SHANTiROSE

CRIMSON SAMSARA-44





 ティシラは二人に十分な説明もしないうちに、ロアに命令してサヴァラスのところへの道を繋がせた。
 ルミオルは慌ててその後を着いていく。
「ティシラ、どういうつもりだ。何がしたい」
 ティシラは足を止めないどころか、振り返りもせずに答える。
「そうね。一言で言えば、ここは私が乗っ取るってこと」
「乗っ取るだと?」
 まだ意味が分からないルミオルは、ロアに助けを求めるように目線を投げる。しかし彼も同じ心境らしく、首を傾げるだけだった。ルミオルは諦めて再度ティシラを問い詰める。
「何のためにそんなことを……!」
「あんたと目的は違うけど、私もあのクソッタレぶっ潰してやりたいのよ。だからこの世界の武器とやらを使わせてもらうの。文句ある?」
「ク、クソッタレ?」
「ラストルよ」
 その名に、ルミオルは表情を堅くする。
「……どうして」
 それ以上言葉は出てこなかった。少し俯いたあと、ルミオルは声を落とす。
「ロア」目線だけを彼に向け。「これもお前の計算か?」
 考えがあってのことならば、納得のいく答えを聞かせてもらわねばならない。ルミオルは今までにないほど昂ぶってくる感情を抑えた。
 そんな彼に、ロアはまったく予想していなかった返事を返す。
「いいえ」
「……なんだと?」
 ロアの目にも声にも感情がなかった。もし狙ってやったのであれば、いつもの薄笑いを浮かべていそうだが、今の彼にはそれがない。
「ティシラならあなたといい友達になれるのではないかと思ったのは確かです。だから完全に縁を切ってしまうのは惜しいと考えて、勝手なことをしました。ですが、今の彼女の言動は、私には理解不能です」
 ロアの無責任な言葉に、ルミオルは苛立ちを隠せない。
「どうするつもりだ」
「分かりません。まずはティシラの意思の確認をして、目的を知る必要があります。そのうえで、私にできることを考えます」
 悠長な、とルミオルは思うが、彼がふざけているわけではないことも、言っていることが間違っていないことも分かる。おそらくこの事態は、本当にロアが予想していなかったことなのだろう。ルミオルは彼と出会って今までに、感じたことのない不安を抱いた。

 核が見えた。その傍にサヴァラスもおり、三人の足音を聞いて振り返る。そして、ティシラの姿を見て目を見開いた。
「……ティシラ様?」
 ティシラが前で立ち止まると、サヴァラスは戸惑いながら頭を下げた。
「一体、どうなさいました。もうここへはいらっしゃらないと……」
「私の勝手でしょ」ティシラは核を見上げ。「仙樹果人はどうなってるの?」
 勝手に話を進めようとする彼女を、ルミオルが制止する。
「ティシラ、君は何がしたいんだ」
 しかしティシラは、じろりと一瞥するだけだった。ルミオルも負けじと大きな声を出す。
「いい加減にしろ。ここは俺の……」
「うるさい! 文句があるならあんたが出ていきなさいよ!」
 ティシラは最後まで言わせず、ルミオル以上の大声と剣幕で捲くし立てた。ルミオルは彼女の身勝手な言い分に呆然となる。
「あの」ロアが困り果てた表情で。「あなたは何をするつもりなのですか。もう少し具体的にお話しいただけないでしょうか」
「だから、この世界は私がもらうの。仙樹果人を使ってラストルをやっつけるのよ」
「やっつける? それは、『殺す』、という意味なのですか?」
「そんなことは知らないわ。あいつは私をバカにしたのよ。だから報復を与えてやるの。邪魔しないで」
 三人はすぐには言葉が出てこず、互いに顔を合わせた。しんとする中、ルミオルが低い声を出す。
「……つまり、君の仕返しのために、この世界を使いたいということなのか」
 ティシラの言動は信じ難いが、ルミオルは彼女の言い分を理解し始め、怒りがこみ上げてきていた。だがティシラは彼に睨まれても平然としている。
