SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-42





 長い時間を過ごしたような気分だったが、実際はあっという間の出来事だったことに気づく。ティシラが城を出てきたときと、町の風景の変化があまりなかったからだ。まるで中身の濃い夢でも見ていたようだった。
 ティシラはぼんやりと城へ足を進める。
 城下は平和そのものだった。子供は遊び、大人は働いている。当たり前の情景なのだが、果たして本当にそれが当たり前なのか、ティシラは疑問に思った。
 平和が壊れるときは、一瞬のことである。なのに一度壊れた平和を取り戻すには長い長い時間がかかるものだった。今ここにあるそれも、何百年、何千年とかけて取り戻したもの。
 存在を確認した「恐怖の芽」を摘む方法は、ティシラにはある。もしルミオルが、ただ憎い者を殺して笑いたいだけなら、それを知った時点でティシラは近くにいるのさえ嫌になっていただろう。だがルミオルは少し違った。彼は死を覚悟していた。何よりも、相手を殺すことを目的とはしていないのだ。そのやり方や考え方は、どうしても分からない。
(……ルミオルは、どうしようもない。問題はロアだわ)
 ロアは常に先を読んで行動する。きっと、ティシラを拘束するよりも「自由」を与えて泳がせたほうがいいと考えたのだろう。わざとルミオルの前で水晶を取り返す仕草を、つまりティシラとの繋がりを切ったと見せ、そしてルミオルに分からないように水晶を持たせたということは、また彼に内緒で勝手なことを企んでいるのは確か。
 ロアの目的が何かははっきり読めないが、きっとルミオルに同情してティシラがまたあの空間へ戻ってくるとでも思っているに違いない。
(なによ、バカにして)
 ティシラの中に再び苛立ちが湧き上がった。
(……ナメんじゃないわよ)歩く速度を早めながら。(あいつだけは、思い通りにさせたくない、させるものですか)
 ティシラは大股で城下の大通りを突き進んでいった。


 城下から城の広場に続く曲がりくねった坂道を歩いていると、広場の塀から見慣れた顔が覗いていた。マルシオだ。ティシラの姿を見つけ、目を見開いた。
「ティシラ!」
 やはり探していたようだ。普段は開け放たれている門に移動し、その場でティシラの到着を待っていた。
 ティシラは返事もせずにマルシオの元へ向かっていく。その足が、ふと止まった。彼を見上げる視界の、更に上部、城の一番高い位置に何かの気配を感じたのだった。
 そこにあったのは人ではなかった。マルシオと似た気配。薄い銀のともし火。
 フーシャだ。おそらく、そこにいたのは実態ではない。ぼんやりとした「心の目」のようなものだろう。ティシラに見つけられたと悟ると、その気配は煙のように消え去っていった。
 マルシオを見張っていたのか、ティシラを探っていたのかは分からないが、決して穏やかではない気配だった。どうやらマルシオは気づいていないようだ。
(……うわ)ティシラは背筋を震わせ。(何なのよ、あの女。不気味……)
 フーシャの存在を思い出し、まだ他にも問題があったと、ため息が漏れた。またマルシオに必要以上に心配されるのも面倒だと、気を取り直して足を運ぶ。
「ティシラ、どこに行ってたんだ」
 マルシオが駆け寄ってくると、ティシラは素知らぬ顔で平静を装った。
「ちょっと散歩してただけよ」
「探したんだぞ」マルシオは安心したように肩を落とした。「お前が行きそうなところとか行ってみたけど、いなかったから」
「どうしてそこまでするのよ。別にヒマなんだから町を散歩するくらいいいでしょ」
「そうだけど……ちょっと様子がおかしかったから」
 マルシオは声を落とす。しかし、彼の心配を余所に、ティシラは出かける前のできごとなど既に忘れてしまっていた。
「そうだっけ?」
 彼女の軽い返事が素であることが分かり、どうやらいつもの彼女のようだと安堵感を得た。それにしても、ティシラを心配すると損をすることが多い。よくあることとは言え、マルシオは未だ慣れることができなかった。
「……なんともないなら、いいけどさ」
 気の抜けたマルシオに、ティシラは少し疲れたから座りたいと伝え、室内へ移動した。

