば、マルシオを襲ってるときは反応しなかったわ。もしかして、人間だからダメなのかも……だったら、サヴァラスなら……でも、マルシオのときは、魔力を使わずに追ってただけだしなぁ。あーあ、お腹空いてきた。試しにこいつを……いいえ、あの痛み、もうダメ。思い出しただけで寒気がする)
 ティシラは放心したまま、心の中でブツブツと呟いていた。そのうちに彼女に取り付いてきた真っ黒な負のオーラが、目に映りそうなほど濃くなっていく。理由を知らないサヴァラスでもさすがに、その異様な空気に緊張せざるを得なかった。
「……あの」
 今すぐどうこうというつもりのなかったサヴァラスは、死にそうな顔をしているティシラに引いていた。
「大丈夫、でしょうか……」
「はあ?」
 心配になって声をかけただけなのに、ティシラは急にサヴァラスを睨み付けてきた。
「い、いかがされました? どこか具合でも……」
「あんたのせいよ」
「えっ?」
 唐突なティシラの怒りに、サヴァラスは短い声を上げる。
「あんたがつまらない話するからよ。もう二度と指輪のことには触れないで。いいわね」
 何がなんだかと、サヴァラスは戸惑うしかできなかった。
「何よ、どいつもこいつも役立たずのくせに、図々しい」
 ティシラは立ち上がって、悲鳴に似た声を上げた。
「痛い思いするのは私なのよ。少しは相手を思いやろうっていう気持ちはないわけ? 私と結婚したかったらね、この指輪の力を超えてからにしなさいよね!」
 サヴァラスは面食らい、無意識に「はい」と呟く。何のことだかは分からない。だが、明らかな八つ当たりであることだけは確かだと思った。


*****



 すっかり機嫌の悪くなったティシラを、サヴァラスは腫れ物にでも触るかのような態度で扉まで送った。
 これからどうするのか尋ねられ、ティシラは唇を尖らせて「知らない」と一蹴する。扱い難いのは聞いていたが、まさかこれほどの気分屋だったとはと、サヴァラスのほうが神経をすり減らしていた。
 しかしティシラがいようがいまいが、ルミオルとロアの計画は進められている。それとこれとは別であると、サヴァラスは気持ちを切り替えていた。
 ティシラはサヴァラスに挨拶もせず、ロアからもらった水晶で彼を呼び、扉を開けてもらった。
 ティシラが靄を潜ると、ロアが出迎えてくれた。室内に進むと、顔に痣を作っているルミオルが眉を寄せていた。ソファに深く座り、ティシラと目が合うとツンと逸らす。
 彼の態度を見ても、ティシラは自業自得だと同情の余地はなかった。
「思ってたよりも早かったですね」
 険悪な雰囲気の中、ロアはいつもと変わらない優しい笑みで語り掛けてくる。だがティシラは、彼の本性を見た後である。ジロリと冷たい目線を送った。ロアがそんなことで動じるはずがなく、まるで何もなかったかのように手を差し出した。
「水晶を、よろしいでしょうか」
 返して欲しいということだった。こんなもの別に欲しくないとでも言いたげに、ティシラは乱暴にネックレスを突き返す。
「失礼します」
 ロアは囁くように言いながら、手を収める。
 ティシラも右手を引っ込め、じっとロアの深い瞳を見つめていた。
「……どうぞ」ロアも目を逸らさず。「こちらへ。お座りください」
 ティシラは思い詰めたように唇を噛んで立ち尽くし、ぎゅっとスカートを掴む。
 ロアは彼女の気持ちを理解していた。薄く微笑んだ後、ルミオルに向き合った。ルミオルはそれに気づき、ソファの端で足を組み、不貞腐れた態度のまま口を開く。
「……悪かった」
 ティシラは意外な言葉に目を丸くする。ルミオルは顔を背けたままだった。
「もうあんなことはしない。女の子に乱暴しようなんて、どうかしてたよ」
 特に根に持っていなかったティシラは、そう素直に謝られると、逆に彼を騙そうと演技していた自分に罪悪感を抱いた。
 ロアに説教でもされたのか。それにしても、根は素直な奴なのだろうと思う。
「別に、気にしてないわ」
「……そう。よかった」
 力なく呟いたあと、腰を上げた。
「送るよ」
「え?」
「城に戻るんだろう?」
 ルミオルはティシラの答えを聞かずに、この空間に玄関に当たる、魔法陣の描かれた部屋への扉に足を進めた。
「ロアが全部喋ったらしいな。まったく、こいつはいつもそうだ。勝手なことばかりする」
 その声は元気がなかった。ティシラが彼の背中を見つめていると、ロアが軽く肩を押してきた。

 玄関へ移動し、ティシラは言われるままに魔法陣の中心に立った。
 ルミオルは陣の中には進まず、ロアの隣でティシラと向かい合う。
「……俺が連れてきたのに、城まで送れない。ごめん」
 ――何かが、違う。ティシラは彼の変化に気づいた。
「俺はもう城へは、あっちの世界へは戻らない」
 突然の宣言に、ティシラはつい声を漏らしそうになる。ルミオルは、既に人の意見など必要としておらず、無表情のまま続けた。
「いや、あと一回だけ戻ることになるが、それで、最後にする」
 瞬時にして、ティシラはその意味を悟った。胸が、少しだけ痛んだ。
「楽しかったよ……短い時間だったけど、ティシラに会えてよかった。俺を一人の人間として、物怖じせずに接してくれたのが、嬉しかった。もしかしたら、本当に好きになっていたのかもしれない」
 ――嘘でも本当でも、これが最後のつもりなのだということが伝わり、ティシラは何も言えなかった。
「……でも、俺の中には憎しみしかないんだ。それだけで一杯になっていて、誰かを好きになる隙間は、どこにもない。だから君のことを好きになんかなれないし、僅かでもなれていたのかどうか、それも自分で分からない。ここに連れてきたのも、ロアの言ったとおり、利用しようと思っていただけなんだ。ティシラと一緒にいたいという感情より、あいつらへの恨みのほうが上回って、止めることができない。そのためなら君を傷つけても、何がどうなっても構わないと思ってる……俺は、卑怯だ。そうしなければ生きていけない。だから後悔はしていないし、するつもりもない」
 ――今のルミオルには生気がまったくなかった。今までの生意気で憎たらしいあの面影はどこにも見当たらない。
 きっとこれが、ロアが見たもの。そう思うと、ロアがなぜ彼を尊重し、力を貸しているのかが分かったような気がした。
 彼は生きている。目の前に立って、喋っている。本音を打ち明けている。なのにその目は、生きていなかった。
「迷惑だっただろうけど、付き合ってくれて嬉しかった……ありがとう」
 ルミオルがロアに目配せをすると、ロアは頷いて呪文を唱え始めた。同時、魔法陣から淡い光が放たれ、ティシラはそれに包まれる。
 ルミオルは再度ティシラを見つめ、虚ろな目を細めて微笑んだ。霞む視界の中、彼は別れの言葉を紡ぐ。それはティシラの耳に、はっきりと届いた。

「さよなら」


   

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