「そうよ」
「この世界は、俺の積年の恨みを晴らすために長い時間をかけて作り上げていっているものだ。それは君も知っているはず」
「あんたの事情なんか関係ないわ。私がもらうと言ったらもらうの」
「よくもそんなことを……」
「なによ、私を利用しようとしたくせに」ティシラはふんと鼻を鳴らす。「それを逆手に取られるあんたがマヌケなのよ。観念したら?」
 二人の間に険悪な空気が漂った。ロアとサヴァラスは汗を流し、息を飲む。
 どう考えてもティシラのわがままだとしか思えなかった。ルミオルのやろうとしていることも決して褒められたことではないとは言え、それは承知の上での計画だったのだ。今更咎めるつもりはない。
 サヴァラスは本能的にティシラを立てたいのだが、ロアと契約している限りは安易に裏切ることはできない。余計なことは言わずに答えが出るのを待つことにする。
 ロアは成り行きを見守っている場合ではなかった。
 こんなはずではなかった――ティシラが普通の少女ではないことは分かっていたはずだった。しかし、まさかこの世界を侵略しようと乗り込んでくるなんて想像もしていなかったのだ。
 ティシラはきっとまたここに来たくなる。そのときはルミオルの心を動かす存在になってくれるに違いない。ロアはそう思った。だから彼女に水晶を渡し、合図があったから迎え入れた。そこまでは実際に、ロアの考えていた通りになった。
 ロアは先を読む能力に長けており、予知夢や予感という不確かな感覚で未来を予測してきた。ティシラとルミオルとの出会いにも意味があると感じたからこそ、二人を引き合わせたのだった。だが、現実は大きく食い違っている。
 ロアの予見は確実なものではないし、すべてが見えるというわけではない。予感が外れることもあれば、見えたとしても抵抗できないほどの大きな運命であることも、多くはないが、ある。つまり、見なくてもいい、もしくは見てはいけないことまで垣間見てしまうこともあったのだ。本人はそのことを重々承知しており、だからこそ常に冷静であるように努めていた。未知のものに触れることは強い力が必要であり、大きな危険が伴う。自分だけが痛い思いをするのならばいいのだが、世界を狂わす可能性も秘めている。
(……私は自分の力を過信してしまったのだろうか。これは過ちだ。己の役目を見誤り、ティシラを頼ろうしていた。そのことに、もっと早く気づかなければいけなかったんだ)
 今起こっている混乱を、最小限に抑える努力はしなければいけない。ロアは軌道を修正すべく、気を取り直した。
「ティシラ、どうかあなたの願いは、別の形で適えてもらえませんでしょうか」
 一同はロアに注目する。ティシラはもちろん、はいと言うわけがない。
「嫌よ」
「……では、せめてルミオル様と同じ道を進んでもらうわけにはいかないでしょうか。どうやら、お二人の標的は同一人物のようで、争う理由はないと思うのです。どうか、お考えを」
 ティシラは顔色一つ変えずに、じっとロアを見つめた。


 呪樹の森の片隅で、この場に相応しくない神聖な光の粒が舞っていた。
 その小さな光は何度も旋回している。次第に光の粒が増え、一つの塊になっていく。それは人の形を象り、地に足を下ろした。
 現れたのは、フーシャだった。
 フーシャはやはり、ティシラを見張っていたのだ。
 必ずティシラには後ろめたいことがあると思い、自分の分身を作り出して心の目であるそれで彼女を追ってきていた。ティシラに見つからないように後を着け、彼女がどこへ行ったのか、消えたのかを確かめるために。
 呪樹の世界は人間界から見れば大きさもあやふやで、異空間を漂う雲のような存在である。しかしその位置さえ確かになれば、体を光に変換できるフーシャなら、糸を手繰ることで侵入することが可能だった。