「影?」
 未使用の客間を借り、ティシラとマルシオはテーブルに向かい合って腰を下ろした。
 従者に頼んで運んできてもらった紅茶で落ち着いた後、マルシオは問題になっている「影」の話を切り出した。
「うん、まだ正体不明だからなんとも言えないけど、もしあれが悪いものだったら凄く危険だと思う」
 ティシラには「影」の正体が分かっていた。つい先ほど、見て、触れてきたものだから当然だった。
 思っていたよりも存在の確認が早かったことに、ティシラはメイの技術に感心していた。それというのも、どうやらロアのミスがそうさせたようだが、今となっては何もかもが彼の計算かもしれないと疑ってしまう。
「……ただ」マルシオは言い難そうに声を潜める。「もしかしたら、ルミオルが関わっているのかもと……」
 ティシラは見えない程度に肩を揺らした。
「なんで?」
「いや、証拠があるわけじゃないんだが、ルミオルなら考えられると、誰かが……」
「誰かって?」
「……噂みたいなものだよ。と言っても、影の存在を知らされた一部の者の、その周囲の誰かだけど」
 その勘は当たっているのだが、証拠もないのに決め付けていることをティシラは不快に思う。悪い気配というだけでルミオルの名を出される城の現状に、思った以上に彼が酷い扱いをされていることを実感した。
「なにそれ。ただの言いがかりでしょ。正体不明の悪いものは全部ルミオルのせいなの?」
「そうじゃないけど……」
 ティシラの言うことはもっともだと思うと同時、マルシオは別の疑問を抱いた。
「ところで、お前はルミオルと会ったのか?」
 ティシラは一瞬目を逸らし、すぐに戻す。
「会ったわよ」
「どこで?」
「城で。同じ屋根の下にいるんだもの。そりゃ、会うわよ」
 ルミオルとティシラの両者を知っているマルシオからしたら、もしティシラがルミオルと会ったなら、なんだあのバカはと文句を言ってきそうなものだと思っていた。しかし、ティシラは今まで、そしてここで話題にしても平然としている。女好きのルミオルだから彼女には優しくしたのかもしれないが、そんなものに騙されるティシラではないはず。なにか、怪しい。
「何を話した?」
「ん? 私が可愛いって近寄ってきて、結婚しようとかつまんないこと言ってたから、ちょっと相手してやっただけよ」
 ルミオルならあり得る、とマルシオは思う。しかし本当にそれだけなのか。だからと言って、またティシラを問い詰めても機嫌を悪くするのは目に見えている。マルシオが何から尋ねようか考えていると、ティシラから口を開いた。
「……ルミオルがバカなのは、よく分かったけど、どうして、あんなに兄弟で仲が悪いの?」
 そのことは、いずれ話そうと思っていた。マルシオは考えるだけで疲れるとでも言うように、力を抜いて背もたれに背を預けた。
「ラストルとも会ったのか?」
「んー……会ったってほどじゃないけど、二人が喧嘩してるとこを見ちゃって」
 そう言えばと、つい最近二人が剣を抜き合ったという話を聞いたことを思い出す。きっとそこにティシラは居合わせていたのだろう。
「二人の仲の悪さは、今となってはもう当たり前のことだけど」彼女が他人を気にするのは珍しいと思いながら。「あれでも、小さい頃は凄く仲がよかったんだ」
 マルシオは二人が生まれる前から城には足を運び、トールたちとも交流があった。当然、ラストルとルミオルの成長も見守ってきている。
 それでも、マルシオが城を訪れるのは用があるときだけであり、二人と会うのはそのついででしかなかった。元々子供が好きということもなかったが、いずれトールの後を継ぐであろう兄弟の様子にはそれなりに興味を持っていた。
 ラストルは弟ができたときは本当に喜んでおり、新しいおもちゃを手に入れたかのようにいつも彼の傍に寄って話しかけていた。兄に大事にされながら成長したルミオルはよく笑う素直な子になり、二人は常に行動を共にしていた。