 突き止めた。フーシャはティシラの悪の部分を捕え、それをマルシオに晒して罰することを目的としていた。
「……なんという禍々しい世界」
 フーシャは魔界の空気の匂いに吐き気を覚え、立っているのがやっとという様子で周囲を見回した。ティシラたちが森の奥にいることを気配で確認し、隅に寄って眉を寄せる。
「こんなところに魔の巣を張り、悪を企んでいたのですね」
 許せない。フーシャは唇を噛む。
「しかも、城の王子と密会し、影で共謀しているとは……まさに邪悪な魔女そのもの。あんな人の毒がマルシオ様に浸透してしまっているなんて、あまりにも酷すぎます」
 フーシャは怒りで肩が震えた。
 もしかしたら、本当にマルシオとティシラは通じ合っているのかもしれないと思ったこともあった。それはマルシオの不可解な言動にあった。信じたくなかったが、ティシラが苦しんでいるときに必死で慰めようとしている彼の姿を見て、絶望と同時に諦めの感情が過ぎったことは否定できなかった。その上、自分と一緒に天界に帰るとは言ってくれないものの、冷たいことは言わず、落ち込んでいると心底心配してくれていた。それが、マルシオは魔女に操られているわけではないのかもしれないと、フーシャを考え直させようとしていた。
 そんな葛藤の繰り返しの中、どうしても納得できなかったフーシャは一人でティシラを探っていた。マルシオとは切り離して、ティシラという一人の少女が本当に魅力的な人であると思えることがあれば、もう別れを決意しようと心に決めて。
 だが案の定、ティシラはマルシオの知らないところで一人で出かけたりと怪しい行動を取っていた。そしてとうとう、フーシャはこの「影の世界」を突き止めたのだった。
 もう彼女の心に迷いはなかった。例えマルシオが何を言おうと、引きずってでもつれて帰るのだと固く決心する。
「この世界のことをマルシオ様にお教えすれば、きっと分かってくださいますわ。それでもまだ魔女に毒されていらっしゃったとしても、時間をかけてこの私が清めて差し上げますから……!」
 ここに光の欠片を残していけば、また入り込むことは可能である。ティシラたちに見つかる前に脱出を――フーシャは足音を潜めて、この世界と地上を繋ぐ魔法陣へと向かった。


「分かったわ」
 ティシラはやっと、少しだけ譲ることにした。
 ロアとサヴァラスはとりあえず胸を撫で下ろした。が。
「でも」
 と続けるティシラに、再度緊張の糸をピンと張った。
「みんな私の言うとおりにしてね。ここでは私が一番の有力者なの」
 ルミオルは目尻を揺らす。
「有力者?」
「そうよ。その意味は、サヴァラスがよく分かってるわよね」
 突然名前を出されただけでサヴァラスは肩を揺らした。そして彼女の言葉の意味をすぐに理解し、青ざめる。
「そ、それは」
「魔王の一族の力、業火、ですね」と、ロアが代わりに。「でもティシラ、失礼ですが、あなたには指輪の魔法があります。今のあなたに魔界の炎を召還するほどの力があるのでしょうか」
 彼はティシラの言葉が脅しであると指摘していた。それを聞いてもティシラは動じない。
「ここで業火を起こすことを、指輪が悪と判断するかどうかが問題ってことよね。私にも分からないから、試してみましょうか?」
 ロアは、どうせはったりだと思い、怯えなかった。だが、真に怯えているのは他ならぬサヴァラスなのである。
「ロア!」サヴァラスは二人の間に割り込み、ロアを怒鳴る。「最初に言ったはずだ。ここに火気の類は欠片も持ち込むなと。ここは空間だ。僅かでも炎が発生したらあっという間に燃え広がり、この世界ごと火達磨になる! 中にいる私たちが逃げる隙間もないのだぞ」
 そうだったと、ロアは思うのだが、明らかな脅しに屈するしかないのだろうかと思案する。それを妨げるように、サヴァラスが続ける。
「お前たちは知らないのだ。魔王の恐ろしさを。ただの炎ならば、小さいものはすぐに消せる。しかし魔王の支配する業火は、触れたものを確実に、灰も残らぬほど燃やし尽くしてしまうほど恐ろしいものなのだ。ティシラ様はその力を色濃く受け継いでいらっしゃる。これ以上姫を挑発するというのなら、私は、この世界ごと手を引かせてもらうからな」
 呪樹の一族にとって魔王の炎は大敵でもあった。だからこそ呪樹の主が血縁関係を結びたいと切望しているという話もあるほどである。サヴァラスも例外ではない。弱点を克服することで一族の能力が上がるのは誰でも考えつくことなのだから。
 つまり、サヴァラスは本気だということだった。炎を盾に出されては、ティシラが魔界の姫だから機嫌を取るべきという建前さえ意味を失う。
 目を泳がせて少し俯いたロアを見て、ティシラはしてやったりとでも言いたそうな笑顔を浮かべた。
 そのとき、森の中に甲高い悲鳴が響いた。一同は反射的に顔を上げる。
 この世界には、ここにいる一同以外に言葉を喋る者はいないはずである。今度は一体何が? 声のした方に注目していると、巨大な仙樹果人が愚鈍な足取りで歩み寄ってきた。
 ティシラは悲鳴のことを忘れ、現れた仙樹果人の姿に驚いた。
「大きい……! なにあれ」
 形は以前に見たものと変わらなかったが、目の前のそれは二階建ての建造物ほどの身の丈があった。隣でサヴァラスが簡単に説明する。
「最新の試作品です。大きさは十分かと……」
 ティシラがじろじろと眺めていると、仙樹果人の手であろう部位に、見たことのある何かが握られていた。
 悲鳴の発信者、フーシャが苦しそうにもがいていたのだった。
「あ! あんた、なんでここに?」
 フーシャは目に涙を溜めながらも、必死で毅然とした態度を保っていた。
「は、離しなさい!」しかし、その声は震えている。「私は神聖なる天使なのです。このような仕打ち、必ず天罰が下りますから!」
 フーシャという侵入者の姿を見て、ロアの額に汗が伝った。明らかに困惑している彼の表情を見て、ルミオルも不安を募らせる。
「あれは、確か、マルシオの……」
「……天使のお嬢さんですね。どうやってここへ……」
 仙樹果人はフーシャを強く掴んでいるわけではなかったのだが、大きな手に全身を包まれてとても抜け出すことができない。
「私たち天使は、あなた方のような邪悪な者に決して屈しはいたしません! もしも私がここで命を奪われるようなことがあれば、天使は地上に制裁を与えることでしょう。悪は、必ず滅びます……!」
 フーシャの叫びは、この面子にはただの戯言にしか聞こえなかった。相手にする様子もなく、ティシラが数歩近寄った。
「やっぱりあんた、私を探ってたのね」
「さ、探るとは人聞きの悪いことを! 私は悪を許せないだけです」
「何にも変わってなかったのね」ティシラはため息を漏らし。「マルシオはあんたを信じてたってのに。あんたも人のこと言えないくらい、なかなか腹黒いじゃない」
「は、腹ぐ……なんてことを……!」
 それ以上言葉が出てこない様子で悔しそうに睨み付けてくる彼女を、ティシラは笑った。
「あんたはマルシオを裏切ったの。もう終わりよ。殺しはしないから、ここから出たら大人しくお家に帰りなさい」
「……そんな」
 マルシオを裏切った――その言葉はフーシャの心を切り裂いた。違うと自分に言い聞かせるのだが、冷静になって思い返せば確かに、心配してくれているマルシオに隠れてティシラをこそこそと追い続けてきた。その挙句、こうして危険に陥ってしまったのだ。今の自分は何もできず、マルシオに助けて欲しいと願うことが烏滸がましいとしか思えなかった。
 溜まっていた涙が頬を伝った。ここを無事に出たとしても、どんな顔をしてマルシオに会えばいいのか分からない。