 そんな彼らが変わったのは、城の裏にある森の中での事件の後だった。二人はその日を境に笑わなくなった。そして一切、互いに口をきかなくなってしまったのだった。よほど怖い思いをし、助けようとした召使が目の前で亡くなってしまったことは、幼い二人には衝撃的だったのだと、周囲は気持ちを察しているつもりだった。
 しかし、兄弟はただの少年ではない。いずれは国王の後を継ぐ資格と権利を持って生まれた者。幼いとは言え、後遺症になるほどの怪我がなかったのだからいつまでも臥せっていてはいけないと、厳しいことを言い出す者も少なくなかった。
 トールとライザを初めとする、二人を慕う者は彼らを思いやっていたのだが、兄弟の仲が修復することはなかった。
「いくら理由を聞いても、悩みがあるなら相談して欲しいと言っても、二人は何も話さなかったんだ。そのうちに大きくなってしまい、もう自分でものを考えて行動できるようになったから、今じゃあの状態が普通になってしまっている」
 もちろん、怖かったからというだけで兄弟が険悪になる理由にはならない。事故の現場にいたメリアという老女が生きていれば原因を解明できたかもしれないが、そんなことを言っても仕方ないと、二人が口を開かない限りはどうしてやることもできないと、誰もが諦めていった。
「それだけじゃないんだ」
 マルシオはふっと扉に目線を投げた。人に聞かれてはまずいことなのだろうと、ティシラは勘付く。
「トールに聞いたんだけど、事故の後、しばらくしてルミオルは虐待を受けていたらしいんだ」
「……え?」ティシラは息を飲み。「誰に?」
「複数の従者に、らしい。ルミオルの傍につく召使や、彼の世話を見る教師。最初は人柄もよく、トールも信頼を置ける者を選んでいたんだが、隙ができた途端に、他の目を盗んでルミオルを罵倒したり、暴力を振るったり、酷いことをしていたらしい」
 それでもルミオルは誰にも心を開こうとしなかった。ゆえに発見が遅れることもあったのだが、トールやライザたち肉親と、それに近い存在のディルマンなどが気を配ることで虐待は発覚していった。
 裏切り者を問い詰めると、それらは口を揃えて「教育の一環」だと言い張った。ルミオルが言うことを聞かなかったから、横着をしたからと彼のせいにするばかりで話にならなかった。トールはその者たちにきつい罰を与えて解雇し、ルミオルには深い愛情を持って慰めていった。それでもルミオルは変わることなく、今に至っている。
「一つ分かったことがある。一度だけ、ルミオルへの虐待が発覚する前に逃亡した者がいたんだ。トールは見逃すことができずにそれを探した。その男は元の住所にはおらず、一家でどこかへ引っ越していたが、追っていることを公にはせずに探し出した。そしたら、そいつはどこかの森の奥で大きな一軒家を建て、裕福な暮らしをしていたらしい」
 誰かに頼まれてルミオルを虐待し、見つかる前に逃亡を果たしたことで報酬を手に入れた――そう考えるのは自然なことだった。
 トールは男を捕え、どうして逃げたのかを問い詰めた。すると男は泣きながら、欲に目が眩んだのだと白状した。
「男に取引を持ちかけたのは、城の従者の一人だった。そいつは、ラストルに最も近い地位を持つ者だった」
 その話を聞いて、誰もがラストルの顔を思い浮かべるものだった。ティシラも例外ではない。
「……どうして? どうしてラストルはそこまで弟を憎んでいるの?」
「それが分からないんだよ。時期王位継承の権利だって、兄であるラストルがまともにやっていけば自然と手に入るものなのに、どうしてそこまでしてルミオルを迫害しようとしているのか……考えられる可能性としては、ルミオルが王位を狙っているかもしれないということだ。でも、ルミオルはあの通り、まったく真面目に行政に関わろうともしないし、素行も悪くて周囲からの評判も最悪だ。好きでやってるみたいだし、あんな態度で王位を継ごうだなんて、考えにくいだろう」