 満足したかのようにティシラは彼女に背を向け、サヴァラスに近寄る。
「あの女はどこかに閉じ込めておいて」
「は、はい」
「でも」声を潜め。「傷一つでもつけてはダメよ。部外者なんだし、一応あれでも天使だから、後々関係ないことで揉めるのは厄介でしょう」
 感情が昂ぶっているようで、ティシラが意外にも冷静であることにサヴァラスは密かに驚いていた。なぜここに天使がいるのかという疑問はあったが、それほど興味を持たなかった。
 顔を上げ、仙樹果人にフーシャを持ったまま奥へ行くように合図を送った。


 既にティシラに支配されてしまった空間の中で、ルミオルはロアに怒りの矛先を向けた。
「……お前を信頼していた。だから多少の勝手は許してきたんだ。お前だって理由もなく動いてきたわけじゃないだろう。どうするつもりだ」
 ロアは焦りを掻き消そうと呼吸を深くした。とにかく考えなければ。どうすればティシラを止めることができるのか。無理に追い出そうとすればきっと暴れ出し、業火を放とうとする。そうなればサヴァラスが黙ってはおらず、実質は彼こそがこの世界の創生者なのだ。そのサヴァラスを敵に回そうものなら、追い出されるだけではなく、最悪は簡単に殺されることもあり得る。
 ティシラを説得するしか方法はない。しかし、彼女に何を言えば大人しく聞いてくれるのだろう。
 思案している間にも、ティシラはサヴァラスに呪樹の森の仕組みを聞き出していた。
「さっきのは完成品なの?」
「ほぼ完成です。まだ戦術を組み込んでおりませんが、腕力や強度だけでも十分な戦力に値しています」
「じゃあ、いつ攻撃を開始できるの?」
「そうですね……準備が整うまで、百二十日ほどを要する予定です」
「百二十日?」ティシラは目を見開く。「そんなに? 待てないわ」
「仕方ありません。あれだけ大きな仙樹果人を大量に生産するには、この世界の広さや強度が十分ではないのですから」
「なによそれ。意味わかんない」
 ティシラは途端に不貞腐れる。なぜそれほど時間がかかるのかをサヴァラスが説明しようとした、それより早く、ティシラは核に寄って両手をつける。
 そのまま手の平で核をペタペタと触りながら、目を凝らして上下を見つめる。
 サヴァラスは、嫌な予感を抱いた。そんな彼に、ティシラは無邪気な笑顔を向ける。
「これが心臓みたいなものよね。つまり、ここに魔力を送り込めば仙樹果人が生まれてくる。当たり?」
 素直に頷きたくなかったサヴァラスは、口籠りながら渋々答えた。
「え、ええ。まあ……」
「だったら早く増やせばいいじゃない。仙樹果人の型はもうできてるんでしょ?」
「いえ、ですから、まだ土台が……」
「よくわかんないけど、魔力が足りないってこと? じゃあ私が協力するわ」
「え?」
 ティシラは誰の許可を得る気もなく、核につけた両手に魔力を込める。一瞬、指輪が視界に入り瞬きをしたが、「やってみないと分からない」と開き直った。
「……ティシラ様、いけません!」
 慌てて上げてしまったサヴァラスの大声は、ティシラから発せられた魔力の風圧に紛れて彼女の耳にまで届かなかった。その現象に驚いたのはロアとルミオルも同じだった。
 ティシラの手の平を中心に、黒い電気のようなものが走った。それは核に纏わりつき、中心に吸い込まれていく。ティシラの魔力は水面に波紋が広がるように、核を伝って、世界全体に染み込んでいく。
 サヴァラスが真っ青になって立ち尽くしていると、空間に沈黙が落ちた。
 その中で、天井の蔦の一部が瘤(こぶ)を作った。瘤は生き物のようにせり出てきて、後を追うように、他の蔦もゾロゾロとついてくる。
 瘤だったものは大量の蔦と絡み合いながら、人の形を作っていく。次第に蔦の隙間という隙間が巧く埋められていき、頑丈な仙樹果人になっていった。
 天井から大きなそれがぶら下がった。まるでへその緒を切り離すかのように、生まれたばかりの仙樹果人は前後に揺れる。ギシ、と痛々しく重い音が響く。そして、仙樹果人を繋いでいた一本の蔦が、切れる。
 仙樹果人は熟した果実のように落下してきた。地についたと同時、物凄い轟音が轟き、世界全体が大きく揺れる。ティシラは体制を崩して倒れそうになったが、核にしがみついて難を逃れていた。
 その様子を見て、サヴァラスだけではなく、ロアも顔色を変えている。詳しい仕組みを熟知していないルミオルも、このままティシラに自由にさせるのはまずいと直感で察知した。
「ロア、早く止めないと……」
 当然、もう無理をしてでもティシラをなんとかしなければとロアは意を決した。
 だが、ティシラはその隙を与えない。
「面白い!」心底楽しそうに笑い声を上げ。「なによ、簡単じゃない。魔力を与えるだけでいいなら、いくらでも出してあげるわよ」
 既に指輪のことを忘れてしまったティシラは、先ほどよりも強く魔力を溜める。
「いけません!」
 咄嗟に上げたロアとサヴァラスの大声は間に合わず、ティシラは膨大な魔力を発した。
 呪樹の世界全体に、黒い電撃が走った。
 ボコリボコリと、上下左右から瘤が生まれ出す。
 ――もうダメだ。
 ロアとサヴァラスは、激しい振動に足元をふらつかせながらティシラに駆け寄ろうとした。しかし天井から降ってきた巨大な仙樹果人に行く手を阻まれ、地に伏せる。
 もう止めることができない状況に、ロアは呆然としていた。
(……なぜでしょうか)ロアはティシラの背中を見つめ。(なぜ指輪はティシラを止めないのですか)
 これほどの強力な魔力の放出に、指輪が反応しないなんて信じられなかった。
(これは正しい行為なのですか?)誰にともなく、問う。(このままでは、この世界は凶器と化し、私たちでも制御できなくなってしまうのです。あなたならそのくらいのこと、分かるはず……!)
 ティシラから指輪の魔力は一切感じられなかった。今の指輪は完全にただのアクセサリーでしかない。
(これは、あなたにとっても予想外のことなのですか。それとも……)
 何が起こるのか、すべてを見通したうえでの判断なのか――。
 ルミオルは慌ててそれらを避けながら辺りを彷徨った。仙樹果人は上から降ってくるだけとは限らない。地からせり出てくるものもあり、足を掬われてまともにたってはいられなかった。
 時折、離れたところからフーシャの半狂乱の悲鳴が聞こえてきている。
 ロアは我に返り、急いでルミオルを探す。彼だけは守らなければいけない。見て取れるほど増えていく仙樹果人の隙間を縫って、ルミオルの腕を引いた。
「ロア、これは、どう考えても危険な状態だよな」
「はい」
「それだけなら俺でも分かる。だけど、何がどう危険なのかを知りたい」
 必死で状況を把握しようと考えるルミオルに、ロアは早口で答える。
「この世界にもっと強い結界を張る必要がありました。時間をかけて、一枚ずつ布を重ねていくように、世界を強くしていかなければいけなかったのです」
「なんのために?」
「たった一つを生み出すだけで、あれほどの衝撃が起こるのです。それを大量に生み出すためにはまだ耐性が足りず、世界を支えきれなくなるからです。想像してください。小さな舟にたくさんの重い石を積み続けていったら、どうなりますか?」
 そんな回りくどい言い方をせずとも、答えは簡単だった。
「つまり……」
 世界が巨人で埋まっていく。もう既に限界を超えていた。止めを刺すかのような振動が起きる。
「――落ちます」

 グラリ。
 今確かに、世界が傾いた。


   

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