「そうだけど……じゃあ、例えばだけど、ルミオルがラストルの暗殺とか、企んでるとしたら?」
「それも考えられたことはある。でも、そんなことになったら真っ先にルミオルが疑われる。あいつもそんなにバカじゃない。本気なら別の方法があるだろう」
 確かに、ルミオルは兄を殺そうとは考えていない。彼がバカを装っているのは、自由に行動できる環境を作るためである。それに、もしもラストルがルミオルの本当の企みを知っているとしたら、こうして泳がせているとは思えない。「影」については、マルシオと同じように、今は警戒の段階でしかないのだろう。
「ルミオルがラストルを恨んでいるのは確かだ。逆もだが、その理由は分からない……トールとライザは、子供の心の闇を分かってやれない自分を責めている。もう大人になった以上、ヘタに手を出すことはできないが、答えを出さなければいけないときがきたときには、必ず正しい道へ進ませると、いつも二人のことを考えてるよ」
 二人の行動には理解し難いことが多かった。
 召使にルミオルを虐待するように仕向けていた従者は、「ラストル様をお守りするため」の一点張りで、最後は自害に至った。ラストル自身は何も知らないとしか言わなかった。ただ、ずっと傍にいた大人が、自分の弟を傷つけていた事実を聞かされても顔色一つ変えなかったことに、トールは事の重さを思い知ったと言う。
 ティシラも暗い話に気分が落ちていた。幼い頃からそんなことが続いていたのなら、ルミオルの恨みもあの捻くれようも納得ができる。
「……で」落ちていた目線を上げて。「あんたは、ルミオルをどう思ってるの?」
 無意識に拳を握っていたマルシオは、はっとそれを解く。
「俺は……まあ、王族ってのは大変だなって、最初はそう思ってたよ。でも、あの二人の険悪さは普通じゃないだろう。俺だって分かるよ。二人とも健康だし、頭も悪くない。国を守るべき資格を持つ男が二人もいるんだ。あの二人が上手くやってさえいれば、未来も安泰だと国中が喜ぶことだ。なのに、どうしてこんなことに……」
 そこで、ティシラが口を挟んでくる。
「そんなのはいいから、あんたがどう思ってるか聞いてるの」
「あ、ああ……そうだな」少し、考えて。「俺は、ルミオルは可哀想だとは思う。ラストルもきっと何か苦悩があるんだろうし。でも俺は王位や家庭の事情にまで口出しできない部外者で、何もしてやれない。好きか嫌いかって聞かれたら……今のあいつらは、好きじゃない、かな」
「ふうん……」
「だってさ、子供の頃にトールたちが何度も手を差し伸べてるんだ。それを拒絶してきたのは本人だし、今はもう二人とも自分で物事を考えて判断できる大人だ。それでも、まだ幼いところはあるんだろうけど、あいつらは二人揃って人の話なんか聞こうともしないんだ。どうしようもないじゃないか」
「うん、そうね」
 聞いてきておいて、素っ気ない返事を返すティシラに、マルシオは気まずさを感じた。
「そういうお前はどうなんだよ」
「え?」
「あいつらをどう思う?」
 問われ、ティシラはうーんと首を捻った。その様子で、マルシオは彼女の答えを先読みした。
「よく分かんない」
 やっぱり、とマルシオは小さなため息を漏らす。
 ティシラは、二人への特別な感情はなかった。その中で、二人がどうなっていくのか、どういう答えを出すのかは知りたいと思う。
 ただ一つ、マルシオの話を聞いて感じたことがあった。ラストルとは顔を合わせただけではっきりと断言できるものではなかったが、そう考えれば彼の行動の理由が分かるかもしれないと思ったこと。それは。

 ――ラストルは、ルミオルを恐れている。

 そしてルミオルは、彼が抱いている不安を、知らない。
 歯車の小さな小さなズレは、時間をかけて大きな間違いを起こそうとしている。ティシラは不確かな予感を一人、胸の中にしまい込んだ。


   

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